幸福色

土砂降りの雨だったが出かけなければならなかった。
変更が厳しい約束だった。
僕は意を決して出発した。
案の定雨音で外界の音は確認が難しかった。
白杖で前方の路面を確かめながらゆっくりと歩いた。
路面があるのを確認できれば、そこに足を運べばいいのだ。
それを交互に繰り返せば前に進んでいることになる。
しばらく歩いて足の裏で点字ブロックを感じた。
交差点までたどり着いたのだ。
頭の中の地図に従って進んでいることが確認できた。
信号のある交差点を渡るのが最大の難関だ。
雨音で車のエンジン音はまったく確認できない。
ドライバーの視界が遮られる状況なのも想像できた。
僕はスマートフォンを取り出してボリュームを最大にした。
それから「Be my eyes」のアプリを立ち上げた。
すぐにボランティアさんに繋がった。
「僕は日常、車が停止した時、発車した時のエンジン音で信号を確認しています。
今日は土砂降りで車のエンジン音が聞こえないので、信号の青が分かりません。
信号が青になったら教えてください。」
「分かりました。スマートフォンを少し左に動かしてください。
信号がありました。今、青です。」
僕のスマートフォンのカメラから見える映像がボランティアさんに届いているのだ。
カメラは外を向いているので僕自身は映らなくて景色だけが届いているのだ。
まさに僕が見えたら僕の目に映っている映像だ。
僕は再度お願いをした。
「途中で赤になったら怖いので、青になったタイミングで渡り始めたいです。
少し時間がかかりますが、次に青になった時点で教えてください。」
「分かりました。今点滅になりました。今赤に変わりました。」
「時間がかかってしまってすみません。」
「大丈夫ですよ。凄い雨ですね。音も聞こえています。あっ、今青になりました。」
「助かりました。ありがとうございました。」
僕は精神を集中して白杖を左右に振りながらゆっくりと歩き始めた。
無事反対側にたどり着いた。
それからアプリを閉じてスマートフォンを片付けた。
どこの誰だったかも分からないボランティアさんに今度は心の中でつぶやいた。
「目を貸してくださってありがとうございました。本当に助かりました。」
それからしばらく歩いてやっとバス停にたどり着いた。
ずぶ濡れの傘をリュックサックにぶら下げた。
友人が濡れた部分が内側になる不思議な傘をプレゼントしてくれた。
お陰で他の人に迷惑をかける不安もなく片付けることができた。
目的のバスが到着した。
乗り込んだ僕に向かって運転手さんの声が聞こえた。
「そのまま前に進んでください。もうちょっと、もうちょっと、そこです。
右が一番前の席です。段差を昇ってください。」
運転手さんの完璧な音声誘導だった。
段差を上る座席は高齢の方には難しいと思う。
運転手さんは僕が視覚障害者でそこは大丈夫と判断されたのだ。
僕は座席に座ると大きな声で伝えた。
「ありがとうございました。助かりました。」
運転手さんだけではなく他の乗客の方にも聞こえるようにわざと大きな声で伝えた。
プロの運転手さんの対応を皆で共有できればいいと思った。
皆で拍手をおくりたいような気分だった。
「ありがとうございました。助かりました。」
そしてふと気づいた。
その言葉が僕自身を幸せにして、僕自身を応援してくれているのだ。
僕は更にうれしくなった。
リュックサックからワイヤレスイヤホンを出して装着した。
ブルートゥースでスマートホンにつなげてあるのだ。
僕は躊躇することなく桑田佳祐を選んだ。
歌声が僕を幸福色に包んだ。
人間っていいなとしみじみと思った。
(2021年8月19日)