新しい年の活動はゆっくりと始まった。
まさに自由業だ。
火曜日は視覚障害者の施設でのピアカウンセリングだった。
水曜日は宮津市にある高校まで出かけた。
木曜日は大学だった。
金曜日は地域の視覚障害者協会の新年交流会に参加した。
バスには10回乗車した。
水曜日が遠出だったので電車は17回の乗車となった。
そのうち12回は単独での乗車だった。
歩数は2万5千歩くらいになった。
言葉のキャッチボールをした人の数は100人近い数だと思う。
見える人とも見えない人とも見えにくい人とも会話をした。
ありがとうカード、高校生にプレゼントした数を省けば5枚を渡すことができた。
そしていつも右手には白杖があった。
僕なりの社会参加が始まったということだろう。
水曜日の宮津市の高校での講演が今朝の京都新聞で紹介されていたらしい。
全盲の先輩の奥様がそれに気づかれた。
先輩はうれしそうな声で電話をくださった。
「丹後まできなさったんだなぁ。」
先輩は丹後地方の方言で話をされた。
奥様に新聞記事を読んでもらったら僕の声を聞きたくなったとおっしゃった。
「実は今日が私の85歳の誕生日なんで。」
いい日になったと言ってくださった。
僕はおめでとうを伝えた。
見えなくなってから紡いできた仲間との絆、人生の宝物となっている。
僕達はお互いに顔を見たことはない。
でもお互いの手のぬくもりは知っている。
見えないことは人間同士の絆の壁にはならないのだ。
見える人とも見えない人とも見えにくい人とも、また新しい絆を結べる一年を送りた
い。
(2024年1月14日)