尾道

広島県尾道市にあるNPO法人の10周年記念式典にお招き頂いた。
地域で同行援護や居宅介護事業などをやっている小さな法人だ。
講演依頼があった時に僕は既に別の講演が予定に入っていた。
一度お引き受けしていた日程を変更するというのは基本的にはやってはいけないこと
だ。
それでもこの法人の記念式典には是非行きたいと言う思いがあった。
先に決まっていた団体に謝罪し別日を提案しご理解を頂いた。
法人の理事長は全盲の先輩だった。
7歳ではしかで失明し、厳しい運命に立ち向かって生きてきた人だった。
彼女のためにどうしても行きたいと思ったのだ。
会場の公民館のステージには立派なシャコバサボテンの鉢植えがあった。
沢山の花を咲かせていた。
片側にはシクラメンと葉ボタンの寄せ植えもあった。
テーブルが整然と並び、関係者の席には芳名が記されていた。
それぞれの席には式次第が印刷された小さな紙と記念のボールペンが置いてあった。
スタッフの方が前夜遅くまで準備に追われていたのを知っていた僕はその会場を見た
だけで笑顔になった。
そこには手作りのぬくもりとやさしさがあった。
定刻になって司会者のはっきりとした言葉が静かに流れ始めた。
主催者挨拶に続いて市長代理や市会議員の挨拶もあった。
それから僕の講演だった。
僕は会場のお一人お一人に語り掛けた。
障害があってもなくても変わらない人間の幸せを問いかけた。
一緒にお祝いに駆けつけてくれた友人の視覚障害の女性がよし笛も披露してくれた。
音色が会場を包んだ。
皆でそれぞれの人生を垣間見て、それぞれの人生にエールを送った。
拍手は僕にも彼女にも向けられたが、参加してくださったそれぞれの皆様の中で共鳴
していた。
会食に準備されたお弁当には地域の特産がいろいろと入っていた。
同じテーブルの地域の方にそれを教えて頂きながら食べた。
いつの間にか人間同士の絆が生まれているのを感じた。
あっという間に時が流れた。
日常は地元の車屋さんだという男性が監事をしておられた。
彼の飾らない閉会の言葉がこの式典によく似合った。
会場を出たらそこには穏やかな蒼い冬の空があった。
空もお祝いをしてくれていた。
帰りの新幹線はほとんど眠って過ごした。
東京からまだ一週間、休みなしの強行軍だったので無理もないと自分を慰めた。
でも、やはり、行けて良かったと思った。
理事長を始め、スタッフの皆様に心から感謝した。
(2023年12月10日)

12月3日 視覚障害者ガイドヘルパーの日

12月3日が「視覚障害者ガイドヘルパーの日」という記念日になった。
ガイドヘルパーというのは視覚障害者と一緒に外出して目の代わりをしてくださって
いる人達だ。
同行援護という制度の基、全国で活動してくださっている。
ガイドヘルパーによって、僕達の仲間の生活が支えられていると言っても過言ではな
い。
ただ、その数は全国的に不足しているし、仕事としての知名度も高くはない。
同行援護という制度を発展させるためにももっと社会に知ってもらわなければいけな
い。
そういう願いが記念日の制定につながった。
2023年12月3日、記念日認定証の授与式が東京の日本視覚障害者センターで挙行され
た。
全国の関係団体をオンラインでつないでの開催だった。
厚生労働省からもお祝いにきてくださった。
日本記念日協会の使者から授与される認定証を受け取るのが僕の仕事だった。
これまで活動してくださった全国のガイドヘルパーさんに感謝しながら、新しい次の
一歩を噛みしめながらしっかりと受け取った。
認定証と白杖が僕の右手にあった。
僕は満面の笑みを浮かべながら記念写真の撮影に臨んだ。
時代がひとつ進む瞬間に立ち会えたことを光栄だと感じた。
そして、カメラの向こう側にある未来をしっかりと見つめた。
(2023年12月4日)

