スーパーブルームーン

数日前、スーパーブルームーンだったのは知っていた。
ラジオでその話題があったからだ。
見た人には幸せが近づくらしい。
今日知り合いの先生から挨拶メールが届いた。
産休に入るのでしばらく仕事を休むとの内容だった。
出会いへの感謝の言葉が綴られていたが、その思いは僕も同じだった。
一緒に力を合わせて生徒達に向かい合った時間はとても豊かだった。
先生が産休に入ると知った時、わずかな淋しさはあった。
でもその何倍ものうれしさみたいな感情もあった。
先生からのメールにはスーパーブルームーンを見たと書いてあった。
美しい輝きだったらしい。
僕もふと記憶の中にあるお月様を思い出した。
見えていた頃、星を見ることはできなかったがお月様は見えていた。
夜盲という症状があったので小さな光は見えなかったのだ。
だから、暗闇の中でお月様だけが美しく輝いて見えていた。
ひょっとしたら、不通に見えている人達よりも美しいお月様だったのかもしれない。
思い出して笑顔になった。
スーパーブルームーンを見た先生が元気な赤ちゃんを産んでくださるようにと心から
願った。
(9月2日)

過ぎていく夏

最近最高気温が35度くらいになってきた。
この一週間程度かもしれない。
今日の予想も35度、明日もそうだ。
37度とか38度という日はなくなってきた。
今年の夏の暑さのピークは越えたのだろう。
セミの鳴き声や夕方の虫の声にもほんの少しの秋を感じる。
小さい秋見つけたとまではいかないが夏が終わりに向かっているのはわかる。
しみじみとほっとするのは酷暑が身体にもこたえていたということだろう。
そして数年前から、あと幾度新しい季節を迎えられるのだろうと思うようになった。
とりわけ身体に異常があるわけではない。
同世代の訃報に接することが増えてきたせいもあるのだろう。
誰にも分からないこと、僕にも分かる筈がない。
大切に生きていこうとしみじみと思う。
そして終わりの見えない戦争のことを考えてしまう。
この同じ空の下で今も続いている。
僕の半分の時間も生きていない若者達が命を落としていく。
いつか戦争は終わるのだろう。
勝っても負けても、平和になっても、その命はもどらない。
人間という生き物は本当に賢いのだろうか。
ふと自問自答する。
そして、何もできない自分自身も辛くなる。
(2023年8月27日)

