あたたかな視線

バス停の近くにさしかかった時、
ズボンの右ポケットから小さな音で機械音声が聞こえてきた。
携帯電話だ。
僕の携帯は発信者が登録してある人の場合は氏名を機械音声で教えてくれ、
それ以外の場合は一般的な呼び出し音が鳴るようにセットしてある。
歩行中や公共交通機関などでは基本的には出ないことにしているのだが、
今朝は協会の会長からだったので急用だろうと思っって出た。
僕は携帯電話で会話をしながらゆっくりとバス停の方向に歩き出した。
いつもの距離感でバス停のだいぶ近くまで来ているのは判っていた。
突然誰かが僕の手をそっと握って、
バス停の点字ブロックへ誘導してくださった。
電話を切った僕はすぐに手の主へ感謝を伝えた。
「いつもはしっかりと歩いておられる姿を見ているのですけど、今日は危なっかしい感じだったので・・・。」
ご婦人は微笑みながらおっしゃった。
画像のない僕達はつい声をかけてくださる人だけを認識しがちだが、
きっとあちこちで、見ていてくださっている人がいらっしゃるのだろう。
いや数としてはそちらの方が多いのだろう。
街角や駅などで僕を見かけたけど大丈夫そうだったから、
あるいはサポーターと一緒だったから声をかけなかったという話はよく聞く。
白杖を持ち始めた頃はその姿を見られたくないような気持ちもあったけれど、
それは思い違いだった。
視線の多くはあたたかなやさしいものなのだ。
見守られているということなのだ。
凶悪事件が発生し悲しいニュースが報道されるたびに、
メディアは社会に警笛を鳴らす。
それを否定するつもりはないけれど、
社会のあちこちに日頃は気づかないようなやさしさがあるのも確かな事実だ。
だからこそ、見えない僕が街を歩けるのだ。
(2016年2月5日)