幸せな日

福祉の専門学校のオープンキャンパスに出かけた。
夏休みになって久しぶりの仕事だった。
午前中には知り合いの小学生の娘さんのインタビューに答える用事もあった。
夏休みの自由研究のお手伝いを頼まれたのだ。
電車に乗るのも久しぶりだった。
僕は久しぶりの外出を楽しむようにいい気分で家を出た。
もうすっかり慣れたつもりの乗り換え駅に到着してすぐのことだった。
点字ブロック沿いに通路を歩いていたら突然人にぶつかりかけた。
体格のいい男性だった。
その瞬間彼の大きな手で突き飛ばされそうになった。
残念だが故意の動きなのは伝わってきた。
そんなに込んでいた訳でもなかった。
ひょっとしたらスマホを見ながら歩いていた人だったのかもしれない。
いつもは「すみません。」を言う僕も言葉を飲み込んだ。
お互いに無言で離れた。
朝から後味の悪い気持ちになった。
ただ、その後すぐに次の乗換駅で若者が声をかけてくれた。
ホームで迷いそうになった僕に気づいてくれたのだ。
彼は急行、僕は不通と電車は違ったがホームは同じだった。
彼は僕を安全な場所に誘導してから急行に乗っていった。
僕はそれから小学生のインタビュー、学校のオープンキャンパスと頑張った。
帰りの乗り換え駅で高齢の男性が声をかけてくださった。
85歳の彼は義足で杖もついておられた。
電車待ちの時間、僕達はいくつかの会話を交わ下。
彼は60歳の定年退職の3日前に事故で足を失ったということだった。
それから25年を生きてこられたのだ。
その年数は僕の失明の年数とも重なった。
「人生、こんなもんやなぁ。」
彼は笑いながらつぶやかれた。
そこにはもう悲しさも悔しさもないようだった。
むしろ、今生きている命を喜んでおられる空気が伝わってきた。
「あまり役には立たんかもしれんけど、白杖の人を見かけたら声をかけるようにして
いるんや。」
電車が入ってきた。
彼は僕の左手を持つと少しグラグラしながら僕を座席に誘導してくださった。
僕は深々と頭を下げてから座席に腰を下ろした。
あと25年、こんな風に老いていけたらいいなと思った。
その後も数人の若者が手伝ってくれた。
結局、たくさんのありがとうカードがポケットから消えた日だった。
幸せな日だった。
(2022年8月7日)