お問合せフォーム、大丈夫です

ご不便をかけていましたお問合せフォームの修正が完了しました。
普通に使用できる状態になったと思います。
この一か月間くらいのお問合せについては受信できていません。
再送信をお願い致します。
ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。

子供さんとお父さん

先日50歳台の視覚障害者男性二人と歓談した。
二人とも全盲で基本的には白杖を使っての単独歩行をしている。
アクティブな人達だ。
僕を含めたこの3人に共通するのは自分で空席を探すことは無理なので電車の入り口
の手すりを持って立っているという日々だ。
その電車で座れる確率を尋ねたら二人とも10回に1回くらいとの答えだった。
僕は20回に1回くらいだ。
この差は声をかけやすい顔なのかどうかとのやりとりになったが答えはでなかった。
僕は見えている頃からイケメンと言われたことは一度もない。
それがそのまま年を重ねているのだからきっとどうしようもないのだと思う。
でもこれは仕方のないことだ。
単独での外出の機会、電車に乗車する回数が圧倒的に違うからその差になるのかもし
れないと知人がフォローしてくれた。
この一週間に出かけたのは6日間、忙しかった。
愛用の日傘を落として紛失したり、運も下降していた時期だったのかもしれない。
単独で電車に乗ったのは28回、すべて座れなかった。
そして日曜日の帰路、最後に乗車した電車は山科から比叡山坂本までのJRだった。
乗車してすぐに入り口の手すりを掴んだ。
背中の補助席から子供さんとお父さんの声が聞こえた。
子供さんの声はまだ幼かった。
僕はリュックサックが邪魔になってはいけないと思って少しだけ移動した。
「座られますか?」
お父さんが声をかけてくださった。
僕は座らせてもらうことにした。
ただ、動きは僕にしては下手になってしまった。
子供さんの場所を勘違いして逆に動こうとしてしまったらしい。
子供さんの上に座ろうとしてしまったのだ。
気がつかれたお父さんがフォローしてくださった。
僕はごめんなさいと言いながら子供さんの横に並んで座った。
それからずっと子供さんは無言だった。
せっかくの親子の楽しいひとときの邪魔をしたような気がして申し訳なかった。
子供さんが怖い体験とならないようにと祈った。
僕達はたまたま同じ駅で下車した。
お父さんがエレベーターまでのサポートも申し出てくださったが丁寧にお断りした。
子供さんをこれ以上怖がらせてはいけないと思ったからだ。
僕は再度感謝をお伝えして別れた。
きっと子供さんは僕が何者だったかをお父さんに尋ねるのだろう。
いつかお父さんの行動をかっこいいと知る日がくる。
そう願う。
子供さんには申し訳なかったが、僕の気持ちは爽やかになっていた。
(2024年6月10日)

僕にできること

ひょんなことで出会う。
時々ある。
最近も二人に出会った。
どちらも50歳台の男性、緑内障でだいぶ見づらくなっておられた。
個別にそれぞれの方とお会いした。
文字を読むと言う当たり前のことが難しくなってきておられた。
外出が大変になってきておられた。
そこには27年前の僕がいた。
できていた事ができなくなってくる。
できないことを数え始める。
挫折感を感じながら呆然とした。
社会から取り残されていくような孤独感、息を吸うことも吐くこともしんどかった。
そして何も見えなくなったらという恐怖感に包まれた。
僕は僕の知っていることを少しでも伝えたいと思ってしまう。
無意識に応援してしまう。
必死になって応援してしまう。
ひょっとしたら、今はそっとしてあげるのがいいのかもしれない。
でもつい必死になって話しかける僕がいる。
27年前の僕に僕は話しかけているのかもしれない。
「大丈夫です。」
脈絡のない意味不明の言葉が口元からこぼれる。
そして僕に問いかける。
僕にできることって何だろう。
(2024年6月8日)

