仙台

ラジオから流れてきた青葉城恋歌を聞いて、
次の日には1人で東京へ向かう夜行列車に乗っていた。
20歳の頃だっただろうか。
早朝東京に着いて上野から仙台に向かったのだと思う。
Tシャツに汚れたGパン、下駄履きだった。
大学の講義をさぼれば時間だけはたっぷりあった。
お金はなかった。
どこに行くにも鈍行列車だった。
車窓から流れる景色を飽きもせず見ていた。
夜行列車の中では文庫本の活字をむさぼるように追った。
硬いシートに身体を折り曲げて眠った。
眠る時にはウォークマンから流れる大好きな音楽も傍にあった。
それなりに立派な大人になりたいと思っていた。
豊かな人生を送りたいと思っていた。
いつか幸せになりたいと夢見ていた。
確かにそこに向かって頑張ってきたのだと思う。
間違っていたとも思わない。
でもあの仙台駅のホームに降り立った時の思いは味わえなくなった。
あの胸が震えるような思いが幸せの姿だとあの頃は判らなかった。
あれから何度目の仙台だろう。
それぞれの時代のそれぞれの仙台が微笑んでいる。
いつか微笑み返せるようになりたい。
僕は僕以上にも僕以下にもなれないのだろう。
僕はこのまま僕の人生を僕の歩調で歩いていくんだ。
(2017年9月1日)

雑草

道を歩いていたら突然草が顔に当たった。
サングラスをしていたから痛くはなかったけれど驚いた。
空中に草が浮いているはずはないから手を伸ばして探ってみた。
道沿いの石垣の間から生えた雑草だった。
周囲には他にはなかった。
たった一本だけ生えていた。
また顔に当たったら嫌だなと思って引っこ抜くために根元を探した。
石垣の小さな隙間から生えているのを知った。
発芽してから仕方なく真横に成長を始めたのだろう。
そして少し大きくなってからはお日様に向かったに違いない。
茎が空に向かって湾曲していた。
カッコいいなと思ってしまった。
引っこ抜こうとしていた僕の手の力が抜けた。
この酷暑の中、この条件で生きていくのは大変だろう。
そう思ったらとても愛おしくなった。
僕はリュックサックからペットボトルの水を出して根元の石垣に注いだ。
ちゃんとできたかは判らなかったが一生懸命にやった。
それから残りの水を飲み干した。
「お前も頑張れよ。」
僕は声に出してそうつぶやいて歩き出した。
僕自身も雑草みたいなものかもしれない。
しっかりとお日様に向かわなくちゃ。
(2017年8月27日)

昨年僕の講義を受講していた学生と再会した。
一年ぶりの再会だったが記憶はおぼろげだった。
珍しい名前だったので名前の記憶はあったが、
それがどの学生でどんな感じだったかなどの記憶はなかった。
学生達は年に30回の講義をほとんど休まずに受けてくれているのだが、
数も多いし、やっぱり画像がないというのが決定的なのだろう。
僕はとにかく記憶ができない。
それにその記憶がなくても特別に困ることはないということもあるのかもしれない。
再会は三日間の研修だった。
しかも研修の最終日は僕を含めて7人でのグループ実習だった。
たくさんの個別の会話ができた。
彼女がしっかりと話をするということに気づいたし、
言語聴覚士を目指していることも知った。
楽しい半日だった。
別れ際に彼女は僕の顔を見つめた。
「いつか自分の子供に『風になってください』を読ませたいと思っています。」
彼女はそれだけを言って握手した。
「ありがとう。」
僕はやっとそれだけを返した。
どれくらい先の話だろう。
ひょっとしたらもう僕はいないかもしれない。
でも、本を読んでくれる人がいるかもしれないのだ。
僕は不思議な幸せに包まれた気がした。
(2017年8月24日)

