コオロギ

バスを降りて、歩き始めた時、
老婦人が声をかけてくださった。
「22棟の人やね。私も同じだから、一緒に帰ろうか。」
「ありがとうございます。じゃあ、肘を持たせてください。」
僕達は歩き始めた。
ゆっくりゆっくり歩いた。
ご主人とは死別され、子供達は成人して家を離れ、
今は、一人暮らしだとのことだった。
「寂しいですね。」
僕の問いかけに、
「もう慣れてしまったわ。」
彼女は笑った。
同じ団地で暮らし始めて、
お互いに、もう、30年近くの時間が流れていることを知った。
もし、僕が、見えていたら、
ひょっとしたら、最後まで、
話す機会はなかったかもしれない。
たった、数百メートル、たった数分間、
僕達は、それぞれの人生に思いを重ねた。
コオロギの声を聞きながら、
歩いている道を確認するように、
歩いてきた道を確認するように、
僕達は歩いた。
団地の前に着いた時、
「初めてこんなことしたから、うまくできなくて。」
彼女が微笑んだ。
「助かりました。ありがとうございました。
また、声をかけてください。」
僕は、しっかりと頭を下げた。
僕達の足元で、
また、コオロギが歌った。
(2012年9月20日)

高校生

夏休み明けの、久しぶりの授業、
彼女は、僕と会うとすぐに、
どこかの駅で、白杖を持った視覚障害の人のサポートをしたということを、
うれしそうに報告してくれた。
僕は、ありがとうって言いながら、
右手を差し出した。
笑顔がつながった。
毎年、この高校で、
家庭看護の中の、福祉という特別授業を受け持っている。
担当教師と協力しながら、体験実習なども実施している。
今時の、普通の高校生、
きっと寝ている生徒もいるだろうし、
おしゃべりが止まらない生徒もいる。
話を聞いてくれているのかなと、
不安になることもある。
でも、年度の最後に、生徒達の書いたレポートを読むと、
伝えることの大切さを、
いつも実感する。
僕達へのエール、そして、
「これから、白い杖の人を見かけたら、サポートをします。」などの、
共に暮らす社会へ向かうメッセージが並ぶ。
報告してくれた彼女も、
白杖の人を見かけた時、声をかけていいのか、どうしたらいいのか、いつも迷っ
ていたとそして、何もしなかったと、
担当教師に話していたらしい。
何度かの授業で、彼女は理解し、そして、勇気も培った。
若者達が行動する社会は、
そのまま、未来を創造していく。
楽しみだ。
(2012年9月15日)

視能訓練士

京都府の北部の病院で働いている彼は、
仕事が終わってから、
3時間車を走らせて、
僕達との会食に来てくれた。
昨夜の会食は、皆、自己負担。
交通費も出ない。
でも、彼は、喜んでと、来てくれた。
見える人3人、見えない人3人、
ささやかな食事をしながら、
僕達は、目のことを話した。
日本のあちこちで、
まだうつむいて、
僕達との出会いを待っているはずの仲間のことについて話した。
僕達に、どんなことができるのだろうと、話した。
彼の職業は、視能訓練士、
目の検査などに携わる専門家だ。
彼は、医療に携わる彼の立場で、
僕達も笑顔で生きていける同じ未来を見つめた。
丁寧な語り口に、彼の誠実さがにじみ出ていた。
僕達は、笑いながら、時には、シビアな意見にも耳を傾けながら、
あっという間の3時間を過ごした。
それぞれが、それぞれの収穫みたいなものを実感しながら、
次のステージでの再会を誓った。
僕は、烏丸で皆と別れて、
阪急電車で、地元の桂駅へ向かった。
桂駅に着いて、改札を出て歩き出した時、
僕を呼ぶ声がした。
僕が御世話になっている眼科のドクターだった。
ちょっとの時間の立ち話で、お互いに、会食の帰宅途中だと判った。
白衣を脱いでいる彼は、一市民として、僕のサポートを申し出てくれた。
点字ブロックまでのわずかな距離を、手引きで歩きながら、
手引きしている、されている、この二人のオッサンの風景をイメージした。
かっこいいと思った。
ドクターと別れて、乗車したバスの中で、
また、3時間かけて帰路に着いている視能訓練士の彼を思い出した。
僕達の未来に、思いを寄せてくれ、力を貸してくれる医療スタッフがいてくれる
ことを、心から有難いことだと思う。
そして、きっと、つながりが、
大きな力となっていくだろう。
(2012年9月9日)

