朝7時過ぎ、バス停に立っていた。
駅に向かうバスに乗るためだ。
駅から出発したバスは団地を周回して駅に戻るというルートだ。
僕が利用している方のバス停でも道路の反対側のバス停でも駅に行くことはできる。
僕が乗る方は18分、反対側だったら5分の乗車時間となる。
だから、道路の反対側のバス停を利用するのが一般的だ。
反対側のバス停に行くには二つの方法がある。
遠い場所の横断歩道まで行くか、道路を横切るかという方法だ。
引っ越してきた最初の頃、反対側のバス停まで妻に送ってもらっていた。
慣れてきた頃、単独で道路を横切るという方法にもチャレンジしてみた。
車のエンジン音を確認しながらだ。
成功はしたもののどっと疲れた。
続ければ事故に遭うかもしれないと思ってあきらめたという経過がある。
横断歩道の方は距離があるだけでなく、信号に音響が付いていない。
結局、どちらの方法も僕には難しいからこちら側を利用することにしたのだ。
こちら側のバス停にいるのはいつも僕だけだと思う。
ある意味目立っているのかもしれない。
今朝もバス停の前で車が止まる音がした。
「松永さん、おはようさん。駅まで送ってあげよう。」
田中さんの声だった。
もう幾度目かなので声で分かった。
田中さんは車を降りてきて、僕を手引きして助手席まで案内してくださった。
僕が田中さんについて知っていること、少ししかない。
知り合いから聞いて、僕のことを知ってくださったということ。
もう80歳を過ぎておられるということ。
会社を定年退職してから手話の勉強をされたということ。
趣味は水彩で絵を描くこと。
住所は何丁目に住んでいるか教えてくださったけれど忘れてしまった。
毎朝、息子さんを駅まで送るのが唯一の仕事だとのことだった。
そして、その帰り道に僕を見つけたら声をかけてくださるのだ。
駅までのわずか5分の車内、僕は田中さんと話をする。
とても豊かな時間だ。
駅に着いたら点字ブロックのある場所まで手引きしてくださる。
その時は僕は話はしない。
右耳が少し遠くなっておられることに気づいたからだ。
別れ際、いつものように挨拶をする。
「ありがとうございました。助かりました。」
僕は少し大きめの声で言いながら深く頭を下げる。
「いや、こんなことしかできないからね。行ってらっしゃい。」
無意識のお決まりの言葉に田中さんの真心が見える。
もう少し歳を重ねたら、僕もあんな風になりたいと思いながら改札口を入る。
(2026年3月3日)