黒七味

もう20年くらい前かもしれない。
阪急河原町駅の東改札口から地上に出てすぐの場所だったと思う。
高瀬川沿いを歩いていて偶然見つけた小さな料理屋さんだった。
当時よく僕のガイドヘルパーをしてくれていた学生と訪れた。
10人は入れないカウンターだけのお店、夜の居酒屋が本業だったのかもしれない。
寡黙なご主人が一人でやっておられるようだった。
店内には一保堂のいり番茶の香りがしていた。
この香り、好みは判れるようだが僕は好きだ。
お昼を少し回っていたせいか、客は僕と学生の二人だけだった。
僕達は焼き魚定食を注文した。
黒い長方形の折敷に並んだ定食が運ばれた。
魚はホッケで炭火で焼かれていた。
それにお味噌汁とほうれんそうのお浸しの小鉢、お漬物は白菜の浅漬けだった。
お浸しには鰹節がどっさりと載っていて、浅漬けには刻んだ柚子が入っていた。
丁寧に調理されているのを感じた。
一番驚いたのはお味噌汁を頂いた瞬間だった。
初体験の深い香りと独特の辛味だった。
なめこのお味噌汁を別の料理のように感じた。
僕はそれが何なのか、ご主人に尋ねた。
祇園にある原了郭というお店の黒七味だった。
それから毎年、冬になると黒七味を買い求めるようになった。
お蕎麦、鍋料理のポン酢、おでん、お味噌汁、いろいろ使っている。
お浸しや冷ややっこにかける時もある。
一番のお勧めはかす汁だ。
黒七味は僕の暮らしの中で冬景色となった。
お世話になった人へのささやかなお礼としてもよく使っている。
黒七味と出会った日のこと、まるで映画のワンシーンのように蘇るのは何故だろう。
学生は口数の少ない人だったが、その時は不思議といろいろ話してくれた。
8月7日生まれ、花子という名前になりそうだったと笑っていた。
もう幾つになったのだろう。
元気で暮らしているのだろうか。
見えていなかったはずなのに、風景のような思い出だ。
振り返れば、見えなくなった後にもいろいろな思い出ができている。
スマホのシャメどころか1枚の写真もない。
それでも思い出は豊かに微笑む。
人間の脳は素晴らしいと思う。
黒七味、今年の冬も僕の大切なアルバムを開いてくれた。
(2026年2月8日)