今年度の龍谷大学短期大学部の成績評価を終えた。
それぞれの学生の出席状況、授業態度、そしてレポートの点数などを総合的に検討し
て評価をする。
四年制大学への編入を希望している学生もいて、学生にとっては1点1点が大切だ。
間違いのないように学生達が納得できるようにしっかりと評価しなければいけない。
結構神経を使う仕事だが、そこまでやって、僕の仕事も終了なのだ。
そして、今年度の仕事は僕にとっては最後の仕事だった。
来年度から短期大学部の学生募集がなくなるので僕の担当科目もなくなるのだ。
スタートしたのは2014年だった。
コロナの年は休んだので実質10年働いたということになる。
その間、木曜日の午後のほとんどを龍谷大学の深草キャンパスで過ごした。
キャンパスの空気は好きだった。
講師控室は広くて立派だったがあまり落ち着かなかった。
キャンパス内のカフェは自由な感じでのんびりできた。
コーヒーを飲みながらノートパソコンのキーを叩くのがいつもの時間だった。
流れている空気が若々しくて心地よかった。
教室は21号館の5階にあったのでエレベーターを利用していた。
教室に向かう時はいつも少しの緊張感と喜びがあった。
時には学生達に教えられながら僕も学んでいっていたような気がする。
そしていつも学生達はやさしかった。
続けてこられたのはまさにやりがいだったと思う。
僕にできる社会参加だったのかもしれない。
正門をくぐってキャンパスにお別れした。
たくさんの学生達と多くの時間を共有したはずなのに、僕は誰一人顔を知らない。
我ながら不思議な感じがした。
それでも出会ったのは間違いない事実だ。
それなりの絆も結べたと思う。
出会ってくれた学生達に心から感謝したい。
(2025年1月21日)

黄色のキャリーケース

京都市の企業向け人権啓発講座での講演が終わったのは15時半だった。
改正障害者差別解消法がテーマにあったが、それは僕にはハードルが高過ぎた。
僕はいつも通り、当事者としての思いを語った。
正しい理解が未来につながっていくことを信じて話をした。
集った皆さんがしっかりと受け止めてくださる空気が感じられてうれしかった。
僕は感謝を伝えて九条テルサの会場を後にした。
東京行きの新幹線のチケットは16時過ぎを予約してあった。
京都駅まで徒歩で15分くらいだろうか、僕達は急いだ。
僕はいつもとは反対の右手でサポーターの学生の左の肘を持った。
学生は右手で僕のキャリーケースを引っ張ってくれたのだ。
その状態でスマホのナビを見ながらの移動は学生にとっては結構大変だったと思う。
もう幾度も一緒に歩いている学生との阿吽の呼吸があってのことだった。
僕は京都駅の新幹線改札口で学生と別れた。
右手で白杖を持った僕が左手でキャリーケースを引っ張って移動するのは大変なのは
分かっている。
ホテルへ荷物を送ったり送り返したりの煩雑さを考えて最近この方法を選んだのだ。
ちなみに、点字ブロックと同じような黄色のキャリーケースにした。
キャリーケースを使うようになって、サポーターだけではなく、駅員さん達にも若干
の迷惑をかけてしまっている。
皆さん快く対応してくださるので本当に有難い。
新幹線の中ではノートパソコンを出してすぐに仕事を始めた。
翌日からの4日間の研修の準備をした。
東京に到着するまでの2時間あまりずっと仕事していた。
大塚のホテルに到着してメールチェックをしたら人権啓発講座の関係者からお礼のメ
ールが届いていた。
彼女が小学生の時に僕の講演を聞いた思い出も添えてあった。
もう10年以上前の思い出だ。
しみじみとした喜びが僕の中で膨らんだ。
蒔き続けてきた種はどれほどの数になるだろう。
その中で一粒でも二粒でも発芽してくれれば本望だ。
また明日からも右手に白杖、左手に黄色のキャリーケース、頑張って歩いていこう。
(2025年1月18日)

