奈良記念日

僕は僕達のことを伝えたいと思っている。
正しく知ってもらうことが未来につながっていくと思っているからだ。
本を書くことも講演をすることも、このホームページもその手段だ。
ただ、講演はお招きいただいて機会がないと実現しない。
毎年ふたを開けてみないと判らない。
続けてこられたというのはお招きくださる人達がおられたからだ。
有難いことだと思う。
京都で生活しているので地元の京都が多いのだが、
近隣の市町村に出かけることもよくある。
九州や中国、東海や関東まで出かけたことも幾度かあるし、
今年の秋には北海道からお誘いが届いている。
講演で何を話そうかと思う前に、北海道で何を食べようかと考えてしまっているので
それはちょっと困ったものだ。
僕らしいとも言えるかな。
近畿では滋賀県、大阪府、兵庫県などは毎年どこかに行くのだけれど、
これまで何故か奈良県では機会がなかった。
単純に縁なのだと思う。
それがやっと今日奈良県の中学校で講演をする機会をいただいた。
大学時代の友人の紹介だった。
近鉄電車で大和八木を経由して室生まで出かけた。
片道2時間以上かかった。
駅には担当の先生が迎えに来てくださった。
生徒達はいつもと同じようにしっかりと話を聞いてくれた。
あっという間の楽しいひとときだった。
講演を終えて学校を出ようとした時、
三年生の男の子が話しかけてきた。
僕は彼と握手をした。
未来への種蒔きができたことを実感した。
こうして伝えていくこと、僕のミッションなのかもしれない。
見えない僕にできることなのだ。
今年もいろいろな場所に出かけたい。
そして、いろいろな人に出会いたい。
(2017年1月27日)

雪景色

寒がりのはずなんだけど少し外を歩きたくなった。
使い捨てカイロを両方のポケットにしのばせて完全防備で家を出た。
戸外に出た瞬間から飛び回る雪が面白がって僕の顔を触ってきた。
容赦なく触ってきた。
それだけで僕の心も雪と一緒に飛び回りそうになった。
ゆっくりと少し大股で一歩を踏み出した。
足の裏で新雪を踏みしめる感触が伝わってきた。
間違いなく雪だ。
走り回りたくなる心をなだめながらしばらく歩いた。
そして立ち止まって手袋をはずした。
しゃがみこんで雪をそっと触った。
両手でそっとすくいあげてみた。
少し口に含んで冷たさを確認した。
それからハンカチで手を拭いてまた手袋をはめた。
立ち上がって周囲を眺めた。
首を右から左にゆっくり動かして雪景色を眺めた。
飛び回る雪は相変わらず僕の頬をつついた。
うれしくなった。
帰宅したらまずおいしいコーヒーを飲もうと思った。
(2017年1月24日)

あい・らぶ・ふぇあ

第42回視覚障害者福祉啓発事業「あい・らぶ・ふぇあ」

僕が所属している京都府視覚障害者協会、京都ライトハウス、関西盲導犬協会、京都
視覚障害者支援センターの四団体が協力して開催します。
社会に正しい理解をしてもらうために皆で頑張りました。
是非、会場に足を運んでください。

【日時】
2017年2月2日(木)〜5日(日)
10時〜18時(最終日のみ17時)

【会場】
大丸京都店 6階イベントホール(入場無料)

【テーマ】
「見えない・見えにくい人たちのくらしを知ろう子どもから大人まで」

【内容】
「子どもから大人まで」年代別に視覚障害者のくらしを楽しく知る体験ツアー
ブラインド喫茶
シネマデイジー体験
視覚障害当事者の手作り商品や盲導犬グッズの販売
(今回は僕のサイン本を特別価格で限定販売)
小学生の絵画コンクール

2月4日(土)12時からのスペシャルトークでは、
リオパラリンピック女子柔道銅メダリスト廣瀬順子(ひろせ じゅんこ)選手が来場。
ちなみに僕の講演は2月4日(土)15時からです。
その他にも毎日いろいろな舞台発表などがあります。