師走の朝

東新宿のホテルで師走の始まりの朝を迎えた。
いつも通りの早い目覚め、シャワーを浴びてコーヒーを入れた。
コーヒーは愛飲しているイノダコーヒーのスティックタイプを持参している。
香りが部屋にこぼれ出す。
それから、アイフォンのアップルミュージックを使って朝のクラッシックを流した。
香りと音と味覚が結合する。
ささやかな幸せが生まれる。
同行援護資質向上研修は4日間の開催なので半分が終了したことになる。
僕はこの研修の責任者となっている。
僕には少し荷が重い役職なのだが、仲間のサポートを受けながら頑張っている。
全国から集った受講生の皆さんにいい研修を届けたいという思いは強い。
初日の東京は美しい水色の空の下にあった。
教えてくださったガイドさんと歩きながら空を見上げた。
久しぶりに水色を思い出した。
二日目は実技講師陣も加わって新しい緊張感も生まれた。
講師陣と受講生、あるいは受講生同士、生まれた空気は少しずつ熟成していく。
それぞれの受講生の学ぼうという意欲が全体を活性していくのだろう。
そしてそれぞれの人生への思いもそこにあるのかもしれない。
学びが僕達に寄り添ってくださっているのを感じる時、関われた機会に感謝する。
そして今回は研修終了の翌日に大きなイベントが控えている。
それを無事終えたら滋賀に帰ることになる。
66歳という年齢からすれば体力はあるのだろう。
丈夫に産んでくれた親に感謝だ。
いつまで活動を続けるのかと尋ねられることがある。
まだ答えは出ていない。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔になれる社会。
遥か遠くなのは分かっている。
分かっているからこそ、足が動く間は歩かなければとつい思ってしまう。
こんな痩せっぽっちののろい足では邪魔になるだけかもしれないという思いもある。
とりあえず、今できることは頑張ろう。
愚直に丁寧に、そして魂を込めて頑張ろう。
(2023年12月1日)

教えてもらえる喜び

同行援護養成研修の最終日の午後は戸外実習だった。
いろいろな立場の受講生と歩いた。
パートナーが視覚障害者という方もおられた。
娘が視覚障害者だという方もおられた。
家族ならではの思いが溢れていた。
教育関係者もおられた。
生徒達への愛情をまぶしく感じた。
視覚障害児と接する立場にあるという養護教諭の先生はやさしさに満ちていた。
流された涙が光っていた。
心からのエールを送った。
福祉の専門家もおられた。
「これまでの自分の理解が薄っぺらかったと思う。」
そうおっしゃった男性はどういう立場で受講されたかは忘れてしまった。
そんな言葉を紡ぐ彼を僕はかっこいいと感じた。
きっと誠実に仕事をされてきた方なのだろう。
訪問介護に携わっておられる女性にはプロフェッショナルとしての姿勢を感じた。
一緒に歩きながら、僕もこういう人に介護して欲しいと思った。
そんなことを考えてしまう年齢になってきたということだろう。
受講生の代表として修了証書を受け取ったのは高校生の男の子だった。
彼自身の人生がきっと豊かになるだろう。
研修が終了して挨拶にきた女性は20歳代だった。
「小学校の時に松永さんの講演を聞きました。今回の研修で話された内容もいくつか
憶えていました。」
きっとその時、彼女は10歳くらいだったはずだ。
無性にうれしかった。
不思議な再会に僕は握手をした。
妻が20年くらい前に僕のサポートをしてありがとうカードを持っていると教えてくだ
さった受講生もいた。
長い間、活動を続けてきたのだとしみじみと思った。
僕は受講してくださったすべての人にありがとうを伝えた。
皆さんから頂いたぬくもりがまた僕のパワーとなっていく。
僕は講師という立場だ。
でも教えながら教えられている。
教えられていることの方が大きいような気がする。
教えられていることに気づく時、うれしくなる。
そしてもっと学びたいと思う。
(2023年11月27日)

