丁度になる

僕はホームで京都行の電車を待っていた。
電車が到着しドアが開いた瞬間、突然彼の右手が僕の左手を強く掴んだ。
無言だった。
僕を電車に誘導しようとしての行動だと分かった。
でもそれは僕にとってはとても怖さを感じてしまう方法だ。
僕は瞬時にその手を振りほどいて彼の右ひじを持たせてもらった。
それでも彼の右手は僕の背後から僕を支えようと動いた。
肘を持たせてもらえば大丈夫ですと説明したが返事は聞こえなかった。
満員状態の電車に乗ると彼は空いている席を探してくださった。
どうやって座らせようかとのぎこちなさが感じられたので僕は白杖を使いながら自力
で座った。
「ありがとうございます。助かりました。」
僕は御礼を言った。
やっぱり彼は無言だった。
電車が京都駅に到着して僕が立ち上がった時、彼はまた僕の手を掴もうとされた。
ずっと横にいてくださったらしい。
僕はまたその手を振りほどいて彼の右ひじを持たせてもらった。
ホームに降りたタイミングで僕はありがとうカードをお渡しして感謝を伝えた。
結局彼は終始無言だった。
半月ほどして彼に再会したが最初は彼だとは分からなかった。
同じ駅でやっぱり電車のドアが開いた瞬間だった。
彼は今度は僕を掴もうとはされなかった。
彼の右手を僕の左手にトントンとして僕に掴むようにと促してくださった。
この方法をされる人は時々おられるのでその時点で彼とは分からなかったのだ。
電車に乗車した後は少し中まで移動して手すりを触らせてくださった。
僕達は乗降口から少し離れた場所に経ったまま20分を過ごした。
込んでいたので僕も会話は控えた。
お互いにずっと無言だった。
電車が京都駅に到着して僕が降りようと動き始めた瞬間だった。
彼はまた僕を掴もうとされた。
終点の京都駅で乗客が一気に降り口のドアに向かう。
そこを動く白杖の僕を危険に思われたのだろう。
僕はまたその手を振りほどいて彼の右ひじを持たせてもらった。
ホームでありがとうカードをお渡ししようとして僕は初めて前回の彼だったことを知
った。
「名刺はこの前もらった。」
初めて聞く彼の声だった。
それだけ言うと彼はホームの雑踏の中に消えていかれた。
僕は前回と同じ曜日の同じ時刻の電車だったことに気づいた。
三回目もやはり同じ曜日の同じ時間帯だった。
今度はホームではなく改札口だった。
偶然そこで出会ったのか、いや僕の姿を見て待っていてくださったのかもしれない。
彼はまた僕の手にトントンとされた。
僕はその時点で彼だとほとんど確信した。
単独移動の時は僕は階段を使う。
点字ブロックで階段を使う地図が頭の中にあるからだ。
彼は僕を連れてエレベーターに行かれた。
ホームに到着して電車待ちの時間があった。
「今日で三回目ですね。ありがとうございます。」
僕はそう伝えた。
彼は小さな声で話を始められた。
60歳を過ぎた頃に心臓の手術をされたらしい。
それでも75歳になった今もなんとか働いているとのことだった。
そして僕に少しは見えるのかと尋ねられた。
僕は動きがスムーズらしくてそう尋ねられることがよくある。
僕は光も分からない全盲で40歳くらいにそうなったと答えた。
彼はしばらくの無言の後、小さな声でおっしゃった。
「40歳まで見えていて良かったかもしれん。」
「そうですね。僕もそう思っています。」
僕は微笑んで答えた。
彼が微笑まれたのがなんとなく分かった。
それから長い沈黙があった。
電車の到着を知らせる放送が流れ始めた時だった。
「あかんことがあって、いいこともあって、最後は丁度になる。」
彼はそれだけ言うとまたトントンとされた。
電車に乗る時はやっぱり彼の右手は僕を支えようと動いた。
いつものように一緒に京都駅まで向かった。
京都駅で別れる時、彼はまた口を開かれた。
「気をつけていきなさい。」
僕はもうありがとうカードを渡そうとはしなかった。
そして深く頭を下げて感謝を伝え彼と別れた。
「丁度になる。」
彼の励ましの言葉が心の中でこだました。
人間っていいな。
うれしさが込み上げてきた。
(2022年11月21日)