木曜日

木曜日、午前中の専門学校での講義が終わると一旦休憩モードになる。
昼食を済ませて午後の大学へ移動する。
電車を乗り換えての移動は大変ではあるけれど、
ラッシュアワーは過ぎているのでマイペースで行ける。
それでも1時間くらいのゆとりがある。
その1時間を大学のキャンパスにあるカフェでぼんやりと過ごすことが多い。
この季節は冷暖房がオフで入口のドアが開放してある。
店内を柔らかな風が吹き抜ける。
のどかな音楽が控えめに流れている。
新年度を迎えた学生達はまだ真面目に講義に出ているのだろう。
店内はまばらだ。
僕はうとうとしながら睡魔と闘ったり仲良くなったりする。
コーヒー一杯で過ごす時間の豊かさに笑顔がこぼれる。
こういうのを贅沢って言うのだろう。
意味がないことに意味があることに気づく。
今年度もまた新しい学生達との出会いがある。
いつも何かを教えてもらったり感じさせてもらったりしている僕がいる。
こういう仕事をさせてもらえることに感謝したい。
(2018年4月20日)

会長

僕の地元の西京視覚障害者協会の総会が開催された。
会員とボランティアさん、50名を超す人が集まった。
新しい会長が選出された。
40歳代の全盲の男性だ。
満場一致の拍手が彼のスタートを激励した。
そしてこの7年間会長として頑張ってくださった前会長にも深く感謝が伝えられた。
僕も40歳代の頃地域の会長を経験したことがある。
活動の意味の理解もその方法も僕自身が未熟で大変だった。
忙しく感じた。
でも先輩達が真摯に社会に関わろうとされる姿を見て、
僕にもできることを精一杯やろうと思った。
あれから20年近くの時間が流れた。
地域の会長を退いてから京都府の理事となり様々な委員会や審議会にも関わった。
とうとう国の同行援護の委員会などにも関わるようになった。
我ながらよく頑張ってこれたなと思う。
自分のためだけだったらここまでできなかっただろう。
活動が仲間や後輩の力となっていくという確信があるからやってこれたのだ。
あの頃は忙しくなったと思っていたのはスタートに過ぎなかった。
いつの間にか忙しいと感じなくなってしまった。
忙しいと感じる時間がなくなってしまったのかもしれない。
裏返せば元気でやってこれたということだろう。
まだもう少しはやれそうだ。
今年度も僕は僕の立場で頑張ろう。
(2018年4月15日)

EMS

15年程前、3人の日本の女性達は家族の仕事関係でそれぞれセブで暮らしていた。
そしてたまたま出会った。
彼女達はサントニーニョ教会の周辺で物売りをしている子供達のことを知った。
学校にも行かずに、いや行けずに物売りをしている子供達だった。
屈託のない笑顔の子供達は痩せこけていた。
彼女達は政治家でもないし宗教者でもない。
国が抱える貧困問題を解決するなんてできない。
大きなことはできない。
でも痩せこけた笑顔の子供達のために何かをしたいという思いを抑えることはできな
かった。
3人は6人の子供達に小学校に通う機会をプレゼントした。
それがささやかなスタートだった。
賛同する人達が少しずつ増えていった。
2008年にNPO法人として組織化された。
現地事務所が開設されフィリピン人のスタッフも雇用された。
会員は間もなく100人となり支援している子供の数は40人近くになった。
僕は日本と言う国で生まれて、平和の中で今こうして暮らしていることに心から感謝
している。
日本と言う国を愛している。
その暮らしの中で何かを否定する気はまったくない。
凡人としてありふれた幸せを求め続けている。
煩悩を抱えながら生きている。
これからもきっとそうだろう。
でも、少しだけ、地球人でありたいと思っている。
セブで出会った子供達は僕の手を握って自分の額にあてて祈ってくれた。
「bless you!」
貴方に神様のご加護がありますように。
僕は10周年イベントで子供達にメッセージを伝えた。
「将来どんな仕事をしたいか夢を持って頑張ってください。
教育は夢をかなえる力のひとつになります。
これからも支援を続けます。」
白杖を持つ手に少し力が入った。
自分自身への決意表明だったのかもしれない。
明日から新年度の仕事がスタートする。
また新しい気持ちで生きていこう。

