夢を追う

未熟児網膜症の彼は小学校4年生の時に最初の挫折を味わった。
画数の多い漢字が黒い塊に見えて読むことが難しくなったらしい。
中学校で英語と出会ってから英語に興味を持つようになった。
英語が好きになっていったのだ。
自分の目で読める大切な文字だったのかもしれない。
大学も外国語大学の英語科に進学した。
そして英語検定にも挑戦した。
準1級までは合格できたが1級は無理だった。
合格率1割のあまりにも高過ぎる壁だったのだ。
英検1級は夢となった。
卒業してもなかなか就職はできなかった。
彼の目は白内障にも緑内障にもブドウ膜炎にも罹患してしまった。
その目で人生を刻んだ。
50歳になって彼は再度英語検定1級に挑戦を始めた。
若かった頃挑んだ夢への再挑戦だ。
弱視のために拡大文字、1.5倍の試験時間が保障されたが試験問題は皆と同じだった。
幾度も受験し跳ね返された。
それでも彼はあきらめなかった。
9年目の挑戦、神様が微笑んだ。
彼は照れくさそうに報告してくれた。
恥ずかしいとも表現した。
ひたむきに夢を追い続けてきた彼を僕は心からかっこいいと感じた。
いつまでも夢を追うことの大切さを教えてもらったような気になった。
僕はお祝いのランチをすることにした。
(2024年8月2日)

故障

いつもの駅、いつものように電車を降りた。
見えないのだから階段が右にあるか左にあるかは分からない。
階段を探すために耳を澄ませた。
階段のところで鳴っている小鳥の鳴き声の放送を探すのだ。
何も聞こえない。
遠い場所で降りてしまったのか、風が邪魔をしているのかは分からない。
とりあえず、右の方向に向かって歩き始めた。
この右というのは勘の世界だ。
そして結構当たる。
ところがいくら歩いても小鳥の鳴き声はなかった。
反対方向に歩いてしまったと思ってUターンした。
しばらく歩いたがまた小鳥の鳴き声は聞こえてこない。
最初の歩きが短かったのかと思って再度Uターンして長めに歩いてみた。
やっぱり聞こえてこない。
いつもと違う駅で降りてしまったのだろうか?
耳がおかしくなったのだろうか?
不安はどんどん大きくなっていった。
僕は微かに感じた人の気配に向かって声を出した。
「階段を教えてください。」
何も反応はなかった。
イヤホンをしておられる人だったかもしれないし、外国人だったかもしれない。
僕達を苦手と感じる人だったかもしれない。
とにかく万事休す。
心を落ち着けるためにしばらく立ち止まった。
いや再度歩き始める気持ちが萎んでしまっていた。
恐怖心が僕の足を止めたのかもしれない。
間違えばホームから転落するのだ。
足を前に出す勇気を取り戻すのに少し時間がかかった。
しばらくしてから、再度小鳥の鳴き声を求めて歩き始めた。
やっぱり聞こえない。
もう一度Uターンして歩き始めた時だった。
女性が声をかけてくださった。
何と声をかけてくださったのかは憶えていない。
それくらい恐怖の中にいたのだろう。
僕は階段まで連れて行って欲しいとお願いした。
彼女の肘を持たせてもらってUターン、数メートル歩いた場所に階段はあった。
愕然とした。
小鳥の声の放送が流れていなかったことを知った。
機械が故障していたのかもしれない。
僕は幾度か階段の真横を歩いていたのだ。
改札口の駅員さんに小鳥の鳴き声が故障しているかもしれないと伝えた。
駅員さんはすぐに点検するとおっしゃってくださった。
それからバス停に向かった。
いつものようにいつくるか分からないバスを待っていた。
だいぶしてからバスのエンジン音がした。
僕は白杖を握りしめた。
僕に気づいた運転手さんが違うバスであることをマイクで案内してくださった。
僕は深く頭を下げた。
乗れなくてもうれしかった。
人間が生きていく情報の8割は目からの情報だと聞いたことがある。
その目を使えない僕は残りの感覚で生きている。
残りの感覚でよく使うのは聴覚と触覚だ。
小鳥の鳴き声を目指して、点字ブロックを白杖で触りながら歩いている。
まさにそうなのだ。
その状態で一人で歩くのだから難しいのは当たり前だと自分を慰めた。
機械は故障することがあると当たり前のことを学んだ日となった。
(2024年7月28日)