夏の雲

早朝からの単独移動、仕事、それからまた場所を変えての重要な会議、
帰る時には久しぶりに疲労感を覚えていた。
夏の疲れも出始めているのかもしれない。
迎えにきてくれたボランティアさんの車の助手席でぼぉっとしていた。
後部座席にはボランティアさんの娘さん達も乗っていて、
その会話が空気を和やかにしていた。
僕は時々耳を傾けながらくつろいでいた。
車が坂道を登り始めてしばらくした時、
「あの雲で寝たい!」
何の脈絡もなく娘さんが突然声を出した。
僕は一気にうれしくなった。
真っ青な夏の空に真っ白な雲が浮かんでいるのだろう。
僕は空を眺めた。
僕もその雲でぐっすりと眠りたいと思った。
15歳の少女のキラキラした眼差しが夏にとてもよく似合った。
(2017年8月20日)

食いしん坊

休日のひととき、友人と和食屋さんで食事をした。
見えなくても食べるということは楽しめる。
食通の視覚障害者も結構いる。
僕は食通ではないが食いしん坊には違いない。
おいしいと聞いたお店にはつい行きたくなる。
香りに工夫がしてあったり季節の食材が使われていたりするとうれしくなる。
色彩は友人の説明で想像したりする。
食べ終わった食器を自然に元の位置に戻す。
「ほんまは見えてるんでしょう。」
そのタイミングで見えている人から指摘されることも多い。
それくらい自然な動きなのだろう。
20年の時間の流れの中で培ってきた技術なのかもしれない。
手のひらどころか指一本一本の触覚をすべて使っているのだと思う。
そしていつの間にか距離感みたいなものも判るようになったのかもしれない。
失明する直前、とにかくよくコップの水や食器をひっくり返したりした。
そしてその都度悲しくなった。
触覚などは使わずに目で見ていたからだろう。
ほとんど見えていない眼だったのにやっぱりその目で見てしまっていたのだ。
本能だったのかもしれない。
目を使えなくなってから自然に触覚などを使うようになっていった。
こぼしたりひっくり返したりすることはほとんどなくなった。
人間の対応力というのは凄いものだ。
でも例えば食後のケーキなどは手で食べることにしている。
フォークやナイフでというのは難し過ぎる。
幾度かトライしたことはあるがいつもグチャグチャになった。
そして開き直った。
見えない僕が上手に一番おいしく食べる方法を選ぶ。
それが手で食べるということなのだ。
行儀が悪いとかみっともないという意見もあるかもしれないが、
料理やケーキの立場になれば、
一番美味しくが本望だろう。
食いしん坊の僕流のこじつけでそうしている。
もちろん食後に口の周りのクリームをしっかりと拭くのは忘れないようにしています。
これを忘れたらあまりにもみっともないですからね。
(2017年8月16日)

教えられて

さわさわのサポータークラブの名簿を確認していたら、
おぼろげな記憶が学生の氏名に気づいた。
僕は専門学校も大学も非常勤講師という立場なので、
受け持った科目を教えるだけで学生達と共有する時間は限られている。
「教え子」とか「恩師」という関係までにはなれない。
しかも僕は画像がないわけだから学生達の顔を憶えることもできない。
氏名さえもほとんど記憶できない。
サポーターとなってくれた元学生に電話をかけてみた。
彼女はその専門学校での僕の講義の第一期生とのことだった。
もう15年以上前のことになる。
僕が講義でどんな話をしたかなどを彼女はいろいろ記憶していた。
校外学習で盲導犬センターまで出かけたこともあったらしい。
時間や場所を考えると全員で行くことは考えられない。
ということは熱心な学生だったか優秀な学生だったということだろう。
白い杖を持った人を見かけたら必ず声をかけているとのことだった。
そして二人の小学生の子供にもそれを教えているとのことだった。
こうして出会った学生達がいろいろな形で僕の活動を応援してくれている。
大きな力となっている。
そして教えた学生達から大切なことを教えられている。
いつかどこかで彼女の子供にサポートしてもらえるかもしれない。
いやお孫さんにサポートしてもらえるまで頑張ろうか。
100歳を超えての白杖での単独歩行、ちょっとカッコよさそうで憧れるなぁ。
(2017年8月14日)

