カラオケ

僕以外に2人の視覚障害者の後輩と1人の晴眼者の友人、
僕達はそれぞれの好きな歌をそれぞれに歌った。
3人は画面が見えなくて歌詞が読めないのだから、
友人がそれぞれの歌詞を耳元で先読みしてくれた。
友人にとっては結構忙しい大変な時間だったかもしれないが、
皆の笑顔がそれを超えていたのだろう。
友人からしんどさは伺えなかった。
音楽は聞くのは好きだけれど知っている歌の数も少ないし特別うまくもない。
カラオケに行くのも学生達との年に一度か二度のお付き合いくらいだ。
その僕も久しぶりに大声を張り上げて歌った。
歌うって気持ちいいなと身体が喜んでいるようだった。
今年も後数日となったこの時間に、
ここに集えることを自然にうれしく感じていたのだろう。
後輩が最後に歌った曲に
「誰もがいつかこの星を去っていく」というような歌詞があった。
澄んだ声が僕の心にしみ込んだ。
僕は実感として、
この星を去るまでにあとどれくらいの時間があるのだろうかと思った。
そんなことを考え始める年齢になってきたのだろう。
勿論それは誰にも判らないのだけれど、
大切にしなければならないことを大切にしながら、
しっかりと生きていきたいと思った。
そしていつか誰にも気づかれずに
静かにこの星を離れていければいいなと思った。
(2015年12月30日)

山椒あられ

視覚障害の友人から届いたお歳暮は山椒製品の詰め合わせだった。
じゃこ山椒に山椒昆布、山椒のあられなども入っていた。
山椒の香りとピリリとした風味が口の中一杯に広がった。
彼女と知り合ってもう10年は過ぎただろうか、
僕達はたまたま同じ病気が原因の視覚障害だった。
網膜色素変性症という病気は視野が欠損していくのだが、
その変化の仕方もスピードもまちまちだ。
僕は40歳くらいで全盲となったのだけれど、
進行のスピードは少し早かったのかもしれない。
ただ、これはどうしようもないことだったということは理解しているし、
あきらめもついている。
同じ病気で僕よりも長持ちしている人に出会う時、
もっとうらやむ気持ちがあってもよさそうなものだがそれはない。
逆に、一日でも長く見えていて欲しいなといつも願っている自分がいる。
きっと、見えるということがどんなに素晴らしいものかを実感しているからだろう。
この10年で彼女の病気もだいぶ進行した。
僕がそうだったように、
近づいてきた盲を意識した頃は複雑な思いがあった。
彼女はそんなことは口には出さないが、
きっと不安もあるに違いない。
ただ、例え視力がなくなる日がきても、
彼女は彼女であり続けるということは間違いない。
出会った時も今も、彼女のさりげないやさしさに変化はない。
彼女が穏やかな気持ちで新しい年が迎えられますように、
そして一日でも長く光を感じていられますように、
山椒のあられを何枚も噛みしめながら祈った。
(2015年12月27日)

おすそ分け

10時から東京で始まる会議に間に合うように、
僕は4時半には起床して慌ただしく準備を始めた。
前日の夜も別の会議があったので、
寝ぼけまなこの状態だった。
画像のない人間の寝ぼけまなこ、
見えなかったらどう関係があるかと思われそうだが、
実はとっても大きな問題だ。
そんな時に限って、
方向を見失ったままで移動して壁にぶつかったりしてしまうのだ。
身支度が整った後、スタバのスティックコーヒーを飲んで気合を入れた。
福祉の専門学校の教え子からクリスマスプレゼントにいただいたものだが、
豊かな香りと深い味わいが脳へのモーニングコールとなった。
教え子に感謝しながら予約しておいたタクシーに飛び乗った。
東京での日帰りの会議は体力も気力も求められる。
どちらもが少しずつ低下してきているのは間違いのない自覚で、
58歳という年齢からすれば当然のことだと開き直っている。
頑張ろうという思いにぶらさがった倦怠感を感じながらののぞみの車中、
なんとなく時間が過ぎていった。
名古屋を過ぎて1時間くらい経った頃だろうか、
突然車掌さんからのあなうんすが流れた。
「進行方向左手に富士山がくっきり見えています。
皆様ご覧ください。」
瞬間車内が少しどよめき、
それから携帯電話のカメラのシャッター音があちこちから聞こえ始めた。
ほんの少し冠雪した富士山が真っ青な空に浮かび上がっているとのことだった。
朝の車内の空気までがすがすがしく変化した。
美しいものに出会うと人は心が動く。
そしてそれを写真にのこそうとしたり、
その写真を家族やともだちに届けようとしたりする。
感動を独り占めするのではなくて、
誰かにおすそ分けしようとするのだ。
車掌さんからのおすそ分けがきっと日本中のいろんな人に届いたのだろう。
人間って豊かな生き物だなって感じながら、
画像のない僕までもが窓から富士山を見上げてうれしくなった。
(2015年12月21日)