シュトーレン

視覚障害者は目が見えない人と思われがちだ。
実際には見えない人もおられるが、見えにくいという人の方が多いかもしれない。
人生の途中で視覚障害者となる人がとても多いということもあまり知られていない。
ちなみに、見えない僕が電車の入り口で立っているのは空席が見つけられないからだ
ということも話をすれば多くの方が驚かれる。
単純なことでも話を聞いて頂いて理解につながることは多くある。
正しく理解してもらうってとても大切なことだ。
共生の社会の第一歩だろう。
そういう意味からも学校などで話をする機会はとても有難い。
教育は未来に直結する。
出会った教育者の人達の中でエールを送ってくださる人は少なくない。
エールは力となる。
先日の小学校の校長先生もそのお一人だ。
「松永さんの話を子供達に聞かせたい。」
校長先生から届いたメールにはそんなことが書かれてあった。
そしていつも僕の好きなコーヒー豆をプライベイトで準備してくださる。
今回はコーヒーゼリーもあった。
コーヒー好きの僕にはうれしい活動機会となっている。
その小学校にこれまた知り合いの先生が来られていた。
先生は小学校の校長を退職された後、大学の教育学部で教鞭をとっておられる。
駅で僕を見かけたりした時もサポートしてくださる先生だ。
いつの間にか仲良しとなった。
先生は今回手土産を持ってきてくださった。
近くにおいしいパン屋さんがあるらしい。
お休みの今日の午後、そのパンの包みを開けた。
僕の大好きなシュトーレンだった。
ドライフルーツもナッツもたくさん入っていた。
僕がシュトーレンが好きと話した記憶はない。
たまたまの偶然だろう。
そう言えば、シュトーレンを僕に教えてくれたのは視覚障害者の人だった。
どんどん見えなくなる途中で、趣味のパン作りを続けておられた。
クリスマス前にプレゼントしてくださった。
一度味わっただけで大好物となった。
そんな優しい思い出も蘇った。
そして、食いしん坊の笑顔が弾けた。
お二人からのコーヒーとシュトーレンと思い出で休日の午後のひとときを過ごした。
おいしい時間に合わせたくて、グーグルでピアノ曲もリクエストした。
優雅な時間が流れた。
もうすぐ12月なんだなとしみじみと思った。
今年もここまで生きてこれたんだなと思った。
そしてしみじみと幸せを感じた。
ありがとうございますと自然に言葉が口からこぼれた。
(2023年11月24日)

