春の味

今年も友人から春姫が届いた。
春姫は鹿児島県の南薩摩地方で生産されているキンカンだ。
一定の大きさと糖度を兼ね備えていて綺麗なオレンジ色一色らしい。
水洗いしてそのまま丸ごと頬張る。
甘さが口中に広がる。
甘さに溶け込んで隠れていた早春の微かな苦みに気づく。
苦みが春の味なのだということを知る。
水と土と空気とお日様の合作だ。
自然というシェフの腕前に感動してしまう。
一年という時間の中でこの時期にだけ出回る。
ほんの一瞬だ。
口の中で生まれたての春が命を主張している。
見えるとか見えないとかは何も影響しない。
その命を僕の命が愛おしむ。
生きているってやっぱり素晴らしい。
(2019年2月15日)

通りかかった車

柔らかな早春の日差しの中、粉雪が舞っていた。
光を皮膚で感じながら歩いていた。
顔に当たる粉雪を感じながら歩いていた。
気分が良かった。
良過ぎたのかもしれない。
いつもの横断歩道、スタート地点の点字ブロックを確認する作業を怠った。
しばらく歩いて気づいた。
反対側の点字ブロックが見当たらない。
その時だった。
「方向がズレてますよ。」
反対車線で一旦停止した車の運転手さんの大きな声が聞こえた。
いつの間にか歩道から車道に飛び出してしまっていたのだ。
車道を歩いてしまっていたのだ。
やってしまった。
後悔の思いと恐怖感が混ざりあった。
僕は歩道と思われる方向に歩き始めた。
4車線のほとんど中央まで行ってしまっていたようだった。
車のエンジン音だけに注意しながら少しずつ移動を始めた。
「ガードレールで入り口がありません。」
さっきの運転手さんは車を降りて僕のところに駆け寄ってくださった。
車は中央付近の路上に止めたままで助けにきてくださったのだ。
そして、僕を歩道のところまで案内すると急いで戻っていかれた。
助かった。
気づいてくださる人がいる。
気づいて声をかけてくださる人がいる。
でも、わざわざ走行中の車を路上に止めてまでして助けるというのはなかなかできる
ことではないだろう。
そういう人が通りかかってくださったというのは僕に運があったのだ。
走り始めた車に向かって頭を下げた。
心からのお礼をつぶやいた。
歩き始めたら、再び早春の光を感じた。
人間って素敵だなと思った。
(2019年2月11日)

使命

「発信のために書くのよ。」
17年前の冬だった。
京都駅の上にあるオープンスペースのカフェだった。
寒風にさらされながら彼女は静かにそして熱く話をされた。
躊躇している僕を説得された。
「活字の力」と何度もおっしゃった。
それは出版の世界で仕事をしてこられた経験からのものだった。
僕は半信半疑でそれでも書き始めた。
2年後、「風になってください」というささやかなエッセイが産声をあげた。
彼女との二人三脚の結果だった。
やがてその本は重版になり、僕の活動の原動力となっていった。
10刷りを迎えるなんて、僕自身を含めて誰も予想はしていなかった。
いや、彼女だけはひょっとしたら、そう思ってくださっていたのかもしれない。
とにかく、出会いが僕の人生を変えた。
偶然の出会いは必然だったのかもしれないとさえ思っている。
緩和病棟の彼女を見舞った帰り道、彼女の言葉を幾度も思い返した。
いつものごきげんようの言葉はなかった。
それに気づいた時は涙がこぼれそうになったが我慢した。
「使命があるのだから頑張るのよ。」
そう言いながら握手した手をとても強く握ってくださった。
僕が彼女からいただいた最後の言葉となった。
どんな使命なのだろう。
何のための使命なのだろう。
まだよく判らない。
でもとにかく頑張ってみる。
僕の人生の残っている時間、
僕なりに頑張ってみる。
それが僕ができる彼女への感謝の方法なのだと思う。

(2019年2月7日)