詳細は下記ライトハウスHP
http://www.kyoto-lighthouse.or.jp/news/read/id/754

残雪の道

バス停までのたった100メートルほどの道、
いつもなら口笛を吹きながら歩ける道、
今朝は立ち往生してしまった。
残雪が凍りついていた。
簡易型のスパイクを靴底に装着していたのでスリップすることはなかったのだけれど、
白杖がほとんど役に立たなかった。
どこまでが歩道なのかどれが点字ブロックなのか判断できなくなった。
聴覚だけを頼りに歩いたが不安は増すばかりだった。
とうとう途中で立ち止まってしまった。
僕は他の足音を待った。
しばらくしてその足音が遠くから聞こえてきた。
子供なのか大人なのか男性なのか女性なのか、
足音では判らない。
でも間違いなく人間の足音だ。
「バス停を教えてください。」
僕はまだだいぶ先の足音に向かって叫んだ。
「もう少し右ですよ。」
大きな声が帰ってきた。
そして足音はスピードを増して僕に近づいてきた。
「どうしてあげたらいいですか?」
年配の女性だった。
僕は彼女の指示で歩いた。
バス停まではたった十歩程度だった。
それが判らないのが見えないということなのだ。
「たまに見かけるけど、いつも一人ですごいですね。頑張ってくださいね。」
バス停に着くと彼女は僕の肩を軽くたたきながらそうおっしゃった。
「ありがとうございます。」
僕は深く頭を下げた。
他人同士が励まし合ったり助け合ったりできる。
人間って生き物は本当に素敵な生き物だ。
そしてそのちょっとしたやりとりで、
数分前までの不安な心が幸せ色に変化していた。
僕は空を見上げて真っ白な雪を思い浮かべた。
(2017年1月18日)

贈り物

思いもかけぬ贈り物を頂く。
見えない僕のために素敵なデザインを選んでくださったようだ。
そのデザインを説明してもらってもなかなか想像はできない。
それでも洗練された雰囲気は伝わってくるから不思議だ。
真心がこもったらどうやら見えるとか見えないは関係ないらしい。
手に取って感触を楽しむ。
心がじんわりとあたたかくなる。
両方の手でそっと包む。
僕にはもったいない気もするが大切に使いたいと思う。
使う度に贈ってくださった人のやさしさを感じるのだろう。
贈ってくださった人を思うのだろう。
思いながら笑顔になるのだ。
僕も誰かを笑顔にしてあげられるような贈り物をできればいいな。
(2017年1月14日)

夜空

協会の活動もスタートした。
専門学校の授業もスタートした。
さわさわもスタートした。
三条通、柳馬場通、御池通、麩屋町通、高倉通、六角通、四条通、仏光寺通、烏丸通。
僕が今日一日で歩いた道、歩数にして8,536歩だった。
一歩一歩は小さいけれど、歩き続ければ少しは進む。
ゴールインしようなんて元々考えていない。
ほんの少し未来に近づければそれでいい。
分相応の歩みでいい。
帰り着いたら夜だった。
「星がとっても綺麗ですよ。」
ガイドさんが夜空を見上げて教えてくれた。
「綺麗な月やなぁ。」
直後にすれ違った通行人の会話が聞こえてきた。
やっぱり今日はよく頑張れた一日だったのだ。
僕も夜空を見上げながらなんとなくそう思った。
(2017年1月10日)

ラグビー

ラジオから流れるラグビー中継を聞きながらのんびりとした時間を過ごした。
高校時代にラグビー部だった僕は卒業してもラグビーが好きだった。
東京での浪人時代には国立競技場までジャパンの観戦に出かけたこともあった。
ウエールズとのテストマッチだった。
桜のジャージィが外国の大柄な選手に果敢に挑む姿に心が震えた。
ノーサイドのホイッスル、試合は大敗だったがその姿に誰もが拍手を送った。
両国の選手がジャージィを交換してグラウンドを一周した時には、
何故か荒ぶる心と熱い涙で映像が曇った。
そういうことができるのが若いということだったのかもしれない。
三回り目の成人の日、僕はどれだけ成人になれたのだろうか。
あの純粋さはどこにいったのだろう。
無関心はいつ憶えたのだろう。
穏かになったのか鈍感になったのか、苦笑してしまう。
苦笑することもいつの間にか身に着けたのかな。
四回目の成人の日にはもう少しましな人間でありたい。
無心に楕円形のボールを追いかけたあの頃のように、
よし、三回目の成人式、もう一度仕切り直しのスタートだ。
(2017年1月9日)

