シャインマスカット

僕は基本的には白杖を使っての単独歩行だ。
見えなくなった頃に一年間の中途失明者生活訓練を受けた。
歩行訓練士の先生に白杖の使い方などをみっちりと指導してもらった。
それが今につながっている。
指導してくださった先生方には感謝してもしきれないくらいの思いがある。
目隠し状態で外を歩く。
いろいろな道を歩き、階段を上り下りし、バスや電車を利用して外出する。
しかも社会の流れとほぼ同じスピードだ。
少しは見えているのかと問われることはよくある。
それくらいに自然に動いているのだと思う。
その部分については、自分で自分を凄いと思うことさえある。
それでも結局は見えていないのだから失敗する。
迷子状態になることもよくある。
そしていろいろな人のサポートを受ける。
縁がつながることも時々ある。
7時台の電車に乗る女性はその電車を利用する時はサポートしてくださる。
彼女は通勤でその電車なのだが、経路の途中までずっと一緒にいてくださる。
混む時間なのでとても有難い。
乗り換えが大変な駅の場合は乗降口をずらしてサポートしてくださる。
定年を迎えた男性は時間はあるからとボランティアを申し出てくださっている。
慣れない場所などに行く時、時間があえば付き合ってくださる。
今月も既に一回予約してある。
駅で出会った女性は僕と同じ年齢だった。
彼女とはまさにメルトモとなった。
その彼女から、渡したいものがあると連絡があった。
彼女はもう車の運転はしておられないのだが、夏休みで娘さんご夫婦が帰省してこら
れたらしい。
娘婿さんが運転される車が僕の家の前に着いた。
僕は家の前の階段を降りて車に近づいた。
「知り合いからたくさん届いたの。手伝って。」
僕の手にシャインマスカットが乗せられた。
その流れの中で娘婿さんとも会話した。
4歳のお孫さんの小さな手とも握手した。
まさに縁がもたらしたやさしい時間だった。
お世話になった僕がお礼をするというのはあるかもしれない。
でも、お世話をしてもらった僕が頂く方だから人生は楽しいのだ。
シャインマスカット、見たことはない。
美しい黄緑色らしい。
皮ごと食べられてとても甘い。
ぶどうの女王と呼ばれるだけのことはある。
ちなみに、これまで買って食べたのは3回くらいかな。
美味しいけど高価過ぎてなかなか買う気にはならない。
日々の一人歩き、悲しいことや辛いことがないわけじゃない。
それでも一人で歩くから人に出会える。
シャイン。
輝く人達に出会える。
大粒の果実を噛みしめた。
幸せが口中に広がった。
(2024年8月11日)

