ごめんなさい

見えない僕が一人で白杖を頼りに歩く時、
失敗や迷子は日常的に発生する。
いつものバス停でさえ通り過ぎることもあるし、
見えている頃に歩いた経験のある地域でも記憶はパーフェクトではない。
音、匂い、路面の変化など時間帯によってどんどん変化していくし、
季節や天候やその日の自分自身の体調などでも感覚は変わってくる。
見えないで歩くということはやはりとんでもないことなのだ。
僕は失敗して人にぶつかったりする度に
「ごめんなさい。」とまず謝ることにしている。
謝るというのは自分に落ち度があると認めるということだから、
安易に謝らない方がいいと助言を受けたこともある。
なんとなく判るような気もするのだけれど、
でもやっぱりつい謝ってしまう。
その方が僕自身の気持ちが落ち着くのかもしれない。
今朝は傘をさしての歩行だった。
風もあったのであっちにこっちにフラフラしながらの歩行だった。
案の定、ぶつかった。
その瞬間、僕はいつものように謝った。
「ごめんなさい。」
何も返事はなかった。
たまにはそんなこともあるので、
仕方ないと思って再度歩き始めた時、
ぶつかったのは人ではなくてバス停の支柱だったことに気づいた。
何も反応がなくて当たり前だったのだ。
以前はそんな時の自分をちょっと恥ずかしいと感じたりしていた。
多分他人の目が気になっていたのだろう。
いつの頃からか平気になった。
電信柱や停めてある自転車に謝っている自分を好きになっていったのかもしれない。
バス停の支柱だと気づいたら、
支柱が「頑張れよ。」とささやいてくれているような気分になるから不思議だ。
僕は少し笑顔になってまた歩き始めた。
やっぱり、ごめんなさいと言える人生が素敵だな。
いつまでも「ごめんなさい」と言える自分でありたい。
(2016年2月29日)

サイン

「サインしてください。」
少女は恥ずかしそうに小さな声でささやきながら、
「風になってください2」を僕の手に載せた。
僕は表紙を開いて、
最初のページに少女の名前と僕の名前を書いた。
それから一緒に写真も撮った。
そしてしっかりと握手をして本を少女に渡した。
1部始終を見ていたサポーターが、
少女が終始満面の笑みを浮かべていたと教えてくれた。
それを聞いて僕もとてもうれしくなった。
僕が子供だった頃、
見えない人は悲しい存在だった。
それは見えない人だけではなくて、
聞こえない人も歩けない人も知的障害の人もすべてそうだったと思う。
どこかですれ違っても正視することさえはばかれた。
誰が教えるでもなく、いつの間にかそう感じるようになっていた。
きっと社会の未熟さゆえのことだったのだろう。
そんなに悪意があったとも思えない。
それに比べれば、少女の柔らかな感性は別の次元のものなのかもしれない。
この少女達が創る未来はどうなっていくのだろう。
何かワクワクするような感じさえする。
(2016年2月27日)

講演

一日に三ケ所での講演は疲れないかと尋ねられた。
講演は僕達のことを社会に正しく理解してもらう大きなチャンスだ。
言葉に思いがかぶさった時、初めて聞いてくださる人の心に届く。
そのためには会場の一人一人に対して真剣に向かい合わなければいけない。
対象が子供でも大人でも人数が多くても少なくても、
男性でも女性でもどんな職業の人でも立場の人でも、
美辞麗句を並べても伝わらない。
真剣でなければ伝わらない。
逆に言葉足らずでも、思いがあれば伝わっていくこともある。
真剣に向かい合う姿勢が大切なのだろう。
真剣になるということはそれなりのエネルギーが要る。
だから疲れないということはないのかもしれない。
でも疲れを感じることはほとんどない。
一人でも二人でも伝わったことの方がうれしく感じるからだろう。
話を聞いてくださったことへの感謝の気持ちが大きいのだ。
伝わるということは共感してもらえるということ、
それは見える人も見えない人も見えにくい人も、
誰もが参加しやすい社会につながっていくということ。
未来への種蒔きなのだ。
(2016年2月22日)

