読書

年齢のせいで朝早くに目が覚めるようになってしまった。
まだ朝日も出ないうちから起きてしまうのだ。
脳はもっと眠りたいと思っているようなのだが仕方がない。
そのせいなのだろう。
昼食後には身体が昼寝を要求しているのが分かるし、夜9時には睡魔に襲われる。
悔しいと思う日々だ。
かかりつけのドクターに相談したら、寝る時刻をもう少し後ろにずらすようにとのア
ドバイスだった。
とにかく、目が覚めてから動き出すまでの時間を持て余している。
同世代の視覚障害の仲間に尋ねてみたら読書の時間にしているという人が結構いた。
見えなくなってから、僕は読書をしなくなった。
見えていた頃、むさぼるように文庫本を読んだ時期があった。
まさに読み漁った。
紙とインクの匂い、ページをめくる指先の感触、懐かしい。
視覚障害者の仲間には趣味が読書という人は結構多い。
点字で読む人が2割、録音図書が8割くらいかな。
僕が読書をしなくなったのは何故だろう。
目で活字を追うあの感覚がないせいかもしれない。
結局コーヒーを飲みながらぼぉっとしている。
最初の頃は時間の浪費みたいでもったいないと感じていた。
最近は贅沢のひとつだと思えるようになってきた。
時間の旅もいいものだということにしておこう。
現役を引退したら読書をするのかもしれないとなんとなく思うこともある。
読書そのものより、読書をするおじいさんの姿に憧れがあるのかもしれない。
(2023年10月22日)

キンモクセイ

お招きくださった中学校の最寄り駅はJR京都線の桂川駅だった。
朝の山科駅での乗り換えはそれなりのエネルギーがいる。
僕は朝7時台に1本だけある快速を選んだ。
乗り換えなしで行けるのだ。
ただ、大阪まで直通で行けるから通勤客なども多い。
ラッシュの中で電車に乗り込むのはそれなりのハードルがある。
彼女が最初に声をかけてくださったのはいつだっただろう。
もう忘れてしまった。
ほぼ毎日その電車で通勤している彼女は僕を見かけたら声をかけてくださるようにな
った。
この電車だったら彼女にサポートを受けられると僕も思うようになった。
6時台の電車の時はまた別の男性が決まってサポートをしてくださる。
彼とはアドレス交換をしているので僕は前日までに依頼をすることもある。
「明日、京都駅7時過ぎの新幹線に乗車するので乗り換え口までお願いします。」
という感じだ。
タイミングさえ許せば引き受けてくださる。
いろいろな人達のやさしさに支えられながら僕は生きているのだと思う。
今日の中学校は2時限目と3時限目に講演、その後はクラス毎にサポート体験という
内容だった。
この中学校は別日に点字体験も予定されているので、まさに視覚障害理解のフルコー
スということになる。
それがもう20年近く、ほぼ毎年実施されている。
僕達当事者にとってはとても有難いことだ。
実際、僕自身もこの中学校出身の人達に幾度かサポートを受けた経験がある。
6時限目までの活動を終えて、ボランティアさんに桂川駅まで車で送ってもらった。
京都駅で電車を乗り換え、地元でバスに乗り換え、いつもの帰路だ。
空席を見つけられない僕は約1時間、立ったまま過ごすことになる。
電車の乗降、乗り換え、改札口の通過、バス停への移動、どの部分も息を抜くことは
できない。
一瞬の判断ミスがどういうことになるかは自覚しているつもりだ。
電車内で手すりを持っている間だけは揺れる身体をかばいながら気持ちは休養させる
のが技術のひとつだと思っている。
電車に乗り込む瞬間に男性が声をかけてくださった。
そしてすぐに座席も教えてくださった。
僕達はそれとなく話始めた。
行先を確認しながら、同じ町内の人だと分かった。
あまりの偶然に驚いた。
彼は京都駅での乗り換えは勿論、地元駅でのバス停までのサポートまで申し出てくだ
さった。
僕は喜んでそのサポートの申し出をお受けした。
彼と歓談しながらの帰路となった。
バス停に到着した後も彼はバス待ちの時間を近くのベンチで付き合ってくださった。
いつもの僕にはそこにあることさえも気づかないベンチだ。
ベンチの木のぬくもりまでがうれしかった。
彼と別れて僕は一人でバスに乗車した。
最寄バス停でバスを降りて歩き始めた。
しばらく歩いて足が止まった。
キンモクセイ!
僕は白杖を自分の前に立ててグリップにあごを乗せた。
香りを楽しみながらゆっくりと呼吸をした。
今日出会った人達のやさしさをふと思い出した。
さりげなく、つつましやかに、そして存在感のあるやさしさ。
キンモクセイの香りがよく似合うと思った。
(2023年10月17日)