若者達

午前中の空き時間を使って視覚障害者の人達が働いている事業所を訪ねた。
その事業所では点字印刷をやっている。
名刺への点字印刷は100枚で1,650円だ。
紙代と不通の印刷代を合わせると僕の名刺は1枚20円以上することになる。
名刺はいろいろな人にお渡しするのだから点字という文字の啓発になる。
ちょっとお高いがいい機会だと思って続けている。
今回も500枚をお願いした。
それから近くのコンビニでおにぎりを購入して駅に向かった。
慌てると危険だと分かっているのでいつも時間的余裕を持って動く。
JR、地下鉄、近鉄と乗り継いで、新祝園駅に到着したのは12時過ぎだった。
迎えをお願いしていた時刻までにはだいぶ時間があった。
駅員さんにどこかベンチを尋ねたがそれはなかった。
少しだけ腰掛けられるような手すりがあったのでそこに案内してもらった。
その時間帯の駅は閑散としていた。
僕は学校に到着してから食べるつもりだったおにぎりをリュックサックから取り出し
た。
セロファンを外して自分で作るタイプの海苔巻きおにぎりだ。
ちなみに、目が見えなくても上手にできると僕の自慢のひとつだ。
ところが、今日のおにぎりはセロファンの開け口が指先の触覚で確認できなかった。
あちこちを幾度も触って悪戦苦闘した。
「お手伝いしましょうか?」
若い女性の声だった。
「お願いします。本当は僕はこれは得意なんだけどね。今日は開け口を探せないんだ
よ。」
と言いながらおにぎりを彼女に手渡した。
僕の悪戦苦闘を見ていてくれたのだろう。
うれしさと恥ずかしさが混在した気持ちだった。
「海苔、触っちゃうけどいいですか?」
彼女は微笑みながら手伝ってくれた。
大学生だった。
僕はついでに帰路のチケットの購入もお願いした。
彼女は快く引き受けてくれた。
僕にチケットを渡すと改札口に消えていった。
その爽やかさと堂々とした感じにちょっと感動した。
そして幸せになった。
講演先の中学校に到着したら、保護者の方も来られていた。
僕は誰かに伝えたくて、すぐにその話をした。
それから中学1年生にいつものように話をした。
中学生達はそれぞれに一生懸命に聞いてくれているようだった。
「視覚障害者の人にどう声をかけてどう手伝えばいいのですか?」
最後の質問タイムには素敵な質問も出てうれしかった。
この中学生がいつか今日の大学生みたいになって手伝ってくれるだろうなと思った。
講演を終えて新祝園駅まで送ってもらって帰路に着いた。
竹田駅で地下鉄に乗り換えようとして迷ってしまった。
同じホーム、反対側の電車に乗るというスタイルなので簡単だと思われがちだが結構
ハードルは高い。
見えないでまっすぐ歩くというのは難しいのだ。
斜めに歩いたらしく柱に当たって方向を見失った。
すぐにサポートの女性の声がした。
「お手伝いしましょうか?」
若い女性だった。
彼女のサポートで予定の電車に乗車でき、しかも座れた。
有難いと思った。
また、幸せを感じた。
途中で東西線に乗り換えて山科駅に着いた。
長い連絡通路を歩いてエスカレーターを目指した。
点字ブロック沿いにまっすぐ歩いて階段にぶつかった。
これはミスではなくわざとそうしているのだ。
階段を白杖でキャッチしてからエスカレーターに向かうのがスムーズに動けるのだ。
でも見ている人からは迷ってしまったように感じられるかもしれない。
「エスカレーターは左ですよ。」
若い男性の声だった。
僕は早速彼の行先を尋ねた。
同じJR山科駅だったが行先は逆方向で違うホームだった。
「この時間、とても込んでいますからホームまでサポートしますよ。」
彼は僕の利用するホームえのエスカレーターまで案内してくれた。
「ありがとう。助かったよ。」
僕はエスカレーターから振り返ってそう伝えた。
またまた幸せを感じた。
電車は最寄り駅に着いた。
最後の難関だ。
階段の場所を知らせる小鳥の声の放送を探しながら歩き始めた。
「一緒に行きましょうか?」
高校生くらいの女の子の声だった。
僕は改札口までのサポートを頼んだ。
何の不安もなくホームを歩いた。
音に集中して、足元のでこぼこに注意して、人や柱にぶつからないようにして、すぐ
横には落ちたら大変なことになる線路があるという恐怖心と戦いながら歩くのが通常
だ。
改札口までのわずか数分、その気持ちは天国と地獄だ。
彼女に心からのお礼を伝えた。
若者たちに手伝ってもらいながら今日の一日を無事終えた。
勿論、毎日がそうではない。
でも今日は確かにそうだった。
ほんの少しかもしれないけれど、輝き始めている未来があることを感じた。
また明日も頑張れると思った。
頑張りたいと思った。
(2023年11月21日)

