体重測定

音声体重計のスイッチを入れる。
「お乗りください。」
機械音が流れる。
僕は手で場所を確認しながら足を乗せる。
両足が乗ったところでまた機械音が流れる。
「体組成測定中」
間もなく次の音声が流れる。
「測定終了、下りてください。」
それから測定結果が流れる。
体重 62,1キログラム
BMI 23,1
体脂肪率 22,9パーセント プラス標準
筋肉量 45,4キログラム 標準
推定骨量 2,5キログラム
内臓脂肪レベル 13,5レベル やや過剰
基礎代謝量 1292カロリー 標準
体内年齢 55歳
体水分率 52,1パーセント
納得できなかったら再度計測する。
体重計を置く場所で結構な違いが出たりしてしまう。
微妙な違いならいいのだが体重が1キロも違うと悩んでしまう。
今日は2,3回測り直したが同じだった。
今年はやっぱりちょっと太ってしまった。
お腹の脂肪がついたのが自覚できている。
コロナの影響で外出が少なかった。
部屋でおやつを食べるのが多かった。
自業自得と分かっているがちょっと悔しい。
体内年齢が1年で3歳も老いてしまった。
来年はちょっと頑張ろうと思いながらこれを書いている。
書き終えたらコーヒーとシュトーレンのおやつタイムになる。
パン作りが趣味の視覚障害の友人からシュトーレンを教えてもらってから癖になって
しまった。
冬によく似合う。
これも幸せのひとつだからと自分に言い聞かす。
言い訳が得意なのは昔からかな。
いやいや、来年は体内年齢を3歳引き下げられるように頑張ります。
頑張る予定です。
一応そのつもりです。
(2020年12月28日)

柚子風呂

団地のお風呂は小さな湯船だ。
足を延ばすこともできない。
いつも膝を抱えた状態でお湯につかる。
身体を温めるのが目的になっている。
今日は違った。
小さく深呼吸をして気づいた。
ささやかな柚子の香り。
僕は柚子の入った袋をそっと掴んで鼻に近づけた。
香りが脳に溶けていくのを感じた。
無条件に幸福を感じた。
心までが温かくなっていった。
ささやかなささやかな香りが生きている自分の命を意識させてくれた。
香りに感謝した。
そしていつも脇役の鼻にあらためて感謝した。
(12月23日)

雪の思い出

数歩歩いただけで気づいた。
足の裏の感触で気づいた。
ほんの少しだけ靴が沈むような感覚だった。
雪!
僕は立ち止って腰をかがめた。
手袋を外してそっと指先を地面に触れた。
人差し指が愛おしそうに白色を撫でた。
濡れた指をズボンで拭いて息を吹きかけた。
暖かさを確認してからまた白色を触った。
見えないということは見られているということに気づかない。
いいことなのかどうかは分からない。
人の目を気にせずに行動してしまうことがある。
実際には通行人もおられただろう。
でも僕の中では僕と白色だけが存在したのだ。
それからバスに乗車したが、僕の脳はどんどん白色の世界を旅した。
大学生の頃に雪を見たくて出かけた冬の北海道を思い出した。
友人と二人で10日間ほどの旅だった。
ただただ雪に会いたくて出かけた。
深夜に走る鈍行列車や駅の待合室をホテル替わりに使っての旅だった。
体力も気力も満ち溢れていたのだろう。
一緒に旅したあいつは元気にしているのだろうか。
あいつが撮ってくれた写真を僕はしっかりと憶えている。
釧路から北へ向かう線路のどこかの無人駅で下車した。
一面の新しい白色の中で身体を大の字にして寝ころんだ。
真っ白の中で空を見上げていた。
うれしいのか悲しいのか自分でも分からない涙が一筋こぼれたのを憶えている。
それなのに大の字の写真の僕は満面の笑顔だった。
懐かしい記憶が僕にささやく。
「見えていたんだよね。」
確かめるように思い出させるように僕にささやく。
喜ばせるためなのか悲しませるためなのか僕にささやく。
今も昔も真っ白な雪が大好きなのは間違いないことなのだろう。
(2020年12月18日)