故郷での活動

新大阪駅構内のカフェでコーヒーを飲むのが、西に向かう時の最近の僕のルーティー
ンとなっている。
目当ては玉子サンドだ。
焼きたての玉子焼きと脇役の少量のケチャップがしっかりと主張している。
朝のホットコーヒーによく合う。
胃袋にも心にもやさしくしてあげてからスタートするのだ。
8日に玉子サンドを食べて出発、14日の夜帰宅した。
結構な長旅だった。
薩摩川内市に到着した夜はいつもの料理屋さんで大好物の焼きおにぎりとお漬物を頂
いた。
偏屈のしげきがやっている料理屋さんだ。
塩分の取り過ぎには気をつけるようにしているが、この時には制限はしない。
キュウリも大根もニンジンもバリバリと食べた。
日本で一番おいしいお漬物だと思っている。
久しぶりの再会、僕達はほんのわずかの時間映画の話をした。
しげきが大学の映画学科にいた時、卒業制作の映画に僕もちょい役で出演した。
僕の人生で最初で最後の俳優となった。
しげき監督は幾度も僕にやり直しを命じた。
僕にはセンスがなかったのだろう。
でも、映画の魅力を僕に教えてくれたのはしげきだ。
見えなくなった今も僕の趣味は映画鑑賞となっている。
翌日から活動を開始した。
まず、薩摩川内市の小学校5年生対象に講演をした。
事前学習などの成果なのだろうが、とても高いレベルでのひとときとなった。
いつものことだが、子供達と語らう未来はキラキラしている。
午後はいちき串木野市で開催された更生保護の団体にお招きを頂いた。
昨年人権関係の講演で話を聞いてくださった方が企画してくださったのだ。
「風になりたいって思ったんです。」
彼女の飾らない短い言葉が心に染みた。
お土産に頂いた菓子折りわ懐かしい郷土菓子の豪華な詰め合わせだった。
食いしん坊の僕の喜びは間違いなく倍増した。
予感通りにいいスタートを切れたと感じた。
今回の鹿児島県での活動、7会場での講演となった。
生まれ故郷の阿久根市も久しぶりに訪ねた。
小中学校の同級生達が宴を催してくれた。
卒業アルバムで確認できない僕は名前は記憶していてももう顔は思い出せない。
でもそんなことはどうでもいいことだ。
たくさんの人達のやさしさの中で生きてこれたことを実感した。
わざわざ集ってくれた同級生達に心から感謝した。
講演は午後だったので、よしのりは昼食のことを心配してくれた。
「俺の家でにぎめしを食っていけばよかが。」
宴の席でおにぎりは豪華なお寿司に化けていた。
よしのりの変わらないやさしさをしみじみと感じた。
阿久根市で開催された人権擁護委員の研修会では著書の中から「阿久根にて」を朗読
してもらった。
よしのりが温泉に連れていってくれた時の思い出話だ。
会場の皆さんも同年の幼馴染が醸し出すやさしさを共有してくださったようだった。
薩摩川内市では信子先生ともまた再会できた。
2004年の著書のデビュー以来、ずっと応援してくださっている。
幼児教育一筋で生きてこられた彼女の読み聞かせにはいつも引き込まれる。
花に囲まれた大きな屋敷、静かな空気の中で絵本を読んでくださる。
ゆっくりと流れる時間、豊かな時間だ。
それを聞きたいがために僕は毎年先生を訪ねるのかもしれない。
ただ、先生はいつも僕には過分のおもてなしをしようとしてくださる。
「僕は先生の読み聞かせを聞きたいがために訪れています。
だから、構わないでくださいね。」
いつもそう伝えている。
今回は読み聞かせの後、地元のホテルのレストランで夕食をご馳走してくださった。
フルコースだった。
味も接客も雰囲気もすべてが高いレベルだった。
「先生、来年もここにしましょう。」
舌の根も乾かない内での僕の言葉に先生は笑っておられた。
今回も高校時代の仲間達がすべての場面でサポートしてくれた。