小さな勇気

小学校で5,6年生に視覚障害について話をした。
放課後には教職員の研修会に参加した。
たくさんの子供達や先生方と交流ができた。
不思議なもので、こういう場合はどちらかがうまくいくということはない。
いい時はどちらもがいいのだ。
悪いということはほとんどないけれど、
どちらもがとてもいいというのはやっぱりうれしい。
学校を出て地下鉄の駅に向かっていたら、
「今日は本当にありがとうございました。」
通りかかった少年が僕に向かって深々とおじぎをした。
帰宅途中の6年生の男子児童だった。
これが今日の活動の答えだなとうれしく思いながら、
僕は少年としっかりと握手をした。
そして逆の立場だったらと考えたら、
僕に向かって声を出してくれた少年の小さな勇気に教えられるような思いがした。
そんなことを考えながら急ぎ足で駅へ向かった。
山科から新快速電車で新大阪へ行き、
なんとか17時59分発の新幹線みずほに間に合った。
駅員さんに座席まで誘導してもらって、
お弁当を食べてのんびりしていたらウトウトしてしまった。
気がついたら博多を過ぎたあたりだった。
新大阪ではほとんど満席に近い感じだったのに、
夜遅いせいか乗客はまばらになっていた。
車掌さんは僕の近くを通りかかった際、
「御用のお客様はおられませんか?」とおっしゃった。
僕はたいして気にとめてはいなかったのだが、
しばらくしてまた通りかかった際もほぼ同じ場所で同じようにおっしゃった。
車掌さんは僕を見ていてくださったのだ。
僕の周囲にはほとんど人の気配はなかった。
多分車掌さんはそれとなく僕に伝えようとしてくださったのだろう。
車掌さんの一声がどれだけ僕に安心を与えてくれたか、
それは言うまでもない。
たとえ業務でも、ほとんど乗客のいない車中で、
白杖を壁に立てかけているサングラスの中年男性に聞こえるように声を出すのは、
きっとちょっと勇気がいることだろう。
やさしさには、ちょっとした勇気が必要なのだ。
鹿児島中央に到着してパーサーが降車のサポートをしてくださった。
「車掌さんが僕の近くを通る時、御用の方はと毎回声を出してくださいました。
きっと見えない僕に届くようにです。
とても安心できてうれしかったとお伝えください。」
僕も少し勇気を出してパーサーに伝言を頼んだ。
(2016年2月18日)

ゴディバのホワイトチョコレート

滋賀県湖南市の中学校を訪れた。
僕はいつものように生徒達と向かい合った。
白杖の人を見かけたことがあるか生徒達に質問してみると、
見かけたことのある生徒はとても少なかった。
京都市内の中学校の生徒達に質問すれば、
ほとんどの生徒が見かけたことがあると答える。
あちこちの実情を知るようになって京都市が特別な感じということが判ってきた。
地方では白杖はまだまだ珍しいのだ。
地方で障害を持つ人が少ないわけではない。
どれだけ社会参加ができているかということになるのだろう。
出会う機会が少ないと当然人間同士として触れ合う機会は少なくなる。
触れ合う機会が少ないと学ぶ機会も少なくなる。
学ぶ機会がないとなかなかサポートの声はかけられない。
そうすれば障害を持った人達は出にくくなる。
悪循環ということだろう。
ただ、生徒達の柔らかな感性はどこで暮らしていても変わらない。
それは講演会場の空気が教えてくれる。
だからこそこうして生徒達に出会うということはとても意味がある。
「この街の未来を創るのは君達だよ。」
僕はメッセージを投げかけて講演をしめくくった。
帰りの電車の中で頂いたゴディバのチョコレートをゆっくりと噛みしめた。
ホワイトチョコレートの芳醇な味わいが口の中で溶けていった。
ふと学校から眺めた鈴鹿山脈の雪を思い出した。
3年前に出会った先生が、
次の一歩のために今回また僕を招いてくださった。
雪が溶けたら春が生まれる。
人間同士のぬくもりはきっと時代の冬も溶かしていくのだろう。
いつかこの街も白杖の人が当たり前に見られるようになるのだ。
春、待ち遠しいな。
(2016年2月16日)

