いつの間にか、新幹線の旅はすっかり慣れた。
よく利用しているということだろう。
先月は鹿児島、東京、広島と3回利用した。
今月は浜松と鹿児島だ。
ちなみに、このブログは、浜松に向かうこだま号の車中で書いている。
来月は東京、1月は千葉、2月はまた東京の予定が入っている。
年に20回くらいは新幹線に乗車しているかもしれない。
以前は格安航空券で飛行機をよく利用していたが、関西空港までのアクセスが結構大
変なので利用しなくなった。
こうして単独で移動できるということは、現役として活動できているということだろ
う。
うれしいことだと思う。
新幹線はこだま号でもひかり号でものぞみ号でも、出入り口に近い窓側の席を確保す
ることにしている。
出入り口に近いのは移動が便利でトイレが近いからだ。
でもトイレを利用することはほとんどない。
トイレに行くことはできても、元の席にもどるのは見えない僕には難しいからだ。
念のためにという感じかな。
通路側ではなく窓際の席を確保するのは隣の乗客に気を遣わなくて済むからだ。
どの駅でどんな人が座られ、どこで降りていかれたのか、ほとんど分からない。
日本人なのか外国人なのか、男性なのか女性なのか、おいくつぐらいの方なのか、ま
ったく何も分からない。
音だけでの認識なんてそんなものだ。
それでも、座席のシートを倒す時は必ず後ろの席に声をかけることにしている。
ひょっとしたら、誰もおられない席に向かって声を出しているのかもしれない。
でも、それは気にしない。
見えないから声を出さないのではなく、見えなくてもちゃんと一声かけられる自分が
好きなのだろう。
もうすぐ、こだま号が名古屋を出発する。
そろそろパソコンを片づけて準備をしなくちゃ。
今日もいい仕事ができますように。
(2025年11月8日)
新幹線
点字の日
11月1日は「点字の日・日本点字制定記念日」だった。
僕の点字力は低い。
読むのも書くのも遅い。
それでも一応習得できたことは、僕の日常生活を支えてくれている。
1890年(明治23年)の11月1日、日本語用の点字が決められたらしい。
135年の時が流れたということになる。
どの時代に視覚障害者となるのか、それはどうしようもないことなのだけれど、それ
ぞれの時代がそれぞれの人生を大きく左右することは間違いない。
僕が見えなくなった時、当たり前のように点字はあった。
指先で読むということに四苦八苦しながら勉強した。
点字の先生は挫折しそうになる僕を幾度も励ましてくださった。
僕より20歳くらい年上の先生が17歳の時の事故で失明されたということはだいぶ後か
ら知った。
その生きる姿勢に人生を励まされていたような気もする。
先生のお陰で、僕も文字を獲得したということになったのだ。
点字がない時代、その頃は勿論パソコンなどもなかっただろう。
学ぶ方法は音による記憶しかなかったのだ。
点字の発明は文字を目で確認できなくなった人達に学ぶ機会をプレゼントしたという
ことになる。
画期的なことだったのだろう。
今年開催された関西万博、僕は英国パビリオンのアクセシビリティコンサルタントと
して少しだけお手伝いをした。
ロンドンから来られていたシェリーさんは点字の重要性を強く僕におっしゃった。
彼女は英国のアクセシビリティアドバイザーとして仕事をされていた。
英国の点字と日本の点字は大きさだけでなく、その表し方などに違いがあった。
僕達は真剣に意見交換し取り組んだ。
結果、英国パビリオンのあちこちに点字案内が整備された。
映像には副音声も着けられた。
限られた期間のイベント、どれだけ視覚障害者の恩恵となるのだろうとふと思った僕
にシェリーさんはおっしゃった。
「どれだけ利用されるかではなく、そこにあるかないかがとても重要だと思う。」
僕にとっても大きな学びの機会となった。
ただ世界を考えると、すべての国の視覚障害者が学ぶ機会を保障されているとは言え
ない。
僕は日本と言う先進国で学ぶ機会を保障されたのだから、世界の仲間のことを考える