餅入りうどん

地元の視覚障害者の先輩とバスの中で偶然出会った。
彼女はガイドヘルパーさんと一緒だった。
二人で千本北大路のライトハウスから阪急西院駅まで1時間以上かけて歩いて、
桂駅に着いてからうどん屋さんに立ち寄っての帰路ということだった。
「私の顔よりも大きな器にうどんが入っていて、
500円玉くらいのお餅が4個も入っていて食べきれなかったのよ。」
彼女は楽しそうに声を出して笑っていた。
聞いている僕もうれしくなった。
1時間以上、彼女とガイドさんは二人で歩きながらどんな話をしたのだろう。
天神さんの境内も歩いたと言っておられた。
きっとガイドさんはいろいろな風景を彼女に伝えたに違いない。
ガイドさんの声も生き生きしていた。
先輩とガイドさんの織りなす空気から、
その時間がどんなに豊かなものだったかが感じられた。
今年もあとわずかとなったこの時期に、
幸せの意味を考えるヒントをいただいたような気になった。
よし、僕も今年中に餅入りうどんを食べに行くぞ!
(2015年12月17日)

キラキラした眼差し

昨年も伺った中学校、
今年も人権月間の12月にお招きいただいた。
300名余りの1年生に話をした。
テーマは「見えない世界で生きること」、
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加できる社会になるように、
いや、その未来を創るのは君達ですよと生徒達に語りかけた。
毎年行く学校でも生徒達は毎年違う。
僕が直接メッセージを伝えられるのはいわばワンチャンスなのだ。
それが判っているから自然に力が入る。
一人でも多くの生徒達に伝わるように、
しっかりと前を向いて言葉に心を込めて思いを伝える。
でも、実際どれだけの生徒に届けることができたのかは判らない。
確認する術もない。
ひょっとしたら砂漠に向かってジョーロで水やりをしている滑稽なおじさんなのかも
しれない。
講演が終わり体育館を出た時、一人の男子生徒が駆け寄ってきた。
「松永さん、こんにちは。」
1年生はまだ体育館にいるはずだから、
「2年生?」と尋ねてみた。
「そうです。時々ホームページ見てますよ。」
彼はそれだけ言って笑った。
僕は胸ポケットからありがとうカードを出して彼に手渡した。
そして握手して別れた。
ほんの数十秒のことだった。
一部始終を見ていたガイドさんが教えてくれた。
「さっき駆け寄ってきた男子中学生、目がキラキラ輝いていましたよ。」
例えたった一人でもメッセージを受け止めてくれている生徒がいるなら、
それは確実に未来につながっていく。
いつか砂漠に小さな花が咲いてくれるのだ。
キラキラした眼差しを見てみたいなと思いながら学校を後にした。
(2015年12月12日)