目覚め

日中の戸外、お日様の光を熱で感じることは時々ある。
顔や頭に直接当たる時などはよく感じる。
光の熱量は大きいのだろう。
熱は皮膚感覚で分かるが光は目での確認だ。
それは僕にはどうしようもない。
光を感じて目覚めるということはできなくなってしまった。
ぐっすり眠って瞼をくすぐる光で目覚める。
思い出せば、あの瞬間は幸せのひとつだったと思う。
それを失ってしまったのはちょっと悔しい。
でもないものねだりしても仕方ない。
だから僕は朝の始まりを時計で管理している。
目覚めるとグーグルホームに尋ねる。
「オッケーグーグル、今何時?」
今朝は6時23分だった。
7時間くらい眠ったらしい。
久しぶりに熟睡した。
トイレにも行かずに眠り続けたということになる。
疲れが貯まっていたことを実感した。
目が覚めても動き出そうとはしなかった。
休日で出かける予定がないのが理由だったが、目覚めの幸せを感じたからだろう。
まだ寝ぼけている頭の中に短いセンテンスが蘇った。
「全力で応援します。」
学生から届いたメールにあったものだ。
言葉が脳の中でゆっくりとほぐれていった。
短い言葉にはやさしさがあった。
説明文も修飾語もない言葉なのに力さえ感じた。
そして受け取った僕は光で目覚めた時のような気持ちになった。
微睡を愛おしくさえ感じた。
そんな言葉を使える人に僕もなれればと思う。
なりたいと思う。
(2024年6月3日)

同行援護養成研修

広島県尾道市での同行援護養成研修、二日目の朝は土砂降りの雨だった。
お隣の岡山県では大雨警報も出たらしかった。
警報が出れば戸外での実習を中止しなければいけない。
祈るような気持ちで朝のコーヒータイムを過ごした。
9時前、受講生の皆さんが続々と到着された。
雨は止まなかったが小降りにはなっていた。
簡単なオリエンテーションを済ませて僕達は出発した。
受講生は二人一組で外を歩く。
一人はアイマスクを装着して視覚障害者役だ。
ガイドヘルパー役の人の肘を持って歩く。
あちこちにある段差を伝え、坂道を上り下りし、右折したり左折したりしながら道を
歩く。
横断歩道も渡るし、階段やエスカレーターにも挑戦だ。
傘を指して水たまりをよけながらなので普通よりハードルも高い。
視覚障害者役の人の安全を確保しながら不安を与えないようにしなければいけない。
最後の決め手は信頼関係だ。
人間同士の絆ということになる。
食堂ではメニューを代読し、運ばれてきた料理の説明にもチャレンジした。
ショッピングセンターでは買い物支援の体験もした。
研修会場に帰り着いた時には皆さんヘトヘトだったと思う。
それぞれに感想を聞いてみた。
受講生はいろいろな気づきや発見を発表してくださった。
それぞれの発言には充実感みたいなものも感じられた。
そしてそれを皆で共有することで学びが深まっていった。
僕はこの時間が好きだ。
僕は講師であるけれども、皆さんのいろいろな気づきに教えられていることが多いの
だ。
誰かの力になりたい。
誰かに寄り添ってあげたい。
そう思う人が集う空間にはぬくもりがある。
やさしい時間が流れる。
こういう人達がおられて見えない見えにくい僕達の暮らしが存在する。
受講してくださった皆さんに心から感謝した。
(2024年5月29日)

やさしい人

ゴールデンウィークの後くらいから急に忙しくなってしまった。
調べてみたら一週間に一日の休みも確保できていないことに気づいた。
今も11日連続の仕事が続いている最中だ。
2月や3月は一か月の半分くらいはお休みだった。
10月や11月はもう現時点でほとんど予定が埋まっている。
自由業とはそんなものだ。
今月は1時限目からの授業とかが多く、行先も滋賀、京都、大阪と広域だった。
結果的に早朝出発、夜帰宅が続いた。
疲れが貯まる傾向にあるのは気候の変化のせいもあるだろうし年齢のせいもあるのだ
ろう。
自覚はあるから栄養ドリンクをお守りみたいに飲んだりしている。
それでも集中力が少し落ちたりしてしまう。
先日もやってしまった。
大学の講義を終えて、学生達が地下鉄の駅まで送ってくれた時のことだった。
改札口で送ってくれた二人の学生にお礼を伝えて歩き始めた。
もう数えきれないくらい利用している駅だ。
ところが点字ブロックの曲がる場所を間違えたらしい。
いくら歩いてもホームに向かう階段にたどり着けなかった。
途中で間違ったことに気づいて足が止まった。
でも、修正しようとする気力もなかった。
いつか辿り着くと自分に言い聞かせてそのまま動き始めようとした時だった。
「駅員さんにお願いして入れてもらいました。」
彼女の息は少し乱れていた。
走ってきてくれたのが分かった。
学生たちは歩き始めた僕の後ろ姿を見てくれていたのだ。
そしていつもと違う方向だと気付いたのだろう。
彼女は事情を駅員さんに説明して駅構内への入場許可をもらったのだろう。
「先生、行きましょう。」
彼女は実習で学んだサポート方法で僕に肘を持たせた。
何故間違ったかを尋ねたりも一切しなかった。
そして慣れた感じで僕を階段まで誘導してくれた。
「やさしい駅員さんで良かったです。気をつけて帰ってくださいね。」
彼女が微笑んだ。
「ありがとう。また来週。」
僕はそれだけ言って階段を降りた。
やさしい人がもう一人いたことを本当は伝えたかったが飲み込んだ。
4月に初めて出会った時、ほとんどの学生達が見えない人とのコミュニケーションの
経験はなかった。
どう接すればいいか戸惑っていた。
共有した時間が学生達をどんどん変化させていった。
たった数か月で僕と普通にやりとりができるようになってくれた。
学生達が元々持っているやさしさを引き出してくれたのは正しい理解だ。
正しい理解が広がれば、やさしさが広がっていく。
やさしい社会になっていく。
そしてやさしさはきっとどこかで誰かの力になる。
(2024年5月26日)