想像力は持ちたいと思う。
できることは少ないかもしれないけれど、そうありたいとは思う。
(2025年11月2日)
尾道ラーメン
視覚障害の先輩や仲間と夜のラーメン屋さんを訪ねた。
地元のサポーターが車を出してくださったのだ。
仕事が終わってからわざわざ来てくださった。
彼の言葉にはいつもさりげないやさしさがある。
そして郷土愛がある。
会話が心地良い。
まだ19時にはなっていない日曜日の夜だ。
地元のサポーターが並ばずに入店できるのではとおっしゃっていたが、
ギリギリセーフだった。
50人くらい入れそうなちょっと広めの店内は僕達で満席となった。
運ばれてきた尾道ラーメン、魚介のスープに豚の背油が基本らしかった。
それを感じさせる豊潤な味わいだった。
僕の故郷の鹿児島のとんこつラーメンとはまた別の風味だった。
無言で平らげてしまった。
食べ終わってから周囲の会話に気づいた。
広島弁なのだろう。
地元の言葉が飛び交っていた。
この街を訪れるのはもう幾度目だろう。
研修で知り合った視覚障害の先輩が毎年のようにお招きくださるのだ。
スケジュール調整は結構大変なのだが、できるだけ希望に添いたいと思っている。
先輩は厳しい意見もおっしゃるし、強い自己表現に苦笑してしまうこともある。
それでもお招きの電話が届いたらいつも応じたいと思ってしまう。
一途な生き方、先輩の魅力なのかもしれない。
滞在期間にこの街でこれまで出会った人達が会いにきてくださることがある。
懐かしく顔を見せにきてくださるのだ。
こういう再会は心が安らぐ。
うれしさと感謝が満面の笑みにつながっていく。
今夜訪ねてくれた愛さんは美味しそうなケーキを手土産に持ってきてくださった。
苗字を聞いてもピンとこなかったのだが、フルネームで名前を確認して、少し記憶が
蘇った。
手土産などは何も要らないのにといつも思うのだが、気持ちはやはりうれしい。
「Be my eyesもスマホにいれましたよ。」
愛さんの笑顔、チャーミングだと思った。
福祉施設のサービス提供責任者の仕事をされているらしいが、いい仕事をされている
のが笑顔から伝わる。
またいつかお会いできますように。
交わした握手にはそういう意味があるのかもしれない。
今回の尾道訪問、また楽しい時間となった。
(2025年10月27日)
サピエ図書館
視覚障害者の趣味もいろいろある。
読書、囲碁、将棋、カラオケ、楽器演奏、音楽鑑賞、料理、お菓子作り、映画鑑賞、
手芸、社交ダンス、食べ歩き、旅行、さっと思い出してもこれくらいは浮かぶ。
視覚以外の感覚を使ってのものが多いのかもしれない。
視覚障害を支援する道具を使うこともある。
例えば、将棋は将棋盤の線が浮き出ていて、駒には点字が付いている。
僕は映画を観るのが好きなのだが、副音声アプリをスマホに入れてある。
見たい映画に副音声が付いていたら、それを利用して鑑賞するのだ。
最近の映画では「国宝」は味わい深い作品だった。
視覚障害者で読書が好きという人も結構多い。
サピエ図書館というのがインターネット上にあるらしく、そこで作品のデータを自分
の端末に取り込むという方法らしい。
日本全国の点字図書館などが繋がっているようだ。
点字データも音声データもあり、利用数は音声が遥かに多いと聞いている。
誰かが読んでくださったものがあり、それを聞くという方法で読書を楽しむのだ。
点字ができる視覚障害者の数は少ない。
でも、点字での読書をされる視覚障害者は、その方が読んだという気がするとおっし
ゃることもある。
点字も音声もどちらの方法も選択できるというのは素晴らしいことだと思う。
僕は読書をしないのでサピエ図書館は利用したことがないし、そもそもその利用方法
さえ知らない。
時々、視覚障害の仲間に驚かれる。
その時はいつもちょっと恥ずかしい。
本を読むような時間がある時は寝て過ごすのだろう。
だらしない性格と関連があるのかもしれない。
それでも、自分の書いた本が仲間に読んでもらえるといいなといつも思っている。