ブラジル人

電車の中でちょっとお腹が痛くなった。
トイレに行きたい。
目的地までのルート、時間、一気に脳は動き始めた。
どの駅のどの場所でトイレに行けるか、そして仕事に間に合うかと考えを巡らせた。
講師という仕事なので休むことも遅刻も基本的には許されない。
行ったことのないトイレは探すということに時間がかかってしまう。
京都市内にはいくつか見えない僕にも利用できるトイレを確認してある。
幾度か利用し、あるいは練習し、単独で行けるようになっているトイレだ。
今回のルートはそこから外れていた。
微かな腹痛とあせりに追い込まれていくのを感じながら動いた。
乗り換えながらやっとたどり着いた駅、でも出口を間違がえたようだった。
他のお客さんの足音もない。
万事休す。
それでも僕は最後の力を振り絞って白杖で周囲を探し始めた。
その時に複数の足音が聞こえてきた。
誰かにトイレを探してもらおう。
恥ずかしさを超えた決心があった。
でもすぐに僕は絶望感に包まれた。
足音の人達は外国語だった。
うなだれそうになっている僕にその足音は近づいてきた。
「Can you speak English?」
イメージでは中年男性の声だった。
道でも尋ねられるのではないかと思った僕は即座に答えた。
「No!」
実際に僕は片言の英語しかできない。
実力としては最近の中学生以下だと思う。
単語を並べるのは少しできるがヒアリングはさっぱりだ。
次に彼から出たセンテンスにhelpというのがあったように聞こえた。
僕はダメモトでトイレを探すのを頼もうと思った。
まさに藁にも縋るの思いだったのだろう。
WCが何の単語の頭文字なのか思いつかない。
結局、僕は自分のお腹を指差しながら顔をしかめて彼に伝えた。
「トイレ!」
彼は仲間の人達と話し始めた。
仲間の人達が小走りに動き始める音が聞こえた。
僕とコミュニケーションをとった中年男性は僕の横にずっと立っていた。
時間が刻々と過ぎていった。
「トイレ!」
僕は再度中年男性に訴えた。
okという単語とone minutesという単語が聞き取れたような気がした。
中年男性は僕の肩にそっと手を置いて数度優しく叩いた。
まさに頑張れのメッセージのようだった。
そして中年男性は仲間の人達と幾度も大きな声でやりとりをした。
【まだ見つからないのか?】
【この日本人、そろそろ限界だぞ。】
【急げ急げ。】
やがて一人が走ってくる音が聞こえた。
そして中年男性とやりとりをした。
【ありました。でもこの改札口とまったく反対方向。50メートルはあります。】
他の人の声も聞こえた。
【階段を上り下りしなければいけません。距離もある。】
【目の前の改札を出たら横の通路がつながっているかもしれません。】
【とにかくそっちに急ごう。】
【】は僕の想像の内容だ。
僕と一緒にいた男性が僕の左手を自分の右肘に案内した。
僕達は改札機を強行突破して無人の改札口を出た。
僕はほとんど彼にぶら下がるようにして歩いた。
歩きながら彼は幾度か僕に話しかけたが僕には理解できなかった。
僕は青息吐息で尋ねてみた。
「Wat country?」
ブラジルという言葉が返ってきた。
何とか通じたらしかった。
間もなく反対側の改札の音が聞こえた。
「Station staff please!」
彼は僕を駅員さんのところに案内してくれた。
「トイレ、使わせてください。」
僕は駅員さんにお願いした。
こちら側の駅の構造は頭にあったのですぐに単独で動けた。
僕は振り返って手を振った。
「thank you!」ありがとう!thank you!
そして数歩進んでもう一度振り返った。
「I love Brazil!」
歩き始めた僕の背中に彼らの笑い声があった。
とにかく助かった。
リュックサックには予備の白杖などがいつも入っている。
これからそこに予備のパンツも加えようと決めて友人に顛末をはなしたら紙パンツの
利用を勧められた。
そっちの方がいいかもしれない。
しばらく悩んでみようと思う。
それにしても素敵なブラジル人達だった。
僕もあんな風になりたいなと素直に思った。
(2023年8月22日)

ひまわり台風

台風が去った後、庭を見て回った。
僕が見るというのは触るということだ。
あちこちを触り回った。
朝顔の鉢植えはいつもの場所にはなかった。
玄関の2つも裏庭の1つもそうだった。
僕はその辺りを歩幅を小さくしてゆっくり歩いた。
間もなく足が鉢に当たった。
風で飛ばされてひっくり返っていたのだ。
僕はその鉢をそっと抱えて元の場所に戻した。
それから葉っぱや茎、弦などを恐る恐る触った。
幸いひっくり返っただけで大きなダメージはなさそうだった。
ちょっとだけ安堵した。
それからあちこちのひまわりを見て回った。
愕然とした。
何本ものひまわりが倒れかかっていたし、実際倒れてしまっているのもあった。
そして、数本のひまわりは途中から折れてしまっていた。
自転車のハンドルの太さくらいはある丈夫な茎がぽっきりと折れてしまっていた。
僕はしばらく立ちすくんだ。
それから麻ひもとハサミと支柱を準備した。
倒れかかっているものは新しく支柱を立てたり麻ヒモで近くの鉄柱に結んだりした。
折れてしまっているものはどうしようもなかった。
ごめんねと呟くしかなかった。
悔しかったし悲しかった。
僕はまだ咲いてくれている花の部分を切り取って花瓶にさした。
そしてそれを玄関の脇に飾った。
誰かがくるわけではない。
庭に集う虫や鳥達が見てくれると思ったのだ。
それにしても凄まじい風だったんだなと改めて思った。
確かにうなり声をあげていたことも思い出した。
あちこちの被害が大きくありませんようにと心から願った。
そして、ありがとうとひまわりに伝えた。
僕にとってはひまわり台風として記憶に残るのだろう。
(2023年8月17日)