講演の企画と交渉、書類等の準備、ホテルから会場までの送迎、会場での著書の販売
などすべてにおいてだ。
滞在中の選択から最後の宅急便の手配までやってくれる。
しんやさんは高校時代と変わらない語り口と笑い声だ。
笑い声が同じだから彼女の顔はいつも浮かぶ。
やさしい語り口と笑顔が様々な交渉の力となっているのは想像できる。
ひょっとしたら一番忙しい人なのかもしれないがそれさえも笑顔に包んでしまう。
僕はただ伝えるという活動に専念できる環境だ。
料理上手のしんこちゃんはいつも栄養満点のランチを準備してくれる。
「ウンチがちゃんと出るようにね。」
僕の体調管理のためにたくさんのメニューを考えてくれる。
今回はお替り欲しさにホテルでの夜食まで準備してもらった。
故郷の海でのひととき、これも定例行事だ。
いや一番の楽しみかもしれない。
波の音を聞きながらのコーヒータイム、自分のルーツと出会う気がする。
今回は潮風に吹かれながらラジオ体操に挑戦した。
所々忘れていた。
見様見真似ができない僕は止まってしまう。
ピーちゃんが背後から僕の手をとって教えてくれた。
幸せだなって思った。
最終日は民生委員さん、地域のサロンの皆さんに話を聞いてもらった。
司会者のよしゆきが僕を「親友」と紹介してくれた。
高校時代からずっと迷惑をかけてきた。
途切れることなく50年間が過ぎた。
僕みたいな奴をそう紹介してくれたのが本当にうれしかった。
会場を出る時に話を聞いてくださった人が声をかけてくださった。
「心に染みました。頑張ってくださいね。」
その言葉が心に染みた。
急いで駅に向かった。
数名の同級生達が駅まで送ってくれた。
病院関係の理事をしている中川君も久しぶりに会いにきてくれた。
コロナで大変だったのだと思う。
この20年近い活動の半分は彼が中心となって引っ張ってくれた。
再会がうれしかった。
そう言えば、田中君も二度も会場に足を運んでくれた。
薩摩川内市の市長をしている彼はまさに分刻みのスケジュールなのは知っている。
プライベートの時間まで使って応援にきてくれる。
「良二じゃっど。」
高校時代の空手部の彼の笑顔が浮かぶ。
多忙な業務の中での変わらない応援を有難いことだと思う。
友人達に見送られて新幹線に乗り込んだ。
よしゆきが持たせてくれたしんこだんごの包みを開けた。
たまたま隣の席が空いていたので香ばしいお醤油の香りがしても大丈夫との判断だ。
故郷の味を何本も味わった。
まさに堪能した。
僕は幸せ者だと味覚が脳にささやいた。
胃袋も心も満足してリクライニングを倒した。
新大阪までの車内、しばらく眠った。
今回の活動でまた500人くらいの人に話を聞いてもらえた。
未来に向かって500粒の種を蒔いたことになる。
一日休んでまた明日から地元での活動が再開する。
明日は京都市内の中学校だ。
ホームページのスケジュールを確認しながら自分でも驚く。
少し年をとったが、体力も気力もまだまだある。
残された時間ももうちょっとはあるような気がする。
鹿児島県滞在中にも京都の同志社女子大学から講話の依頼があった。
ヘレンケラーさんが講話をされた礼拝堂での講話、光栄なことだ。
勿論、僕の活動は彼女の足元にも及ばない。
ただ、同じ未来を見つめているのは間違いない。
先達達がバトンを受け継いできてくださった。
命がけで引き継いでくださったのだと思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔で参加できる社会、その日までバト
ンは受け継がれていく。
だから僕も、また明日から頑張る。
そして来年も故郷で活動できればと心から願う。
皆元気でいて欲しいと思う。
(2023年10月15日)