読み終えた仲間が感想をくださることがある。
「僕も同じ経験をしたよ。」
「私も共感できるところがたくさんあった。」
とてもうれしい瞬間だ。
僕が本を書く理由、それは僕達を正しく理解して欲しいという願いだ。
仲間に評価してもらえるのは何よりうれしいということになる。
「あきらめる勇気」は昨日の時点で人気ランキング100タイトル中で5位らしい。
視覚障害の友人がうれしそうに情報を届けてくれた。
5位は凄いことらしい。
そう言われるとやはりうれしくなる。
でも、自分のことのように喜んでくれる仲間がいるということ、それが何よりうれし
いと思う。
そういう仲間に出会えたことはこれもまた僕の幸せのひとつだ。
(2025年10月22日)
キンモクセイ
ふと気づく。
曇天の日の昼下がりの微風。
微風は香りの空気の塊をそこに置くのだろう。
強い風だと飛んでいってしまう。
無風だと届かない。
自然は時々魔法使いだ。
キンモクセイと微風は仲良しなのかもしれない。
そこに僕も参加する。
草抜きをしていた手を止めて腰を降ろす。
少しだけ上を向いて目を閉じる。
目を開けても閉じても僕の目の前は変化はないのに不思議な行動だ。
自分でも可笑しく思う。
集中する気持ちがその行動につながるのだろう。
今時で言う全集中かな。
静かに呼吸する。
やがて深呼吸をしたくなる。
胸一杯に空気を吸い込む。
それから口をすぼめて少しずつ吐いていく。
脳が穏やかになっていくのを自覚する。
幸せを実感する。
そしてその瞬間、僕は平和に感謝する。
こうして見えなくてもここで生きている。
この社会で生かしてもらっている。
なんとなくそんなことを思う。
そして強く思う。
戦争が終わりますように。
(2025年10月17日)
車内対応、完了
僕達だけが参加しやすい社会を望んでいるのではない。
僕達も参加しやすい社会であって欲しいと思っている。
鹿児島県薩摩川内市での講演活動をスタートしてから20年の時が流れた。
僕の最初の著書が出版された時、高校時代の仲間達が「風の会」という支援グループを作ってくれた。
薩摩川内市の子供達を中心に、僕の話を聞いてもらうという取り組みだ。
20年の間に出向いた学校は100を超えているだろう。
社会人の様々な団体も支援の輪を広げてくださった。
有難いことだと思う。
今年は小学校が3校、中学校が1校、社会人の団体が3つだった。
充実した4日間を過ごしたことになった。
最終日の活動を終えて川内駅のホームまで仲間達が見送ってくれた。
20年前と比べて、駅員さんのサポートが変化してくれていることにふと気づいた。
ふと気づいたのには理由がある。
僕の地元の京都、大阪、時々出張で訪れる東京、新幹線も含めて、駅ホームでの支援方法はほぼ同じだった。
電車がホームに入ると、駅員さんはマイクで放送される。
「業務連絡、車内対応あり。」
すると、電車の車掌さんがマイクで確認の返事をされる。
「了解。」
駅員さんはそのアナウンスを確認された後、僕をサポートして座席まで案内してくださる。
「到着駅には連絡をしておきます。お気をつけて。」
駅員さんは僕が座席に着くのを確認して降りていかれる。
やがて、ホームでの最後の放送が流れる。
「車内対応、完了。」
それからドアが閉まり、電車は発車する。
ところが、川内駅は違っていた。
新幹線の停車時間が少ないから駅員さんは車内には入れないとのことだったのだ。
結構苦労したのを憶えている。
いつ頃から変わったのか分からない。
今回の駅員さん、新幹線がホームに入るとマイクでおっしゃった。
「車内対応あり。」
駅員さんは僕と一緒に電車に乗り、僕を座席に座らせておっしゃった。
「気をつけてお帰りください。」
「ありがとうございます。助かりました。」
僕は心からの感謝を伝えた。
僕も駅員さんも笑顔だった。
やがて、ホームの放送が聞こえた。
「車内対応、完了。」
20年の歳月、確かにひとつ進んだことを確認した。
こういうことの積み重ねが未来につながっていく。
