風の会

『風になってください』がデビューしたのは2004年の12月だった。
見えない僕達のことを社会に正しく知って欲しい、
祈るような気持ちで原稿を書いたことを昨日のように憶えている。
故郷の川内高校での卒業30年の同窓会が開催されたのは翌年だった。
同窓生達は失明していた僕を暖かく迎えてくれただけでなく、
僕の活動を支援するグループ「風の会」を結成してくれた。
「風の会」は僕を川内に招待してくれ講演の機会を作ってくれるようになった。
毎年秋に川内に出かけるという僕のスケジュールは10年以上続いたことになる。
小学生から大人まで様々な会場で僕の話を聞いてくれた人の数は1万5千人を超えた。
今年の川内最終日は「青少年育成のつどい」での講演だった。
会場の国際交流会館には300人を超え得る人が集まった。
ここは風の会が初めて講演会を企画してくれた場所だった。
僕は特別な思いを抱いて壇上に上がった。
そして心をこめて灰色一色の向こう側に語りかけた。
「助け合えるって人間だけですよね。」
講演の最後に会場に問いかけた。
大きな拍手が答えだった。
未来に向かっての種蒔きができたことを実感した。
僕達は還暦を迎えた。
それぞれがまた新しい一歩を踏み出す年齢なのだろう。
この「風の会」の活動も変化していくのかもしれない。
それはまた時間が答えを出していくのだろう。
「煩悩が多いからなぁ。」
駅まで送ってくれた同窓生が照れ笑いした。
僕達は同じ時代に同じ故郷で同じ高校で学んだ。
60年の人生で共有した時間はたった3年間だ。
その人達がここまで動いてくれたのは何故だろう。
単純に僕の応援だけでは続かない。
煩悩を超えていく純粋さがあったからだろう。
『風になってください』はベストセラーにはならなかったがロングセラーとなった。
もうすぐ10刷を迎える。
(2016年10月16日)

阿久根にて

あてもなく走った車は海辺に着いた。
僕達は堤防の横から岩場に上った。
東シナ海の波の音がそこにあった。
風の音もそこにあった。
時々鳥の声も加わった。
でも主人公は静寂だった。
それぞれの音はそれを認識しているかのように緩やかだった。
無音がランダムに訪れた。
京都の日常では出会えない空間だった。
至極の時間が流れた。
旨いコーヒーが飲みたくなった。
無性に飲みたくなった。
僕達は阿久根駅のカフェに向かった。
(2016年10月13日)

新しい靴

50年前、社会にはまだ点字ブロックも音響信号もなかった。
福祉という言葉さえなかったのかもしれない。
その時代に先輩達は白杖を持って集い京都の街を行進した。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加できる未来に向かって歩き始めたのだ。
希望という名のバトンは引き継がれ
今年50回目を迎えた。
300人を超える仲間、関係者、支援者が集まった。
実行委員長の僕は新しい靴を履いて参加した。
ゴールはまだまだ遥か遠くのような気がする。
辿りつくのは困難だろう。
でも一歩でもそこに近づくために歩き続けるのだ。
僕にできることをやっていきたい。
コツコツとやっていきたい。
新しい靴の紐を結びながら、
無意識のささやかな決意を自覚した。
(2016年10月11日)

三日月

大学の講義は年間30回と回数が決まっている。
専門学校は半年で15回だ。
90分の講義をそれだけ実施するのだから準備も必要だし、
年間の予定も大切になってくる。
ところが僕は様々な活動をしているのでなかなか予定通りにはいかない。
休講とすることも多い。
休講にしたらどこかで補講をしなければならない。
龍谷大学は15時からの4講目が僕の講義があるのでそのまま5講目に補講を入れる
ようにしている。
90分が連続するのだから3時間の講義ということになる。
僕も大変だけど学生も大変だ。
申し訳ないという気さえ起ってくる。
今日も講義が終わってキャンパスを出る時は18時を過ぎていた。
通学が途中の駅まで僕と同じ学生がサポートしてくれた。
歩き始めるとすぐにもうすっかり陽が落ちていることを学生は僕に伝えた。
それからとりとめもない話をしながら僕達は歩いた。
目が見えないおじさんを手引きして夜道を歩くなんて、
1年前の彼女には想像さえできなかったことだろう。
知るということが学ぶということの始まりなのだ。
僕達は何の問題もなく歩いた。
地下に入る駅の手前で学生は夜空を眺めながら僕に伝えた。
「綺麗な三日月です。」
僕達は夜空を見つめた。
教えてあげる喜びと教えてもらう喜びが交差した。
笑顔がこぼれた。
幸せを感じた。
(2016年10月8日)