予感

失明して5年くらい経った頃、エッセイを出版するというチャンスに恵まれた。
振り返ればチャンスだったと思えるのだが、当時は尻込みしたのが現実だった。
僕なんかにできるはずがないと考えたし、恥ずかしいというような思いもあった。
読んでくださる人がおられるかも不安だった。
「活字の力」という編集者の言葉に説得されるような形での出版となった。
もう20年くらい前のことだ。
今でも著書はアマゾンなどで流通している。
そして僕の活動の大きな支えとなったし力となった。
もう天国にいかれたが、僕を説得してくださった編集者の方には感謝してもしきれな
い思いだ。
最初のエッセイが出版された翌年、故郷の高校時代の同窓生達が僕の活動の支援を申
し出てくれた。
毎年秋になると招いてくれる。
故郷の子供達や教育や福祉関係の団体などで講演する機会を提供してくれるのだ。
コロナで一年だけ中止となったが、それ以外はずっと続いている。
出会った子供達、話を聞いてくださった人達の数はもうとっくに1万人を超えた。
同窓生達はまさにボランティアで動いてくれている。
会場への送迎だけでなく、滞在中のすべてを引き受けてくれている。
同窓生達ももう定年退職しそれぞれの事情などもある。
僕自身の体力、気力、これもいつまでかは分からない。
いつまでも続けたいとは思っている。
条件が許すなら続けられれば有難いのは間違いないことだ。
未来への種蒔、ライフワークに終わりはない。
一人でも多くの人に出会いたいのだ。
見えない僕達と見える人達とが共に暮らす社会について伝えたいのだ。
そして今年もまた実現できることになった。
たくさんの人達の支えのお陰だ。
ご尽力くださった皆様に心から感謝したい。
4日間で7会場の予定だ。
僕は500枚のありがとうカードを準備した。
京都駅みどりの窓口に新幹線のチケットを買いにいった。
僕は希望の新幹線の時刻を告げた。
単独で行くので駅員さんのサポートを受けることになる。
だから出入口に近い座席を頼んだ。
加えて、窓際を希望した。
横の座席の人が乗ってこられたり降りられたり、あるいはトイレに動かれたりが僕に
は分かりにくいからだ。
「ラッキーです。8号車のドアからすぐの窓際の席だけが空いていました。」
三連休、しかも鹿児島県で国体が開催されるとのことでとても込んでいたのだ。
まさに最後の1席を希望通りの条件でゲットできたのだった。
駅員さんはまるで宝くじに当たったみたいな感じで教えてくださった。
僕は笑顔で感謝を伝えた。
きっといい旅になる、そんな予感がした。
(2023年10月9日)