日傘

同行援護の研修がスタートした。
同行援護というのは視覚障害者の移動や代筆代読などを保障する制度だ。
その研修の講師をされる人たちの研修で、今回は主に西日本から参加されている。
8月12日から15日、まさにお盆期間を利用しての研修となった。
初日、会場の京都の最高気温は38度との予想だった。
僕が暮らしている滋賀県大津市も同じ38度、知っただけで眩暈がした。
それでも主催者側なので頑張らなくちゃいけない。
僕は昔から帽子は苦手だった。
幾度かかぶった経験はあるが髪の毛がぺちゃんこになるのが嫌なのだ。
最近、お日様の下を少し歩いただけで危険を感じるようになった。
そんな暑さなのだ。
僕の年齢による体力低下もあるのかもしれない。
とにかく対策をと思って日傘のデビューとなった。
日焼けは気にしないのでUVカットはそんなに拘らなかった。
それでもほとんどカットするらしい。
何より遮熱という性能に魅かれた。
これが凄いのだ。
まさに日陰を歩いている感じなのだ。
見える人は信号待ちのちょっとした時など、よく日陰を探して行動される。
見えない僕は日陰を探すことはできない。
見える人が日陰を探せることをうらやましく感じていた。
日傘があるということは日陰を連れて歩くということなのだ。
もっと早く使えば良かったと後悔した。
右手に白杖を使い、左手でグリーンの日傘をさして歩いています。
絵面的にも気に入っています。
でも、台風が近づいているとのこと、一応晴雨兼用だけど風には弱そうな感じ。
ちょっとだけ不安かな。
(2023年8月13日)

琵琶湖大花火大会

8日は琵琶湖大花火大会があるとのことだった。
コロナで4年ぶりの開催らしかった。
昨年引っ越してきた僕には初めての花火大会ということになる。
とんでもなく混雑するらしく外出は控えた方がいいとアドバイスを受けていた。
駅の案内放送もだいぶ前から同じような内容を伝えていた。
僕は自宅から鑑賞することにした。
1時間あまりの開催時間、1万発の花火が夏の夜空を彩る。
想像しただけでワクワクした。
7時半を少し過ぎた頃から聞こえ始めた。
やはり結構な距離があるのだろう。
近くの音ではなかった。
それでも大きな音、小さな音、変化する音、聞こえた。
僕はその音に聞き入った。
子供の頃に連れて行ってもらった故郷の港の花火大会を思い出した。
数発の花火があがり静けさが訪れた。
もう終わりかと思った頃にまた次の花火が上がった。
そんな感じを繰り返したのを憶えている。
その頃の地方の花火大会はそれで精一杯だったのだろう。
音が鳴りやまないなんてなかった。
それでも夜空に咲いた大輪の美しさを憶えている。
息を飲んで見入った感じだった。
そしてその思い出には父ちゃんと母ちゃんと妹と僕がいる。
切り取った写真のように残っている。
間違いなく小さな幸せがそこにあった。
あっという間に時が流れたような気になる。
子供の頃にゆっくり流れていた時間は少しずつ速くなっていった。
人生の夏ももうとっくに過ぎたのだろう。
咲いた瞬間に消え始める花火のはかなさをより美しいと感じるようになった。
そんなことを思いながらいろいろな花火を思い出した。
いつか琵琶湖の近くまで行って鑑賞してみたいと思った。
(2023年8月9日)

ひまわり咲いた

小指の爪くらいの大きさだった種を20粒ほど一晩コップの水に浸しておいた。
それを翌日にあちこちに蒔いた。
玄関の階段を上った郵便受けの横、階段の反対側、家の裏の小さなスペースなどだ。
塀の周囲にも蒔いたし遊び心で家庭菜園の端っこにも2粒だけ蒔いておいた。
一週間くらいで発芽してくれただろうか、毎日のように指先で確かめた。
小さな葉っぱ、細い茎、大きくなれよと話しかけながら幾度もそっと触った。
それが僕にとっての見るということだ。
ジョーロでの水やりは数日おきにやったし、時々肥料も与えた。
少しずつ大きくなっていった。
梅雨の頃にはまさにどんどん大きくなっていった。
僕の膝丈、腰、胸、身長、育ってくれた。
やがて手を伸ばして確認するようになり、たちたちしても届かなくなった。
不思議なもので、僕は届かなくなった先端の方をいつも眺めた。
どうやら最近咲いてくれたらしい。
ひまわりにはいろいろな思い出が重なる。
どれもが幸せな思い出だ。
思い出がひまわりを好きにさせたのかもしれない。
あとどれくらい夏を迎えられるか分からないが、毎年咲かせたいと思っている。
遊び心の家庭菜園のひまわりが一番大きくなったらしい。
ミニトマトやキュウリやナス、そして緑のカーテンのようなゴーヤ。
そこに大きなひまわりが笑っている。
夏がよく似合う。
(2023年8月4日)