乗車の際に運転手さんの声かけがあったので問題なく椅子に座れた。
雰囲気からすれば混んではいない様子だった。
僕は何も考えずにぼぉっとしながら時間を過ごした。
会話をする乗客もいなかったので静かな車内だった。
微かなエンジン音だけが流れていた。
時折流れる車内アナウンスを除けば映像も音もない空間だった。
心地よかった。
幾つ目のバス停だっただろうか。
ドアが開いた瞬間シャッシャッシャッシャッ、
クマゼミの大合唱が飛び込んできた。
夏が飛び込んできた。
僕は窓から外を眺めた。
真っ青な空にモクモクと入道雲があった。
力強い風景だった。
夏は強いなと改めて思った。
若い頃は冬が好きだったのにいつの間にか夏を大好きになっていた自分に気づいた。
衰えていく力への憧れなのかもしれない。
ドアが閉じてまた静寂が戻った。
バスを降りたらまず一番に空を見ようと思った。
(2017年8月11日)

へっぴり腰

いつものように朝の難関で立ちすくんだ。
信号のある横断歩道を渡らなければいけない。
見えない僕は車のエンジン音で信号の色を判断する。
失敗は許されないのだから、とにかく集中する。
自信が出るまでは動かない。
例え気持ちが急いでいても動かない。
こうして事故にあわないでこれたのはそのへっぴり腰のたまものだと思っている。
今朝も自信がなくてなかなか渡れずにいた。
車の通行量が少な過ぎて、
停止したエンジン音が青の始まりなのか終わりに近づいているのかが判らなかった。
周囲に人の気配もなかった。
時間が流れた。
きっと数回の色の変化があっただろう。
「青になっていますよ。」
反対側から渡ってきた方が声をかけてくださった。
やっと通行人と出会えたのだ。
「ありがとうございます。助かります。」
僕は渡り始めた。
「今、点滅になりました。」
後ろからさっきの方の声が聞こえた。
「大丈夫です。ありがとうございました。」
僕は前を向いたまま大きな声で感謝を伝えながら歩いた。
反対側にたどり着いて、振り返って深くお辞儀をした。
見えなくなって白い杖を持ち始めた頃、
その姿を想像して悲しくなった。
見られたくないと思った。
時間というのは不思議なものだ。
いつの間にか白杖を好きになっていった。
へっぴり腰ではいつくばって生きている自分を好きになっていった。
深々とお辞儀をしながら生きている自分自身の生き方を好きになっていった。
(2017年8月6日)

500000人目のご縁

松永です。
僕のホームページを覗いてくださって有難うございます。
アクセス数がもうすぐ50万回となります。
気の遠くなるような数字です。
僕にとっては、僕のささやかな活動に対しての50万の拍手のような感じです。
光栄です。
そして力となっています。
これも何かのご縁、
たまたま500000という数字を引き当てた方は連絡ください。
一緒にコーヒータイムでもできればと思います。
国外からアクセスしてくださっている人もおられるようですが、
その場合は京都のお菓子でも送ります。
国内の方だったら、時期は確定できませんが、会いに行くつもりです。
宜しくお願い致します。
(2017年8月4日)

ひまわり

駅を出てバスターミナルまでの通路、
僕は毎日のようにそこを歩いている。
点字ブロックを白杖で確認しながら歩いている。
毎日何の変化もない。
音も空気もいつも同じようなものだ。
でも今日は違った。
通路の両側の壁に幼稚園や保育園の子供達が描いたひまわりの絵があることを知った。
僕はひまわり畑の中を歩いていたのだ。
大好きなひまわり畑の中を歩いていたのだ。
それを知ったらうれしくなった。
昔歩いたひまわり畑を思い出した。
歩いた時にはもう失明していたのだから、
本当は映像が蘇るはずがない。
それなのについこの前見たように鮮やかに蘇った。
ひまわり畑の近くのレストランで食べたハンバーグランチがひまわりみたいに飾って
あったことまでも思い出した。
見たことのない映像が宝物になっていた。
それからひまわりの映画のシーンも記憶に重なった。
列車は一面のひまわり畑の中を進んでいた。
その前後の記憶がないということは悲しい映画だったのかもしれない。
通路の途中までのたった数十メートルのひまわり畑の道、
楽しい思い出と悲しい思い出が交差した。
人は様々な思い出を抱きしめて生きていくのだろう。
いや思い出に抱きしめられて生きていくのかもしれない。
見たことがあってもなくても、それはきっと幸せなことなのだ。
(2017年8月2日)