贅沢な人生

京都駅の一日当たりの利用者数は30万人だ。
僕が乗り換えでよく利用する山科駅は6万人、地元の比叡山坂本駅は1万人だ。
そして僕の仕事は自由業だから利用する時間帯も日によって違う。
例え同じ電車に乗り合わせていたとしてもどの車両だったか何秒後に改札口を通るの
かなど、出会いはとても小さな確率の中に存在しているということになる。
まさに奇跡のような偶然なのだろう。
比叡山坂本駅の改札口を出たところで女性が声をかけてくださった。
「6月のことですが・・・」
6月10日に「子供さんとお父さん」でブログに書いた子供さんのお母さんだった。
あまりの偶然に驚いた。
ありがとうカードで僕のホームページを覗いてくださっていたのだろう。
「サポートが上手にできなかったと主人が言っていました。」
記憶の中のお父さんの誠実そうな雰囲気が蘇った。
僕は僕の勘違いで変な動きになってしまったことを説明した。
そして、声をかけてくださったことへの感謝を再度お伝えした。
「息子さんが怖い思いをされなかったかが心配でした。」
僕は僕の中に残っていた不安を伝えた。
大丈夫だったと知ってほっとした。
今手伝うことはありますか?」
お母さんは最後にそうおっしゃった。
僕はバス停までのサポートをお願いしようかと一瞬思った。
でも、たまたま荷物で左手も塞がっていたことに気づいて断念した。
慣れている場所でもあったからだ。
僕は感謝を伝えて彼女と別れた。
あのお父さん、そして今日のお母さん、あの子はきっといつか僕の仲間に声をかけて
くれるだろうと思った。
今日のお母さんとの出会いは偶然ではなく必然だったような気になった。
バス停に着いたら、男性が声をかけてくださった。
次のバスがくるまでに30分はあるとのことだった。
そして近くのベンチまで案内してくださった。
あることは知ってはいたが、空いているかが分からない僕にはいつもは利用できない
ベンチだった。
僕は座ってのんびりとバスを待つことができた。
うれしかった。
ちなみに彼は、30分もあるからと歩いて帰られた。
僕も見えていたらそちらを選択しただろうなとちょっとうらやましかった。
バスの発車時刻が近くなったので僕はベンチから動こうとした。
そして方向を見失った。
頭の中になんとなくの地図はあるつもりだったが曖昧だったのだろう。
点字ブロックを白杖で探そうとした時だった。
「私の肘を持ってください。」
また別の男性の声だった。
彼は僕をバス停まで案内してくださった。
彼も先ほどの男性も僕がどのバスに乗るかを知っておられたということになる。
これまでのどこかで見ていてくださっていたのだろう。
見守っていてくださったということだ。
この社会で生かされているのだとしみじみと思った。
地元の比叡山坂本駅に帰り着いての30分程度、そのわずかな時間に3名の方にお世話
になった。
3名の方と人生が交差したということだ。
僕の人生はとても贅沢なのかもしれないと思った。
(2024年8月7日)

社会モデル

まだお盆帰省には早いからとの判断は甘かった。
午前中のさくら号の指定席はすべて満席だった。
僕はデッキで立つ覚悟もしながら自由席のチケットを買った。
サポートしてくださった駅員さんに尋ねたら外国人旅行者の増加がもたらしている状
況とのことだった。
「一応狙ってみましょうか?」
駅員さんはホームに向かいながらそうおっしゃった。
僕の歩行能力を見極めた上での判断をされたのだと思う。
僕達は運動会の二人三脚みたいな感じで動いた。
「前を失礼しまーす。」
駅員さんは大きな声でアナウンスしながらホーム上を右に左に動いていかれた。
僕達のスピードは一般の方と同じ、いや早いくらいだったと思う。
僕が日常的に単独歩行ができる理由、まず持って生まれた平衡感覚だと思う。
それに運動能力、体力もあるだろう。
そして頭の中で地図をイメージする能力も高いのだと思う。
勉強は苦手でも元気はあるという特性が失明後の僕を助けてくれたのだ。
僕達の作戦は成功して自由席を確保できた。
駅員さんに感謝を伝えて席に着いた。
まず後ろのお客さんに声をだす。
「リクライニングを倒します。」
返事はなかった。
見えない僕は後ろの座席に人がおられるかも分からずに声を出す。
単純にエチケットだと思っているからだ。
ちなみに後で聞こえてきた会話で分かったのだが、後ろの方は外国人だった。
前の座席の背中に付いているテーブルをセットする。
リュックサックからパソコンを出す。
アイフォンのテザリング機能を使ってパソコンをネットにつなぐ。
それからイヤホンを耳に装着して準備完了。
流れるような動き、きっと見えない人間とは思われないだろう。
目的の薩摩川内市までの4時間、大切な仕事の時間だ。
夏休み期間を利用した先生方の研修にお招き頂いたのだ。
教育は未来に直結すると僕は思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が参加できる社会を考える。
当事者の立場から正しい理解の大切さを伝え、そして思いを語る。
僕にとっては願ってもない有難い機会なのだ。
たった一度、それも2時間程度、そこでどれだけ伝えられるかは分からない。
いい加減な気持ちでは伝わらない。
一生懸命に取り組むこと、それが僕にできることだ。
準備したレジュメを確認しながら頭の中を整理する。
記憶は苦手なので流れの確認をしているだけなのだと思う。
現地では高校時代の友人達がサポートを引き受けてくれる。
これもまた有難いことだと思う。
宿泊先のホテルのスタッフの皆さんも応援してくださる。
僕が単独で動きやすいようにいつもの部屋を準備してくださるし、バイキングの朝食
も個別に対応してくださる。
医学モデルでは見えないことが障害と定義されていたが社会モデルに変化してきた。
障害は参加する社会の側にあるという考え方だ。
関西から鹿児島県への移動、一泊二日の滞在、僕にとって特別な障害は存在していな
い。
人間の社会はそれを可能にする潜在力があるのだと思う。
そして一番大切な部分、それはお互いを認め合う心の問題なのだろう。
そこを伝えるのが僕の役目と言っても過言ではないのかもしれない。
最初は少し固かった会場の空気、時間と共に微笑み出し、そして柔らいでいった。
会場を後にする時の先生方の暖かな拍手、それが答えだったのだと思う。
話を聞いてくださった先生方に心から感謝した。
一緒に過ごした時間が未来につながっていくような気がした。
(2024年8月4日)