種蒔き

話をする僕を彼女はじっと見ていたのだろう。
そして気づいてくれたのだろう。
「どうして白杖に鈴をつけているのですか?」
僕は気づいてくれたことに感謝を伝えてからその理由を告げた。
「通行人とぶつかりたくないんだ。
音で気づいてもらえるように鈴をつけているんだよ。」
そして、スマホを見ながら歩いている人がとても怖い存在であることも付け加えた。
質問してくれた彼女は中学一年生だ。
人権講演会で僕の話を聞いてくれたのだ。
興味を持つということ、思いを寄せるということ、きっと理解につながっていく。
未来につながっていく。
こういう活動を始めたのは失明して数年した頃からだろうか。
もう20年近く活動してきたことになる。
先日入った市内の食堂で他のお客さんに話しかけられた。
「突然声をかけてすみません。松永さんですね。
小学生の時に話を聞きました。
職場がこの近くなんです。」
僕は憶えていてくれてありがとうと答えた。
そしてうれしかった。
今年伺った小学校では新任の先生が声をかけてくださった。
やはり、小学校の時に僕の話を聞いたとのことだった。
未来に向かって蒔き続けた種が少しずつ発芽してきているのだろう。
今日の中学校ではまた別の質問を受けた。
「夢は何ですか?」
ひょっとしたら、もう夢を語るような年齢ではないのかもしれない。
でも、僕は答えた。
「せめて60歳代は未来に向かって種を蒔き続けていきたいと思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔になれるようにね。」
会場を後にする時、生徒達は大きな拍手で送ってくれた。
担当の先生が小声でささやかれた。
「松永さん、まだまだ全然大丈夫ですよ。頑張ってくださいね。」
僕は素直に頑張ろうと思った。
(2020年12月13日)

奨励

同志社女子大学宗教部から奨励依頼が届いた。
耳慣れない言葉だが、教会のお祈りの際に少し話をして欲しいとのことだった。
本来は牧師様やいろいろな先生方が話をされるのだろう。
僕なんかおこがましいというのが本音なのだがその場所に魅かれてお引き受けした。
1932年に建てられた栄光館チャペルがその場所だった。
新島八重さんの葬儀もここでおこなわれたという歴史のある登録文化財だ。
ヘレンケラーさんが来日した際の講演会場にもなった。
その場所が過去のものではなく現在も脈々と息づいているのだ。
栄光館に足を踏み入れるとパイプオルガンの荘厳な音色が漂っていた。
僕は心を落ち着けてから少しだけ話をした。
ささやかでいいから僕の人生の喜びを伝えられればいいと思った。
誰かに聞いてもらうとかではなく、自分自身に話しかけているような感じがした。
不思議な満足感を感じた。
講演が終わって、宗教部の職員の方が最寄り駅までサポートしてくださった。
冬枯れの空を眺めながら歩いた。
帰ったら彼からお礼のメールが届いていた。
「いつもお支え頂いてありがとうございます。」
という言葉で始まる挨拶文だった。
素敵な表現だと思った。
そして僕自身もその思いを忘れてはいけないのだと強く思った。
(2020年12月8日)

夢のマイホーム

洛西ニュータウン、この街が誕生した頃から僕はここで暮らしている。
当時、新築の市営住宅に抽選で入居することができたのだ。
母親の介護のために一度だけ引っ越ししたが、
それも同じニュータウン内にある公団住宅だ。
団地での生活がもう40年近くになったのだ。
大学を卒業して就職し、普通に働いていた頃、いつかマイホームをという夢も持って
いた。
その当時の福祉労働者の給与は淋しいものだった。
僕の夢は新築から中古に移っていった。
それでも、小さな庭があってとかささやかな夢はあった。
39歳での失明はすべての夢を飲み込んだ。
僕なりに努力はしたが、僕を雇ってくれるところはなかった。
正規職員だけでなくパートもアルバイトもなかった。
生きていくために必死にならなければならない日々が続いた。
本の出版がきっかけとなったような気がするのだが、
少しずつ非常勤講師などの仕事ができるようになっていった。
それでも、収入は同世代の見える人の半分にもならなかった。
マイホームの夢はあきらめるしかなかった。
正真正銘の夢のマイホームになってしまった。
不思議なことに、その現実への不満はなかった。
少しでも働けるようになったことへの感謝の方が大きかったような気がする。
社会に関わって生きていく喜びが大きかったのだろう。
裏を返せば、失明はそれさえも奪おうとしていたということなのだ。
団地の郵便受けに入っている住宅物件のチラシを今でも時々見ている。
ただ販売価格は見なくなった。
遥か遠くに消えてしまった夢が懐かしいのかもしれない。
僕にできること、僕達も参加しやすい社会に向かうこと。
まだまだ頑張らなくちゃ。
(2020年12月4日)

風の朗読サイト

確かにそれは僕が書いたものなのかもしれない。
それを人間の声に載せることで別の命が生まれるのだ。
それぞれの人間の持つ声のぬくもりが変化を齎す。
同じ作品が読み手によって様々に変化していく。
素材が料理人によって変わっていくことに似ている。
深くなったり美しくなったり、或いは意外な味を醸し出したりする。
それぞれの人間の声がそれぞれの魂から生まれてくるということだろう。
これまでもいろいろな声が僕の作品を読んでくださった。
カセットテープやCDに録音されたり電波に載ったりした。
有難いことだと思う。
光栄なことだと思う。
そしてまた新しい形の朗読が始まった。
インターネットで聞くことができるのだ。
僕のホームページのリンク先にある
「06風の朗読サイト」
一度味わってみてください。
目を閉じて味わうのが秘訣です。
コーヒーでも飲みながら。
(2020年11月29日)