猫を5匹飼っている見知らぬ人

電車を降りて改札口へ向かおうとした時だった。
僕の名前を呼ぶ女性の声がした。
「猫を5匹飼っている・・・」
彼女はそう自己紹介をしながら僕に肘を貸してくださった。
そうおっしゃると言うことは以前もそう自己紹介をされたのだろう。
ただ、僕の記憶にはなかった。
情けないのだが、僕の記憶力の低さは自分でも嫌になる。
画像がないせいだと言い訳をしたいのだが、それはメインの理由ではないと思う。
視覚障害の仲間でも記憶力のいい人はたくさんおられるからだ。
単に僕の記憶力の低さなのだと思う。
改札口に着いた。
僕はサポートへの感謝を伝えてバス停に向かおうとした。
「主人が車で迎えにきているので一緒に乗って帰りましょう。途中ですから。」
僕は一瞬迷ったけれど、有難いという思いが勝ってしまった。
1時間に2本のバス、どれくらい待つかはいつも分からない。
バス待ちの時間は疲労と暑さがいつも僕をからかう。
僕は喜んで彼女の申し出を受けることにした。
そして点字ブロックの近くで待機した。
待ちながら冷静さが現実を見つめさせた。
まさに通りかかりの人だ。
顔見知りではない。
見知ることはいつもできない。
なんて素敵な出来事なのだろう。
幸福感がじわじわと広がっていった。
やがて車が前に到着した。
事情は伝わっていたらしい。
ご主人はこれまた顔見知りみたいに対応してくださった。
ナビに僕の住所をセットすると車は動き出した。
スイスイとらくちんで帰宅した。
車を降りて僕は再度感謝を伝えた。
お二人のさりげなさは最後までそのままだった。
素敵だなとしみじみと思った。
車を見送ろうとしてふと気づいた。
「猫を5匹飼っている」その後の苗字を憶えていないのだ。
苦笑してしまった。
僕は見知ることのできないお二人の車の後ろ姿に心からありがとうを伝えた。
(2024年7月24日)

盲ろう者向け通訳・介助員養成講座

水曜日は城陽市で開催された京都府盲ろう者向け通訳・介助員養成講座に出かけた。
木曜日は京都市で開催された盲ろう者向け通訳・介助員養成講座だった。
社会には数は少ないけれど、目と耳の重複障害の方がおられる。
全盲ろう、全盲難聴、弱視ろう、弱視難聴の方々だ。
総称して盲ろうと呼ぶことが多い。
どの程度の見え方なのか、聞こえ方なのか、どちらが最初に障害となったのかいろい
ろだ。
それによって、お互いの手話を触る触手話、手の指を点字の6個の点としてサインを
送る指点字、あるいは掌に文字を書く、耳元で大きな声でゆっくり話すなどコミュニ
ケーション手段はいろいろだ。
僕はこの講座では視覚障害を伝える科目を担当している。
講座の目的などを考えるとつい真剣になってしまう。
僕の講義が少しでも受講生の学びにつながればうれしい。
ささやかかもしれないけれど、僕自身が盲ろうの人の力になれるということになるの
だ。
まさにやりがいのある仕事のひとつとなっている。
だいたいがマイナーな世界なので受講される人は少ない。
それでも毎年集ってくださる。
僕はいつも不思議な空気を感じながら講義をしている。
人間の愛が生み出す空気だ。
誰かの力になりたいという純粋な思いだけがエネルギーとなる。
僕はいつも最後に感謝を伝える。
受講してくださったことへの感謝を伝える。
見えない聞こえない世界、僕には想像もできない。
想像したくないのかもしれない。
でもそこに、寄り添ってくれる人を感じたら、それはなんとなく分かるような気がす
る。
(2024年7月20日)

