京都YMCA国際福祉専門学校の卒業式に出席した。
学生達は日本人以外にベトナム、ネパール、フィリピン、ミャンマー、スリランカと
多国籍だ。
ほとんどの学生が20歳代、青春時代を日本という国で過ごしている。
学生達は卒業後は日本の介護施設で働く。
アルバイトに追われながらの学校生活、2年間は大変だ。
卒業まで辿り着いた学生達に僕は心から拍手を送る。
心からお祝いをしたいと思うから僕もスーツ姿だ。
ネクタイにはピンクの桜がデザインされている。
ちなみにこのネクタイはこの学校の卒業生がプレゼントしてくれたものだ。
卒業式には毎年このネクタイをして出席している。
学生達は民族衣装を着て華やからしい。
それぞれの笑顔が輝いているのが伝わってくる。
僕は学生達の声を聞いても名前は判らない。
そもそも名前が長過ぎて憶えられない。
それでも、すべての学生と一緒に歩いたのは事実だ。
視覚障害者のサポートの実習を授業で実施したからだ。
門出を祝う讃美歌が式典の終わりを告げる。
記念写真に白杖を持った僕も参加する。
学生達が幸せな人生でありますように。
心から願って笑顔になる。
(2026年3月15日)
卒業式
3.11
15年前のその日、その時間、僕は京都ライトハウスの喫茶室にいた。
午前中の会議を終えて、のんびりしていたのだと思う。
コーヒーを飲みながらラジオを聴いていた。
最初はピンとこなかった。
普通の人間の想像力を超えてしまうことが起きてしまっていたのだ。
時間と共に現実を確認していった。
見てはいないはずなのに、まるで見たかのような画像が残っている。
繰り返される報道が画像を作っていったのだろう。
街を飲み込む大きな津波の映像、避難所に集まる人々の映像、壊れてしまった原発に
放水するヘリコプターの映像、残っている。
一瞬にして多くの人の命が消え、多くの人の人生が変わってしまった。
見えない自分自身が復興の役に立てないことを辛く感じたりした。
知り合いの視覚障害者の人に食料などを送ったりした。
わずかだったけれど、義援金も届けた。
そんなことさえ、今ではもう思い出だ。
15年目の今日、とにかく祈ろう。
天災、人災から学ぶこと、忘れてはいけない。
全盲の視覚障害者の人からあの震災の中で助かった話を聞いたことがある。
近くにいた人が手をつないで逃げてくださったらしい。
どんな状況でも、人間が生きている場所に人間のやさしさは存在するのだ。
そういう事実も忘れてはいけないと思う。
(2026年3月11日)
啓蟄(けいちつ)
2月、3月はお休みが多い。
学校関係も年度末、卒業、春休みなどの季節だからだろう。
お休みでも早く目覚める。
いくらでも眠れた日々、もう遥か遠くに去ってしまった。
いつものルーティンで動く。
コーヒーを飲みながらラジオのニュースに耳を傾ける。
毎回流れる戦争のニュース、ただただ悲しくなる。
無力さが自分への怒りに向かう。
ため息が漏れる。
ニュースの最後に啓蟄であることをアナウンサーが教えてくださった。
土中で冬眠をしていた虫たちが、暖かい春の日差しの下に出てき始める頃を啓蟄というらしい。
何故か毎年、この日は気になっている。
虫ではないけれど、僕も生きているということなのだろう。
僕というよりも、僕の生命が反応しているのかもしれない。
啓蟄という言葉で前屈みになっていた背筋が伸びた。
作業着に着替えた。
少しゆったりしていて、ポケットが多くある作業着だ。
靴も動きやすい運動靴だ。
雨の日の長靴と使い分けている。
ロッカーからバケツとスコップとお風呂マットを出して庭に向かう。
小さなお風呂マットは座る時にお尻の下に敷くのに丁度いい。
百円ショップで見つけて気に入っている。
胸のポケットのアイフォンに話しかける。
「サザンオールスターズのTSUNAMIを聴きたい。」
TSUNAMIが終わっても、いろいろなアーティストのいろいろな曲がランダムに流れる。
毎回少しずつ違うから不思議だ。