犬も歩けば

ここ数日で3度ぶつかった。
道路標識、おばあちゃん、おじさん。
道路標識とぶつかるのは白杖の使い方の問題だと思っている。
技術の劣化だと思うから痛いより悔しい方が大きい。
白杖の達人を目指している僕にとってはプライドの方が傷つく感じだ。
おばあちゃんには後ろからぶつかった。
おばあちゃんは僕の左前方をゴロゴロを引っ張りながら歩いておられたが、
突然僕の前に入ってこられた。
あまりにも突然の進路変更だったので避けられなかった。
白杖がほんの少し当たった程度ですんだのでほっとした。
押し倒すようなことになってしまったら大変だ。
どうしておばあちゃんかと思ったかというと、そのスピードと動き方の雰囲気だ。
多分の話なのだがなんとなく自信はある。
おじさんとは正面衝突だった。
結構なスピードでぶつかったのでゴツンと音がした。
サングラスとマスクが外れるくらいの衝撃だった。
僕は点字ブロックを白杖で触りながらの歩行だった。
ぶつかったのは相手の方の不注意だと思う。
それでもぶつかった瞬間に僕の方から声が出た。
「大丈夫ですか?」
見えなくなってからもうどれくらいいろいろな物や人にぶつかったことだろう。
おでこにはいくつかの傷も残っている。
ぶつかり慣れているということかもしれない。
「大丈夫です。すみません。」
という返事でおじさんと分かった。
一瞬、視覚障害の人かと思ったがそうではないようだった。
「ぼぉっとしていて前が見えていませんでした。」
おじさんは申し訳なさそうにおっしゃった。
「僕も見えていませんでした。」
という言葉が頭の中に浮かんだが飲み込んだ。
ブラックジョークになってしまうような感じがしたからだ。
とにかくお互いにケガはなかったようだった。
おじさんと別れて、また点字ブロックを白杖で触りながら歩いた。
「犬も歩けば棒に当たる」というカルタの言葉を思い出した。
その意味を今でも知らないことに気づいた。
僕は棒を持った犬みたいなものかなとおかしくなった。
(2020年11月27日)

朝の電話

僕の両親は鹿児島県阿久根市で小さな商売をしていて、
僕はそこで生まれ育った。
僕が24歳の時、母は大きな病気をしてそれまでの生活ができなくなった。
それがきっかけで、両親は京都の僕の近くで暮らすことになった。
故郷の鹿児島を離れての生活は大変なところもあったが、二人で頑張ってくれた。
息子の近くに暮らしているというだけでお互いに安心感はあったのだろう。
視覚障害のある息子の暮らしも気になっていたに違いない。
6年前に父が亡くなり、母は鹿児島の妹宅で暮らすことになった。
30数年ぶりに故郷に帰ることになったのだ。
複雑な思いでいた母に僕はひとつだけお願いをした。
一日に一回の朝の電話だ。
6年間、朝の電話は続いている。
特別な話をするわけではない。
暑いとか寒いとか、デイサービスに行くとか行かないとか、
たわいもない話をして声を聞くのが目的の日課だ。
94歳になった母は記憶も少し危なくなってきた。
おなじことを幾度も言ったりするようになってきた。
その母が今朝は違った。
「毎朝渡る信号に音をつけてもらいなさい。」
しっかりとした口調で僕に話をした。
音のない信号を渡る視覚障害者の危険が新聞記事にあったらしい。
「わかった。そうするよ。」
僕はその気はないけれど、そう答えた。
答えながら目頭が熱くなった。
僕の目のことが母の記憶から消えることはないのだろうか。
できることなら消してあげたいと僕は思ってしまう。
(2020年11月21日)

絵画

カサカサ、
シャカシャカ、
クシュクシュ、
シャッシャッ。
白杖の先で秋が歌う。
足の裏で秋が遊ぶ。
僕は立ち止って周囲を見渡す。
黄色、こげ茶色、赤色、緑色、黄土色、茶色、橙色、
記憶から飛び出したクレパスが秋を彩る。
絵になる風景が静かに佇んでいる。
子供の頃から絵を描くのは苦手だった。
小学校2年生の時、一度だけ絵が入選したことがあった。
絵で褒められたのは最初で最後だった。
「元気がある」という評価を憶えている。
中学の時、夏休みの宿題を後ろの席の女の子に頼んで、
それが先生にばれてしまってこっぴどく怒られた思い出もある。
元々のセンスの無さを痛感していた。
でも鑑賞するのは好きだった。
京都で暮らすようになって美術館がとても身近になった。
秋には特に美術館に足を運んだ。
いろいろな絵画を眺めながら過ぎていく時間が好きだった。
飽きることなく眺めていた。
見えなくなってから美術館に行くことはなくなった。
いくつかの絵画が記憶の底に残っている。
人間は美しいものが好きなのだろう。
記憶の中の数枚の絵画を鑑賞して、
それからまた周囲を見渡す。
風景画もいいなとなんとなく思った。
秋が笑った。
(2020年11月16日)