イルミネーション

35歳過ぎくらいから目の調子がおかしくなった。
不安が募った僕は37歳で眼科を受診した。
結局39歳でほとんど見えなくなった。
見えなくなる数年前くらいからイルミネーションが社会に登場したのだったと思う。
阪神淡路大震災の後に神戸ルミナリエが話題となったが出かけなかった。
失明の前年だった。
もうそれを見る力は僕の目にはほとんど残っていなかった。
出かける気力も失せていたのかもしれない。
失明の恐怖が現実味を帯びてきた時期だったような気もする。
結局その数年後、僕は完全に光を失った。
長い時間が流れた。
いつの頃からか見たことのないイルミネーションをうれしく思うようになった。
イルミネーションと聞くと心が少し弾むようになった。
僕の中の冬景色のひとつとなっていったのかもしれない。
イルミネーションに近いかもしれない光、ひとつだけ思い出すものがある。
クリスマスツリーの赤と緑の豆電球が点滅していた光だ。
大学時代に小さなツリーセットを買い求めて楽しんだ。
3畳一間の古い汚れた部屋がその光でそっと優しくなった。
部屋の電灯を消して、飽きずに見ていた。
たった十数個の光だったと思う。
イルミネーションは数えきれないほどの電球がいろいろな光を放つと聞いた。
光が降り注ぐとも聞いた。
想像しようとしても脳がついていかない。
結局僕の脳はあのクリスマスツリーの赤と青の光を思い出す。
そしてその光を愛おしく思う。
イルミネーション、いつか見て見たいもののひとつだ。
今年もイルミネーションの便りが届き始めた。
冬が始まった。
(2023年11月20日)

International White Cane Awareness Day

International White Cane Awareness Day
11月15日は国際白杖の日だった。
僕は京都市西京区女性会の研修講師としてお招きを受けていた。
会場には各学区の役員さん達が集われていた。
前半が僕の講演、後半が視覚障害の音楽家である楊雪元(ようせつげん)さんのライ
ヴだった。
まさに、国際白杖の日にふさわしい内容だった。
「ブログ、読みました。」
最初の挨拶の時、司会者の方がおっしゃった。
さりげなく応援してくださっているのを感じた。
僕はいつものように心を込めて話をした。
目の前には灰色以外は何もない。
明るさも暗さも何もない。
未来を見つめながら話をした。
祈りながら話をした。
皆さんが真剣に聞いてくださっているのが伝わってきた。
大きな拍手をくださった。
うれしかった。
自分の講演が終わった後は一人の観客として楊雪元さんのライヴを楽しんだ。
楊雪元さんは生まれながらの全盲だ。
中国で笛奏者のプロとなり、日本にきてからは芸術大学で声楽も学ばれた。
こういう人のことを天才というのだろう。
笛奏者でありながらピアノも演奏されるしテノール歌手としての歌声も素晴らしい。
白杖に穴を空けて作った笛で演奏されたのには笑ってしまった。
竹内まりやさんの「いのちの歌」も披露してくださった。
『生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに
胸をよぎる 愛しい人々のあたたかさ
この星の片隅で めぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりも たいせつな宝物
泣きたい日もある 絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影
二人で歌えば 懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの 優しいあのぬくもり
本当にだいじなものは 隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に かけがえない喜びがある
いつかは誰でも この星にさよならを
する時が来るけれど 命は継がれてゆく
生まれてきたこと 育ててもらえたこと
出会ったこと 笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう』
最初のフレーズで見えなくなった頃を思い出した。
歌声が心臓の鼓動をたたいた。
涙がこぼれそうになった。
見えない世界で生きてゆくことの意味、本当はまだ見つけられないのかもしれない。
泣きたい日も絶望に嘆く日も今でもある。
弱虫なのだと思う。
でも、ここまでこれたのは間違いなく出会った人達がいたからだ。
見えない僕にできること、見えない僕がしなければいけないこと、それは感謝を伝え
ること、そして未来への種を蒔くこと。
正しく知ってもらえれば、一緒に歩いてくださる人達がきっと増えていく。
「来年、地域の社会福祉協議会の研修でも話をしてください。」
会場を出る際に会長がそうおっしゃった。
素直に有難いと思った。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔になれる社会。
それはずっと遠い遠いところにあるのは分かっている。
僕の歩幅が小さすぎることも僕は知っている。
でも、ほんの少しかもしれないけれど、また近づいたと思う。
集ってくださったすべての人にありがとうを伝えたい。
心あたたまる国際白杖の日となった。
(2023年11月16日)