長い、ながーい一日

1時限目から5時限目までを京都市内の小学校で過ごした。
4年生の子供達だ。
講演、質問タイム、視覚障害者のサポート方法の実演、点字体験学習、フルコースだ
った。
給食も子供達と一緒に頂いた。
子供達はどんどん理解してくれた。
出会った最初の固まっていた表情は時間と共に笑顔に変化していった。
いろいろな形でサポートを申し出てくれて、そして実際にやってくれた。
「松永サん、サインしてください。」
こっそりとささやくおしゃまな女の子もいたりしてこの年頃らしいと笑顔になった。
「君にしたら皆にしなくちゃいけなくなるから我慢してね。ごめんね。」
女の子は納得してくれた。
そんなやりとりも含めて、いろいろなことが豊かな時間となった。
関わってくださった先生方に感謝を伝えて、それからいつもの大学に向かった。
ボランティアさんが小学校から大学まで車で送ってくださった。
公共交通機関では間に合わないスケジュールだったので助かった。
大学では学生達に二人一組になってもらい、視覚障害者に言葉だけで説明するという
体験をしてもらった。
僕が折り紙を折り進めていくのを見える学生がアイマスクの学生に説明するのだ。
そして最後に僕と同じ作品が折れていたらいいということになる。
学生達は一生懸命に取り組んでくれるのだが、その言葉、ボキャブラリー、声の大き
さ、僕には可笑しくてたまらない。
「むずい。」
「そうそういい感じ。」
「ななめってる。」
「ちょう、いけてる。」
僕には宇宙人的に感じる言葉も飛び交う。
笑い転げながらの授業となった。
「来週は僕は鹿児島に行くから休講だからね。間違ってこないようにね。」
学生達に連絡事項をしっかりと伝えて一日の仕事を終えた。
充実感と結構な疲労を感じながら帰路に着いた。
難関のひとつの烏丸御池駅で電車を乗り換えようとした時だった。
ラッシュの人込みの中からサポートの声がした。
僕はすかさず声の主の男性の肘を持った。
数歩進んだだけで彼の歩行が困難なのに気づいた。
片手には杖もついておられるのも分かった。
僕は彼の肘を持つ手の力を極限まで緩めて彼の歩調に合わせて歩いた。
僕が単独で歩くスピードの半分くらいだったかもしれない。
エレベーターに乗るなり彼は僕に話された。
「20年前に交通事故で片足を切断したんだ。義足だよ。」
それを伝えたいとの思いがあったようだった。
「大変な経験をされたのですね。でも、死ななくて良かったですよね。」
エレベーターが停止して僕達は再び歩き始めた。
そこから先は手が逆転した。
僕が彼の肘を持たせてもらうのではなく、彼が僕の肘を自然に掴まれた。
僕は少しずつ歩いた。
僕の有人にも義足の人が数人いらっしゃるが、ここまで不安定な人は珍しかった。
ちょっとのことで転んでしまうような感じだった。
僕はそういうことがおきないようにと慎重にゆっくりと歩いた。
彼の歩調に合わせながら彼の指示通りに歩みを進めた。
駅がいつもと違う雰囲気だなと一瞬思ったがかき消した。
いや検証する余裕がなかった。
やがて別のホームに到着した。
ギリギリのタイミングで電車に乗車した。
彼は僕だけを座席に座らせようとしてくださった。
僕は一瞬たじろいだが、彼の言うがままにした。
そうすべきだと思った。
その後流れた電車の案内放送を聞いて愕然とした。
彼は何か勘違いされたのだろう。
「間違ってしまった。違う電車だ。」
彼の戸惑いが伝わってきた。
僕はもっと先の駅で乗り換えるから大丈夫と告げた。
彼を安心させたいと思った。
彼は先に降りていかれた。
「ありがとうございました。」
僕は感謝を伝えた。
僕がもっと神経を集中させたら彼を失敗させずにすんだかもしれない。
申し訳なく感じた。
一瞬後悔が浮かんだが、体力も気力も限界だったのは間違いなかった。
なんとか京都駅まで辿り着いて乗り換え用としたが大変だった。
彼の目の誘導で歩いた僕は自分が電車のどのあたりに乗車したのかも理解できていな
かった。
いつもは頭の中にある地図をイメージして動く。
メンタルマップというやつだ。
まさに迷子状態になった。
地下鉄の改札を出たところで固まってしまった。
どちらに動けばいいのかさっぱり分からない。
僕に気づいてくださった女性がサポートしてくださった。
とんでもない場所にいたらしかった。
JRに乗り換えて青息吐息で地元の駅に着いた。
いつもの倍くらいの時間を要した。
急いで歩けばバスにギリギリ間に合うのは分かっていたが身体が動かなかった。
僕はあきらめながら改札を出てバス停に向かった。
しばらく歩いたところで声がした。
「バスの発車時刻です。持ってください。」
運転手さんだった。
僕は彼の肘を持って急いだ。
よく利用する僕をいつの間にか憶えてくださっていたのだ。
「いつもの席が空いています。」
運転手さんは僕を乗降口まで案内して運転席にもどられた。
「皆さん、お待たせして申し訳ありませんでした。」
運転手さんはそう告げてからバスを発車された。
たまたま同乗していた近所の方が僕の隣にこられた。
「発車時刻になって、突然運転手さんが運転席から飛び出していかれたので何があっ
たのだろうと思いました。
松永さんに気づいたから走って迎えにいかれたのですね。
素敵な運転手さんですね。」
彼女がそっと教えてくださった。
今朝小学校の子供達に話した言葉が僕の中で木霊した。
「助け合えるって人間だけだよ。素敵だね。」
長い、ながーい素敵な一日となった。
(2023年10月6日)