EMS http://cebu-kodomotachi.jp

(2018年4月11日)

ジョンディーコン

僕が支援しているジョンディーコンが6年間の小学校生活を終えた。
関係者や現地スタッフに手伝ってもらって家庭訪問することにした。
彼の家は港の近くのスラム街のような場所にあった。
人間同士がやっとすれ違えるくらいの路地の両側に小さな家が建ち並んでいた。
竹や廃材を利用して作られた家はまさに小屋のようだった。
それが30度の気温の中に密集していた。
野放しの鶏があちこちで鳴いていた。
独特の異臭が立ち込めていた。
僕はボランティアさんの手引きでやっと歩いた。
急な坂の手すりもない自然石と廃材の階段のような場所を幾度かよじ登った。
危険な場所では住民達が幾度も僕の身体を支えてくれた。
6人の家族が暮らす家は2畳の広さで窓もなかった。
全員は寝れないので道端で寝たりするとのことだった。
台所もトイレもなかった。
勉強机もなかった。
ジョンディーコンと彼のお父さんとお母さんが僕達を迎えてくれた。
笑顔だった。
ご両親は心のこもった感謝の思いを僕に伝えてくださった。
部屋には成績優秀でジョンディーコンが表彰されたメダルが飾ってあった。
「将来何になりたいの?」
僕はおとなしそうなジョンディーコンに尋ねた。
「ドクター。」
彼ははっきりと答えた。
堂々と答えた。
僕はうれしくなった。
その可能性がどれだけあるのか見当もつかない。
でも彼の夢がかなうように同じ地球人の僕はできることをやりたいと思った。
順調にいっても大学を卒業するのにあと10年かかる。
僕の生きていく目標がひとつ増えた。
僕は感謝しながらジョンディーコンと握手した。
(2018年4月8日)

セブ

大学を卒業してからの17年間は児童福祉の仕事に関わっていた。
元々やりたかった大好きな仕事だった。
一生続けたいと思っていたしそうなるだろうと勝手に思っていた。
35歳頃から目に異変を感じ始めた。
少しずつ病気は進行していった。
39歳になった頃には文字もほとんど読めなくなり、
普通に歩くことにさえ不安を感じるようになってしまっていた。
間もなく退職を決意したが涙が止まらなかったことを憶えている。
悔しかった。
残念でならなかった。
見えなくなったら何もできなくなってしまうのではないかと不安に怯えた。
それでも何か僕にでもできることがあるのではないかという思いを消すことはできな
かった。
願いだったのかもしれない。
でも自分が生きていくことさえ大変な時が続いた。
見えない人間が仕事をして収入を得るということはまだまだそんなにたやすいことで
はない。
ある意味、失明そのものよりも苦難の日々だった。
そんな中でフィリピンのセブの子供達のことを知った。
貧困で教育を受けられない子供達がいるとのことだった。
1か月1000円あれば学校に行かすことができるとのことだった。
それくらいなら僕にもできるかもしれない。
僕はその活動に参加することにした。
あれからどれくらいの時間が流れたのだろう。
何人かの子供を小学校に行かすことができた。
見えなくなった僕にもできること、僕でも役に立てること、
ささやかだけど自分自身を認めてあげられるひとつになった。
その団体の法人化10周年の記念イベントがセブで開催されることになった。
僕はもう縁がないだろうと思っていたパスポートを再申請した。
子供達の支援を続けてこられたのは、
僕が僕であり続けられたというひとつの証なのかもしれない。
僕に関わってくださったすべての人に感謝しながらセブ行の直行便に搭乗した。
(2018年4月7日)