連鎖

バスターミナルから駅の改札口まで続く通路、
僕はいつものように点字ブロックを手がかりに歩いていた。
「阪急の者ですがお手伝いしましょうか?」
僕は驚いた。
そこは駅の近くだけれど構内ではなかった。
構内で声をかけてもらうことは時々あるが、
その通路では初めてだった。
阪急のとおっしゃったがあくまでも一人の通行人としての行動だった。
僕は改札口までのサポートをお願いした。
たった数十メートル、駅員さんの肘を持たせてもらって幸せな気分で歩いた。
改札口でお礼を伝えてそこからは乗車予定のホームに一人で向かった。
ホームで電車を待つ時間も気持ちは豊かだった。
電車が到着していつものように慎重に乗り込んだ。
間もなく乗客の一人が席を譲ってくださった。
感謝を伝えて座った。
目的の駅に着いて歩き出したら、また別の方が声をかけてくださった。
桂駅から烏丸駅までたった10分ほどの間に3人のサポートを受けたことになる。
一日中歩いても声がかからない日があるのも事実だけれど、
声がかかると不思議とそれはつながっていく。
どうしてかは判らない。
やさしさは連鎖していくのかな。
先日、小学校で子供に尋ねられた。
「目が見えなくなってから、いいことってありますか?」
僕は笑顔で答えた。
「目が見えている頃の何倍もやさしい人に出会えるね。それは幸せだよね。」
やさしい人に出会ったら笑顔になる。
笑顔になると声もかけてもらいやすくなるのかもしれない。
そうやって連鎖していくのかな。
(2016年10月5日)

黒豆枝豆と栗

丹波の黒豆枝豆が送られてきた。
丹波の栗が送られてきた。
別々の人からのプレゼントだ。
たまたま偶然なのだが、
お二人共がご主人を亡くされておられる。
そしてお二人共がご主人は視覚障害者だった。
秋という季節を僕に届けようと思ってくださったのだろう。
これもたまたま偶然なのだが、
「応援しています。」
どちらにもやさしい言葉が添えられていた。
光栄だと感じた。
それぞれのご主人の思いを受け継いでいくようにとのことなのかもしれない。
先達の心を今生きている僕達がかみしめていくことが大切なのだろう。
そして次の時代に渡すのだ。
そうして思いは深まっていく。
成熟していく。
僕自身もそうありたいと願いながら秋の味覚を味わった。
(2016年10月1日)

京都府北部地域の視覚障害者の仲間が舞鶴市に集結した。
皆で話し合いをした後、市内をパレードした。
「白い杖を見かけたら声をかけてください!」
「歩道に物を置かないでください!」
「歩きスマホはやめてください!」
「自転車は安全運転をしてください!」
シュプレヒコールはひとつひとつが大切な願いだった。
200人あまりの視覚障害者とガイドヘルパーさん、ボランティアさん、3匹の盲導犬、
皆が心をひとつにしてのパレードだった。
僕は役員の代表として舞鶴市まで遠征し挨拶をしパレードにも参加した。
歩き終わって、満足感と疲労感をリュックサックに詰めて帰路に着いた。
関係者の車に同乗させてもらったが高速道路は込んでいた。
小雨も降ったりした。
パレード中でなくて良かったなと胸を撫で下ろした。
「虹です!」
突然、同乗していた職員が叫んだ。
虹に出会ったのは、ひょっとしたら失明してからは初めてかもしれない。
神様のプレゼントだと感じた。
いや、確信した。
神様は時々粋なことをしてくれる。
素敵だな。
そう思ったらうれしくなった。
希望を持って歩き続ければ、きっといつか虹の向こうにたどり着く。
(2016年9月27日)