後期高齢者の先輩

もう後期高齢者なんだけどなと笑いながら、
先輩は研修会に参加されていた。
地域の視覚障害者リーダーとしてずっと長い期間活動を続けられ、
経験も知識も僕なんかよりははるかに高いレベルであるのは判っていた。
先輩かあらすれば僕の研修会での講義の内容はお粗末だったに違いない。
でも先輩は一切そんなことはおっしゃらなかった。
「和やかに有意義な三日間を 楽しく共有できました。
又一つ出会いの輪が広がり 新しい知識・技術の上書きができたと思います。」
先輩から届いたメールにはそう記してあった。
先輩達の時代背景を想像すれば、
僕の何倍も悔しい思いをされて生きてこられたのは間違いない。
だからこそ、こうして活動されてきたのだ。
人間が蓄えた悲しみは、
長い時間の中でやさしさに変化することがあると聞いたことがある。
メールの最後には美しい日本語が並んでいた。
「休む間もなく次々にご活躍の場が控えていることと思いますが向寒の折から
健康にはくれぐれも留意ご自愛の上ご活躍されますよう祈念します。」
メールを読み終えた僕の目から熱いものがこぼれそうになった。
そして、後輩にこんな言葉を贈れるような人になりたいと思った。
そのためには僕が蓄えたものはまだまだ少な過ぎる。
もっともっと僕は僕を見つめて生きていきたい。
(2015年12月7日)

富士山

視覚障害者の全国規模の研修会の役員をするようになってから、
年に何度も東京まで出かけるようになった。
一人で自宅から京都駅まで行き、
目的地の東京の駅名を駅員さんに告げてサポートを受けるのも上手になった。
今回の研修は二泊三日の予定だったが、
研修会の前日に帝京大学での講演があったので三泊四日となった。
一日延びれば体力的な疲労は大きくなるのだろうが、
初日に大学での講演があったお蔭でなんとなく豊かな気持ちで過ごすことができた。
新宿駅で友人と待ち合わせて大学へ向かった。
大学では学生がサポートしてくれた。
最初は緊張していた学生も、
キャンパスを歩き研究室で休憩し、
講演を終えてバイバイする時には素敵な笑顔だった。
この日本という国の中心の東京で、
しかも若者達に向かってメッセージを発信できたのはとてもうれしかった。
その流れの中での研修会への参加となった。
北は札幌、南は鹿児島、全国から地域のリーダー達が研鑽のために集った。
そこで講義をするというのは僕には荷が重すぎることなのだが、
これも参加者のやさしさに助けられながら取り組むことができた。
優等生なら何でもどんどんこなしていけるのだろうが、
昔から劣等生に近かった僕はいつもいろんな人に助けられて生きてきたような気がす
る。
スケジュールだけが優等生のようになった今、
劣等生の自分をしっかりと再確認しながら活動していきたい。
また来年の講演も聞きにくると言ってくれた学生がいた。
僕にもできることがあるというのは、やっぱり幸せなことだ。
帝京大学のキャンパスからは富士山がくっきりと見えると学生が教えてくれた。
富士山の雄姿を思い出した。
すがすがしい東京となった。
(2015年12月5日)

光のカーテン

僕は専門学校や大学の非常勤講師をしながら、
講演活動や執筆活動などにも取り組んでいる。
そしてその他にも様々な活動にも参加している。
時々何をしている人なのかを尋ねられて困ることもあるのだけれど、
「見える人も見えない人も見えにくい人も笑顔で参加できる社会」
を目指しているということがすべての活動の共通項だろう。
ウィキペディアには「社会福祉活動家」という紹介をしてあるらしいが、
的を得た表現なのかもしれない。
その活動の中で、月に2回ピアカウンセラーという仕事もやらせて頂いている。
視覚障害になった人、特にまだ間もない人などの悩みを聞いたり相談にのったりするのだ。
僕が経験したことが誰かの力になるのなら、それはとても光栄なことだ。
決していつもうまくいくわけではないけれど、気持ちを込めて取り組んでいる。
今日出会った人は僕と同じ病気でだいぶ見えにくくなっておられた。
最初に聞いた声には不安が宿っていた。
「失明」ということを現実として向かい合った時、
誰でも恐れおののき悲しみ苦しむ。
すぐに切り替えて前向きに生きていくなんて人間には出来ない。
白杖なんか触る気にもなれない。
僕もそうだったことを彼に伝えた。
そして人は皆それを受け止める力を本当は持っていることもしっかりと伝えた。
1時間半あまりの時があっという間に流れた。
僕は最後に彼としっかりと握手をした。
僕の手を握り返した彼の手の力を感じながら、
もうそんな遠くない日に彼が歩き出しそうな気がした。
いや、僕自身がそう願ったのかもしれない。
仕事が終わり、迎えに来てくださったボランティアさんと京都駅を歩いたら、
たくさんのLED電球で飾られた光のカーテンが揺れていた。
「12月ですからね。」
ボランティアさんが僕につぶやいた。
その方向を見つめながら、
さっきの彼が今まだ見える間に、この美しさも見て欲しいなと思った。
そして一緒に来られていた家族と少しでも笑顔を交わせるクリスマスになるようにと
心から願った。
(2015年12月2日)