うなぎ

東京の友人がうなぎを食べに連れていってくれた。
高田馬場にあるうなぎの専門店だ。
ちなみに僕は大のうなぎ好きだ。
あのタレの香りをかぎながらうなぎを食べると間違いなく幸せを感じてしまう。
視覚はないのだから味覚と嗅覚だけで食べる。
最高級の幸福を感じられるのだから、僕にとったら不思議な料理なのだろう。
彼と会うのは3年ぶりだった。
コロナ禍だったので、会うことそのものを自粛していた。
十数年前、仕事で彼の奥様と出会ったのがきっかけだったが、
いつの間にか彼と会うことが楽しみになった。
とにかく博識だ。
やさしさもさりげない。
話をしていても肩が凝らない。
いい距離感なのだろう。
心から喜べる再会をできるのはこれもまた幸せというものだろう。
うなぎが好物と言っても、そんなにショッチュウ食べられるわけではない。
土用にウナギ屋さんというのも初めての経験だった。
ふとウナギ屋さんの記憶を振り返って気づいた。
行ったことのあるウナギ屋さんをいくつもはっきりと憶えているのだ。
若い頃、高校時代の友人と初めて行ったうなぎ専門店が京都駅前の江戸川だった。
四条河原町のかねよは専門学校の教え子が連れていってくれた。
嵐山の廣川は見えていた頃の同僚達と行った。
岩倉木野にある松乃鰻寮はミニコミ誌の編集者が連れて行ってくださった。
東京の神楽坂のたつみやでは出版社の人と打ち合わせをした。
ジョン・レノン御用達の店と知って驚いたのを憶えている。
故郷の鹿児島市では妹が、薩摩川内市では従妹が、それぞれ地域の名店に連れて行っ
てくれた。
この忘れん坊の僕がほぼ完ぺきに憶えているのだ。
滋賀県に引っ越してきて、早速えんというウナギ屋さんを見つけた。
よっぽど好きなのだろうと自分自身でも驚く。
ちなみに高田馬場のウナギ屋さんは愛河、きっとまた記憶に残るのだろう。
幸せな香りのする記憶だ。
(2023年7月31日)

セミ

日中は暑いので庭仕事は早朝にすることにした。
最近は4時には目が覚めてしまうので丁度いい。
起きてすぐにでも始めたい気はあるし始められる。
光を確認できない僕にとっては夜も昼もあまり関係はない。
でも暗闇でごそごそしていたら近所の人に怪しまれるかもしれない。
だからコーヒーを飲みながら日の出を待つことにした。
天気予報では今朝の日の出は5時だった。
僕は5時前には長袖の作業服に着替えて蚊取り線香を持って待機した。
5時のニュースを聞いてそれから庭に出た。
空気は少しひんやりとしていた。
予定の場所に発泡スチロールの板を置いて腰掛けた。
それからバケツを左に置いて草抜きを始めた。
小さなスコップで根から抜くようにしている。
それでも後から後から生えてくる。
その強さ、たくましさ、少しでいいから僕にも分けて欲しいと思う。
夢中になって草を抜く。
セミが鳴き始める。
突然の合唱のスタートだ。
指揮者がどこにいるのか知らないがとにかく見事だ。
セミも生き物だから病気やけがで目が見えなくなることもあるだろう。
ふとそんなことを考える。
白杖を持って飛ぶわけにもいかない。
考えを巡らしながらも手は止まらない。
見えなくなったセミも頑張れよ。
手を休めてセミの声のする方を眺める。
僕もセミも夏の中で生きている。
(2023年7月27日)

祇園祭

後祭りの宵山は想像したよりも少ない人手だった。
時間が早かったからかもしれない。
僕はガイドの学生とゆっくりと歩いた。
京都で45年くらい生活したが祇園祭に出かけたのは10回くらいだと思う。
そのうちの数回は見えている頃だった。
だから山鉾や提灯の風景などがうっすらと記憶にある。
笛と太鼓、それに鐘の織りなす音色はまさに夏の風物詩だ。
コンチキチン、コンチキチン。
何百年も受け継がれてきた音だ。
狭い路地を老若男女、多国籍の人達が行き交う。
それぞれが譲り合いながらすれ違う。
白杖の僕に気づいて立ち止まってくださる人も多い。
そこに存在するのは平和な世界だ。
祭りを楽しむ人達に国境はない。
この同じ地球で今も戦争が続いている。
胸が締め付けられる。
コンチキチン、コンチキチン。
天まで届け。
(2023年7月23日)