一期一会

福祉の専門学校でオープンキャンパスの仕事があったので出かけた。
JR山科駅で地下鉄に乗り換えるために動いた。
ホームにたどり着き、ぼぉっと地下鉄を待っていた。
「松永さん、久しぶり。」
懐かしい声だった。
失明して間もない頃に知り合ったボランティアさんだった。
彼女のご主人は耳鼻科のドクターで、その後京都市の会議などで幾度もご一緒した。
まさにご夫婦でいろいろと応援してくださった。
体力的にも限界だからと今年度で医院を閉められるらしい。
そのタイミングで再会できたことをうれしく感じた。
これまでのことに再度感謝を伝えた。
彼女は僕が乗り換える駅のひとつ手前で降りていかれた。
僕は予定の烏丸御池駅で電車を降りた。
ここの駅での乗り換えはハードルが高い。
駅自体が複雑な構造なのだ。
周囲の音に耳を凝らしながらどう動けばいいか考えていた。
突然、外国人の二人の女性が話しかけてきた。
何か尋ねられると思った僕は即座に手でサングラスを示しながら断った。
「I am blind!」
それでも彼女たちは会話を続けてきた。
どうやらサポートを申し出てくださっているらしいと分かった。
そこからは片言の英語とジェスチャーで僕達はコミュニケーションを取った。
彼女の肘を持たせてもらって駅構内を歩きエスカレーターにも乗った。
エスカレーターに乗る時も大丈夫かと確認してくださった。
どこの国からきたかを尋ねるとスコットランドという単語が聞き取れた。
京都見物が終わって、これから東京に向かうとのことだった。
日本は美しい国だとの感想だった。
お寿司とラーメンがおいしかったとの言葉には僕も笑った。
会話の流れの中で、彼女たちの職業がドクターだと分かった。
しかも眼科のドクターだった。
僕の中で喜びが弾けた。
言葉もなかなか通じないのに、困っていそうに見えた僕を眼科医の彼女達は放ってお
けなかったのだろう。
地下3階の東西線のホームから地下2階の烏丸線へ移動した。
京都駅方面行の電車を待つ間も僕達は親交を深めた。
白杖を持った僕とサポートしながら歩く外国の女性達、語らう笑顔、なんとなくこの
街に似合うように感じた。
やがて電車がホームにはいってきて僕達は一緒に乗車した。
彼女達は僕を空いてる座席に座らせて自分たちは立っておられた。
僕は日本語のありがとうカードを渡した。
「thank you card please!」
次の駅で僕は電車を降りた。
乗降口で見送っている彼女たちに向かって深く頭を下げた。
「Have a nice day in Japan! thank you! ありがとう!」
それから改札口に向かった。
改札口でサポーターと待ち合わせていた。
サポーターは京都の大学で学んでいる医学生だった。
僕は学生とまた別の電車に乗って近鉄向島まで移動した。
ランチタイムだったので僕達は学生が探してくれたパスタ屋さんに向かった。
彼女は僕と歩きながら、田んぼに稲穂が実っていることを教えてくれた。
その上にある空の表情も伝えてくれた。
僕はそこに田んぼがあることさえ知らなかった。
秋の気配をただうれしく感じた。
日本の美しい風景のひとつだろうと思った。
あのスコットランドのドクター達も見てくれたのだろうとなんとなく思った。
帰宅してパソコンを開いたら、ホームページのお問合せフォームにメッセージが届い
ていた。
今朝のスコットランドのドクターからだった。

【Dear Mr Shinya Matsunaga,
We are the two Ophthalmologists from Scotland that met you on the subway in Karasuma Station this morning. We are honoured that we helped you and so amazed to see you do so much incredible work for and with visually impaired people. You are inspirational and I hope that we maybe meet again sometime in the future.
We learnt a phrase on our trip to Japan and our meeting with you fits it perfectly ichi go ichi e
Best wishes
Umaima & Mariam】

日本語訳
【親愛なる松永信也さん
私たちはスコットランドの眼科医で、今朝烏丸駅であなたにお会いしました。
あなたをお助けできたこと、光栄に思います。
そして、あなたが目に障害を抱える人たちと一緒になって、そうした人々のためにな
る素晴らしいお仕事をされているということに感動しました。
あなたは人の心を動かすことのできる人です。
いつか将来、またお会いできたらと思います。
日本への旅行であるフレーズを学びましたが、あなたとの出会いはこの言葉にぴった
りです。
「一期一会」
ご多幸を
ウマイマとマリアム】