休日

三連休は僕もお休みだった。
天候はもうひとつだったが有意義な三日間だった。
土曜日は畑仕事をした。
キュウリがお化けみたいに大きくなっていたのに驚いた。
草を抜いたり、ミニトマトなどに肥料を与えたりした。
雨がきつくなった時間はDVDで映画鑑賞をした。
副音声付の映画なので僕も利用できるのだ。
音響や臨場感などは映画館みたいな訳にはいかないが一応楽しめる。
日曜日と月曜日は視覚障害の仲間とランチに出かけた。
ワイワイ言いながらの豊かな時間だ。
仲間とのコミュニケーション、そこにはいつも命の煌めきを感じる。
それぞれの人生の大切さを実感するし、どう生きていくのかを教えてもらっている。
社会に関わることの意味を考える。
月曜日の帰り道、久しぶりに祇園祭宵山の四条通を歩いた。
遠回りだったがガイドさんにお願いしたのだ。
人波を歩きながらコンチキチンの音色が聞こえてきた。
懐かしさと一緒に画像が蘇った。
セピア色なのに驚いた。
それくらいの時が流れたということなのだろう。
もう見ることはないとちゃんと理解できている。
無茶も言わない。
でもただ素直に、もう一回見たいなと思ってしまう。
穏やかな気持ちで思ってしまう。
いい休日だった。
(2024年7月16日)

いつかどこかで

木曜日はだいたい午前も午後も用事があった。
ところが7月に入っての2回の木曜日、午後の大学の講義だけが用事だった。
15時15分からの90分の講義のために片道90分かけての出勤となったのだ。
ふと我儘に気づいた。
午前も午後も用事があれば忙しいと思っていたくせに、いざ午後だけの用事となると
出かけるのに何かしらのパワーが要るのだ。
よいしょ、どっこらしょっと言う感じなのだ。
しかも身体も重い。
ひょっとしたら身体は午前中でお休みモードになっているのかもしれない。
それでも休む訳にはいかないので出かけた。
自宅近くのバス停から比叡山坂本駅までのバスは座れた。
比叡山坂本駅から山科駅まで、山科駅から烏丸御池駅まで、烏丸御池駅から竹田駅ま
で、約1時間やっぱりずっと立ったままだった。
慣れている日常なのだがしんどいなと思ってしまった。
竹田駅からのバスは始発で座れる確率は高いのだがダメだった。
僕の前に待っておられた高齢者の集団の後に乗車したのでどうしようもなかった。
いや、待っていたのは僕の方が先かもしれなかったのだが、勢いに負けてしまったの
だ。
僕は仕方なく吊革を持って立っていた。
僕が降りるひとつ手前のバス停で乗車してこられた方が声をかけてくださった。
「前の席、空いてますけど座りませんか?」
僕は次のバス停で降りるのでと断りながらも感謝は伝えた。
そしてありがとうカードを渡した。
彼女はありがとうカードの僕の名前に気づいた。
「松永先生ですか?もうだいぶ前ですけどYMCAの専門学校でお世話になった者です。
お久しぶりでしかも横顔だったので先生と気づきませんでした。すみません。」
それからすぐにバスは僕の降りるバス停に停車した。
「僕を憶えていなくても、声をかけることを憶えていてくれてとてもうれしかったで
す。ありがとうございました。」
僕はそれだけを伝えてバスを降りた。
結局ずっと座れないでの出勤だったのだが心はとても爽やかだった。
疲労感も消えていた。
教室に入ってすぐに、僕は学生達にその話をした。
「君達ともいつかどこかで、そんな風に再会できたらいいね。」
(2024年7月12日)