とにかく、これで準備万端だ。
まだ少し冷たい風の中、日差しを探して少しずつ動く。
見えなくても、そのぬくもりが顔に当たると分かる。
日差しを見つけたら、そこに座る。
お日様が僕を光で包んでくださる。
幸せだなと感じる。
雑草達は凄い。
いつの間にか芽を出している。
指先がそれに触れて、また喜ぶ。
虫達が土中から出てくるというのが分かるような気がする。
「ねえ、虫さん達、僕の手が触る場所には出てこないでね。お互いに困るからね。」
ちょっと変なお願いを口に出して笑顔になる。
ひと休憩、手を止めて空を眺める。
怒りが蘇る。
「戦争、終わってくれ。」
(2026年3月6日)
田中さん
朝7時過ぎ、バス停に立っていた。
駅に向かうバスに乗るためだ。
駅から出発したバスは団地を周回して駅に戻るというルートだ。
僕が利用している方のバス停でも道路の反対側のバス停でも駅に行くことはできる。
僕が乗る方は18分、反対側だったら5分の乗車時間となる。
だから、道路の反対側のバス停を利用するのが一般的だ。
反対側のバス停に行くには二つの方法がある。
遠い場所の横断歩道まで行くか、道路を横切るかという方法だ。
引っ越してきた最初の頃、反対側のバス停まで妻に送ってもらっていた。
慣れてきた頃、単独で道路を横切るという方法にもチャレンジしてみた。
車のエンジン音を確認しながらだ。
成功はしたもののどっと疲れた。
続ければ事故に遭うかもしれないと思ってあきらめたという経過がある。
横断歩道の方は距離があるだけでなく、信号に音響が付いていない。
結局、どちらの方法も僕には難しいからこちら側を利用することにしたのだ。
こちら側のバス停にいるのはいつも僕だけだと思う。
ある意味目立っているのかもしれない。
今朝もバス停の前で車が止まる音がした。
「松永さん、おはようさん。駅まで送ってあげよう。」
田中さんの声だった。
もう幾度目かなので声で分かった。
田中さんは車を降りてきて、僕を手引きして助手席まで案内してくださった。
僕が田中さんについて知っていること、少ししかない。
知り合いから聞いて、僕のことを知ってくださったということ。
もう80歳を過ぎておられるということ。
会社を定年退職してから手話の勉強をされたということ。
趣味は水彩で絵を描くこと。
住所は何丁目に住んでいるか教えてくださったけれど忘れてしまった。
毎朝、息子さんを駅まで送るのが唯一の仕事だとのことだった。
そして、その帰り道に僕を見つけたら声をかけてくださるのだ。
駅までのわずか5分の車内、僕は田中さんと話をする。
とても豊かな時間だ。
駅に着いたら点字ブロックのある場所まで手引きしてくださる。
その時は僕は話はしない。
右耳が少し遠くなっておられることに気づいたからだ。
別れ際、いつものように挨拶をする。
「ありがとうございました。助かりました。」
僕は少し大きめの声で言いながら深く頭を下げる。
「いや、こんなことしかできないからね。行ってらっしゃい。」
無意識のお決まりの言葉に田中さんの真心が見える。
もう少し歳を重ねたら、僕もあんな風になりたいと思いながら改札口を入る。
(2026年3月3日)
恩師
同級生からの突然の電話、高校時代の恩師の訃報を伝えるものだった。
昨秋帰郷した際に訪問しようと思いながら時間の都合がつかなかった。
今年の10月に古希の同窓会が予定されているので、その際にと考えていた。
結果オーライということもあれば、その逆もある。
今回は逆だった。
悔いが残る判断となってしまった。
電話を切ってから正座して合掌した。
先生の笑顔が浮かんだ。
やんちゃなこともしていた高校時代、よく叱られた。
それなのに思い出の先生の顔は笑っておられる。
もうそんなことは許してくださったのかもしれないと勝手に思う。
無意識に記憶のアルバムのページをめくる。
自転車をこぎながら登った新田神社の横の道。
正門から見た校舎の風景。
グラウンドとクラブボックス。