夢を追う

未熟児網膜症の彼は小学校4年生の時に最初の挫折を味わった。
画数の多い漢字が黒い塊に見えて読むことが難しくなったらしい。
中学校で英語と出会ってから英語に興味を持つようになった。
英語が好きになっていったのだ。
自分の目で読める大切な文字だったのかもしれない。
大学も外国語大学の英語科に進学した。
そして英語検定にも挑戦した。
準1級までは合格できたが1級は無理だった。
合格率1割のあまりにも高過ぎる壁だったのだ。
英検1級は夢となった。
卒業してもなかなか就職はできなかった。
彼の目は白内障にも緑内障にもブドウ膜炎にも罹患してしまった。
その目で人生を刻んだ。
50歳になって彼は再度英語検定1級に挑戦を始めた。
若かった頃挑んだ夢への再挑戦だ。
弱視のために拡大文字、1.5倍の試験時間が保障されたが試験問題は皆と同じだった。
幾度も受験し跳ね返された。
それでも彼はあきらめなかった。
9年目の挑戦、神様が微笑んだ。
彼は照れくさそうに報告してくれた。
恥ずかしいとも表現した。
ひたむきに夢を追い続けてきた彼を僕は心からかっこいいと感じた。
いつまでも夢を追うことの大切さを教えてもらったような気になった。
僕はお祝いのランチをすることにした。
(2024年8月2日)