庭の片隅に広さ3畳くらいの小さな畑を作っている。
畑の周囲はブロックで囲んである。
どの方向から歩いても作業靴がブロックにぶつかるので分かりやすい。
ちなみに自宅では室内は勿論だが庭でも畑でも白杖は使っていない。
室内では壁や手すりなどを触りながら動いているし、テーブルや椅子などにぶつかっ
て位置を確認している。
マットやジュータンを踏んだ感覚も情報のひとつだ。
庭では家の壁、玄関の柱、木の枝、ロッカー、植木鉢、エアコンの室外機、いろいろ
な物を触ったりぶつかったりしながら歩いている。
手をメインにして身体中がセンサーになっているのだと思う。
その手は分かりやすいようにわざと軍手はしていない。
木の枝とかが直接顔に当たるのは嫌なので麦わら帽子だけはかぶっている。
畝は2メートル程度の短さだが3本ある。
苗を植え付けたり肥料を与えたりの管理は畝と畝の間を通路にしてやっている。
間違って畑に入らないように通路にはロープを張っている。
このロープを手で触って確認してから通路に入るのだ。
今年も夏野菜の苗を植えた。
ミニトマト、キュウリ、ゴーヤなどだ。
ピーマンは初挑戦だ。
オクラは昨年失敗したので今年はあきらめた。
相性が合ってしまったのか虫のエサになってしまったのだ。
強い薬などは使わないようにしているのでどうしようもなかった。
植え付けて3週間が過ぎた。
恵みの雨も時々降ってくれているし、気温も上昇してきている。
毎日のように見ている。
僕が見るというのは触るということだ。
そんなに急に成長するはずはないのだがちょっと大きくなったような気になる。
そして喜んでいる。
小さな幸せがそこにある。
小さいけれど本物の幸せだ。
本物の幸せはだいたいが小さいサイズなのだと感じるようになってきた。
そしてあちこちでかくれんぼしている。
あちこちというのは特別な場所ではなくてまさに日常だ。
見つけた時を幸せっていうのかもしれない。
たくさん見つけたいとは思わなくなった。
でもちゃんと見つけたいと思う。
(2024年5月22日)