何故か教室の風景は残っていない。
多感な時代だった。
湧き出るエネルギーをコントロールする方法をまだ知らなかった。
あれからどうやってここまできたのだろう。
きっとたくさんの人達に迷惑をかけながらここまできたのだ。
しみじみと、そして深く反省する。
「ありがとうございました。」
誰もいない部屋で、先生への感謝を言葉にする。
そして思う。
僕の人生、まだ続くのだ。
この道、歩いていこう。
(2026年2月27日)
ハグ
北海道、山形県、宮城県、新潟県、石川県、長野県、群馬県、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、長崎県。
東京で開催された同行援護資質向上研修、今回は東日本からの受講生が多かった。
ガイドヘルパー、事業所のサービス提供責任者、盲導犬協会や点字図書館の職員、ガイドヘルパー養成講座の講師、教育関係者、様々な形で同行援護に関わっておられる専門家が受講生だ。
同行援護は障害者自立支援法の中で2011年にスタートした国の制度だ。
視覚障害者の外出、代筆代読などを支援する大切な制度だ。
僕は当事者として、またテキスト執筆者の一人として、この研修に関わっている。
4日間の研修なので前泊からすると最低4泊5日のホテル暮らしとなる。
9時から18時までの研修が4日間続く。
夜は受講生達との懇親会、講師陣反省会などもある。
体力的には結構厳しい。
それでも当事者として伝えなければいけないことがある。
最終日には、僕自身もヘトヘトになっているのが毎回のことだ。
今回もそうだった。
4日間のすべてのプログラムを終えて修了証の授与の時だった。
スタッフが代読してくれた終了証を代表の受講生にお渡ししようとした。
「ハグしてください。」
終了証を受け取った彼女は堂々とメッセージを僕に伝えた。
受講生達が見守る中で僕達は笑顔でハグした。
「ありがとう。」
僕の口から心の言葉がこぼれた。
視覚障害者の外出を支援する制度が産声をあげたのは1974年だ。
それまで、家族や友人と歩くか、一人で命がけで歩くか、外出をあきらめるしかなかった。
制度は少しずつ成長して、現在は同行援護という制度となっている。
僕達の運動があって、そしてそれを支援してくださる人達がいてくださってここまでこれたのだと思う。
感謝しかない。
でも、まだまだ前に進まなければいけない。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔で参加できる未来。
彼女のハグは一緒にそこに向かう応援を意味していたのだと思う。
今回、研修会前日の夕方に東京に到着した。
東京駅で待機してくれていたガイドヘルパーの友人が支援してくださった。
宿泊地の大塚までの移動、ホテルのチェックイン、夕食にも付き合ってくださった。
別れ際に握手をしようとした僕を彼女はハグしてくださった。
「明日から頑張って。」
今回の研修、ハグで始まってハグで締めくくりということになった。
ハグには気持ちを伝える大きな力があると思った。
(2026年2月22日)
柑橘類の不思議
視覚障害者の知り合いから贈り物が届いた。
突然届いたのでまさにサプライズだった。
段ボール箱を開けると香りがこぼれた。
柑橘類の香りだ。
箱の中を手探りすると大きなボンタンがいくつもあった。
他にもたくさんのネーブルが入っていた。
僕はいくつかを触り、その手触りを楽しんだ。
それから鼻に近づけて香りを楽しんだ。
僕は早速頂いた。
嗅覚の幸せと味覚の幸せが重なった。
幸せが増幅されたのかもしれない。
実は先月にも別の視覚障害者の友人からいろいろな種類のミカンが届いた。
段ボール箱を開けると同じように香りがこぼれ出したのを憶えている。
先月の視覚障害者の人と今回の人と接点はない。
僕自身がどこかで柑橘系の果物が好きだと発言した憶えもない。
不思議な感じがした。
そして気づいた。
柑橘類の香りや味には、誰かに届けたいという魔法があるのかもしれない。