無償の愛

皇居東御苑を散策した。
江戸城天守閣跡に続く道は急な上り坂だった。
「もうすぐ頂上ですよ。」
サポートしてくれていたたかひろちゃんは僕を励ますように伝えてくれた。
僕達は45年前のおぼろげな思い出を語りながらのんびりと歩いた。
横浜の叔母宅へお世話になったのは僕が高校一年生の夏休みだった。
たかひろちゃんは6歳、弟のひでおちゃんはまだ幼稚園だった。
叔父さんが食べさせてくださったシュウマイがおいしかったのは憶えているのに、
二人の顔は憶えていない。
でも一緒に過ごした時間が楽しかったことは記憶している。
僕は高校を卒業して京都で暮らすようになったこともあって、
それ以降、彼らと会う機会はなかった。
数年前、親族の法事で再会した。
そして今回、東京でいとこ数人と会うことになった。
血縁がどれほどの意味があるのかは分からない。
いとこくらいになれば、会う機会のない人の方が数的にも多い。
でも他人とは違う何かを感じるのは不思議だ。
DNAがささやいているのかもしれない。
利害もなく、また会える保証もなく、ただ無償の愛が微笑む。
「梅が咲いていますよ。」
ひでおちゃんのパートナーのともこさんが僕の手を誘導する。
無償の愛はさりげなく血縁さえも超えていく。
(2019年2月3日)

ふきのとうの塩漬け

ふきのとうの塩漬けをご飯の上に乗せる。
それをゆっくりと口に運ぶ。
ふきのとうのほろ苦さが口中に広がる。
いつもは鈍感になってしまっているご飯の甘さにも気づく。
キラキラと輝くご飯粒の上に深緑色のふきのとうが寝転ぶ。
気恥ずかしそうに寝転ぶ。
しばらく見つめてからまた口に運ぶ。
見えてはいない筈なのに見つめてしまう。
その動きに自分では何の違和感もない。
ほろ苦さを愛おしく味わう。
どこかで春が生まれ始めているのかもしれない。
そんな思いが僕自身の心を高揚させる。
もうすぐ春に会えるんだ。
また会えるんだ。
うれしくなる。
(2019年1月30日)

雪の夜、ふと耳を澄ます。
いつもと違う静けさが存在している。
雪のせいで交通量が少なくなっているからかもしれない。
でも、それだけとは思えない静けさだ。
無音と言ってもいいかもしれない。
雪が音を吸い込んでしまうのだろうか。
少しだけ窓を開けて外を眺める。
画像のない絵画の美しさに気づく。
静寂の中に水墨画のような風景がよく似合う。
専門学校で僕の講義を受けた女子学生との会話を思い出した。
「日本で美しいと思ったものは何?」
彼女は即答した。
「雪です!」
彼女の生まれ育ったベトナムでは雪は降らないとのことだった。
人間が美しいと思うもの、
性別も世代も国境も越えていくのだろう。
半年間の講座が終わって、彼女は僕のサポートができるようになった。
やさしさもまた、国境を越えていくのだ。
(2019年1月27日)

歩道橋

バスを降りてから頭の中の地図にしたがって歩き始めた。
わずか30メートルくらい先の歩道橋まで一本道だ。
なんとかなると思っていたが迷子になった。
歩道と歩道橋の登り口が少しずれているのだ。
どうやって解決しようかと思案しながら白杖で周囲を探ってみた。
「どこに行くの?」
通りかかった男性が声をかけてくださった。
「歩道橋の登り口を探しているんです。」
これでもう大丈夫と僕は安心しながら答えた。
案の定、彼は僕を掴んで誘導してくださった。
歩道橋の登り口はすぐそこだった。
お礼を伝えてから階段を上り始めようとした。
「少しは見えてるんやねぇ。」
彼は僕の足を止めた。
「いえ、全盲で光も分からないんですよ。」
僕は笑いながら答えた。
彼は絶句した。
しばらくして、自分が糖尿病でとても見えにくくなっていることを口にされた。
「最近、夕食の後とか目がぼやけてしまう。」
たったそれだけの言葉の途中に彼の声は一瞬涙ぐんだ。
見えなくなるかもしれないという恐怖の中におられることが伝わってきた。
僕は糖尿病ではなかったが失明直前の恐怖感はよく理解できた。
「ちゃんと病院に行ってくださいよ。」
「ちゃんと行ってる。」
それだけのやりとりだった。
階段を上りながら、振り返って言った。
「大丈夫です。」
はっきりとしっかりと強い言葉で言った。
「うん。」
彼は小さく答えた。
何の根拠もない言葉であることは分かっていた。
でもどうしても言いたかった。
彼の視力が少しでも残りますように、階段を上りながら祈った。
何段あるかなんて分からなくても、一段ずつゆっくりと上ればいつかたどり着く。
涙はいつか思い出に変わる。
(2019年1月25日)