姫りんご

あの頃、僕は、大徳寺の近くに部屋を借りて、
千本北大路にある仏教大学に通っていた。
彼女は、同じ大学の同じ社会福祉学科だったが、
一緒に授業を受けた記憶は残っていない。
僕は、たまにしか学校に行かない学生だったし、
彼女は、確か、勉強よりも、バレーボールに夢中になっていた。
女子学生には縁が薄かった僕にとっては、数少ないガールフレンドの一人だった。
たまに会って、どんな話をしていたのだろう。
卒業後、一度だけ、お茶をしたが、
その後、会うことはなかった。
それぞれの人生を歩んでいった。
50歳になった時、彼女が、たまたま見たテレビに、
たまたま、僕が出演していた。
偶然が、僕達を再度結んだ。
と言っても、幾度かのメールだけで、
まだ、再会はしていない。
今回も、さわさわに彼女が来てくれた時、僕は、仕事でタイミングが合わなかっ
た。
彼女が置いていった花篭を触った。
バラの花の横に、姫りんごがあった。
それを触った時、
僕のことを、おにいちゃんと呼んでいた彼女の、
屈託のない笑顔が蘇った。
人は、視線が合っただけで、友達になれることがある。
人は、ちょっと会話をしただけで、友達になれることがある。
人は、握手をしただけで、友達になれることがある。
そして、何十年経っても、築いた思いは変わらない。
人間って、素敵な生き物だと、つくづく思う。
(2012年9月8日)

池袋にて

東京での会議は、京都からは日帰りが多いのだが、
今回は、二日連続なので、
僕は、これを、池袋のホテルで書いている。
18歳の秋から冬を、僕はこの街で過ごした。
たった半年間程だったのに、
池袋駅北口を出て、
アパートまでの道筋や、
その中の風景をしっかりと憶えている。
もう30年以上も暮らしている京都での、
去年や一昨年のことを、
いくら頑張っても思い出せないのに、
あの頃のことは、
まるで、昨日のことのようだ。
故郷への新年の挨拶をするために、
10円玉を何個か握りしめて、
公衆電話に並んだ時の、
ふと見上げた空の蒼さ。
何年ぶりかの大雪が、
東京を
真っ白に染め上げた静寂の街並み。
ネオンライトの中の、
客引きのお姉さんの、
一瞬の悲しそうな微笑。
仲間と遊び明かした朝、
高層ビルの間で輝き始めた太陽。
確かに、あの頃の僕は、見えていたんだ。
当たり前だけど、見えていたんだ。
今、見えなくなっている自分を、
僕は不幸だとは思わない。
あの頃の僕も、今の僕も、
僕にとっては、大切な僕に変わりはない。
でも、青春の風景が残っているのは、
素直に、うれしいことだと思う。
(2012年9月3日)

タオルハンカチ

見える人、見えない人、見えにくい人、
皆で何かやりたいねと、
僕達が始めた町家カフェさわさわ。
試行錯誤しながら、きっと前に進んでいるのだと思っている。
先日、友人から、さわさわに立ち寄ったら、臨時休業だったとメールがあった。
オープンして、50日程度、スタッフを集められなくての臨時休業は2回だから、
まさに、タイミングが悪かったのだ。
汗かきの彼が、タオルハンカチを片手に、
店の入り口でがっかりしている光景が浮かんだ。
彼との出会いは、もう15年くらい前、
失明して、訓練を受けて、何も再就職の場所が見つけられなくて、
一人で視覚障害者用の物品の販売をやった頃だ。
「夢企画」という名前で、まさに、夢みたいなことをやっていた。
当時、40歳になったばかりの働き盛りで、
ただ、目が見えなくなっただけで、
無職という自分が許せなかった。
でも、雇用してくれるところもなく、
仕方なく、始めたものだった。
京都市の指定業者の資格を取ったり、
携帯電話の代理店をしてみたり、
僕なりに頑張ったけれど、殆ど、収入にはならなかった。
人生に、無駄な時間なんてないと、聞いたことがあるが、
今振り返れば、その通りだ。
お金儲けはできなかったけれど、その5年間で、たくさんの仲間達と話す時間が
あった。否応なしに、「見えないってどんなことだろう?」とか、
「障害って何だろう?」とか、
自分自身とも向き合う時間になった。
そして、エールを送ってくれる人達がいるのも知った。
彼は、僕のところに、商品を届けにくる業者だった。
エレベーターのない団地の5階まで、
フーフー言いながら、商品を運んでいた。
いつも、タオルハンカチで汗を拭きながら、
さりげない会話で、僕を励ましてくれた。
そして、そのうち、時々、僕の配達を手伝ってくれた。
きっと、リュックサックにたくさんの商品を入れて、
大きな紙袋を下げて、白杖で歩く僕を見かねてのことだろう。
15年の間に、お互いに転職した。
タイガースが優勝した年には会いましょうが、
僕達の合言葉だ。
だから、会ったのは・・・。
人生には、こんな感じもいい。
男同士、こんな出会いもいい。
(2012年8月28日)