いやきっとそうだ。
実際、僕は届いたミカンなどを数人の知り合いにお裾分けした。
知り合いの人達は笑顔になった。
そして勿論、渡した方の僕も笑顔になった。
(2026年2月17日)
ラナンキュラス
僕は大学を卒業した後、養護施設に就職した。
いや、正しくは養護施設で働きたくて社会福祉学科のある大学を選んだのだ。
当時、養護施設で働く条件として女性は保母資格が求められた。
今で言う保育士資格だ。
男性は社会福祉学科を卒業すれば児童指導員として就職できたのだ。
養護施設には家族と一緒に暮らせない子供達がいた。
そこで働けば、僕にも何かできることがあるかもしれない。
若さが生み出す正義感、それは薄っぺらいものだったのかもしれない。
今振り返れば恥ずかしい限りだ。
それでもそこにエネルギーはあった。
僕はある意味、堂々と子供達と向かい合った。
でも、たかだか20年ちょっとしか生きていない青年にできることは少なかった。
暗中模索の日々だったと思う。
僕は毎年、子供達と鉢植えの花を育てた。
春に咲かすために秋植えの球根をよく買い求めた。
ほとんどはポケットマネーで買っていた。
子供達は養護施設で暮らしながら、地元の幼稚園や小学校に通う。
入園式や入学式に家族の姿がないという子供も多くいた。
色とりどりの花の中でその日を迎えさせてあげたい。
僕にはささやかな希望があった。
自己満足の世界だったのだと思う。
選んだ球根の中にラナンキュラスがあった。
赤、黄色、ピンク、八重咲きの美しい花だった。
ハッとするような美しい花だった。
黄色のラナンキュラスの花言葉は「やさしい心」、それも気に入っていた。
結局、僕が施設で働いていた頃、毎年、ラナンキュラスの花が玄関を飾った。
僕が最後にその花を見たのは38歳の春だったと思う。
その頃、どんどん僕の視界は狭くなり、白く濁っていった。
39歳の春、僕は秋に植えたラナンキュラスの花を見ることなく施設を去った。
昨年の秋、園芸屋さんで偶然にラナンキュラスの球根を見つけた。
30年ぶりにラナンキュラスの球根を玄関の鉢に植えた。
チューリップの隣だ。
このチューリップは新潟の視覚障害者の友人からのプレゼントだ。
春になれば、チューリップとラナンキュラスが並んで咲いてくれるだろう。
見えていた頃の思い出の花、見えなくなってからの思い出の花、僕にとってどちらも
大切な花だ。
見えていた頃も、見えなくなってからも、僕は僕なのだと思う。
そんなことを考えながら春を待つということ、それ自体が幸せなのかもしれない。
(2026年2月13日)
黒七味
もう20年くらい前かもしれない。
阪急河原町駅の東改札口から地上に出てすぐの場所だったと思う。
高瀬川沿いを歩いていて偶然見つけた小さな料理屋さんだった。
当時よく僕のガイドヘルパーをしてくれていた学生と訪れた。
10人は入れないカウンターだけのお店、夜の居酒屋が本業だったのかもしれない。
寡黙なご主人が一人でやっておられるようだった。
店内には一保堂のいり番茶の香りがしていた。
この香り、好みは判れるようだが僕は好きだ。
お昼を少し回っていたせいか、客は僕と学生の二人だけだった。
僕達は焼き魚定食を注文した。
黒い長方形の折敷に並んだ定食が運ばれた。
魚はホッケで炭火で焼かれていた。
それにお味噌汁とほうれんそうのお浸しの小鉢、お漬物は白菜の浅漬けだった。
お浸しには鰹節がどっさりと載っていて、浅漬けには刻んだ柚子が入っていた。
丁寧に調理されているのを感じた。
一番驚いたのはお味噌汁を頂いた瞬間だった。
初体験の深い香りと独特の辛味だった。
なめこのお味噌汁を別の料理のように感じた。
僕はそれが何なのか、ご主人に尋ねた。
祇園にある原了郭というお店の黒七味だった。
それから毎年、冬になると黒七味を買い求めるようになった。
お蕎麦、鍋料理のポン酢、おでん、お味噌汁、いろいろ使っている。
お浸しや冷ややっこにかける時もある。