インターネットで僕の活動などを検索されたのだろう。
正直、僕はそんなに素晴らしい人ではない。
でも、この一期一会という言葉、とてもうれしく思った。
日本の旅を終えたら、またスコットランドでお仕事をされるのだろう。
いろいろな病気の患者さんを治療してくださるのだろう。
そして励ましてくださるのだろう。
日本のドクターに僕がしてもらったように。
心から感謝の思いが沸き上がった。
一期一会、僕も大切にしたいと思った。
それにしても、ドクターという職業の人達に縁のある不思議な日となった。
(2023年10月2日)

行ってらっしゃい

通勤通学の時間帯、ホームはたくさんの人だった。
一般の人達は整列乗車のために並んでおられるのだと思う。
僕には列の最後尾を探すことはできない。
万が一そこに案内してもらっても動き出した列に着いていくことも無理だ。
結局僕はいつも点字ブロックを白杖で確認しながら最前列に動く。
順番抜かしになるのかもしれないが抗議を受けたことはない。
それどころか、僕の歩く点字ブロックは空けてくださっているように感じる。
引っ越してきた1年半前よりもそうなってきたと感じる。
地域の暮らしに少しずつ溶け込んできたのかもしれない。
電車の行先を告げるアナウンスが流れ電車がホームに入ってきた。
緊張の瞬間だ。
数十名の乗り降りが30秒足らずで行われる。
その流れに僕も入らなくちゃいけない。
早過ぎたら降りてくる乗客とぶつかってしまうし遅かったらドアが閉まってしまう。
周囲の音を聞きながら白杖で確認しながら動く。
入り口がどこにあるかも電車とホームの溝も本当は分かっていない。
まさに毎回挑戦だ。
ドアが開いた音を確認した瞬間だった。
「一緒に乗りましょう。」
若い男性の声がした。
僕はすかさず彼の肘を持たせてもらった。
無事電車に乗ると彼は当たり前のように僕の左手を吊革に案内してくださった。
その瞬間ピンときた。
「先週の人ですか?」
先週サポートを受けた人にどこか持たせて欲しいとお願いした記憶があった。
先週渡すタイミングを逸したありがとうカードを今回はお渡しすることができた。
山科駅でJRから地下鉄に乗り換えた。
いつものように乗降口の近くの手すりを持って立っていた。
「おはようございます。」
ささやかな声は僕に向けられた挨拶だった。
「おはようございます。」
僕は知ってる人かなと思いながら返したがそうではなかった。
「座りますか?」
その声の主は僕の左手首をそっと持って近くの席に誘導した。
僕は感謝を伝えて座った。
中学生か高校生くらいの女子だったと思う。
勿論声だけのイメージなので自信はない。
いつものことだが座って手が離れた瞬間にその人がどこにいるかは分からない。
久しぶりに座れた朝に感謝しながら数駅を過ごした。
三条で京阪電車に乗り換えだ。
僕は電車がホームに入って減速する感覚を頼りに立ち上がった。
その僕の左手首をそっと握ってくれる手がそこにあった。
さっきの女子学生は前にいてくれたのだ。
彼女は僕をホームまで案内してくれた。
「行ってらっしゃい。」
彼女の素敵な言葉に送られて僕は歩き始めた。
僕が中高生だった頃、障害者の人達にどう接していたのだろう。
だいたいあまり見かけなかった。
当時の障害者の方の社会参加はままならなかったのかもしれない。
たまにお見掛けする機会があっても、ジロジロ見てはいけないという感覚があった。
かわいそうという感覚だけで動いていたような気がする。
半世紀、社会は確かに少し変わった。
今日は胸ポケットから6枚のありがとうカードが僕の手から誰かの手に渡った。
勿論、1枚も減らない日もある。
減らないことを悔やむよりも渡せた時を感謝して生きていきたいと思う。
光も見えない僕が社会に参加する意味はそこにあるのだと思っている。
「行ってらっしゃい」という暖かな言葉で背中を押されてスタートした一日、確かに
幸せな一日となった。
(2023年9月29日)