神様

土曜日の午前中は金融機関での講義だった。
視覚障害者数は全国で31万人くらい、
つまり国民の0,3%にもみたない数だ。
行員さん達が日常業務で出会う客のほんの一部にしか過ぎないだろう。
それでも200名余りの参加者でとても熱心に受講してくださった。
僕がこの信用金庫の研修に関わらせていただくのはもう4回目になる。
企業コンプライアンスの高さも当然なのだが、
応対してくださる幹部職員の方々の人間的なあたたかさが
ひょっとしたら同じ未来を見つめているのかもしれないと感じている。
有難いことだ。
午後は朗読会の会場を尋ねた。
いくつかの文学作品が朗読されるのだが、
その中に僕のエッセイも入っていた。
京都市内に限らず、時々このような機会がある。
他に朗読される作品はいわゆる名作が多いので恥しい気持ちもあるのだけれど、
書いた立場からすればとても有難く光栄なことだと思っている。
言葉はそれぞれの人間の声に出会うことで新しい命が生まれる。
自分の作品なのに、朗読の声が心に沁みてくるから不思議なものだ。
下を向きながらこっそり拝聴して会場を後にした。
夜は山科区の自治会での講演だった。
どしゃぶりの雨だったので心配したが、
たくさんの住民の方が参加してくださった。
介護がテーマだったのだけれど、
障害も介護も病気やケガや老いの先にあり、
助け合う社会が必要ということでは共通点がある。
そんな話をして会場の皆さんと一緒に勉強した。
サポーターと一緒に移動したのだけれど、
さすがに一日に三ケ所での活動は疲れた。
駅で電車を待つ間もクタクタで立ったままでも眠れそうな感じだった。
電車が到着した。
サポーターは電車が結構込んでいるので立ったままになりそうだと僕に告げた。
僕はそのつもりで乗車した。
そしてつり革を握った。
その瞬間、「どうぞ座ってください。」
若い女性の笑顔の声だった。
「やっぱり神様っているんだなぁ。」
僕はそう心の中でつぶやいてシートに腰を下ろした。
こんな時だけそう思うからよくバチも当たるのですけれどね。
(2016年2月15日)

30万アクセス

1997年、病気が進行してほとんど見えなくなった僕は、
京都ライトハウスで様々なリハビリテーションを受けた。
内容は白杖での単独歩行、点字、日常生活の工夫などだった。
まだパソコンの訓練はなかった。
一般社会でもウインドウズ95、98などから広がっていったのだから、
それは仕方がないことだった。
結局、僕はそれ以後自力でパソコンの基礎だけを学んだ。
だいたい勉強は苦手意識があるので、
たいした学びにはならず、メールだけができるようになった。
視覚障害の友人の中にはワードもエクセルもできる人は多くいるし、
音楽をダウンロードしたりインターネットショッピングを楽しんだりしている人もい
る。
後輩の中にはスマホのいろんなアプリを使って生活をエンジョイしている人も増えて
いる。
そう考えると、僕はちょっと時代遅れの視覚障害者になってきているのかもしれない。
それでもメールというツールを手に入れたことで、
僕の見えない人生は大きく変わった。
見える人とも見えない人ともこのメールで文字のやりとりができるし、
メモ帳を使って記録もできるようになった。
そして、「書く」という仕事にもつながっていったのだ。
このホームページも目が見えなくて機械音痴という僕をサポートしてくれる管理者が
いてくださって成立している。
管理者は、僕が指定されたアドレスにメールすれば、
ここにアップされるようにホームページを作ってくださったのだ。
僕ができるのはそれだけだから誤字脱字の連絡があっても自分では修正できない。
スケジュールのアップなどもすべて管理者がしてくださっている。
ちょっと情けない実情だ。
ただ、発信していく媒体としては少しずつ成長しているのはうれしいことだ。
小学生から90歳を超えた人まで、
京都だけでなく日本のあちこちで、
いや日本だけでなくいくつかの国でもアクセスしてくださっている。
始めた頃は、ただ「見えない世界を伝えたい」という思い、願いだった。
一人でも二人でも読んでくださったらなというのが正直な気持ちだった。
ここまで読んでもらえるとは予想できなかった。
うれしい誤算だ。
そして、見える人だけでなく、見えにくい人や見えない人も覗いてくださっている。
「共感したり、教えられたり、励まされたりしています。
これからも、永く続けてください。楽しみにしています。」
30万アクセスのお祝いに届いた仲間のメールにはそう書かれていた。
光栄だと思った。
続けていきたいと強く思った。
僕の言葉が誰かの力になれるのなら、それは僕にとっても幸せなことだ。
ひょっとしたら、読んでもらうことで僕自身が励まされているのかもしれない。
(2016年2月10日)

