寒蘭

父の趣味は寒蘭を育てることだった。
父が亡くなった後、寒蘭のほとんどは同じ趣味を持っておられる方にお譲りした。
丹精込めて育てていた寒蘭を誰かが育ててくだされば有難いと思った。
そしてその中の一鉢だけを僕が引き取った。
枯らしてしまうのが怖かったが育ててみたいと思った。
春夏は三日に一回、秋冬は一週間に一回水やりをした。
妹が送ってくれた専用の土で植え替えもした。
肥料も与えてみた。
枯らさないで育てていることで精一杯だった。
その寒蘭が今年は花を咲かせてくれた。
7年ぶりということになる。
清楚で気品のある姿だった。
僕は赤紫色の数厘の花に幾度も触れた。
鼻を近づけて微かな香りを確認した。
そして父の遺影から見えるようにした。
僕が見えなくなった頃、父は60歳代だった。
だから晩年の父の顔を僕は知らない。
思い浮かべるのは僕が少年だった頃の顔だ。
厳しかった父の顔が寒蘭の前で少し笑った。
僕も笑った。
(2021年12月12日)

バトン

中学校の生徒達の感想が届いた。
結構な量だったがメールで届いたので読むのには困らなかった。
パソコンが文字を読んでくれるので、誰かに読んでもらっているような感覚だ。
届けてくださった先生の労力は大変だっただろうなと思った。
ひとつひとつの感想が心に染み込んだ。
生徒達が未来を見つめながら書いてくれているのが伝わってきた。
知ったことを家族や友人に伝えたい。
困っている白杖の人を見かけたら必ず声をかける。
信号が青になったら教えてあげたい。
私たちが皆が笑顔になれる社会を創ります。
知らなかったことをたくさん知れた。
バスの席が空いていたら案内します。
可愛想の言葉の意味を学んだ。
もっといろんな人に松永さんのお話を聞いてほしいです。
そして一番最後に二人の先生の感想も添えてあった。
一人の先生は小学生の頃に僕の話を聞いてくださったらしい。
点字名刺を大切にしていたとも書いてあった。
15年程前のことだと思う。
感謝とエールが綴られていた。
やさしさに満ちていた。
もう一人の先生はたまたま僕の著書の読者だった。
コスモスの表紙との出会いをそっと伝えてくださった。
共有した時間への感想も記してあった。
きっと生徒にも話をされたのだろうと思った。
生徒達だけではなく先生方も一緒に未来を見つめる時間となったのが伝わってきた。
うれしく感じた。
幸せなことだと思った。
見えなくなった僕ができること、
僕にでもできること、
僕なりに一生懸命やってきた。
書くことも話すことも目的は同じだった。
ささやかな活動、祈りながらやってきたのかもしれない。
ほんの少し、未来に近づけたかな。
そんな気がした。
でもまだまだだ。
まだまだ頑張る。
出会った子供達が次の時代にバトンを引き継いでくれるだろう。
そしていつかきっと、皆が笑顔になる。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が一緒に笑顔になれる日がきっとくる。
さすがにあと15年は無理だろう。
もう少し頑張るつもりだ。
(2021年12月8日)

パイプオルガン

京田辺にある同志社女子大学にお招き頂いた。
新島記念講堂チャペルでの礼拝での講演だ。
毎日の祈りの時間の中でのひとときだ。
今出川の栄光館での取り組みと同じだ。
僕のような凡人には不似合いなのかもしれないという自覚も少しはある。
それでもこの場所とこの機会が大好きだ。
僕自身の心が静まりほんのりとやさしくなる。
不思議な空間だ。
その理由のひとつにパイプオルガンの音色があるような気がする。
ここのパイプオルガンのパイプ数は3千本を超えているらしい。
僕の想像力を超えてしまっていて、その姿は実感には結びつかない。
ただ、その重圧であたたかな音色が身体全体を包んでいくのは不思議な事実だ。
血流にまで溶け込んでいくのかもしれない。
音が空から降りてくるという感じだ。
「12月ですから、少しクリスマスの雰囲気をアレンジしましたよ。」
オルガニストの先生が微笑んで教えてくださった。
元々の音楽にも讃美歌にも疎い僕はその意味さえあまり分かってはいない。
でもその一言で幸せの度合いが増したのは間違いなかった。
いつかゆっくりこの音色のコンサートを聞いてみたいと思いながら学校を後にした。
(2021年12月4日)