おにぎり

50歳直前に再会した小中学校時代の友人、
彼の名前ははっきり憶えていたが顔は思い出せなかった。
最後に会ってから30数年という時間が流れていたのだから仕方ない。
卒業アルバムも確認できない僕にはそれはどうすることもできなかった。
彼はそんなこととは無関係に僕と接してくれた。
僕の人生に思いを寄せてくれた。
自宅に招待してくれて少年時代を振り返った。
僕の活動に賛同してサポートしてくれるようになった。
彼のサポートで実現した講演は10会場を越え、聞いてくださった人は数千人となっ
た。
彼はそれをいつも自然体でさりげなくやってのけた。
僕の気持ちに負担をかけないようにとの配慮もあったのだろう。
幼馴染っていいなと感謝した。
ただ彼の奥様は僕とは直接の接点はない。
電話で話したりメールでのやりとりはあったが直接会ったのは数回だ。
勿論、彼女の顔を見たことは一度もない。
そんな会話になると「残念ね。」と悪戯っぽく笑う。
今回の鹿児島、二人が駅まで送ってくれた。
友人とトイレにいっている間に彼女は売店に走ったのだろう。
おにぎりとパンを僕に手渡した。
「新幹線の中でお腹が空いたらこれを食べるのよ。」
彼女が彼氏に言うように、いや、母が息子に言うように。
僕は握手をしながら笑った。
彼女も微笑んだ。
今回の講演で出た質問を思い出した。
「見えなくなって、幸せを感じるのはどんな時ですか?」
僕は事実をそのまま伝えた。
「見える人よりも、やさしい人に出会える機会は多いよね。」
僕は新幹線の中でニヤニヤしながらおにぎりを頬張った。
(2018年4月2日)

新年度

企業の新入社員の研修会にお招きを受けた。
3週間という研修の最後の日だった。
担当者から「人間力」というテーマを預かった。
とは言うものの、僕に特別なことができるわけでもない。
灰色の向こう側にいつものように話をした。
1人ひとりに心を込めて語りかけた。
「一分間だけ見えるとしたら何を見たいですか?」
講演の最後に1人の女性が質問をしてくれた。
質問の裏側には見せてあげたいというやさしさが隠れている。
そんな質問が出るということが僕にとっては成功だった。
見えなくなって間もない頃、講演先の小学校で出会った少女を思い出した。
12歳だった少女は同じ質問を僕に投げかけた。
あの少女はどんな人生を歩み、どこでどんな風に生きているのだろうか。
幸せに暮らしているだろうか。
どんな幸せを見つけただろうか。
不思議な気持ちになった。
失明してから20年あまりの歳月が流れた。
こうして元気にここまでこれたのは僕は間違いなく幸せということだ。
149個の門出、それぞれの人生がそれぞれの幸せにつながるように祈った。
僕もまた新しい年度を迎える。
幸せに向かって歩んでいこう。
(2018年3月31日)

2通のメール

同じ日に2通のメールが届いた。
24歳と92歳、どちらも女性というのはちょっとうれしい。
24歳の女性とは彼女が19歳の時に出会ってから5年ぶりに再会した。
当時の目標を彼女は達成できなかったらしく、
この5年の時間の中で苦しんだり悲しんだりしたらしい。
彼女の心の中では挫折の領域だったのだろう。
どう生きるのかということと向かい合う日々を過ごしたらしい。
5年ぶりに一緒に歩いた彼女は素敵な大人の女性になっていた。
悲しみや苦しみは少ない方がいい。
避けて通りたい。
でもそれは長い人生のどこかで意味を持ってくるのだろう。
きっと幸せにつながっていくのだろう。
92歳の女性は今まさに失明と向かい合っておられる方だ。
教え子の介護士から紹介された。
たまたま出会った僕の著書が少しは役に立ったらしい。
僕は感謝の手紙を介護士に託した。
僕は40歳で光を失った。
人間が人生の最後のステージでその事実と向かい合わなければならないとはどういう
ことなのだろう。
僕には想像さえつかない。
そこまでどう年を重ねてきたかということがカギになるのかもしれない。

2通のメールを以下に貼り付けておきます。
同じ日に届いたということが僕へのメッセージのひとつになりました。
生きるということは深い営みの中にあるのかもしれません。
これ以上の僕の言葉は薄っぺらくなるのが判っているので書きません。

