仲間の講演

視覚障害者対象の研修会で視覚障害者の女性の講演を聞いた。
研修会場で話すのも聞くのも視覚障害者ということになる。
視覚障害者というのは目が見えない人と思われがちだが、決してそういう状態の人ばかりではない。
全く見えないという人もいれば、ちょっとしか見えないという人もいる。
ちょっとしか見えない人を「弱視」とか「ロービジョン」とか呼ぶのだが、
それは視力や視野の状態でそれぞれの見えにくさが発生するのだ。
進行性の目の病気だった僕は弱視の頃もあり、現在は全盲ということになる。
視覚障害の原因はすべて病気かケガなのだが時期はいろいろだ。
お母さんのお腹の中で病気になったから生まれつきという人もいれば、
高齢になってからという人もいる。
100人の視覚障害者がいてもそれぞれが微妙に違い、
100通りの見え方、見えにくさ、不便さが存在する。
そして100の人生があるのだ。
保育士の仕事をしているロービジョンの彼女は飾らない言葉で淡々と話をした。
見えにくい状態での社会との関わりについて話をした。
特に仕事に関してはきっと自分にもできることはまだまだあるというプライドと、
それがなかなか社会に伝わらなかった口惜しさも語った。
勿論、その中で見つけた喜びも紹介した。
そして進行する病気への不安も付け加えた。
言葉がゆっくりと会場にしみ込んだ。
決してハッピーな話ではなかったのに、
哀れみとか同情とかの感情は微塵も起こらなかった。
僕の心は何かあたたかくなっていた。
すがすがしささえ感じた。
それはきっと、彼女の生きている姿勢がそう感じさせたのだろう。
障害者同士だからということで、
お互いの悲しみや苦しみなどを理解しきることなんてできない。
でも、未来に向かって生きる人間の姿に共感はできるのだ。
僕自身の生き方も考えるいい時間になった。
(2016年1月31日)