りんごの花

佐賀県の視覚障害の友人からメールが届いた。
青森で開催された視覚障害者の全国大会に参加しての感想だった。
彼女は全盲だけれどもほとんど単独で移動している。
僕が彼女に初めて出会った東京でもそうだったし、
何かの用事で電話した時も一人で新幹線に乗っておられた。
今回の青森も一人で出かけたとのことだった。
しかもそこに特別な身構えもないし悲壮感も感じられない。
度を身体全体で楽しんでいるのが伝わってくるから凄い。
僕にはそこまでは無理だなと思いながらもどこかで憧れてしまう。
単独で移動することが特別にいいことだとは思っていない。
単独でもいいし盲導犬同伴でもいいし家族と一緒でもいいしサポーターの目を借りな
がらでもいい。
自分にあった方法で移動すればいいのだ。
彼女に憧れるのは移動そのものではなくて、
そこから感じられる彼女の生き方が素敵だからだろう。
彼女は県の代表として活躍されているというのは知っていたので、
きっと今回の青森大会にも参加しておられるだろうなと想像はしていた。
大会前日の代表者会議で発言した僕の声で彼女は僕がいることを確認できたとのこと
だった。
代表者会議には500人くらいが参加していたので、
僕は彼女を直接には確認できなかった。
同じ会場にいても見えない者同士はなかなか出会えなかったりするから面白い。
会議の合間を縫って僕も彼女もそれぞれに青森の街を歩いた。
サポーターの目を借りて歩いた。
そしてどちらもが咲き残っていた街路樹のアルプス乙女の花を見つけていたのだ。
彼女のメールでそれを知った瞬間、僕はとってもうれしくなった。
今回は直接は出会えなかったけれど、
青森の街で僕達は同じものを見たのだ。
見えない者同士が同じものを見ていたのだ。
そして同じ思い出が残った。
同じサポーターだったわけでもないし相談していたわけでもない。
見せてあげたいと思う人達と見えない僕達。
心が通い合うとこんな奇蹟も起こるものなんだな。
りんごの花が忘れられない青森の旅となった。
(2016年5月26日)

青森

駅前の街路樹にアルプス乙女の可憐な花が残っていた。
京都ではもう散ってしまったツツジが満開だった。
海を渡ってきた風を感じながら街を歩いた。
鹿児島県阿久根市で生まれ育った僕は、
海の匂いを感じるだけで幸せになれるのだ。
カキ屋のおにいさんがカキの話をしてくれた。
ところどころ判りにくい発音もあったけれど、
何かぬくもりを持った津軽弁が心地よかった。
何人かコミュニケーションをとった人達が見事に飾らない素朴なやさしさを持ち合わ
せておられるのには驚いた。
目が見えている頃に数回訪れたことがあるのだけれど、
映像の記憶は残っていない。
かろうじて列車から青函連絡船に乗り換えるあたりを漠然と記憶しているくらいだ。
最後に訪れてから30年の時間が流れた。
随分生きてきたんだなとしみじみと思った。
生きてこれたということはそれだけで幸せなことなのかもしれない。
いつか仕事を辞めたら、
青春時代のように日本中を旅してみたいなぁ。
あの頃のようにバックパッキングで寝袋を持って、
そうそう白杖も忘れないようにしなくちゃ。
(2016年5月23日)

一期一会

午前中の長岡京市での講演を終えてすぐに会場を出た。
青森に向かうためだ。
新幹線の時間を考えてサポーターに急ぎ足で動くように頼んでの移動だった。
もうすぐ長岡京駅に着く直前、
「松永さん。」
僕を呼び止める声がした。
あまりタイミングが良くないなと感じながら立ち止まった。
自転車で僕を追いかけてきた彼女の息も少し乱れていた。
「10年くらい前に河原町でお手伝いしたことがあって、
その時ありがとうカードを頂きました。」
彼女はそのありがとうカードを大切にとっていてくれたらしい。
長岡京市の広報で僕がくることを知って講演会場に足を運んでくれたのだった。
講演が終わった後、
それを伝えるために僕を追いかけてきてくれたのだった。
うれしさがこみあげてきた。
10年前のこと、僕は何も記憶してはいない。
単独で移動することの多い僕は毎日のように誰かのサポートを受けている。
見えないで移動するということはそれだけ毎日迷子になったり困ったりしているとい
うことだ。
一日に3人としても年に1,000人、
もう2万人以上の人に助けられたということになる。
気の遠くなるような数だ。
その一人一人がいてくださったから僕の日常が成立したのだ。
タイミングがと感じてしまった自分自身を恥じながら、
「再会ですね。」
僕は白杖を左手に持ち替えて右手を差し出した。
幸せが身体中にしみ込んでいくのを感じた。
一期一会、またいつかどこかで会えたらいいな。
(2016年5月21日)

