あぶり餅

シルバーウィークの秋の一日、
仲間達と今宮神社のあぶり餅を食べに行った。
僕達は視覚に障害があるということで知り合った。
たまたま同じ時代に同じこの京都で、
それぞれの理由で目が不自由になった。
障害への思いはもちろんのこと、
一人の人間としての考え方もきっと随分違うのかもしれない。
ただ、未来を見つめる視線だけは同じだ。
でもそれをわざわざ口にはしない。
言葉にならない言葉が大きな意味を持つこともあるのだ。
運ばれてきたあぶり餅の香ばしさ、
ほんのり甘い白味噌だれ、
僕達は竹串の先の小さなお餅をほおばった。
それぞれの見えない視線がフフッと笑った。
笑顔が交差した。
穏やかな秋の一日、また明日から頑張ろうと思った。
(2015年9月23日)

曼珠沙華

見えなくなってもう18年も経つのだから、
いろいろな画像の記憶が確かなものなのかどうか自信はない。
先日も黄土色を思い出そうとして苦労したし、
群青色はもうあきらめてしまった。
あきらめるのは悔しいのだけれど仕方がない。
ただ、突然蘇るものもある。
先日学校の校庭で知り合いの先生が彼岸花が咲いているのを教えてくださった。
僕は触らせてくださいと頼んだ。
僕の指先がそっと彼岸花をなぞって動いた。
僕の頭の中に水色に近い青い色が浮かんだ。
空の色だ。
そしてそれを背景に朱色の彼岸花が蘇った。
曼珠沙華という単語も燃えるような朱色と一緒に蘇った。
まるで一枚のフォトグラフのようだった。
いつどこで写されたものか判らない。
僕の人生のどこかで巡り合った画像なのだろう。
忘れていくのは残念だけど、
またどこかで会える日もあるのかもしれない。
なんとなくそんな気がした。
(2015年9月19日)

早起きは三文の得

光を感じることのできない僕は、
毎朝ベッドの横に置いてある音声時計で朝を確認する。
もう慣れているのでその行動に特別な違和感もない。
たまに手探りの方向がずれていてうまく時計をキャッチできなくていらつくこともあ
るのだけれど、狭い範囲での捜索だからじきに見つかる。
時々朝かと思って時計のボタンを押して、
音声が夜中を教えてくれたりしたらちょっと損をしたような感じでもう一度寝る。
今日は夜中に二度も起きてしまった。
しかも二度目は朝と確信しながら時計を探した。
なかなか見つからず、やっと探し当てた時はすっかり目覚めている感じだった。
ボタンを押したら、
「午前4時55分です。」と聞こえた。
僕は聞き間違ったかと再度ボタンを押したが間違ってはいなかった。
もう一度寝たら中途半端な眠りになってしまいそうなのであきらめた。
ちょっとがっかりしながら、いつものようにラジオをつけた。
見えている頃は朝新聞を読む習慣があったのだけれど、
見えなくなってからは毎朝ラジオを聞くようになった。
ラジオをつけっぱなしで動き始める。
カーテンを開け窓を開けて空気を入れ替える。
無意識に深く呼吸する。
小鳥達の朝の挨拶が聞こえないか耳を澄ます。
トイレや洗面をすませたら必ずコーヒーを飲む。
最近知人からプレゼントしてもらったスティックのコーヒーがお湯を注ぐだけという
手軽さでとってもおいしいので気に入っている。
今朝もそのコーヒーを飲みながらラジオに耳を傾けたら天気予報の時間だった。
「今日の降水率は0%、今空を見ても雲を見つけるのが大変なくらいの青い空が広が
っています。」
天気予報士のおじさんの声が流れた。
その声もちょっとうれしそうだった。
僕はさきほと開けた窓から空を眺めた。
早起きは三文の得、
ちょっと納得の朝になった。
(2015年9月14日)

もし目が見えたら

小学校での福祉授業、100人近い子供達が僕の前に座った。
僕はいつものように、
視覚障害ってどんな状態なのか、
何故なるのか、どういうことに困るのか、
どんな風に手伝って欲しいのか、
順序を考え整理しながら話をした。
一生懸命話をした。
そして障害がそのまま不幸に結びつくものではないことも伝え、
助け合える人間の社会の素晴らしさなども付け加えた。
最後に子供達の質問を受け付けた。
「もし目が見えるようになったら何を見たいですか?」
一人の少女が僕に尋ねた。
僕は日常、バス停などで無意識に空を眺めているという話をして、
空を見たいのかもしれないと答えた。
それから、知人に聞いた話をした。
「あのね。何を見たいですかと尋ねる時、尋ねる人の心の中には
見せてあげたいという気持ちがあるらしいよ。
見せてあげたいと思うからそういう質問になるそうだよ。
ありがとう、うれしいね。
だから、そう思ってくれたやさしい君の顔を見てみたいね。」
授業が終わって帰る間際、少女が僕に声をかけてくれた。
少女は自分の氏名を名乗ってから、
「私の顔を見てみたいと言ってくださって、とってもうれしかったです。ありがとう
ございました。」
それだけを僕に伝えた。
僕達は握手をした。
握手をしたまま、お互いを見つめた。
そして、微笑んだ。
(2015年9月9日)