助け合える

休日の四条烏丸の地下道はとても混雑していた。
阪急電車と地下鉄烏丸線の乗り換えもあるので日常的に混んでいる場所だが、
満員電車のような混みようは何かイベントでもあったのかもしれない。
僕は緊張感のレベルスイッチを最大限にして少しずつ歩いた。
いつもは白杖で点字ブロックの横を触りながらフラットの床を歩いている。
点字ブロックの上はガタガタして歩きやすくはないからだ。
でもとても混んでいる時はわざと点字ブロックの上を歩く。
人にぶつかるリスクを少しでも少なくするのも技術のひとつだ。
それでも数か所の難所がある。
人の流れがいくつかの方向に分かれる場所、
点字ブロックが人の流れから外れてしまう場所、
大きな音がしている場所などがそうだ。
そして、人波の中の人は意外と前を見ていない。
そこを歩くのだから大変だ。
白杖の長さと角度を調整しながらスピードも周囲に合わせて変化させながら歩く。
今日もそうして歩いている途中だった。
地下鉄の改札を出て点字ブロックの上を歩いて、階段にたどり着いた時だった。
「松永さん。」
去年福祉授業に出かけた小学校の男の子三人組が僕に声をかけてくれた。
この混雑の中で僕を見つけてくれたことに驚いた。
少年達は行先は僕と反対方向だったが、
後戻りしての阪急烏丸駅の改札までのサポートを引き受けてくれた。
手引きの仕方も学校で勉強していたのでスムーズだった。
混雑した人込みの中を少年達はスイスイ歩いた。
目が見えていたら普通のことなのかもしれないが、
僕はその動きに感動してしまった。
改札口で少年達に感謝を伝えた。
それから改札口を入って、また白杖で歩き始めた。
「松永さん、お気をつけて。」
少年達の大きな声が背後から聞こえてきた。
しかもその声は周囲の雑踏をかき消してハーモニーとなっていた。
僕は振り返って笑いながら手を振った。
少年達も手を振った。
「助け合えるって人間だけだよね。」
学校で少年達に語り掛けた言葉が僕の頭の中で蘇った。
(2019年1月21日)

春近し

年明けの大学の講義がスタートした。
キャンパスは学生達でにぎやかだった。
僕は21号館の教室へ向かうため、エレベーターを待っていた。
突然、横から挨拶の声が聞こえた。
前年度、僕の科目を受講していた学生だった。
背がとても高かったし、声も記憶していたのですぐに判別できた。
その頃は金髪だったのも憶えていた。
「今、髪の毛は何色?」
僕は笑いながら尋ねた。
「今は赤茶色ですよ。」
彼も笑いながら答えた。
それから、卒業後の進路が決まったことを教えてくれた。
愛知県に行くとのことだった。
初めての一人暮らしへの期待と不安が感じられた。
夢に向かって歩き始めている若者の姿があった。
彼の笑顔はキラキラしていた。
まぶしかった。
僕達は自然に握手した。
彼もうれしそうに笑った。
もうすぐ春が来るんだと思った。
(2019年1月18日)

少年達の笑顔

大学の社会福祉学科に通っていた僕が養護施設を知ったのは21歳の時だった。
親と離れて過ごさなければならない子供達に出会って愕然とした。
大学を卒業して、何の躊躇もなくそこに就職した。
見えなくなる直前の39歳まで働いた。
我武者羅に必死に働いた。
労働時間も収入も一般社会とはかけ離れていたが使命感はそれを越えていた。
子供達への愛情もあっただろうし、社会の不合理への怒りみたいなものもあった。
憤りも悔しさも抱えながらの毎日だった。
若いエネルギーが僕を支えてはいたが、薄っぺらい正義感だったのかもしれない。
振り返れば恥ずかしく思うことばかりだ。
卒園生の一人の女の子は神戸の震災で命を落とした。
19年という短い生涯だった。
震災の直前、最後に会った日のことを僕は忘れることはできない。
それから毎年、1月17日の前後の休日にお寺にお参りをしている。
当時の保母さん、亡くなった女の子と同じ年の子供達も一緒だ。
子供達ももう43歳になった。
親の顔を知らないで育った子供達が親になっている。
不思議な感じがする。
そして見えなくなった僕を彼らは自然に受け入れてくれている。
普通に介助をしてくれ、普通に手伝いをしてくれる。
「比叡山が頂上までくっきり見えていますよ。」
洛北のホテルのレストランから見える風景を語ってくれる。
勿論、僕に殴られた話はいくつも出る。
和やかな時間が通り過ぎていく。
そして僕の前にはいつも、あの頃の少年達の笑顔がある。
亡くなった女の子の笑顔がある。
映像があの頃のままで止まってしまっているのは、
ひょっとしたら幸せなことなのかもしれないとさえ思う。
(2019年1月14日)

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