冬の雨の中で

傘をさして荷物を持ってゆっくりと、
一歩一歩白杖で確かめながら歩道橋の階段を降りていた。
ちょっとだけ雨に濡れながら降りていた。
冬の始まりを告げるような雨は小雨だったけど冷たかった。
白杖を持つ手が少し悴んでいた。
悲しいとか寂しいとかの感情はなかったが、
見えない不便さが大きく立ちはだかっていた。
どうしようもない現実を感じながら動いていた。
「お手伝いしましょうか?」
階段の途中での若い男性の声だった。
「両手がふさがっているから、階段を降り切ったところから手伝ってください。」
僕はそう言いながらゆっくりと階段を降りていった。
彼は僕が頼んだ通り階段下からサポートしてくれた。
目的のお弁当屋さんはすぐ近くだったが横断歩道を渡らなければいけなかったので、
彼のサポートはとっても有難かった。
横断歩道で立ち止まって安全を確かめながら彼は話し始めた。
「松永さんですよね。
この前僕の通っている高校の3年生に講演に来ておられたのですが、
僕も聞きたかったけど僕は1年生なので無理でした。残念でした。」
高校の名前を確認したら確かにそうだった。
「でも、どうして僕を知っているの?」
僕は聞き返した。
「小学校4年生の時学校に来てくださったからですよ。」
彼は笑った。
6年ぶりの再会だったのだ。
僕はうれしくて彼の肩をたたいて喜んだ。
彼が10歳の時、僕は大勢の中の一人として彼に出会っていたはずだ。
その時間も1時間くらいだったに違いない。
それなのに彼は僕を憶えていてくれた。
しかも、僕が一番伝えたかったことを見事に実践してくれていた。
ほどなく僕達はお弁当屋さんに着いた。
「ありがとう。本当に助かったよ。
君の高校、毎年講演に行っているからきっと2年後にまた出会うね。」
僕は再度感謝を伝えた。
「楽しみにしています。」
彼はそう言って僕から離れた。
そして数歩動いたあたりで、
「妹も話を聞いたって言ってましたよ。」
彼はまた笑った。
僕は白杖をしっかりと握った。
もう手が冷たいとは感じなかった。
頑張って活動していても一気に社会は変わらない。
でもあきらめずにコツコツとやり続ければ、
ほんの少し僕にも何かができる。
僕にもできることがあるということはとっても幸せなことだ。
そう思ったらとてもうれしくなった。
(2015年11月27日)

イチョウ

彼女は僕をイチョウの葉のじゅうたんの上に案内した。
ふんわりとしたジュータンだった。
僕は腰をおろしてイチョウの葉を触った。
真っ黄色が頭の中に広がった。
黄金色に近い真っ黄色だった。
喜んだ僕を確認した彼女は、
他の木々の色合いをも僕に伝えた。
静かな時間の流れの中で秋がのんびり微笑んだ。
支援学校の先生になりたいと彼女は夢を語った。
いい先生になるだろうなとなんとなく思った。
(2015年11月23日)