昨日は、楽しくて豊かな時間をありがとうございました。
私の下手くそな誘導に、根気よく付き添っていただき、感謝しています。
紳士的でチャーミングなおじさまとデートができて1日中幸せでした。
一時期は京都に行くのが辛くて、意識的に避けていたこともあったのですが、
昨日 松永さんとゆっくりとお散歩をして、改めて「京都ってきれいな街だなぁ」と
思いました。
桜も、すれ違う着物の女の子たちも、鴨川も、整然とした道も何もかもきれいでした。
京都で学生生活を送ることができ、本当に良かったです。
そして、「松永さん!」と声をかけてくれる人たちや、電車やバスで席を譲ってくれ
る方々、出会う人たち皆んなが、とても優しい笑顔でした。
もしも、暇で暇でしょうがない日や、書類整理が面倒で泣きそうな日があれば、いつ
でも呼び出してくださいね。

ご丁重な お手紙をありがとうございました。
思いがけないことで感謝の思いでいっぱいです。
先生からじきじきのお便りを頂けるなんて夢のようです。
ここに至るまでの多くの方のご好意とつながりに感謝です。
私のために先生の御本を買ってくださった方、カセットテープに録音してくださった
方、そして私の感動を先生にメールしてくださった介護士さん。
私は、こんなやさしさと、いたわりに囲まれている幸せな92才のおばあさんです。
今失明を間近に感じながら日々を過ごしていますが、大丈夫です。
まだ少し残されている光を感謝しつつ歩みたいと願っています。
先生の御本にお出会いできたおかげでこんなに大きな恵みを頂いて感謝いっぱいです。
ありがとうございました。
先生の御健康と御活躍をお祈りしつつ一言御礼申し上げたくつたないペンをとりまし
た。

(2018年3月30日)

お花見

バス停で一緒になった彼女は僕の乗るバスを尋ねた。
僕の乗る予定のバスは彼女が乗る予定のバスと同じだった。
バスが到着して僕は乗り込んだ。
僕の後ろから乗車した彼女はすぐに僕の腕を持って優先座席に案内した。
ただ足元はおぼつかなかった。
「おやすいごよう。」
そうつぶやきながら彼女は僕の隣に座った。
咲き始めた桜の話が皮切りだった。
もうすぐ90歳とのことだった。
仲良しだった友人は皆老人ホームに入所してしまったらしい。
それが原因で外出の機会はとても少なくなったようだ。
通院と買い物だけが外出の機会らしく、今日は買い物とのことだった。
数年前まで出かけたお花見の話題もあった。
ただ、どの話題にも家族は登場しなかった。
お一人暮らしなのが伺えた。
淡々と切なく流れる時間の中に彼女の暮らしがあった。
「網膜症って知ってるか?」
突然彼女は今朝のニュースの話題になった。
iPS細胞のニュースだったらしい。
「もうちょっと頑張りや。見れるかもしれんからな。」
どこの誰かも知らない彼女が心のこもった言葉を僕にくださった。
「頑張ります。」
僕は笑って答えた。
いつかそんな日があったら、
桜の花弁を1枚手のひらに乗せて、そっと見てみたい。
小さな小さなお花見だ。
それから青い空を見上げて彼女にありがとうって言おう。
誰にも気づかれないように、そっと。
(2018年3月29日)

過去のブログ、オープンのお知らせ

松永信也です。
ブログを読んでくださってありがとうございます。
書きためたものを整理して、
いつか形にできればという思いがありました。
そのため、一定期間過ぎたブログはロックをかけていたので
読んでいただけない状態でした。
いろいろとご要望もありましたし、
また形にこだわることもないと思うようにもなりました。
そこで、過去のブログもすべてオープンとすることにしました。
また気が向かれたら、時間が許せば、いろいろとお楽しみいただければ光栄です。
まだまだ、日々の発信も続けますので、
引き続き宜しくお願い致します。
(2018年3月28日)

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