あたたかな視線

バス停の近くにさしかかった時、
ズボンの右ポケットから小さな音で機械音声が聞こえてきた。
携帯電話だ。
僕の携帯は発信者が登録してある人の場合は氏名を機械音声で教えてくれ、
それ以外の場合は一般的な呼び出し音が鳴るようにセットしてある。
歩行中や公共交通機関などでは基本的には出ないことにしているのだが、
今朝は協会の会長からだったので急用だろうと思っって出た。
僕は携帯電話で会話をしながらゆっくりとバス停の方向に歩き出した。
いつもの距離感でバス停のだいぶ近くまで来ているのは判っていた。
突然誰かが僕の手をそっと握って、
バス停の点字ブロックへ誘導してくださった。
電話を切った僕はすぐに手の主へ感謝を伝えた。
「いつもはしっかりと歩いておられる姿を見ているのですけど、今日は危なっかしい感じだったので・・・。」
ご婦人は微笑みながらおっしゃった。
画像のない僕達はつい声をかけてくださる人だけを認識しがちだが、
きっとあちこちで、見ていてくださっている人がいらっしゃるのだろう。
いや数としてはそちらの方が多いのだろう。
街角や駅などで僕を見かけたけど大丈夫そうだったから、
あるいはサポーターと一緒だったから声をかけなかったという話はよく聞く。
白杖を持ち始めた頃はその姿を見られたくないような気持ちもあったけれど、
それは思い違いだった。
視線の多くはあたたかなやさしいものなのだ。
見守られているということなのだ。
凶悪事件が発生し悲しいニュースが報道されるたびに、
メディアは社会に警笛を鳴らす。
それを否定するつもりはないけれど、
社会のあちこちに日頃は気づかないようなやさしさがあるのも確かな事実だ。
だからこそ、見えない僕が街を歩けるのだ。
(2016年2月5日)

節分

朝、いつものように家を出た。
団地のエレベーターに乗り1階まで移動した。
それから自転車置き場の壁を探して、それを手がかりに歩道へ出た。
バス停を目指して歩き始めた。
すべてがいつものように動いていたのに、
歩き始めたら僕の心だけがどんどん変化していった。
僕はバスに乗るのをやめてわざと歩くことにした。
いつもなら時間の節約に、そして安全のためにという理由でバスを選択するのだが、
今朝の僕はそれを放棄した。
どうしても歩き続けたくなっていた。
ただ安全は大切なのでわざと一度立ち止まって背筋を伸ばした。
そして耳に気合を入れて、意識をしっかりと前に向けた。
歩くスピードは緩やかにした。
準備万端となって再度歩き出した。
まだちょっと冷たい空気の中でやさしい光が僕を包んだ。
ぬくもりのある光だった。
見えなくてもその光は感じられた。
冬は風の当たらないような陽だまりにそっとあったのだが、
今朝はそれが空から降り注いでいた。
団地を出てほんの少し歩いたところで僕はそれに気づいた。
気づいたらもっとその中にいたいと思った。
だから歩くことにした。
歩き続けても僕はやっぱり予想通り、光の中にいた。
春がきたんだ!
僕はうれしくなった。
(2016年2月3日)

仲間の講演

視覚障害者対象の研修会で視覚障害者の女性の講演を聞いた。
研修会場で話すのも聞くのも視覚障害者ということになる。
視覚障害者というのは目が見えない人と思われがちだが、決してそういう状態の人ばかりではない。
全く見えないという人もいれば、ちょっとしか見えないという人もいる。
ちょっとしか見えない人を「弱視」とか「ロービジョン」とか呼ぶのだが、
それは視力や視野の状態でそれぞれの見えにくさが発生するのだ。
進行性の目の病気だった僕は弱視の頃もあり、現在は全盲ということになる。
視覚障害の原因はすべて病気かケガなのだが時期はいろいろだ。
お母さんのお腹の中で病気になったから生まれつきという人もいれば、
高齢になってからという人もいる。
100人の視覚障害者がいてもそれぞれが微妙に違い、
100通りの見え方、見えにくさ、不便さが存在する。
そして100の人生があるのだ。
保育士の仕事をしているロービジョンの彼女は飾らない言葉で淡々と話をした。
見えにくい状態での社会との関わりについて話をした。
特に仕事に関してはきっと自分にもできることはまだまだあるというプライドと、
それがなかなか社会に伝わらなかった口惜しさも語った。
勿論、その中で見つけた喜びも紹介した。
そして進行する病気への不安も付け加えた。
言葉がゆっくりと会場にしみ込んだ。
決してハッピーな話ではなかったのに、
哀れみとか同情とかの感情は微塵も起こらなかった。
僕の心は何かあたたかくなっていた。
すがすがしささえ感じた。
それはきっと、彼女の生きている姿勢がそう感じさせたのだろう。
障害者同士だからということで、
お互いの悲しみや苦しみなどを理解しきることなんてできない。
でも、未来に向かって生きる人間の姿に共感はできるのだ。
僕自身の生き方も考えるいい時間になった。
(2016年1月31日)