一番のお勧めはかす汁だ。
黒七味は僕の暮らしの中で冬景色となった。
お世話になった人へのささやかなお礼としてもよく使っている。
黒七味と出会った日のこと、まるで映画のワンシーンのように蘇るのは何故だろう。
学生は口数の少ない人だったが、その時は不思議といろいろ話してくれた。
8月7日生まれ、花子という名前になりそうだったと笑っていた。
もう幾つになったのだろう。
元気で暮らしているのだろうか。
見えていなかったはずなのに、風景のような思い出だ。
振り返れば、見えなくなった後にもいろいろな思い出ができている。
スマホのシャメどころか1枚の写真もない。
それでも思い出は豊かに微笑む。
人間の脳は素晴らしいと思う。
黒七味、今年の冬も僕の大切なアルバムを開いてくれた。
(2026年2月8日)
からしだね館
僕の最新刊「あきらめる勇気」を読んでくださった人から連絡があった。
見える見えないに関わらず、そういうことがたまにある。
お互いの人生が交差する機会、幸せのひとつのような気もする。
2月2日、僕は地下鉄東西線小野駅で彼と待ち合せた。
少し早めに到着した僕は改札口の近くでぼぉっとして立っていた。
ちなみに、こういう時間は好きだ。
ふと、改札口の女性の駅員さんの声に気づいた。
乗降客が改札を通る度に声を出しておられた。
「ありがとうございます。」
「お気をつけて。」
どの声も爽やかで心がこもっているように感じられた。
僕に向けられた声ではないのだけれど、僕までもがちょっと幸せを感じた。
何十人もの人が改札を通られたが、彼女の声の爽やかさは変わらなかった。
誠実という言葉を思い出した。
素敵だと思った。
間もなく、僕は「からしだね館」の責任者の人と合流した。
彼が僕の著書を読んで連絡をくださったのだった。
僕は彼のサポートでからしだね館に向かった。
駅から5分もかからない場所にからしだね館はあった。
入り口には書店があり、奥にはカフェがあった。
精神障害の人達の就労継続事業所として運営されている場所だ。
店内は静かで、明るい雰囲気だった。
僕は途中でトイレも利用したが、やはり予想通りの清潔感だった。
お勧めメニューのカツカレーはおいしかった。
コーヒーもばっちりだった。
ちょっと変わったネーミングの「からしだね館」についても尋ねてみた。
それは聖書からきているものだった。
「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、
それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の
鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」
希望を感じられる言葉は美しい。
物覚えの悪い僕でも、一瞬で「からしだね館」を記憶できたような気がした。
視覚障害者になってから、他の障害者の人達や関係者と出会う機会は増えた。
他の障害についても少しずつ理解は深まっていった。
無知だった頃、僕は精神障害者の人に少しの恐怖感があった。
大きな事件の報道の時など、逮捕された人の精神鑑定が実施されるとメディアはよく
伝えていた。
いつもそれを聞かされていた僕は、精神障害は怖いものだと刷り込まれていったのか
もしれない。
精神障碍者の人の犯罪が一般の6分の1だと知った時、愕然としたのを憶えている。
正しく理解することの大切さを痛感した。
視覚障害についても同じだ。
まだまだ正しく理解されていないから僕は活動をしているのだと思う。
イメージだけで判断することはとても怖いことなのだ。
地下鉄東西線小野駅の近くに行かれたら、是非立ち寄ってみてください。
1番出口を出て、外環状線沿いに南へすぐの場所です。
月曜日から土曜日、11時〜17時オープンです。
「からしだね館」、ちょっと気持ちが豊かになる場所かもしれません。
カレー、お勧めです。
(2026年2月3日)