僕は大学を卒業した後、養護施設に就職した。
いや、正しくは養護施設で働きたくて社会福祉学科のある大学を選んだのだ。
当時、養護施設で働く条件として女性は保母資格が求められた。
今で言う保育士視覚だ。
男性は社会福祉学科を卒業すれば児童指導員として就職できたのだ。
養護施設には家族と一緒に暮らせない子供達がいた。
そこで働けば、僕にも何かできることがあるかもしれない。
若さが生み出す正義感、それは薄っぺらいものだったのかもしれない。
今振り返れば恥ずかしい限りだ。
それでもそこにエネルギーはあった。
僕はある意味、堂々と子供達と向かい合った。
でも、たかだか20年ちょっとしか生きていない青年にできることは少なかった。
暗中模索の日々だったと思う。
僕は毎年、子供達と鉢植えの花を育てた。
春に咲かすために秋植えの球根をよく買い求めた。
ほとんどはポケットマネーで買っていた。
子供達は養護施設で暮らしながら、地元の幼稚園や小学校に通う。
入園式や入学式に家族の姿がないという子供も多くいた。
色とりどりの花の中でその日を迎えさせてあげたい。
僕にはささやかな希望があった。
自己満足の世界だったのだと思う。
選んだ球根の中にラナンキュラスがあった。
赤、黄色、ピンク、八重咲きの美しい花だった。
ハッとするような美しい花だった。
黄色のラナンキュラスの花言葉は「やさしい心」、それも気に入っていた。
結局、僕が施設で働いていた頃、毎年、ラナンキュラスの花が玄関を飾った。
僕が最後にその花を見たのは38歳の春だったと思う。
その頃、どんどん僕の視界は狭くなり、白く濁っていった。
39歳の春、僕は秋に植えたラナンキュラスの花を見ることなく施設を去った。
昨年の秋、園芸屋さんで偶然にラナンキュラスの球根を見つけた。
30年ぶりにラナンキュラスの球根を玄関の鉢に植えた。
チューリップの隣だ。
このチューリップは新潟の視覚障害者の友人からのプレゼントだ。
春になれば、チューリップとラナンキュラスが並んで咲いてくれるだろう。
見えていた頃の思い出の花、見えなくなってからの思い出の花、僕にとってどちらも
大切な花だ。
見えていた頃も、見えなくなってからも、僕は僕なのだと思う。
そんなことを考えながら春を待つということ、それ自体が幸せなのかもしれない。
(2026年2月13日)