浜松にて

僕は、これを、静岡県浜松市のホテルで書いている。
昨日から、三泊四日の予定で、
日本盲人会連合主催の資質向上研修に参加しているのだ。
仕事柄、興味のある研修なので、
自己研鑽の機会になればと願っている。
とは言え、せっかくの旅気分、そんなひとときも大切にしたい。
今朝、京都のいつもの暮らしより早起きして、
仲間達と海を見に出かけた。
ホテルを出て、コンビニでおにぎりを買って、
それから、タクシーに乗り込み10分程度、
そこから、日本三大砂丘のひとつである砂浜を徒歩で10分程度。
太平洋の荒波の音が、僕達を包んだ。
波打ち際の流木に腰を降ろして、
おにぎりをほおばった。
夏の朝らしい、ジリジリと照りつける太陽、潮風、セミの声。
目前に広がる海が、
ふと、故郷への思いを揺さぶる。
夏休みの絵日記には、
必ず、海で遊んだ思い出を描いた。
その絵が、記憶の中で蘇る。
蘇ったことに驚いた。
そして、うれしくなった。
また、秋になったら、故郷へ帰ろう。
故郷の海に、会いに行こう。
(2012年8月22日)

五山の送り火

視覚障害者ガイドヘルパーをしている彼女の声は、
一日の仕事の疲れとは裏腹に、とても爽やかだった。
利用者と、送り火の護摩木の奉納に行ってきたとのことだった。
利用者のご家族の戒名を、耳で聞いて、
携帯電話で、一文字ずつその漢字を確認しながら、
護摩木に代筆するのは、結構大変だったと微笑んだ。
その微笑には、仕事を通して利用者の真心に寄り添えた、
ガイドとしての満足が感じられた。
昨年から実施された同行援護という福祉サービスは、
従来の、移動支援に加えて、代読代筆などの情報提供が保障されるようになった。
僕達の社会参加を考えると、大きな進歩だ。
目が見えなくても、見える人と同じように、
この街の慣わしに参加できる。
素晴らしいことだと思う。
今夜も、好天に恵まれて、五山が燃えた。
彼女がガイドした利用者の思いも、きっと、天に舞い上がったのだろう。
送り火が消えて、今年の夏も、半分が終わった。
(2012年8月16日)

列車

9時半過ぎには、京都ライトハウスに着いた。
10時から17時半まで、四つの会議に、連続して参加した。
どの会議の会場も、エネルギーが満ちていた。
老若男女、京都府下、各地からの参加だった。
生まれも育ちも、仕事も居住地も、支持政党も、宗教も、趣味も特技も、皆バラ
バラ。
勿論、応援している球団もバラバラ。
全盲、弱視、先天盲、中途失明、そういう違いはあっても、
共通しているのは、皆、目が不自由ということだ。
時には、激しい議論もするし、考え方がぶつかることもあるが、
お互いを尊重し、認め合う姿勢は揺るがない。
同じ時代に、この京都から、同じ目的地に向かう列車に乗り込んだ仲間なのだろ
う。
まだ、点字ブロックも音響信号もなかった50年前に、
先輩達は、この列車で走り始めた。
その先輩達は、皆下車して、夢だけは残った。
見えても、見えなくても、見えにくくても、
一人の人間として、笑顔で参加できる社会が訪れますように。
列車は、加速しながら、未来という目的地に向かって、しっかりと走り続けてい
る。
疲れた身体を吊革に預けながら、
今日の充実感が、僕を支配した。
この列車に、仲間達と一緒に乗れたこと、
僕にとっては、人生の幸せのひとつとなった。
(2012年8月12日)

山男

お昼過ぎ、少し時間があったので、町家カフェさわさわへ立ち寄った。
いつものカレーを食べて、のんびりとした時間を過ごす。
途中、ご主人が網膜剥離という方が、職場のお昼休みを利用してと来店された。
病院に行っても、ほとんど情報がないことを嘆いておられた。
僕の知っている情報や、相談機関を紹介し、いつでもと声をかけておいた。
本人は勿論のこと、目がどんどん不自由になってきた人の家族、
大きな不安の中におられる。
日本の福祉は、自分達が動かないと、
なかなか適切なサービスに辿り着けないのが現状だ。
相談支援の重要性を心から願う。
僕自身も、それによって、見えなくても、僕なりの新しい人生が始まったのだか
ら。
帰り際に、白杖の二人組みの男性が来店された。
趣味の話題になって、そのお一人が、山登りをしておられるのを知った。
少年時代に山と出会い、
青年の頃は、一年の100日くらいを、山で過ごしたこともあるそうだ。
60歳になった今、彼の目は、網膜剥離、緑内障で、もうほとんど見えない。
でも、彼は、見える仲間と一緒に、今も山に向かう。
白い杖を持って、山に向かう。
「岩場などは、はいつくばって登っています。きっと、不細工な格好でしょうね。」
彼が、笑いながら話す言葉は、
堂々としていて、そして穏やかだ。
そっと、人間の価値とか、人生の意味を伝えてくれている。
素敵だなと思う。
そして、さっきの夫婦が、ここにいたら、きっと少し楽になるだろうなと、ふと
思った。いつか、僕も、彼の言う、風が流れる頂上に立ってみたいなと思いなが
ら、
でも、直前になれば、しんどいからやめようと、きっと思うんだろうなと、
恥ずかしさを飲み込んで、店を出た。
(2012年8月10日)