人間の社会

見える人、見えない人、見えにくい人、皆が笑顔で参加できる社会、それが目標だ。
そこに向かって歩き続けること、それが僕のライフワークだ。
小学校、中学校、高校、大人の団体、いろいろ声をかけてくださる。
障害を正しく理解してもらう機会、僕は感謝して喜んで出かける。
可能な限りどこにでも出かける。
今回の小学校、10数年ぶりだった。
その当時の先生方はもういらっしゃらなかった。
どうして僕に声をかけてくださったのか尋ねたら、一人の先生の提案だったらしい。
数年前、別の小学校で勤務されておられた時に話を聞いてくださった先生だった。
僕のことを憶えていてくださって、僕の話を子供達に聞かせたいと思ってくださった
のだ。
僕はうれしくて握手を求めた。
感謝をお伝えした。
中間休みを挟んでの2時限の講演時間、あっという間に流れていった。
子供達は僕の話を真剣に聞いてくれた。
僕が投げかけたいろいろな質問に一生懸命答えてくれた。
120の未来が僕の前で微笑んだ。
講演を終えて玄関を出ようとした時だった。
少女が近づいてきた。
「松永さん、握手してください。」
その声は子供の声ではなく一人の人間の声だった。
僕は少女と握手をした。
お互いの手をギュッと握った。
少女の手がありがとうございますと囁いていた。
頑張ってくださいねとエールを送っていた。
僕は口に出した。
「ありがとう。」
僕と少女は顔を見合わせて微笑んだ。
「10歳という年齢は大人に向かって成長が始まる時だと思います。」
朝の挨拶の時に懇談してくださった校長先生の言葉がそのまま現実となっていた。
豊かな時間だった。
少しずつかもしれない。
ささやかかもしれない。
でもきっと目標に近づいている。
確かに近づいている。
帰りの電車はいつものように座れなかった。
残念だけどやっぱり立ったままだった。
地元の駅に着いて改札口を通り抜けてバスターミナルに向かおうとした時だった。
バスのエンジン音が聞こえた。
白杖の僕では間に合わない。
付いてないなとあきらめかけた時だった。
「待っていますからゆっくりきてください。」
マイクでの放送が聞こえた。
僕を見つけたバスの運転手さんの声だった。
僕はペコリと頭を下げてバスに向かった。
周囲に気をつけながらゆっくりと一歩ずつバスに向かった。
「君達の住む人間の社会にはやさしい人がいっぱいいるんだよ。」
今朝子供達に伝えた言葉を思い出した。
人間の社会、素敵です。
(2024年7月7日)

81歳

最寄りのJRの駅までバスを利用している。
平日の朝のバスはそれなりに込んでいる。
学生やサラリーマンの人達が動く時間だ。
しかも皆急いでいる。
だから僕は最後に降りるようにしている。
降りる際に前後の乗客の足に白杖が絡まったりしないためだ。
今朝も座席に座ったまま他の乗客が降りていく足音を聞いていた。
「皆降りていかれましたよ。」
隣の男性が声をかけてくださった。
僕はお礼を言ってバスを降りた。
「段さ、危ないですよ。」
彼は僕の後ろから降車を見てくださっているようだった。
その流れで僕は彼の肘を借りることにした。
込んでいる駅のホームはいつも怖い。
肘を持たせてもらうだけで恐怖感はほとんどなくなる。
有難いことだ。
電車を待つ間の立ち話で彼が81歳だと分かった。
「声も動きもお元気ですね。」
僕は感謝と一緒に伝えた。
「それがね、片目は緑内障でもう見えない。他にも身体はあちこちいろいろあってね
。」
詳しくはおっしゃらなかったけれど、療養中なのは理解できた。
「でもね、貴方の目と比べれば・・・。」
そこから後は言葉を濁された。
身体のどこであっても、病気とか怪我とか大変だ。
そこにそんなに違いはないと思っている。
でも僕はそれを言葉にするのは控えた。
言葉にしてもあまり意味がないと思ったからだ。
僕達は一緒に電車に乗った。
彼は僕を空いている座席に誘導してくださった。
山科駅で別れた。
「本当に助かりました。ありがとうございました。」
僕はしっかりと頭を下げてお礼を言った。
ありがとうカードも受け取ってもらった。
これから先の僕の人生、どんなるのかは分からない。
一日でも長く元気でいたいと思う。
でも、それは誰にも分からない。
彼の行動を振り返りながら、どんな風に生きていくのかどんな風に老いていくのか、
それは自分次第なのだと思った。
僕も、困っている人がいたら、寄り添える人でありたい。
(2024年7月3日)