歌声

大阪の府立高校に関わるようになって17年になる。
特別非常勤講師という立場だ。
家庭科の科目で福祉をテーマに学習を受け持っている。
1年に10日くらいの短い学習期間だが高校生達はどんどん吸収してくれる。
スポンジに水が染み込むみたいにという感じかもしれない。
最初の授業の時は遠くから僕を見ていたのだと思う。
僕が問いかけてもほとんど声は聞こえなかった。
教室の中には奇妙な緊張感が漂っていた。
それはそうだろう。
初めて出会う見えない人なのだ。
それが回を重ねる度に声が聞こえるようになっていった。
若い力は行動力にもつながっていったようだった。
駅で見かけた白杖の人に声をかけることができた。
幾人もの生徒がうれしそうに話してくれた。
ガイドヘルパーの資格をとった生徒もいた。
点字の手紙には僕への感謝の言葉が並んでいた。
高校生達の人生そのものが少し豊かになったことを意味していた。
最後の授業の日、生徒達はサプライズを準備してくれていた。
少し授業を早めに切り上げると生徒達は僕の前に並んだ。
受講しているのはほとんどが女の子だ。
お茶目な女の子は僕の正面の場所を確保したようだった。
「ありがとう”って伝えたくて あなたを見つめるけど
繋がれた右手は 誰よりも優しく ほら この声を受けとめている」
女子高生達の柔らかな歌声が僕に向けられた。
歌声はどんどん大きくなっていった。
教室の中をこだました。
いきものがかりの「ありがとう」という曲らしかった。
最後に幾つかの手は僕と握手した。
お茶目な女の子は代表で僕とハグした。
僕にはもう大昔のこととなってしまった若いエネルギー、キラキラと輝くのを見た。
確かに僕は見た。
彼女達に心からのありがとうを伝えて最後の授業を終えた。
(2025年1月12日)

68歳

僕の心臓が動き出して24836日が経過したらしい。
まさに、雨の日も風の日も、楽しい時間も悲しい時間もずっと動き続けてきたのだ。
朝も昼も夜も、寝ている間も動き続けてきたのだ。
子供の頃根気のない少年だった。
大人になっても努力や継続は苦手だった。
そんな僕なのに、心臓は頑張ってきたのだ。
そう思うと自分の心臓をなんとなく愛おしく感じた。
68歳のお誕生日、お祝い袋に入った1万円が届いた。
3万5千日以上動き続けている心臓を持っている母からだった。
お誕生日の前、何か届けたいと母は電話口で幾度も言った。
僕は何も要らないと言い続けた。
この年齢になって、98歳の母からもらうことに気が引けた。
生きていてくれることだけで幸せだと言いたかったが口にはできなかった。
結局、母はお金を送るという方法を選んだらしかった。
封筒を持って、僕は愕然とした。
「おめでとう」
5文字のひらがなを母が自署してくれていた。
涙が止まらなかった。
僕は悪いことはしていない。
でも、読めない自分が許せなかった。
「母ちゃん、ごめんな。」
僕は幾度も幾度もつぶやいた。
涙はずっと滴り落ちた。
何故かと問われても分からない。
分かろうとする気もない。
68歳、頑張って生きていかなくちゃ。
(2025年1月7日)

箱根駅伝

ダラダラと三が日を過ごす。
ダラダラがなんとも心地よい。
毎年2日と3日は箱根駅伝をラジオで聞いている。
いつの頃からかお正月の恒例行事のひとつとなった。
故郷の親友達が駒澤大学や日本大学の卒業生だから少しは応援しているが絶対ではな
い。
どこの大学でも地力があると前評判の選手が活躍すると凄いなと思う。
区間新を出した選手には拍手を送る。
でも一番応援するのはうまくいかない選手や調子の出ない選手だ。
頑張れ頑張れと気持ちが叫んでいる。
タスキがつながらなくなりそうな場面など、必死で応援してしまう。
ひょっとしたら自分自身の人生へのエールかもしれない。
幾度もくじけそうになりながら、なんとかここまで走ってこれた。
最後尾をヨロヨロと止まりそうになりながらも走ってこれた。
拍手は僕が僕自身にしているのかもしれない。
自分には甘いのかな。
とは言え、もう自分を変えられるような年齢でもない。
僕は僕のままで今年も生きていこう。
新春から感動をくれた若き走者たちに心からありがとう。
(2025年1月4日)