手話通訳士

「松永さん、かっこいいですね。」
「サングラスがですか?」
僕達は笑いながら話をした。
見えない僕と聞こえない彼女、
僕は声を出して話をしたが彼女にはそれは聞こえない。
彼女は手話で話をしたが僕にはそれは見えない。
手話通訳士が間に入ってくれた。
城陽市で開催された盲聾者通訳介助員養成講座、
僕は講師として彼女は受講生として参加して出会った。
そしてたまたま帰りの電車が京都駅までは一緒だったのだ。
僕達は並んで座った。
彼女は生まれた時から聞こえないのだそうだ。
僕は39歳で失明した。
彼女は見えない世界を想像しただろうし、僕は聞こえない世界に思いを寄せた。
イメージすること、それは人間ならではの素敵な能力だ。
そしてそれによって生まれるのは涙ではなくて笑顔なのだ。
お互いの命を愛おしいと思うからだろう。
「松永さんに来てもらうには講演料は高いのですか?」
彼女は意を決して尋ねた感じだった。
僕には基準も相場もないことを伝えた。
お金はどうでもいいと説明した。
話を聞いてくれた彼女にそんな質問を受けることをとても光栄に思った。
電車が京都駅に着いた。
僕達はしっかりと握手をして別れた。
そして何の違和感もないようにその場を演出してくれた手話通訳士に心から感謝した。
(2016年9月24日)

とんかつ

とんかつ屋さんに向かう階段を彼女は不安そうに降りていった。
手すりを握りながら降りていった。
怖がっているのが伝わってきた。
地下に入って商店街を少し歩いた。
僕達はやっとお目当てのとんかつ屋さんに着いて注文をした。
店員さんは定食のお盆を運んできて僕達の前に置いた。
「うわぁ、大きいトンカツ!」
お肉好きの彼女はうれしそうにつぶやいた。
彼女は僕と同じ目の病気、歳は僕よりお姉さんだ。
病気が進行してだいぶ見えにくくなったと最近こぼしていた。
僕も心配していた。
その彼女が目でトンカツの大きさを確認できたのだ。
うれしさが込み上げてきた。
僕達はとりとめもない話をしながらトンカツを頬張った。
人間は微かにしか見えなくてもその目で見てしまう。
本能なのだろう。
何も見えなくなったら目は使わない。
いや使えない。
だから触覚で食器などを確認して食べるようになる。
慣れればほとんど問題はない。
だから食べるのはきっと僕の方が上手だろう。
食べ方がどうであれ、ちゃんと味わうことはできる。
「おいしかったね。」
店を出た後の彼女の言葉は美味しいものを食べた後の満足感に満ちていた。
それはささやかだけどゆるぎない幸福感のような気がした。
彼女の目はひょっとしたら人生の終わりまで光くらいは感じられるかもしれない。
いや、そうあって欲しい。
祈りにも似た気持ちが僕の心の中で膨らんだ。
(2016年9月20日)

月見団子

一升瓶にススキを飾って栗や梨をお供えしてお月様を眺めた。
遥か遠くの少年時代の思い出だ。
愛おしい思い出だ。
もう見ることはないというのはひょっとしたら悲しいことなのかもしれないが
不思議と心は満ちている。
僕自身のしたたかさなのかもしれないけれど、
あきらめの境地になっているのだろう。
失明して二十年という時間が僕を育んでくれたのかもしれない。
それでも甘党でもないのに月見団子を味わっている。
見えても見えなくてもお月様が好きということなのかな。
やっぱり見たいということなのかな。
(2016年9月16日)