ヘルパーさん

いつもと同じように話をしたはずだった。
話しの量も内容もいつもと同じくらいだった。
いつもと違うことがあるとすれば、
聞いてくださるのが現役のヘルパーさん達がほとんどということくらいだった。
講演の最後、人間の命の価値、幸せの意味などに関わる話になった頃には、
会場の空気は凛として佇んでいた。
真剣な視線が僕を見つめていた。
いや僕の心までをつらぬいていた。
その視線を感じながら講演をしている僕の方が気持ちが洗われるような感じだった。
不思議な感じだった。
寝たきりの人、認知症の人、障害を持った人、
ヘルパーさん達は日々その人達と向かい合っておられる。
職業として携わっておられる。
きっといつも真剣勝負なのだろう。
人間の命の重たさを事実として感じておられるのだろう。
一人一人のやさしさがこの仕事の根底を司っているのは間違いない。
父や母の介護の時もそう感じたけれど、
僕はこの仕事に携わっておられる人たちを
心から尊敬しています。
(2016年5月19日)

朝の出会い

寝ぼけまなこでバスを待っていた。
ふと頬が感じた。
それをスタートに耳も手も頭も感じた。
朝の爽やかな風だった。
風は僕の頭を撫でたり頬をつついたり耳たぶをつまんだりした。
僕の周囲をくるくると回りダンスを披露し、
時には地面にはいつくばったり寝転んだりもしていた。
悪戯っぽく僕を見つめフフッと笑った。
ひとしきり僕と遊ぶと駆け足で去っていった。
スカートのすそをひるがえしながら駆けていった。
女の子の風だったんだな。
新緑の中で生まれたに違いない。
そんなことを考えてちょっとうれしい気分になった。
目が見えて車の運転ができれば、
こんな出会いはきっとない。
決してなにもかもがプラス思考ではないけれど、
日々の暮らしの中ではそれなりにいいこともあるよね。
(2016年5月18日)

葵祭

団体の役員をやっているとそれに伴う活動が発生する。
年度始めのこの時期は毎週のようにあちこちで開催される総会に挨拶に出かける。
先々週は亀岡市だったし、その前は舞鶴市や宮津市に出かけた。
今日は左京視覚障害者協会の総会だった。
挨拶だけでなくその後の会議、懇親会にも参加した。
たくさんの仲間の人達とのやりとりの中で気づかされることも多いし、
何より僕自身の勉強の場所にもなっている。
最後まで出席して皆さんに感謝を伝えて会場を出た。
夕方には地元の駅での募金活動が予定されていたのだが、
少し時間もあったしタイミングも良かったので地下鉄を途中下車して葵祭を見学した。
様々な色合いの平安装束の老若男女が整然とゆっくりと歩いていた。
馬にまたがったり牛車に揺られながら通り過ぎていく人もいた。
風薫る緑の季節によく映える風景だった。
平和な空気が一面に漂っていた。
世界中から訪れた観光客もそこに溶け込んでいた。
肌の色が白い人も黒い人も、髪の毛がブロンドの人も目の色がブルーの人も、
日本語の人も英語の人も韓国語の人もフランス語の人も中国語の人も
何の違和感もなくそこに存在していた。
白杖を持った見えない僕もその一角にいた。
平和に感謝しその大切さを再確認したような気がした。
地元の駅まで帰り着いて、
熊本で被災された視覚障害者の方々へ届けるための募金活動に取り組んだ。
マイクを手に募金を呼びかけた。
たくさんの人達が募金してくださった。
熊本への募金活動だったのだが、
世界が平和であって欲しいと何故か心から願った。
(2016年5月15日)