20年、僕も仲間達も初老を感じるようになった。
いつまでとはとても言えない。
でも元気にしてさえいれば、なんとか来年もできるかもしれないと思った。
帰り着いて、早速来年の予定をスケジュールに入れた。
(2025年10月12日)
南関あげ巻き寿司
荒尾市視覚障害者協会の会長から電話があったのは数か月前だった。
同行援護について勉強したいとのことだった。
荒尾市がどこにあるかも分からないまま引き受けた。
zoomで対応できると思ったからだ。
調べてみたら、荒尾市は熊本県、しかも鹿児島本線で行ける場所だった。
10月に鹿児島県での講演が決まっていた僕は、途中下車して対面での講演をすることにした。
こういう時の僕はいつも旅気分だ。
お昼に荒尾市に到着するためには6時前には滋賀県大津市の自宅を出発しなければいけなかった。
タクシーを予約して対応した。
途中、山科駅で新大阪方面行の快速電車に乗り換えた。
新大阪からは九州新幹線さくらだ。
久留米で下車して在来線に乗り換えた。
荒尾駅では会長が出迎えてくださった。
昼食、講演、質疑応答など含めて4時間余りの滞在だった。
講演終了後、夕方には熊本経由で鹿児島中央というハードなスケジュールとなった。
それでも楽しかった。
会場に到着して、準備してくださっていたお弁当を頂いた。
郷土料理の南関あげ巻き寿司が入っていた。
具沢山の巻き寿司でとても美味だった。
からしレンコンなどもあって熊本県を感じた。
食べ終えた時点で、今日はいい研修会になるだろうと思った。
このいい研修会というのは、参加者がということではなく、僕自身がということだ。
食いしん坊なのだろう。
これまでの講演、そういうのはきちんと記憶している。
鎌倉の中学校にお招き頂いた時、担当の先生が江の島へ案内してくださった。
魚介の炭火焼きをご馳走してくださったが、その香りまで憶えている。
でも、先生の名前は忘れてしまった。
先生、ごめんなさい。
北海道の高校にお招き頂いた時、関係者が札幌のジンギスカンをご馳走してくださった。
地元の人がよく知っているお店、そしてよく知っているメニュー、お勧めは確かにとてもおいしかった。
豊橋での視覚障害者の研修会、終了後に会長が連れていってくださった小料理屋さんの手作りちくわがとてもおいしかった。
ブラックサンダーのお菓子は知っていたが、ちくわが有名なのはその時知った。
名古屋での朗読の会の研修会、名物の味噌カツをご馳走してくださった。
名店だったのだろう。
初めて味噌カツをおいしいと思った。
鳥取県での研修、関係者が用意してくださったのはホテルのランチだった。
特別な郷土色はなかったけれども美味しかったのはちゃんと憶えている。
どうやら僕の脳と胃袋は直結しているらしい。
それがそのまま思い出となっている。
そして、今回の荒尾市での講演、たくさんの人に集まって頂いた。
市長さんや議員さんまでおられたのには驚いた。
予想よりも多くの人が来てくださったらしい。
準備していたスリッパがなくなり、関係者は靴下のままだったと聞いて笑った。
お弁当で上機嫌だった僕はいつも以上に笑顔で話をした。
会場の皆さんも僕に合わせてくださった。
見えない仲間と懇談できたのはやはりとてもうれしかった。
皆さんに感謝を伝えて帰路についた。
ずっと僕のサポートをしてくれていた男性がホームまで見送ってくれた。
まだ30歳代の若い男性だった。
最初から最後まで彼は丁寧に、そして心をこめて対応してくれた。
きっと元々が誠実な人なのだろう。
交わした言葉も気持ちのいいものだった。
またいつか一緒に仕事をしたいと思った。
南関あげ巻き寿司と彼と、きっと一緒に記憶に残るのだろう。
そして、名前はまた忘れてしまうかも。
これは画像のせいだということにしておこう。
(2025年10月6日)
千日紅
会場は僕の自宅から歩いて行ける場所だったが、関係者が車で送迎してくださった。
平日の昼下がり、会場には40人程度の人が集まっておられた。
知り合いの知り合い、そのまた知り合い、ご近所、チラシを見て、いろいろだった。