島人ぬ宝

僕は講演終了後も意見交換会に参加し、
そのままの流れで二次会にも参加した。
下戸の僕はウーロン茶で過ごすのだけれど
酒宴の雰囲気が嫌いなわけでもない。
楽しい時間に身を任せ、
その輪の中に入れてもらっていることもうれしく感じることも多い。
奄美の喜界島から参加してくれた彼はとても歌がうまかった。
聞き惚れてしまった。
彼は僕の隣に来てくれて、
出会えて良かったと何度も言ってくれた。
世界が広がったような気がするとも言ってくれた。
そして最後に「島人ぬ宝」を歌ってくれた。
ビギンの歌で僕も好きな歌だ。
でも彼はそれを奄美の言葉で歌ってくれた。
僕は鹿児島県阿久根市の出身なのだけれど、島の言葉は何も判らなかった。
ただ暖かな声が心にまで浸みこんできた。
圧倒的な迫力まで感じた。
彼のやさしさが伝わってきた。
そしていつか奄美の潮風を感じてみたいと思った。
(2015年9月6日)

手応え

鹿児島県安全運転管理協議会の研修会、
会場の鹿児島空港ホテルには県内全域から関係者が集った。
それぞれの地域の代表者なので、
実業家、名士と呼ばれる人達がほとんどだった。
平均年齢も60歳は超えていただろう。
警察OBもたくさん参加しておられた。
こうして様々な団体から講演の依頼があり、
いろいろな会場で話を聞いてもらうのだけれど、
それぞれの雰囲気みたいなものもある。
今回はなんとなく「剛」の感じだった。
凛とした空気が会場全体にあった。
僕はいつものように心をこめて語りかけた。
「助け合えるのは人間だけです。」
僕は素直に希望を言葉に変えた。
終盤、数日前の小学校で10歳の子供たちが醸し出した空気と同じものが
会場のあちこちで生まれていた。
人間同士の共感には年齢も性別も、勿論肩書きも職種も関係ないのだ。
暖かな拍手が僕を包んだ。
懇親会では何人もの方が励ましの声をかけてくださった。
感動したと言ってくださった。
握手をしてくださった。
家族に伝えるとか自分の会社の社員に話すとおっしゃってくださった。
本を読んでみるという声も多くあった。
講演依頼もあった。
僕は数えきれないくらいの「ありがとうございます。」を口にした。
何度も何度も頭を下げた。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔で参加できる社会、
僕達だけがいくら頑張ってもなかなか実現できないだろう。
正しい理解は力となり、
共感してくださる人達のエールがその力を加速してくれるのだ。
勿論、僕の生きているうちにたどり着くなんて思っていない。
でも、いつかきっとそんな日がくる。
講演の後の拍手を聞く度に僕は手応えを感じている。
(2015年9月5日)

知る機会

午前中地元の小学校で開催されたPTA役員の人権研修での講演を終えて、
急いで午後の小学校へ向かった。
予定通り移動できれば、何とかおにぎりを頬張るくらいの時間はありそうだった。
バスが桂駅に到着してすぐに、
女性の方が声をかけてくださった。
急いでいる時のサポートの声は特に有難い。
しかも電車での行先も同じ方向だった。
単独で動くのと比べれば半分の時間での移動だろう。
そして空いてる席に座ることもできた。
特急電車での車中、時間にして5分くらいだろうか、僕達はいろいろな話をした。
ついさっきまでの赤の他人が友達同士みたいに話をしていた。
「街で白杖の人を見かけた時に、
いつどのタイミングでどのように声をかければいいか戸惑うんですよね。」
彼女の素直な気持ちだった。
「僕が見えている頃、僕には白杖の人などに声をかける勇気がありませんでした。
でもこうして見えなくなって、サポートの声はとってもうれしいですよ。」
僕も正直に答えた。
烏丸駅で彼女と別れてから地下鉄と近鉄を乗り継いで小学校へ向かった。
予定より早く動けたのでおにぎりもゆっくり食べることができた。
45分の授業を2時限することで、
子供達に僕達のことをしっかりと伝えなければいけない。
僕の使命だと思っている。
だからつい一生懸命になっている自分がいる。
いや一生懸命にならなくちゃ伝わらない。
45分の最初の授業が終わって休憩している間にもたくさんの子供達が僕の周囲に集ま
った。
僕の時計を見せて欲しい、点字を読んで欲しい、白杖を持たせて欲しい。
いろいろな注文に応じていた時、
耳元で一人の少女がささやいた。
「風になってくださいを読みました。感動しました。」
僕は少女とそっと握手した。
子供の頃に正しく知る機会があれば、
さきほどの女性のように戸惑う人は少なくなり、
声をかけてくださる人も増えるだろう。
そして何より、いろんな人間とコミュニケーションをとれれば、
声をかけた人もかけられた人も人生そのものが豊かになるような気がする。
(2015年9月3日)