仕事納め

今年の仕事納めはラーメン屋さんだった。
施設で暮らす全盲の女性とラーメン屋さんに出かけたのだ。
彼女は幼少期に光を失ったが、同時に家族とも縁がなくなってしまった。
それで施設で暮らしている。
社会経験は乏しいし、単独歩行もできない。
建物から外に出ることはほとんどない。
この社会にはいろいろな理由で建物の中で人生を送る人達がおられる。
病院であったり施設であったりだ。
社会の目に留まることはないので、その存在さえもあまり知られていない。
でも、実際におられる。
僕はたまたまピアカウンセリングという仕事で出会うことがある。
「夢は何ですか?」
彼女に問いかけた。
僕の問いかけに返ってきたのがラーメン屋さんに行くことだった。
そのくらいの夢なら僕にもお手伝いはできるかもしれない。
ただ、僕だけでは無理だったので、目が見える友人の協力を受けて実現した。
彼女は一杯のアツアツのラーメンをおいしそうに食べた。
今年最後の仕事、収入にはつながらない仕事だった。
僕には結構多い仕事かもしれない。
一緒にラーメンを食べながら、僕自身も幸せを感じていた。
幸せを感じられる仕事をできるのはまさに幸せなことだ。
一年を振り返ると、今年もほとんどこれまでと変わらない量の仕事をした。
27年前に失明した時、僕にできる仕事は何もなかった。
出発は悔しさだったと思う。
少しずつ仕事は増えていった。
僕にできる仕事をこれからもやっていきたい。
幸せを感じながらやっていきたいと思う。

2024年度 活動記録

小学校 14校
嵯峨野、光徳、陵ヶ岡、梅小路、久世西、川岡、修学院第二、松ケ崎、平佐西、川内
、隈之城、下鳥羽、朱雀第七、松陽

中学校 10校
槙島、向島東、洛星、南宇治、洛西、桂川、城陽、梅津、凌風、西小倉

高校 7校
京都海洋、枚方なぎさ、潤徳女子、長尾谷、成城、同志社、春日丘

専門学校・大学 10校
京都福祉専門学校、京都YMCA国際福祉専門学校、京都医健専門学校、大阪医療福祉専
門学校、京都文化医療専門学校、川内看護専門学校、龍谷大学、大谷大学、四天王寺
大学、同志社女子大学

その他
社会人対象の講演
同行援護関係の活動
諸々の執筆活動

(2024年12月31日)

ハミング

4年前に網膜剥離で光を失ったらしい。
鉄工所で働いていた時に焼けた鉄粉が目に入ったのが原因らしかった。
施設にきて良かったことは食と住の心配をしなくていいこと。
箱折りの作業は苦にはならないこと。
食事はおいしく頂いていること。
こちらの質問に彼はすべてきちんと答えてくれた。
医療機関、福祉機関、きっと幾たびも相談の機会を経験してきたのだろう。
そつのない答え方、抑揚のない話しぶりからそれが伺えた。
61歳での人生の転機、静かに受け止めているのだろう。
質問する僕も人生の途中で失明したということも伝えたが、それもほとんど意味はな
いようだった。
どんな質問をしてもそれは無機質であることを僕は感じていた。
「何か聞いてみたい曲がありますか?」
唐突だったが、僕はほとんどの曲を今聞いてもらえると思うと説明した。
「木村弓のいつも何度でも」
彼のリクエストの曲がiPhoneから流れ始めた。
木村弓の澄んだ声が二人きりの古い会議室に広がっていった。
耳慣れた曲だったが、僕は初めて歌詞をしっかりと聞いた。
彼がこの曲を選んだのが少し分かるような気がした。
向かい合った僕達の間に置いたiPhoneから最後のハミングがこぼれていった。
曲が終わると彼はゆっくりと立ち上がり、椅子を片づけて出口に向かった。
出口に向かいながら、振り返って尋ねてくれた。
「貴方のお名前は?」
「松永と言います。」
彼はその後何も言わずに部屋を出ていった。
僕はもう一度曲を聞いた。
今年ももうすぐ終わるのだと思った。
(2024年12月28日)

電話の声

同行援護資質向上研修当事者コースは今年も12月下旬の開催だった。
場所も例年通り、東京高田馬場の日本視覚障害者センターだった。
責任者の僕にとっては毎年恒例の行事となっている。
ホテルはいろいろ変わる。
東京のホテル代が高騰していて大変なのだ。
今回は木場のホテルから会場まで東京メトロで通勤という方法だったが失敗だった。
確かに若干安かったが、ホテルは駅から遠いし、朝の電車の込み様は凄かった。
会場までの往復だけで結構なエネルギーを費やした。
しかも研修だけで4日間、それに参加者の懇親会、講師陣の反省会などもあるのだか