還暦

60歳になった。
60歳になれた。
60歳まで生きてこられた。
じんわりとうれしくなった。
しみじみとうれしくなった。
目が見えたらそれはいい。
見えないよりも見えた方がいい。
見たいという気持ちは今でも捨てられない。
それなのに何も見えない僕がここまでこれたのはどうしてだろう。
目覚めた時から眠るまでいつも灰色の世界なのに生き続けてこられたのは何故だろう。
見るということはあきらめられたのに、
生きるということはあきらめられなかったということなのかもしれない。
そして今湧き上がってくるのは「ありがとう」という純粋な思い。
僕を支えてくださった人にありがとう。
僕を応援してくださった人にありがとう。
そして僕を見捨てなかった僕自身にありがとう。
せっかくの人生、まだまだ楽しみます。
もっともっと楽しみます。
(2017年1月5日)

2017年 元旦

のんびりと2017年の元旦を迎えました。
朝一番にベランダに出て、
亡き父が大切にしていた寒ランにジョーロでたっぷりの水をあげました。
身体に当たる陽光がとても柔らかでした。
見えないのにどうしてそう感じられるのだろうかと自分でも不思議に思いました。
それでそっと手のひらを空中にかざして光を探してみたのですが、
捕まえた光はやっぱり柔らかでした。
微かな風も慎ましやかでした。
それでいいのだと思いました。
失明して20年という時間が流れました。
僕の人生の三分の一を過ぎたということになります。
見えていた頃が少しずつ遠くになっていきます。
記憶がセピア色になってきているのも事実です。
見えていた頃の話をするのに少し照れくささも感じるようになってきました。
でも、僕自身はやっぱり何も変わっていません。
変われなかったということなのかもしれません。
年末に中学校から届いた講演の感想文を読んでもらったのですが、
「カッコいい」とか「素敵」などの表現がいくつもありました。
画像からすれば、
頭の禿げた中年、いや老年にさしかかっている僕の姿がそんな筈はありません。
まだ清らかな中学生の心が人間の生きる力に反応してくれたのでしょう。
僕が中学生だった頃、障碍者に対してそういう感覚を持てませんでした。
社会は確かに変化しています。
そしてもうひとつ共通していたのは、
歯を食いしばっている僕ではなくて、明るく普通に話す僕に向けられていたというこ
とです。
共に生きていく社会の原点を生徒達に教えてもらっているような気がしました。
今年もそういう活動をできればと思います。
僕の歩幅で僕の速さで、
いや僕ののろさで歩いていきます。
このブログも書き続けます。
もう書かなくていい社会がくるまでは書き続けます。
読んでくださっている人が少しずつ増えています。
応援してくださっている人が増えているということでしょう。
ありがとうございます。
今年も宜しくお願い致します。
(2017年1月1日)

バーバリーのコート

20歳代の後半、リュックサックを背負ってヨーロッパに出かけたことがある。
英語も話せない二人の青年はホテルの予約もなしに出かけたのだから、
若さは無茶で無謀だったということなのだろう。
スーパーマーケットのパンを齧りながら列車で仮眠をとりながら旅を続けた。
約二か月の滞在で一泊1,000円を目指したが無理だったのはパリとスイスだけだった。
なんとかなるという自信は行動をどんどんエスカレートさせていった。
イギリスから始まった旅はオランダ、ドイツ、スイス、ユーゴスラビア、ギリシャ、
イタリア、フランス、スペインと続いた。
スペインまでたどり着いた僕達は何の躊躇もなくジプラルタル海峡を超えてモロッコ
を目指した。
サハラ砂漠を見たいという一心だった。
マラケシュからバスを乗り継いで最後はジープで砂漠に向かった。
やっとたどり着いた砂の大地には青い空と風の音だけが存在していた。
時が止まったような空間を僕は怖いとさえ感じた。
その風景はしっかりと脳裏に残っている。
それ以外にも宝物となっている風景がいくつもある。
絵画のようなヨーロッパの街並み、オランダの風車、スイスの登山電車の終着駅から
見たマッターホルンの雄姿、エーゲ海の港の風景、まるでどれもが絵葉書のようだ。
そしてロンドンのバーで出会った紳士の重圧なコートも何故か強く記憶に残っていた。
そのコートの裏記事の模様が静かで控えめでよく似合っていたからだろう。
それがバーバリーのコートだったと知ったのは帰国して何年もたってからだった。
欲しいと思ったが若い僕には手の届かないものだった。
50歳を超えてから憧れのコートを手に入れた。
見えない僕が裏記事のデザインにこだわるのはおかしいのかもしれないが、
きっとこだわっているのは僕自身の大切な人生なのだろう。
また海外に行きたいとは思わない。
それは見えないからではない。
青春は時代がエスコートしてくれた旅のようなものだったからだろう。
ただこれからも、僕は僕であり続けたい。
見えていても見えなくても。
(2016年12月30日)