チューリップの球根

袋は5つに分けてあった。
それぞれの袋にはチューリップの球根が3つずつ入っていた。
大きな立派な球根だった。
そして、それぞれの袋に点字で色を書いてあった。
赤、白、黄色、桃、白桃。
僕はプランターを3個準備した。
それぞれのプランターに土を入れた。
土の上に5つの色の球根を並べた。
それから球根の高さの倍くらいの穴を掘って丁寧に埋めた。
埋め終わってジョーロでたっぷりの水をかけた。
僕が光を失ってもう25年くらいになる。
彼女は20年くらいだそうだ。
そんなに長い時間、僕達は色を見ていない。
そして、もう見ることはないだろう。
彼女の故郷はチューリップが有名らしい。
草花を育てることが趣味のひとつになっている僕にプレゼントしてくれたのだ。
「私の好きな色で選んでしまいました。」
彼女からのメッセージにはそう書かれてあった。
彼女が選んでくれた色を僕はとても愛おしく感じた。
「春に待ってるからね。」
僕は言葉をわざと口に出してチューリップに伝えた。
咲いたら彼女に真っ先に伝えてあげたいと思った。
一緒にその色を思い出す。
間違いなく、それは幸せの瞬間になる。
(2023年11月13日)

運のいい日

バスは駅のロータリーのいつもの場所とは違う一で止まったらしかった。
実はこれは僕にとっては大問題だ。
自分の居場所をイメージできないということは頭の中の地図が使えなくなるのだ。
迷子になってしまう原因となる。
「車が多くて、バスがいつもよりだいぶ後ろに停車しました。」
歩き始めた僕に乗客の女性が教えてくださった。
何も分かっていなかった僕はとても助かった。
その流れで僕は彼女の肘を借りて歩いた。
地元の比叡山坂本駅の乗車位置は電車の前方にあり、目的地の山科駅の階段は電車の
後方にある。
どちらかの駅でホームを移動しなければいけない。
地元の比叡山坂本駅のホームは古くて路面にガタガタがあり途中に柱もあり歩きにく
い。
山科駅は乗降客の数が多くてこれはこれで大変だ。
一長一短なのだが、慣れということで山科駅でのホーム移動を選択している。
電車は4両編成から12両編成まである。
1両の長さは20メートルだから12両の新快速電車の場合は200メートル程度を移動す
るのだ。
やはり怖い。
駅のアナウンスが電車が12両で到着することを告げた。
僕はできるだけ後方の車両に乗りたいと彼女にお願いした。
彼女は快く引き受けてくださった。
一緒に電車に乗った。
朝のラッシュで込んでいる状況だったので少しの会話しかできなかった。
それでも僕の状況を理解してくださったようだった。
電車が山科駅のホームに入った時におっしゃった。
「階段は降りて右です。」
「ナイス情報!ありがとうございます。」
僕は感謝を伝えて電車を降りた。
確かに少し右に動いたら階段があった。
それから地下鉄と京阪を乗り継いで枚方市に向かった。
午前の枚方市の高校、午後の京都市内の大学、いつもの仕事を終えて逆コースで山科
駅まで辿り着いた。
「松永さんじゃないですか。」
たまに比叡山坂本駅からの電車で一緒になる男性とばったり会った。
彼は買い物で山科駅で途中下車されたとのことだった。
その帰路に僕を見かけられたのだ。
勿論、僕はそれから彼の肘を持たせてもらった。
彼のサポートで山科駅のホームを移動した。
彼は熟知されていて、電車の降車口は比叡山坂本駅の階段に一番近い場所だった。
改札を出た後もそのままバス停まで送ってくださった。
結局、僕は往復ともホーム移動を手伝ってもらった一日となった。
ホームは一番緊張して恐怖感のある場所だ。
それが往復ともサポートしてもらえたのだ。
こういう日を運のいい日というのだろう。
運のいい日が一日でも多くありますように。
(2023年11月10日)