単独歩行

日常は白杖を使っての単独歩行をしている。
それが普通の日々だから特別な違和感はない。
知らない場所や初めての場所への移動、限られた時間の中での移動などの場合は、
ガイドヘルパーを利用したりサポーターに手引きしてもらったりしている。
白杖での単独歩行とサポーターとの手引き歩行を組み合わせて、
危険な状態になることのないようにしているのだ。
ここ三日間は大阪の医療系の専門学校での講座が続いた。
長時間で体力的にも結構ハードな内容だったので
初日だけ単独で移動し後の二日間はサポーターの手引きで移動した。
電車の中で空いてる席を見つけられない僕は、
初日の単独移動の日は京都から大阪までずっと立っていた。
運がいい日は他の乗客の方が空いてる席を教えてくださったりすることもあるのだが
今回はだめだった。
サポーターと一緒の二日間はもちろん座ることもできたし、
車内放送に必死にならなくても済んだし、何より楽な歩行ができていた。
そして今日、たった二日ぶりの単独歩行、
意識的に集中力を高めて歩こうとしている自分がいた。
なんとなく白杖を握る手に力が入っていた。
安全を確保するための自然な動きなのだろう。
視覚以外の五感を使っての歩行、
やっぱりエネルギーを使っているのだなと再確認した。
白杖も僕自身もやさしくいたわってあげなくちゃと思った。
(2015年8月31日)

後輩

視覚障害者がよく訪れる施設のローカ、
雰囲気でお互いを確認できた全盲同士の僕達は、
「久しぶり、元気?」
「まあまあですよ。松永さんもお元気ですか?」
「うん、相変わらずかな。」
通り一遍の挨拶みたいなものを交わしてすれ違った。
数歩進んだ辺りで後輩の声が背中から追いかけてきた。
「あのう、時々、ブログ読んでいます。」
彼はそれだけを僕に伝えた。
内容がいいとか悪いとか、
どんな感想を持ったとか、
そんなものは一切なかった。
口数の少ない彼は、読んでくれているという事実だけを僕に伝えた。
僕は照れ臭かったけれど、とってもうれしかった。
親子ほど年齢も違うし、協会では副会長の僕はいつも先輩面をしている。
だいぶ前、彼と食事をした時、
彼が3歳くらいで失明したことを知った。
見た記憶はあるかとの僕の問いかけに、
「その頃家族で海に行ったのですが、その時の海の色を憶えているような気がするん
ですよ。たぶん、いやきっと、海の色だと思うんですよ。」
彼は恥ずかしそうに笑った。
僕は40歳近くまで見えていたから、
見たという経験を持っているし思い出もある。
見えなくなった今、ひとつひとつの思い出が宝物だ。
僕がいくら先輩面をしても、きっと彼を理解することはできないのだろう。
ただ、見えない仲間として、
どこかで共感できることはやはり人間の豊かさだと感じている。
いつ見えなくなったのかとか、
見た記憶があるかないかなど、
違う部分もいくらかは存在するのは否定しない。
でも、人間同士はその違いを認め合って超えていく力を持っているのだ。
そしてその力は見える人と見えない人との違いも超えていくのだろう。
彼が見た海、いつか僕も一緒に見れたらうれしいだろうな。
(2015年8月24日)

深夜のメール

今年の夏も特別講座や研修などで多くの学生達と出会った。
福祉や教育や医療を学ぶ学生達だ。
月末には大阪の視能訓練士を目指す学生達への講座があるのだが、
それを入れると結局8月の中で10日間は学生達と出会っていたことになる。
暑い中での各地での講座などは体力的には厳しいのだけれど、
成長する学生達を目の当たりにすると、
未来につながっていくような気がしてうれしくなる。
先日も深夜0時のちょっと前に、
突然のメールが届いた。
「講義を受けて少しでも視覚障害者のみなさんの気持ちを知ることができ、
本当によかったとおもいます!
ありがとうございます!
それ以外でも福祉に興味を持ち出したら、
視覚障害者の人に限らず、困っている人をたくさんみつけるようになりました。
もっともっと役に立てるように、困っている人に勇気をだして声をかけてみます!♪
おやすみなさい。」
学生の飾らない心の言葉が、
パソコンのイヤホンから僕の心に沁みこんだ。
僕は日常無意識に閉じている目を開いてみた。
いつもと変わらないグレー一色の世界が目前にあった。
もうすっかり慣れてはいるのだけれど、なんとなく不思議な感じがした。
悲しいとかの感情はなかった。
18歳の少女のぬくもりが、
グレーという色をやさしくさえ感じさせてくれていた。
「ありがとう。おやすみ。」
僕は小さな声でささやいてパソコンを閉じた。
(2015年8月21日)