折れた白杖

今年度前期の木曜日の朝は早い。
京都福祉専門学校での講義が1時限目になったからだ。
一番のラッシュアワーでの移動となった。
ルート的には京都駅で湖西線から近鉄に乗り換えることになる。
でも僕は山科駅で地下鉄に乗り換えている。
このルートは遠回りになるのだが朝の混雑が京都駅より山科駅がましだからだ。
京都駅はJRだけでも湖西線、琵琶湖線、京都線、奈良線、山陰線、それに新幹線もあ
るし、そこに地下鉄と近鉄がある。
山科駅はJRは湖西線と琵琶湖線だけだし、そこに地下鉄と京阪ということで利用客数
は京都駅よりははるかに少ない。
それでもラッシュ時間の人込みは半端じゃない。
狭い通路を人波が動く。
いつもは点字ブロックの横を歩く僕もその時はわざと点字ブロックの上を歩く。
凸凹で歩きにくいのだが少しでもリスクを低くするためだ。
白杖はいつもは真っすぐに伸ばして数歩先を確認する持ち方なのだがこの時だけは自
分の身体に引き寄せてすぐ前だけが確認できる方法にする。
他の人の足ができるだけ白杖に引っかからないようにするためだ。
そして音がするように白杖で路面を少し強めに叩いて歩く。
その状態で周囲の人の気配、人波の動きなどを察知しながら進むのだ。
目隠し状態でそこを歩いていくのだから自分でも凄いなと思っている。
白杖の達人だとどこかで自負している。
電車を降りて点字ブロック沿いにゆっくりと歩く。
ホームが一番危険なのは分かっているからだ。
僕の地元の乗車位置は電車の前方寄りだが山科駅の出口は電車の後方寄りだ。
つまりホームの端から端まで歩くことになる。
階段を知らす小鳥の鳴き声の放送を手掛かりに進む。
階段にたどり着いて少しほっとする。
もうホームから転落する心配はない。
身体の前で白杖で防御の姿勢をとりながらゆっくりと階段を降りる。
これはそんなに危険なものではない。
前から昇ってくる人は白杖が目に入るからぶつからないように動いてくださる。
階段を降り終えたらそこから改札口へ向かう通路を歩く。
この駅は古いので通路はとても狭い。
ラッシュの時間帯ではほぼ満員状態で人が動く。
そして途中に坂もある。
十数メートル直進した後、点字ブロックは直角に右に曲がる。
有人改札口へつながるようになっているのだ。
ここが最後で最大の難所だ。
直角に曲がるということは人波を横切るということになるからだ。
僕は自分の身体を盾にして白杖を守る感じで進む。
わずか2メートルくらい数歩の移動を半分は祈りながら歩くのだ。
今朝、久しぶりに失敗した。
走りこんできた中学生くらいの男の子の足が見事に当たった。
瞬間白杖は折れた。
何年ぶりかに折れた。
「大丈夫ですか?」
少年の声が引きつっているのが分かった。
「大丈夫だよ。これから気をつけてね。もう行っていいよ。」
相手が大人だったら修理費用の半分をお願いしたりするのだがその気にはなれなかっ
た。
折れた白杖をリュックサックに片づけて予備の白杖を組み立てた。
万が一の時のためにリュックサックに入れてある予備の白杖だ。
予備だから軽いものにしてあるので細くて使いやすいものではない。
そこからいつもの半分のスピードで動いた。
どちらもケガがなくて良かった。
でも悔しかった。
本当に悔しかった。
達人という言葉が心の中で少し曇った。
午前中の専門学校、午後の大学、いつものように仕事を終えて帰宅した。
そして気づいた。
ありがとうカードが1枚も減らない日だったのだ。
運の悪い日だったのかもしれない。
連休が終わったらまたいつものように出かける日が始まる。
夏休み前まではスケジュールはほとんどいっぱいだ。
白杖の達人、まだまだ修行は続く。
頑張ろうと思った。
(2023年4月29日)