高校生

講演の後、ガイドヘルプの体験ということで高校生達と学校の周囲を歩いた。
去年講演を聞いてくれた生徒達だった。
同行援護の資格を取得している彼女達の基本姿勢はプロのレベルだった。
脇はしっかりと締まっていて手はまっすぐに伸びていた。
背筋も伸びたそのサポートの姿は美しいとさえ感じた。
そして、僕の目の代わりになろうというやさしさも伝わってきていた。
僕は気持ちよく歩いた。
一歩一歩を大切に歩いた。
一人一人を信じて身を任せた。
頑張っている彼女達に僕ができるたったひとつのプレゼントのような気がした。
最寄り駅まで送ってくれた彼女達と別れて東京駅に向かった。
新幹線の中では充実感と快い疲労感を感じながら少し眠った。
京都駅からは地下鉄と阪急電車を乗り継いで帰った。
桂川駅からタクシーという選択枝もあったがなんとなく電車で帰りたい気分だった。
桂駅の改札口を出たところで声がした。
「お手伝いしましょうか?」
僕はバス停までのサポートを依頼した。
高校3年生の彼は中学1年生の時に僕の講演を聞いたと話してくれた。
6年ぶりの再会だった。
勿論、6年前の少年を僕は憶えてはいない。
でももうすぐ受験だと笑った彼は確かに少し大人になっていた。
同じ日に東京の女子高校生と京都の男子高校生にサポートしてもらったことになった
のは偶然とは思えなかった。
少し早いクリスマスプレゼントを未来から受け取ったような気分だった。
幸せだと感じた。
一晩寝て、また明日は午前が大学、午後が中学校での講演だ。
僕も未来に向かって頑張ろうと強く思った。
(2021年12月2日)

バイバイ

地元のバスはほとんど座れる。
始発から2つ目のバス停だから基本的に空いていることが多い。
乗客も地域の方が多いせいか空席を教えてくださることも少なくない。
時には馴染みの運転手さんがマイクで誘導してくださることもある。
今日は昼前に自宅を出たのだが乗車したバスは既に込んでいた。
「どこか空いていませんか?」
声を出すタイミングも逃した。
きっとどこかで座れると思いながら結局20分間立ったままだった。
運河悪い日だなと朝のラジオの血液型占いを思い出したりしていた。
桂駅から乗った阪急電車も立ったままだった。
烏丸駅までわずか10分程度だし座れる日はほとんどないから苦にはならない。
座れないのが普通だと受け止めてしまっている僕がいる。
烏丸駅から乗り換えた地下鉄も予定通りに立ったままだろうと思って乗車した瞬間、
ご婦人のサポートがあった。
声をかけてくださり空席を教えてくださり座らせてくださった。
座れるってこんなに幸せなことなのだとしみじみと感じた。
何度も何度もお礼を言いたい気分だった。
僕はうれし過ぎてありがとうカードを渡すタイミングさえ見失ってしまっていた。
電車が京都駅に着いた時、横から声がした。
「気をつけて行ってくださいね。」
さっきのご婦人の声だった。
時間は数秒しかなかった。
「ちょっと待ってください。」
僕はそう伝えながらあわてて胸ポケットを探ってありがとうカードをつかんだ。
「ありがとうカードです。どうぞ。」
ギリギリセーフだった。
僕は渡した後、バイバイをしていた。
電車が動き出して気づいた。
初めて出会った人にバイバイをしてしまっている自分がおかしかった。
仲良しの友達にバイバイしている感覚だった。
でもなんとなく納得した。
友達同士とまではいかないにしても、間違いなく人間同士なのだ。
バイバイ、バイバイ、バイバイ。
手を振ってバイバイ。
幸せの表現のひとつなのかもしれない。
(2021年11月27日)

伝える仕事

講演会場は体育館だった。
中学1年生、12歳13歳の生徒達が対象だった。
約80分のたった一度の出会いだ。
僕は精一杯の心を込めて話をした。
視覚障害を理解してもらうという大きな目的がある。
でもそれだけではない。
生きていく中で出会う失敗や挫折、悲しみ、苦しみ、
そしてそれをあきらめていく力、そんなことも伝えたいといつも思っている。
どんな環境の中でも人は幸せを夢見て生きていける。
僕がたくさんの仲間達から教わったことだ。
生徒達は真面目に話を聞いてくれた。
質問も多くて時間が足りないくらいだった。
講演が終わって担当の女子生徒二人が僕を校門まで送ってくれた。
講演の前と比べると、そのサポートはとても上手になっていた。
寄り添う気持ちが上達させたのだろう。
僕は記念の点字名刺を渡してお礼を伝えた。
「気をつけて帰ってください。」
二人は素敵な笑顔だった。
(2021年11月21日)

ドイツ料理

彼は僕をドイツ料理の店に招待してくださった。
人生の途中で視覚障害になった僕達は年齢も近い。
失明したのもほとんど同じ時期だ。
でも、どのように生きてきたのか、お互いに知らない。
その時に何を思い、どうやって悲しみや苦しみと向かい合ったのかもわからない。
ただ、お互いに同じ未来を見つめようとしていることだけは確認できた。
それだけでいいのだと思う。
琥珀色のオニオンスープはたまねぎ本来の甘さを主張していた。
新鮮なサラダには手作りのドレッシングがよく合っていた。
舌平目のロールは手が込んでいた。
オーブンでしっかりとローストされていて絶妙な味だった。
僕は珍しく、盛り合わせのデザートまで完食した。
時々の会話と笑いが幸せを増幅させていた。
60歳を超えている僕達はそんなに大きなことはできない。
でも、ほんの少しでいいから、何かができればいいなと思う。
そんな爽やかな思いをかみしめながら最後のコーヒーを飲み干した。
幸せってさりげないものなんだと再確認した。
そして空間に、時間に、共に過ごした人達に、ありがとうと思った。
(2021年11月17日)