意地悪ばあさん

竹田駅のバスターミナルでバスを待っていた。
突然横から声がした。
「間違ってたらごめんやけど。あんた洛西に住んでた人やなぁ。」
彼女は懐かしい友達に再会したような感じで話をされた。
僕が2年前まで住んでいた京都市西京区洛西ニュータウンの人だった。
年齢はおいくつくらいだろうか、
僕よりはだいぶ年上かもしれない。
見かけなくなったから心配していたとおっしゃった。
僕は2年前に滋賀県に引っ越したことを説明した。
それでも京都市内での仕事などは続けているから今日も竹田まできたことを話した。
「あんたは凄いなぁ。目が見えへんのにそうやって一人で出かけるんやからなぁ。
こんなところまで一人でくるんやから凄いわ。私と同じや。」
僕は笑いながら相槌を打った。
「洛西でもようあんたを見かけたで。」
彼女はどこで見かけたかをいくつも話してくださった。
「ケガせんようにといつも思ってた。元気で会えてほんまにうれしいわ。」
彼女は思うがままに話をされた。
洛西で会った時もそうだったのを思い出した。
ストレートな言葉には遠慮もなかった。
飾らない言葉が並んだ。
ひとつひとつがぬくもりのある言葉だと感じた。
「私だけちゃうで。みんなあんたを見てはったと思うで。」
僕は長年暮らした洛西を久しぶりに思い出した。
若い頃から暮らしてた。
暮らし始めた頃はちゃんと見えてた。
最後に観た景色もきっとそこなのだろう。
たくさんの人に見守られながら生きてきたのだ。
40年くらい暮らしたのだから、第二の故郷だったのは間違いない。
「この世じゃもう最後かもしれん。元気でな。ケガしたらあかんで。」
彼女はそう言って去っていかれた。
僕はふと昔テレビで見た意地悪ばあさんを思い出した。
言動には厳しさがあったがやさしい心の持ち主として記憶している。
「あの世でもまた会いましょうよ。」
僕はまた笑いながら彼女の背中に返した。
あの世では見えるかもしれない。
その時は彼女の顔を見てみたいと思った。
(2024年6月28日)

小舟

電車を降りた場所がたまたまエスカレーターの近くだった。
どうすべきか考える間もなく人波に飲み込まれた。
その人波の中で女性とやりとりがあった。
どういうやりとりをしたか憶えていない。
とにかく僕は彼女の肘を持たせてもらった。
それから彼女の後ろに付いてエスカレーターに乗った。
御礼を伝える僕に彼女が言った。
「私も視覚障害者です。」
その声にも語り口にもやさしさが感じられた。
彼女は弱視の状態なのだろう。
彼女の目がどれくらい見えているのか、どの部分が見えているのか、それは分からな
い。
彼女の目の状態が固定しているのか、僕のような進行性の病気なのかも分からない。
ひょっとしたらケガや脳腫瘍などかもしれない。
間違いないのは全盲の僕よりは見えているということだ。
そして、一般の人よりも見えていないということも事実だ。
人波の中で僕に気づきサポートの声をかけてくれたのはその彼女だった。
それ以外に僕達は会話はしなかった。
改札口まで彼女はサポートしてくれた。
僕達は流れの速い大きな川を下る小舟のようだった。
不思議と安心した。
何か特別な喜びを感じたのは何故だろう。
あれこれ考えようとしたが答えは出そうになかった。
僕は考えることを辞めた。
答えがないこともあっていいと思った。
でも間違いなく本物の幸せだった。
(2024年6月23日)