11刷

『風になってください』が出版されたのは2004年の暮れだった。
見えなくなって5年くらいの時間が流れていた。
見えない状態で生活していくことの大変さを日々感じていた。
努力を続けたが定職にも就けなかった。
視覚障害を社会に正しく理解して欲しいという願いは障害者運動などに関わることに
もつながっていった。
障害者団体の役員をしていた僕はレクリェーションの終了後にボランティアの皆さん
にお礼のメールを送った。
そのボランティアさんの中に出版関係で仕事をしていたという経歴の方がおられた。
偶然の出会いだった。
たった一通のメールがきっかけとなったのだ。
彼女に勧められて原稿を書き始めた。
勧められてというより説得されてと言った方が正しい表現かもしれない。
京都駅近くの喫茶店で僕はコーヒー、彼女はストレートティーだった。
煮え切らない僕に彼女は真剣に、そして諭すように活字の力を話してくださった。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が参加できる社会、そこに向かって活動し
ている僕の姿を彼女は近くで見ておられたのだと思う。
活字が僕の力のひとつになることを予想されておられたのかもしれない。
その時から彼女と二人三脚での本作りが始まった。
振り返ればそれが僕にとっての転機だったと思う。
もう天国にいってしまわれた彼女に今更ながら深く感謝する。
出来上がったばかりの本を手にした時に彼女に尋ねた記憶がある。
「本ってどれくらい売れたらいいのですか?」
1刷が全部売れたら成功という答えが返ってきた。
希望はあったが、それが現実になるとは彼女も僕自身もそして関係者も思ってはいな
かった。
奇跡は起こった。
ささやかな本はささやかに売れ続けた。
先日出版社から連絡があった。
10刷の在庫が少なくなったので11刷をしたいとのことだった。
1刷からもう20年が経過している。
本屋さんにはもうほとんど置いてないのだろう。
インターネットで本を購入するという社会の流れはこのささやかな本には後押しにな
ったのかもしれない。
たくさんの人がそよ風になってくださったのだ。
どこかで誰かが読んでくださる。
正しい理解は共感につながる。
共感は未来を創造していく力となる。
このブログも書いた数が千を超えた。
アクセス数も160万を超えている。
これもまた活字の力なのかもしれない。
当たり前だが、活字には書くと読むがある。
その二つが繋がった時に心も繋がるということになる。
『風になってください』はたくさんの図書館などに置いてあるらしい。
本になればどこかで誰かが読んでくださるという可能性は大きくなる。
僕がこの世を去っても希望は残ってくれるのかもしれない。
そんなことをふと思いながら、このブログも本という形にしてみたいと思い始めてい
る。
(2024年5月18日)

社会福祉

同行援護養成研修は土日や祝日を利用して実施されることが多い。
受講生の受講のしやすさからそうなっているのだと思う。
一昨日の土曜日は京都府指定の同行援護養成研修に参加した。
昨日の日曜日は滋賀県指定の同行援護養成研修だった。
同行援護養成研修を受講することでガイドヘルパーの資格を取得できる。
ガイドヘルパーというのは視覚障害者の外出をサポートしてくださる人のことだ。
ガイドヘルパーには外出をサポートした時間に応じてお給料が払われる。
このお給料は国の報酬で賄われていて、僕達は一部負担が原則となっている。
ガイドヘルパーが同行してくださることで、日常の買い物、通院、お散歩、余暇活動
などに視覚障害者が普通に安心して安全に出かけることができる。
同行援護というのは僕達にとってはとても有難い大切な制度ということになる。
ただ毎月決まった時間のお仕事があるわけでもないからガイドヘルパーにとっては不
安定な収入となりやすい。
だからこの制度はガイドヘルパーをしてくださる人達のボランティア精神によって支
えられているのが現実だ。
この同行援護制度そのものにも勿論だが、支えてくださっているガイドヘルパー達に
は本当に感謝している。
僕は当事者講師としてこの研修に関わることが多い。
今年度も京都、滋賀、大阪、広島などが予定に入っている。
東京と京都では同行援護養成研修の講師対象の研修も予定されている。
1回4日間の研修が6回だから結構な時間となる。
研修に当事者が関わらなければいけないというルールはない。
当事者が関わることで思いは伝わりやすいと信じているからオファーがあれば積極的
に関わっているという感じだ。
たまたま僕は講師資格もあるので僕に課せられたミッションのひとつだとも感じてい
る。
今回も土曜日の研修の後、受講生がおっしゃった。
「血の通う授業を受けられて良かったです。」
言葉の力は本当に凄いと感じる。
僕の疲労感は一瞬で吹き飛んだ。
明日も頑張ろうという思いにもつながった。
社会福祉の福という漢字には幸せという意味があり、祉という漢字にも幸せという意
味がある。
社会福祉というのは幸せのために人間同士が支えあうということなのだろう。
素晴らしいことだと思う。
(2024年5月13日)

お問合せフォームの不具合について

松永信也です。
お問合せフォームからのメールが僕に届いていないことが判明しました。
何かの不具合だと思われます。
せっかくお問合せくださったのに返信をできずにご迷惑をかけてしまった方もおられ
るかもしれません。
申し訳ありません。
お問合せフォームが使用可能になったらまた案内します。
それまで、以下のアドレスに連絡くださればと思います。
宜しくお願い致します。

umikaze.2021.akune@gmail.com