五月晴れ

ゴールデンウィークは予定も少なかったのでのんびりするつもりだった。
ところが3日に発熱しお腹の調子もこわした。
救急病院に行くほどではなかったので絶食したり持っていた薬を適当に服用したりし
たがなかなか良くはならなかった。
あっという間に休暇も終わって仕事も始まった。
そしてやっと体調が戻った。
一週間以上かかったことになる。
その間気持ちも重たかったし不安も大きかった。
今日はゴールデンウィーク後最初の専門学校と大学での授業だった。
いつものように市バス、阪急電車、地下鉄、近鉄電車と乗り換えての通勤だったが、
あまり運がいい日ではなくてまったくサポートの声もなかった。
ラッシュにもみくちゃになりながら、
時々通行人にぶつかったりしながらの移動だった。
やっと学校に着いた。
学校では学生に手引きしてもらって歩いた。
学生が雲一つない青空だと教えてくれた。
僕は立ち止まってしげしげと空を眺めた。
「ほんまの五月晴れやな。」
空を眺めたらうれしさがこみあげてきた。
元気で空を眺めることができるのを心から幸せだと思った。
(2016年5月12日)

鹿児島空港にて

目が見えている頃から移動手段は列車を一番に考えていた。
時刻表とにらめっこするのも楽しかったし、
気が向いたらブラリと旅に出るのも好きだった。
鉄道マニアほどではなかったけれど、
とにかくよく列車に乗った。
国内の移動は基本は鉄道と決めていた。
怖がりというのもあったけれど、
飛行機は早いだけで途中下車もできないというのも大きな理由だったと思う。
それでも乗らなければいけない状況の時は、
車窓から見える雲や空、持ち込んだ週刊誌に目をやることで時間を過ごしていたよう
な気がする。
怖いという気持ちをごまかす方法だったのかもしれない。
見えなくなってからはそのささやかな気分転換もできなくなった。
エンジン音、気圧の変化、振動・・・。
ただひたすらそれとのお付き合いだ。
おまけに毎回、避難の際のジャケットの着方、降りてくる酸素マスクの装着の方法、
非常口の場所なども説明されている。
見えない僕にはどれも対応できそうにない。
しかも脱出の際は白杖は使えないと、
親切なキャビンアテンダントがわざわざ教えてくださった。
万が一の時は皆同じだと思ったり、安全度は最高の乗り物だと自分に言い聞かせたり
している。
あまり乗りたくない飛行機に今月はあと4回も乗る予定だ。
スケジュール上仕方ないのだ。
こうならないためにどうスケジュールを組み立てるか、
そうだ!帰りの飛行機の中で研究することにしよう。
(2016年5月8日)

もえぎ色

「山がもえぎいろですよ。」
電車の車窓から見えた景色を20歳の彼女はそう言い表した。
僕は車窓の向こう側に視線を送りながら悪戯心で尋ねてみた。
「もえぎいろってどんな色?」
しばらく考えていた彼女は、
「山がね、新しい緑に衣替えした時の色ですよ。今年流行の春色です。」
そう言って笑った。
僕も笑顔になった。
家に帰り着いてから調べてみたら、
萌黄色、萌葱色、萌木色、茂木色、萌木色、たくさんの漢字が出てきた。
日本の色の種類は400種類以上あるのだそうだ。
あらためて、日本人の繊細な感性がうれしく感じられた。
彼女が僕と初めて出会ったのは中学生の時だった。
僕の目の前がいつもグレー一色だと知って同情したと言う。
可愛そうな僕達のために何かできないかと真剣に考えたそうだ。
その後彼女は僕の著書に出会い、だいぶ考え方が変わったらしい。
サングラスが素敵とか、白杖がよく似合うと表現するようになった。
「こうして1年に一度か二度ですが、
街でお見かけした時に声をかけられるのは私のラッキータイムになりました。
松永さん以外の困ってそうな白杖の人にも必ず声をかけていますよ。
いつまでもカッコよく歩いてくださいね。
もえぎ色のmikuでしたぁ〜。」
彼女から届いたメール、やっぱりもえぎ色だった。
(2016年5月5日)

ツツジ

サポーターといつもの歩道橋を歩いていたら
花のジュータンが見えると教えてくれた。
駅のロータリーの植え込みのことだった。
僕はそこまで連れていってくれるように頼んだ。
腰丈くらいの位置にそっと手を伸ばしたら
花弁が手のひら一杯に触れた。
手のひらで左右上下を確認したら一面の花弁だった。
花弁は少し濡れた感じでいきいきとしていた。
花の吐息が感じられるような気がした。
まさに花のジュータンだった。
色は白とピンクと赤と教えてもらった。
ジュータンは僕の心の中にまで広がった。
もっと感じたくて顔を近づけた。
柔らかな感触が頬を撫でた。
もうすぐ5月、一番いい季節がくるんだなとうれしくなった。
(2016年4月29日)