故障

いつもの駅、いつものように電車を降りた。
見えないのだから階段が右にあるか左にあるかは分からない。
階段を探すために耳を澄ませた。
階段のところで鳴っている小鳥の鳴き声の放送を探すのだ。
何も聞こえない。
遠い場所で降りてしまったのか、風が邪魔をしているのかは分からない。
とりあえず、右の方向に向かって歩き始めた。
この右というのは勘の世界だ。
そして結構当たる。
ところがいくら歩いても小鳥の鳴き声はなかった。
反対方向に歩いてしまったと思ってUターンした。
しばらく歩いたがまた小鳥の鳴き声は聞こえてこない。
最初の歩きが短かったのかと思って再度Uターンして長めに歩いてみた。
やっぱり聞こえてこない。
いつもと違う駅で降りてしまったのだろうか?
耳がおかしくなったのだろうか?
不安はどんどん大きくなっていった。
僕は微かに感じた人の気配に向かって声を出した。
「階段を教えてください。」
何も反応はなかった。
イヤホンをしておられる人だったかもしれないし、外国人だったかもしれない。
僕達を苦手と感じる人だったかもしれない。
とにかく万事休す。
心を落ち着けるためにしばらく立ち止まった。
いや再度歩き始める気持ちが萎んでしまっていた。
恐怖心が僕の足を止めたのかもしれない。
間違えばホームから転落するのだ。
足を前に出す勇気を取り戻すのに少し時間がかかった。
しばらくしてから、再度小鳥の鳴き声を求めて歩き始めた。
やっぱり聞こえない。
もう一度Uターンして歩き始めた時だった。
女性が声をかけてくださった。
何と声をかけてくださったのかは憶えていない。
それくらい恐怖の中にいたのだろう。
僕は階段まで連れて行って欲しいとお願いした。
彼女の肘を持たせてもらってUターン、数メートル歩いた場所に階段はあった。
愕然とした。
小鳥の声の放送が流れていなかったことを知った。
機械が故障していたのかもしれない。
僕は幾度か階段の真横を歩いていたのだ。
改札口の駅員さんに小鳥の鳴き声が故障しているかもしれないと伝えた。
駅員さんはすぐに点検するとおっしゃってくださった。
それからバス停に向かった。
いつものようにいつくるか分からないバスを待っていた。
だいぶしてからバスのエンジン音がした。
僕は白杖を握りしめた。
僕に気づいた運転手さんが違うバスであることをマイクで案内してくださった。
僕は深く頭を下げた。
乗れなくてもうれしかった。
人間が生きていく情報の8割は目からの情報だと聞いたことがある。
その目を使えない僕は残りの感覚で生きている。
残りの感覚でよく使うのは聴覚と触覚だ。
小鳥の鳴き声を目指して、点字ブロックを白杖で触りながら歩いている。
まさにそうなのだ。
その状態で一人で歩くのだから難しいのは当たり前だと自分を慰めた。
機械は故障することがあると当たり前のことを学んだ日となった。
(2024年7月28日)

猫を5匹飼っている見知らぬ人

電車を降りて改札口へ向かおうとした時だった。
僕の名前を呼ぶ女性の声がした。
「猫を5匹飼っている・・・」
彼女はそう自己紹介をしながら僕に肘を貸してくださった。
そうおっしゃると言うことは以前もそう自己紹介をされたのだろう。
ただ、僕の記憶にはなかった。
情けないのだが、僕の記憶力の低さは自分でも嫌になる。
画像がないせいだと言い訳をしたいのだが、それはメインの理由ではないと思う。
視覚障害の仲間でも記憶力のいい人はたくさんおられるからだ。
単に僕の記憶力の低さなのだと思う。
改札口に着いた。
僕はサポートへの感謝を伝えてバス停に向かおうとした。
「主人が車で迎えにきているので一緒に乗って帰りましょう。途中ですから。」
僕は一瞬迷ったけれど、有難いという思いが勝ってしまった。
1時間に2本のバス、どれくらい待つかはいつも分からない。
バス待ちの時間は疲労と暑さがいつも僕をからかう。
僕は喜んで彼女の申し出を受けることにした。
そして点字ブロックの近くで待機した。
待ちながら冷静さが現実を見つめさせた。
まさに通りかかりの人だ。
顔見知りではない。
見知ることはいつもできない。
なんて素敵な出来事なのだろう。
幸福感がじわじわと広がっていった。
やがて車が前に到着した。
事情は伝わっていたらしい。
ご主人はこれまた顔見知りみたいに対応してくださった。
ナビに僕の住所をセットすると車は動き出した。
スイスイとらくちんで帰宅した。
車を降りて僕は再度感謝を伝えた。
お二人のさりげなさは最後までそのままだった。
素敵だなとしみじみと思った。
車を見送ろうとしてふと気づいた。
「猫を5匹飼っている」その後の苗字を憶えていないのだ。
苦笑してしまった。
僕は見知ることのできないお二人の車の後ろ姿に心からありがとうを伝えた。
(2024年7月24日)