共通点は皆この地域で暮らしておられるということだった。
3年半前に引っ越してきた時、僕を知っている人は誰もいなかった。
家から一歩外に出ると、無味乾燥の灰色の世界だけがそこにあった。
通り過ぎる人の足音さえも悲しく聞こえた。
僕はそれでも歩いた。
少しずつ少しずつ知り合いが増えていった。
社会が冷たいのではない。
皆正しく知る機会がなかったということだった。
声をかけていいのか分からなかったとおっしゃった。
どう声をかけたらいいのかも分からなかったとおっしゃった。
だからよく見守っていたとおっしゃった。
皆さんそうおっしゃった。
見えないということは、見守ってくださっているのも見えないのだ。
そこに言葉が生まれる時、理解につながっていく。
言葉はお互いを理解する力となる。
そしてその言葉にぬくもりがあれば、それは寄り添う力となる。
人間同士の寄り添う思い、それは確かに社会を変えていく力となるのだ。
僕は集ってくださった皆さんに心からの感謝を伝えた。
このイベントがまたきっと明日につながっていく。
それは僕にだけいいということではない。
50年先の100年先の視覚障害者が暮らしやすい地域になるのだ。
僕が講演する机には千日紅の花が活けてあった。
たくさんのピンクの花を付けていた。
講演の最中に幾度か手に触れた。
手で見たのだ。
幸せだと思った。
(2025年10月4日)
書評
出版社から僕に情報が届いたのは前日の9月26日だった。
9月27日の毎日新聞朝刊に「あきらめる勇気」の書評が掲載されるとのことだった。
誰がどのように書いてくださるのかなどは何も分からなかった。
そもそも、毎日新聞そのものは全国紙だが、新聞には地域版などのコーナーもある。
どこの紙面に掲載されるのかも分からなかった。
ただ、これは初めてのことではない。
これまでの著書、いろいろなメディアで取り上げて頂いたが事前情報はほとんどなかった。
事後情報もたまたま目にした耳にした知り合いから教えてもらうことの方が多かったかもしれない。
そう考えると、僕の知らないところで紹介されていることも結構あるのだろう。
著者は読んで欲しいと思って書くのだから、本当にありがたいことだ。
まさに、活字の力なのだろう。
今回の書評の内容、複数の友人達が届けてくれた。
一早く僕に届けるために駅まで買いに行ってくれた友人もいた。
これもまた幸せなことだ。
書評を書いてくださったのは門川紳一郎という盲ろうの方だった。
ASL(アメリカ手話)による触手話通訳を利用して全ての授業を受け、
ニューヨーク大学のマスター・プログラム(大学院)を出た最初の盲ろう者だ。
この初めてというのは世界で初めてということだと思う。
現在は社会福祉法人全国盲ろう者協会理事などをやっておられる。
見えない聞こえない、どういうことなのだろう。
その状態で海外の大学で学ぶ、僕には想像さえできない。
僕の著書「あきらめる勇気」をどういうきっかけで読まれたのだろうか?
見えない聞こえない状態でどうやって読んでくださったのだろうか?
僕の頭の中にはいくつものハテナマークが並ぶ。
書評を読み終えて、まず、ただ、うれしいと思った。
そしてそのうれしさは何か特別な清々しいうれしさだと感じた。
言葉で表現することは難しいが、確かに心が満ちていた。
この書評は門川さんが僕にくださったエールなのかもしれない。
感謝しながらこれからも書いていこう。
(2025年9月29日)
サンマ
大きなサンマを食べた。
焼きたてのサンマだ。
少しレモンをしぼって、大根おろしを添えて食べた。
こんな大きな立派なサンマは久しぶりな気がした。
今年は豊漁というのはどうやら事実らしい。
油も載っていた。
腸の苦みがサンマを主張していた。
一気に秋を感じた。
たった一匹の魚でこうも気持ちが豊かになるものなのか。
不思議な気がした。
青白いサンマの色までも蘇った。
高い空を想像したら、おいしいものをたくさん食べたいと思った。
(2025年9月25日)