留学生

集合場所までシンキもリジャルも自転車できた。
二人とも別々の場所で暮らしているのだが、とても遠いというのは共通点だ。
電車を利用しないということは何の矛盾もない日常的な選択らしい。
少しでもコストダウンというのがこの国で生きていく方法なのだろう。
彼らとは福祉の専門学校で出会った。
それぞれ高齢者施設で働きながら学んでいる留学生だ。
シンキは台湾、リジャルはインドネシア出身で僕との会話は日本語だ。
僕達はいろんな話をしながら宇治川沿いを散歩した。
シンキは台湾にも一応四季があることを教えてくれた。
ニイタカヤマは台湾にあることも初めて知った。
雪が積もるということにも驚いた。
戦時中の日本の占領の結果、親日も半日もあるらしい。
異国の話題に僕はどんどん魅かれながら話は盛り上がっていった。
リジャルはインドネシアの季節を夏夏夏雨と教えてくれた。
ひょうきん者のリジャルらしい表現だ。
リジャルの家の庭にはマンゴウの木があるらしい。
果物だけはいっぱいあると笑った。
島国だが領土は日本より広くて人口も日本の3倍くらいらしい。
言語の数は途方もない数字だった。
僕は地球を感じながら歩き続けた。
二人は交互に僕のサポートをした。
凹凸のある地道も会談も揺れる吊り橋も何の問題もなかった。
トイレの案内も困ることはなかった。
風景を感じながら水音を聞きながら、おいしい空気を吸いながら僕たちは歩いた。
気づいたら歩数計は1万4千歩を超えていた。
いたるところで彼らのやさしさが伝わってきた。
人間同士のつながり、素敵だと思った。
そしていつか僕が高齢者施設に入所するような日がきたら、
彼らに介護してもらえたらいいなと本気で思った。
とりあえずはこうして元気なうちに、次は温泉でも連れていってもらおうかな。
(2021年11月11日)

南京黄櫨

僕は車の助手席でパソコンのキーボードを叩いていた。
このところ忙しくて仕事に追われている。
できる時に少しでもやっておきたいという心理なのだろう。
ボランティアさんが車を運転しながらそっと教えてくださった。
南京黄櫨が赤く染まりだしたらしい。
僕の手は止まった。
そして視線が車のドアの向こう側に向かった。
この街で暮らし始めた頃、僕はまだ見えていた。
赤、黄色、緑、茶色、秋が彩った街を覚えている。
美しい絵画のようだった。
思い出が走馬灯のように脳裏に浮かんだ。
もう一度、しっかりと目を開いて外を眺めた。
思い出が生きていてくれたことを有難いと思った。
今年も秋がきてくれたのだとしみじみとうれしくなった。
空が高くて蒼いのを確信した。
道に積もった落ち葉の上を歩きたいと思った。
(2021念11月6日)

丹後への旅

7時過ぎにはタクシーに乗った。
単独で丹後半島まで出かけるので駅での援助依頼に時間を要すると考えたからだ。
でも実際は思ったよりもスムーズに動けて、予定通りに特急はしだて号に乗車した。
天橋立駅で乗り換えて昼前には岩滝口駅に着いた。
関係者がホームで待っていてくださった。
秋の爽やかな風を感じながら迎えの車に乗った。
会場の控室には食事の準備もしてくださっていた。
バラ寿司という地元の郷土料理だった。
これをこの地域の視覚障害者の先輩に教えてもらったのはもう20年くらい前だ。
すっかり好物となってしまっていた。
それだけで単純な僕は幸福感に包まれた。
いい気分で会場の人達に語り掛けることができた。
僕の講演はともかくも、その後のシンポジウムは素晴らしいものだった。
主催者の準備もしっかりしていて、司会者もいい流れを作ってくださった。
皆が同じ未来を見つめる時間となった気がした。
車椅子の登壇者がお正月の箱根駅伝の観戦が楽しいとおっしゃった。
見えない僕も毎年ラジオで観戦していることをお伝えした。
そういうことを普通に話せる空間がいいなと思った。
まとめをしてくださった主催者の言葉も的確に最後を飾っていた。
最初から最後までこんなにうまくいくのも珍しい。
そういうイベントに参加できたことをとてもうれしく感じた。
そして感謝した。
帰路はコウソクバスを利用した。
関係者がバスの仲間でサポートして見送ってくださった。
ぬくもりが伝わってきた。
それぞれの立場で頑張っていける気がした。
いい旅となった。
(2021年10月30日)