真っ白な彼岸花

彼女の家の庭には今年も白い彼岸花が咲いたらしい。
お彼岸の頃に決まって咲いてくれることにいつも感激するとのことだ。
確かにそれは僕もそう思う。
ここ数日、ラジオからは日本各地の彼岸花の開花の便りが流れた。
日照時間とか降雨量とか毎年違うはずなのに不思議だ。
僕は少しだけの理科の知識で答えを出そうと頑張った。
「神様が小鳥さん達を使者にして彼岸花に伝えてくださってるんだと思うよ。」
彼女は当たり前のように笑った。
だから、咲いてくれた彼岸花にありがとうって話しかけているらしい。
僕の頭の中で映画のワンシーンのような映像が流れた。
真っ白な彼岸花の前に彼女は腰を降ろしている。
空は雲一つない綺麗な青空だ。
彼女はつぶやきながら真っ白な彼岸花を見ている。
何か話しかけているのかもしれない。
その言葉は聞き取れない。
聞き取れなくていいんだ。
答えの出ないことが大切なこともある。
生きていくってそんなことの繰り返しなのかもしれない。
暑さ寒さも彼岸まで。
確かに朝夕ちょっと涼しくなった。
朝のホットコーヒーがおいしくなったように感じる。
気温と味覚の関係、考えるのはやめておこう。
(2023年9月24日)

映画「こんにちは、母さん」

有人と友人の奥様と3人で映画に出かけた。
有人は車いすで僕は視覚障害者、奥様はちょっと大変だったかもしれない。
僕は何も予定のない3連休だったので丁度いい気分転換にもなった。
映画は観たいと思っていた「こんにちは、母さん」という作品だった。
90歳を超えてメガフォンをとられた山田洋次監督の作品だ。
『男はつらいよ』
『釣りバカ日誌』
『幸福の黄色いハンカチ』
『遙かなる山の呼び声』
目が見えていた頃、心に残るいくつもの作品に出合った。
そして今回の作品もやっぱり山田洋次監督作品だなとしみじみと思った。
吉永小百合さんの演技も流石だと感じた。
寺尾聡さんは僕より10歳くらい年上の筈だが依然と変わらない現役だなと思った。
大泉洋さんの顔は実際には見た記憶はないのだが、『こんな夜更けにバナナかよ』で
ファンになった。
映画が進むに連れ心がやさしくなっていった。
見たことはないのにスカイツリーや浅草界隈を思い浮かべた。
エンドロールのシーンでは花火が描かれた。
パーンパーンシュルルルー
花火の音がシアター全体に木霊した。
僕の心の中にも木霊した。
突然目頭が熱くなった。
心が穏やかさの中にあるタイミングだったのかもしれない。
やさしい気持ちは自分自身を素直にしてしまうのだろう。
見えない自分を頭では理解している。
見えない自分の人生を不幸だとも思わない。
でも、見タイトいう思いはきっといつもどこかにあるのだろう。
あきらめるという課題をいつまでもあきらめられない僕がいる。
もう25年も経ったのに情けない。
つくづくと弱虫だと自覚する。
映画のあと3人でコーヒータイムだった。
いい映画の後のホットコーヒーは格別に美味しい。
見えるお二人と見えない僕が同じ映画を観て自然に語らう。
それだけで素敵なことなのかもしれない。
彼がまた観に行こうと誘ってくれた。
また連れて行ってもらおうと思った。
映画は好きだ。
(2023年9月19日)

ラグビー

4時からラジオの前で動けなかった。
敗れはしたが戦う気迫は伝わってきていた。
ノーサイドの笛の後、自然に拍手をしていた。
桜のジャージの選手達をなんとなく誇らしく感じた。
高校生の頃、ラグビー部に入れてもらった。
既に少し視野が欠けていた僕は選手にはなれなかった。
公式戦に出たことはない。
それでも練習にはいろいろな形で参加できた。
楕円形のボールを必死で追いかけた。
同学年の部員とは今でもつながりがある。
まなぶもただともしょうじもとしも皆かっこよかった。
そのひたむきさは素敵だった。
卒業式の後、一人で部室にさよならを言いに行ったことを憶えている。
最高だった時間にありがとうを言ったのかもしれない。
まなぶは20歳代後半、一人でニュージーランドを自転車旅行した。
お土産はオールブラックスのジャージだった。
僕の人生の宝物のひとつになっている。
ラグビーに縁があったお陰でラジオ中継を画像で思い浮かべることができる。
スクラムもモールもラックもラインアウトも一応分かる。
トライの瞬間もわかる。
キックされたボールがゴールポストを通過する数秒は美しい。
美しい映像の思い出を幸せだと思う。
そんな時間を過ごせたことを幸せだと思う。
また次のサモア戦も応援したい。
(2023年9月18日)