盲ろう者向け通訳・介助員養成講座

水曜日は城陽市で開催された京都府盲ろう者向け通訳・介助員養成講座に出かけた。
木曜日は京都市で開催された盲ろう者向け通訳・介助員養成講座だった。
社会には数は少ないけれど、目と耳の重複障害の方がおられる。
全盲ろう、全盲難聴、弱視ろう、弱視難聴の方々だ。
総称して盲ろうと呼ぶことが多い。
どの程度の見え方なのか、聞こえ方なのか、どちらが最初に障害となったのかいろい
ろだ。
それによって、お互いの手話を触る触手話、手の指を点字の6個の点としてサインを
送る指点字、あるいは掌に文字を書く、耳元で大きな声でゆっくり話すなどコミュニ
ケーション手段はいろいろだ。
僕はこの講座では視覚障害を伝える科目を担当している。
講座の目的などを考えるとつい真剣になってしまう。
僕の講義が少しでも受講生の学びにつながればうれしい。
ささやかかもしれないけれど、僕自身が盲ろうの人の力になれるということになるの
だ。
まさにやりがいのある仕事のひとつとなっている。
だいたいがマイナーな世界なので受講される人は少ない。
それでも毎年集ってくださる。
僕はいつも不思議な空気を感じながら講義をしている。
人間の愛が生み出す空気だ。
誰かの力になりたいという純粋な思いだけがエネルギーとなる。
僕はいつも最後に感謝を伝える。
受講してくださったことへの感謝を伝える。
見えない聞こえない世界、僕には想像もできない。
想像したくないのかもしれない。
でもそこに、寄り添ってくれる人を感じたら、それはなんとなく分かるような気がす
る。
(2024年7月20日)

休日

三連休は僕もお休みだった。
天候はもうひとつだったが有意義な三日間だった。
土曜日は畑仕事をした。
キュウリがお化けみたいに大きくなっていたのに驚いた。
草を抜いたり、ミニトマトなどに肥料を与えたりした。
雨がきつくなった時間はDVDで映画鑑賞をした。
副音声付の映画なので僕も利用できるのだ。
音響や臨場感などは映画館みたいな訳にはいかないが一応楽しめる。
日曜日と月曜日は視覚障害の仲間とランチに出かけた。
ワイワイ言いながらの豊かな時間だ。
仲間とのコミュニケーション、そこにはいつも命の煌めきを感じる。
それぞれの人生の大切さを実感するし、どう生きていくのかを教えてもらっている。
社会に関わることの意味を考える。
月曜日の帰り道、久しぶりに祇園祭宵山の四条通を歩いた。
遠回りだったがガイドさんにお願いしたのだ。
人波を歩きながらコンチキチンの音色が聞こえてきた。
懐かしさと一緒に画像が蘇った。
セピア色なのに驚いた。
それくらいの時が流れたということなのだろう。
もう見ることはないとちゃんと理解できている。
無茶も言わない。
でもただ素直に、もう一回見たいなと思ってしまう。
穏やかな気持ちで思ってしまう。
いい休日だった。
(2024年7月16日)

