ハブ ア ナイスデイ

電車を降りて点字ブロックの上に乗った。
烏丸線から東西線に乗り換えるのだが、目的の方向は分かっていた。
ただ、そこに行くための点字ブロックが右に行けばあるのか左に行けばあるのかで一
瞬迷った。
人波が落ち着いてから動くことにした。
こういう時に慌てないのも技術のひとつだと思っている。
「何か困っていますか?」
女性の声だった。
「東西線に向かおうと思っているところです。」
彼女は僕の隣に動いてくださった。
「どうぞ肘を持ってください。手引きします。」
手引きという言葉で何か経験のある人なのかと思った。
僕達は通路を抜け階段を降り東西線のホームに向かった。
彼女は実際に慣れた感じで動かれた。
「慣れておられますね。」
彼女はホームヘルパーの仕事を長くしていて、利用者さんに視覚障害の方もおられた
と話してくださった。
「もうおばあちゃんだから、昔のことよ。」
少し照れくさそうにそう付け加えられた。
ただ、僕と一緒に歩く姿勢にも動きにも、そして会話にも老いは感じられなかった。
電車が到着すると彼女は空いてる座席を見つけて誘導してくださった。
僕が座るのを確認して彼女も僕の隣に座られた。
「私は東山で降りるから、後は気をつけてね。」
僕はありがとうカードを渡して感謝を伝えた。
彼女はそれを読んでくださっている様子だった。
「こんなカード、初めてもらった。うれしいわ。
この年になっても誰かの役に立つって本当にうれしい。」
その話しぶりからうれしさが僕にも伝わってきた。
「もうおばあちゃんなのよ。」
彼女は再度そうおっしゃった。
きっと老いの始まりを感じておられるのだろう。
受け入れなければならない事実と戸惑う気持ち、それは僕自身も最近感じ始めている
心境だった。
「手引きの動きもお話も、まだまだ歳は全然感じられませんよ。
僕は見えないから、若いよとおっしゃればそれで通じます。」
それについての言葉は返ってこなかった。
しばらく静かな時間が流れた。
車内放送が東山を告げた。
ハブ ア ナイスデイ ありがとう。」
彼女はそう言ってドアに向かわれた。
その言葉と動きを可愛いと感じた。
「ありがとうございました。またお願いします。」
僕は笑顔で彼女の背中に返した。
(2024年4月19日)