ハードだ。
ホテルでの一人暮らしの毎日も平常と変わらない。
毎朝のイノダコーヒーも寝る前のノートパソコンでのメールチェックも変わらない。
あえて変化を考えると、お風呂がシャワーに変わるくらいかな。
それで無事終了となるのだから体力はあるのだろう。
確かに疲れは感じやすくはなっているが回復できないような状態にはならない。
疲れを癒してくれることもいろいろある。
研修中に東京は初雪のニュースが流れた。
なんとなくうれしかった。
仲間との懇親、盛り上がった。
最終日の翌日、スペイン料理のクリスマスランチもうれしかった。
帰路の新幹線の中で携帯電話が鳴った。
留守電を聞いたら、受講生の男性だった。
僕は新幹線を降りてからかけなおした。
「心がふるえる研修、ありがとうございました。僕も頑張ります。」
彼の誠実な声が身体に染み込むのを感じた。
疲労は溶けていった。
もっと頑張りたいと思った。
(2024年12月24日)

従姉からの手紙

節子ねえちゃんからの手紙が届いた。
節子ねえちゃんは僕の従姉だ。
僕が子供の頃、一番近くに住んでいた従姉だ。
と言っても、僕が少年の頃、節子ねえちゃんはもうお姉さんだった。
記憶にある節子ねえちゃんの顔は綺麗な大人の顔だ。
節子ねえちゃんには弟がいた。
僕はこうじ兄ちゃんと呼んでいた。
こうじ兄ちゃんは僕を可愛がってくれた。
遊んでもらった思い出は数多くある。
よっぽど楽しかったのだろう。
いくつものシーンが蘇る。
セピア色の静かな映像が思い出となっている。
やさしい風景だ。
よく二人乗りした自転車の後ろの席から見ていた風景なのかもしれない。
僕が高校を卒業して東京に出た時、いろいろと世話をしてくれたのもこうじ兄ちゃん
だった。
数年後、体調を壊したということでこうじ兄ちゃんは故郷の病院に入院した。
僕は帰省の際にお見舞いにいった。
京都で学生生活を送っていた僕は、京都での再会をこうじ兄ちゃんと約束した。
こうじ兄ちゃんが何をどこまで知っておられたのかは分からない。
若かった僕は、病院は治療をして元気を取り戻す場所だと信じて疑わなかった。
まだ20歳台だったこうじ兄ちゃんの年齢、病室での笑顔、すべてに悲壮感などはなか
った。
それから1年も経たない内にこうじ兄ちゃんは天国に旅立った。
人の死について、僕が初めて打ちのめされた経験となった。
心の中で生きている。
人は時々そのような表現をすることがある。
あれから半世紀近くの時を超えて、僕はそれを実感している。
「信也、頑張れ。」
こうじ兄ちゃんはきっとそう言ってくれてるだろう。
こうじ兄ちゃんの顔が笑った。
それから、節子ねえちゃんの顔も笑った。
(2024年12月18日)

『あきらめる勇気』のご案内

今日、2024年12月13日、僕の4冊目の本がデビューします。
『あきらめる勇気』 法蔵館 1,540円

3冊目のエッセイ「風になってください2」が出版されたのは2013年でした。
その後、本の執筆からは遠ざかっていました。
このホームページにブログを書くという方法を選んだのです。
10年と言う間、書き続けました。
その数は1,000を超え、アクセス数も160万を超えました。
僕にとっては大成功です。
読んでくださった皆様に心から感謝申し上げます。
ただ、本の一番の目的、見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加で
きる社会にはまだまだ距離があることを感じています。
僕のささやかな本が誰かの手元にあって、どこかの喫茶室にあって、街角の図書館に
あって、。
妄想は膨らみます。
それをまた誰かが読んでくだされば、未来は1センチ近づいてくれるかもしれない。
見えることはあきらめられても、幸せに生きることはあきらめられない僕がいます。
本は願いであり、祈りであるのかもしれません。
一人でも多くの人に届きますように、皆様の力をお貸しください。
(2024年12月13日)