煮切

高田馬場での研修が終わる時間に合わせて、
友人が僕を迎えにきてくれた。
彼は東京在住で、僕が仕事で知り合った女性ライターの旦那さんだ。
特別な利害関係などは何もないのだけれど、
いつしか再会がとても楽しみな付き合いとなった。
今回も、僕が数日東京で過ごしているという情報をキャッチして、
わざわざ時間をつくって夕食に誘ってくれたのだ。
僕と父との別れ、その後のいろいろな対応、そして忙しい東京での予定、
きっと気遣ってのことだろう。
彼はタクシーを停めると、
新宿の高層ビルの上層階にある落ち着いた感じの江戸前寿司のお店に僕を案内した。
そのお店と決めていたらしい。
そして、注文を聞きにきた店員さんにそっと何か耳打ちしていた。
運ばれてきたにぎり寿司、僕の分にはお醤油の小皿はなかった。
「煮切を塗ってもらったからね。」
お寿司を小皿の中のお醤油に適量つけるのが大変と考えた彼は、
お店に煮切を頼んだのだ。
ひとつひとつの上等のネタが、僕の口の中でそれぞれの味わいを主張した。
彼は食事をすませてホテルまで僕を送ると、
僕をロビーに待たせて、コーヒーを買ってきてくれた。
ホットコーヒーを受け取って、
握手をして別れた。
最後まで、彼は僕と父との別れなどには触れなかった。
2年前、彼は母との別れを経験していた。
煮切の塗られたお寿司は、忘れられない味となるだろう。
(2014年12月1日)