いつかどこかで

木曜日はだいたい午前も午後も用事があった。
ところが7月に入っての2回の木曜日、午後の大学の講義だけが用事だった。
15時15分からの90分の講義のために片道90分かけての出勤となったのだ。
ふと我儘に気づいた。
午前も午後も用事があれば忙しいと思っていたくせに、いざ午後だけの用事となると
出かけるのに何かしらのパワーが要るのだ。
よいしょ、どっこらしょっと言う感じなのだ。
しかも身体も重い。
ひょっとしたら身体は午前中でお休みモードになっているのかもしれない。
それでも休む訳にはいかないので出かけた。
自宅近くのバス停から比叡山坂本駅までのバスは座れた。
比叡山坂本駅から山科駅まで、山科駅から烏丸御池駅まで、烏丸御池駅から竹田駅ま
で、約1時間やっぱりずっと立ったままだった。
慣れている日常なのだがしんどいなと思ってしまった。
竹田駅からのバスは始発で座れる確率は高いのだがダメだった。
僕の前に待っておられた高齢者の集団の後に乗車したのでどうしようもなかった。
いや、待っていたのは僕の方が先かもしれなかったのだが、勢いに負けてしまったの
だ。
僕は仕方なく吊革を持って立っていた。
僕が降りるひとつ手前のバス停で乗車してこられた方が声をかけてくださった。
「前の席、空いてますけど座りませんか?」
僕は次のバス停で降りるのでと断りながらも感謝は伝えた。
そしてありがとうカードを渡した。
彼女はありがとうカードの僕の名前に気づいた。
「松永先生ですか?もうだいぶ前ですけどYMCAの専門学校でお世話になった者です。
お久しぶりでしかも横顔だったので先生と気づきませんでした。すみません。」
それからすぐにバスは僕の降りるバス停に停車した。
「僕を憶えていなくても、声をかけることを憶えていてくれてとてもうれしかったで
す。ありがとうございました。」
僕はそれだけを伝えてバスを降りた。
結局ずっと座れないでの出勤だったのだが心はとても爽やかだった。
疲労感も消えていた。
教室に入ってすぐに、僕は学生達にその話をした。
「君達ともいつかどこかで、そんな風に再会できたらいいね。」
(2024年7月12日)

人間の社会

見える人、見えない人、見えにくい人、皆が笑顔で参加できる社会、それが目標だ。
そこに向かって歩き続けること、それが僕のライフワークだ。
小学校、中学校、高校、大人の団体、いろいろ声をかけてくださる。
障害を正しく理解してもらう機会、僕は感謝して喜んで出かける。
可能な限りどこにでも出かける。
今回の小学校、10数年ぶりだった。
その当時の先生方はもういらっしゃらなかった。
どうして僕に声をかけてくださったのか尋ねたら、一人の先生の提案だったらしい。
数年前、別の小学校で勤務されておられた時に話を聞いてくださった先生だった。
僕のことを憶えていてくださって、僕の話を子供達に聞かせたいと思ってくださった
のだ。
僕はうれしくて握手を求めた。
感謝をお伝えした。
中間休みを挟んでの2時限の講演時間、あっという間に流れていった。
子供達は僕の話を真剣に聞いてくれた。
僕が投げかけたいろいろな質問に一生懸命答えてくれた。
120の未来が僕の前で微笑んだ。
講演を終えて玄関を出ようとした時だった。
少女が近づいてきた。
「松永さん、握手してください。」
その声は子供の声ではなく一人の人間の声だった。
僕は少女と握手をした。
お互いの手をギュッと握った。
少女の手がありがとうございますと囁いていた。
頑張ってくださいねとエールを送っていた。
僕は口に出した。
「ありがとう。」
僕と少女は顔を見合わせて微笑んだ。
「10歳という年齢は大人に向かって成長が始まる時だと思います。」
朝の挨拶の時に懇談してくださった校長先生の言葉がそのまま現実となっていた。
豊かな時間だった。
少しずつかもしれない。
ささやかかもしれない。
でもきっと目標に近づいている。
確かに近づいている。
帰りの電車はいつものように座れなかった。
残念だけどやっぱり立ったままだった。
地元の駅に着いて改札口を通り抜けてバスターミナルに向かおうとした時だった。
バスのエンジン音が聞こえた。
白杖の僕では間に合わない。
付いてないなとあきらめかけた時だった。
「待っていますからゆっくりきてください。」
マイクでの放送が聞こえた。
僕を見つけたバスの運転手さんの声だった。
僕はペコリと頭を下げてバスに向かった。
周囲に気をつけながらゆっくりと一歩ずつバスに向かった。
「君達の住む人間の社会にはやさしい人がいっぱいいるんだよ。」
今朝子供達に伝えた言葉を思い出した。
人間の社会、素敵です。
(2024年7月7日)