記憶の声

午前中の仕事を終えて13時には大学に着いてしまった。
専門学校の先生が車で送ってくださったのだ。
キャンパス内にあるカフェで時間を過ごすことにした。
僕の講義は15時からなので時間はたっぷりあった。
学生達が講義に行ってしまったあとのお昼過ぎのカフェは閑散としていた。
のんびりとした時間が流れていた。
微かに漂っているBGMのピアノの音が心地よかった。
コーヒーを飲みながらふと気づいた。
当たり前のことなんだけど、画像がない!
この場所でこのタイミングで気づくということはいつもは忘れているということだ。
見えない日常というのはそういうことなのだろう。
自分でも可笑しくなった。
今朝最初に会話をかわしたのは阪急桂駅の駅員さんだった。
「お手伝いしましょうか?」
「ここは慣れているから大丈夫です。ありがとうございます。」
それからお昼までに専門学校の教職員、学生達、30人くらいとは話したかもしれない。
数人の声は記憶があって見分けがつくがほとんどは誰か判らない。
それでも支障なく生活できるのだ。
数を重ねれば記憶できることもあるが必ずしもそうでもない。
どういうメカニズムか自分でも判らない。
美人は記憶しやすいと言いたいけれど、これも判別不可能だ。
そんな感じで時間と遊んでいたら突然声がかかった。
「松永先生、お久しぶりです。4回生になった・・・。」
彼女が名乗るのと僕が名前を呼ぶのとが同時だった。
「絵を描くのが好きだったよね。」
3年ぶりに出会ったのだけれど僕の記憶は間違っていなかった。
僕達はそれぞれの近況などを話して別れた。
うれしい再会だった。
次出会った時、またすぐに判るかそれは判らない。
でも名前が判るかとかはどうでもいいのかもしれない。
微笑むことができる時間を共有できたということが素敵なことなのだろう。
この再会も彼女が声をかけてくれたから実現したのだ。
声がなかったら隣にいても判らないだろう。
彼女のさりげないやさしさがうれしかった。
またいつかどこかで会えますように。
そんな出会いがたくさんありますように。
(2017年5月25日)

イスのクッション

京都のバスは車体の後方に乗車ドアがある。
後ろ乗り前降りというタイプだ。
乗車したら狭い通路を必ず前へ移動しなければならない。
他の乗客の真横を歩くということになるのだから、
座席を譲ってくださったり空席を教えてくださったりする方に出会う確率は高くなる。
電車はそういう訳にはいかない。
たいてい同じドアから乗り降りするからドアの近くの手すりを持って立っている。
通勤時間帯などはその手すりの確保さえ大変だ。
日常の電車での単独移動で座れることは滅多にない。
仕方がないといつの間にかあきらめている僕がいる。
乗降しやすいからドア付近に立っていると思っておられる一般客も多い。
見えないから空席を見つけられないだけなのだ。
見えないで社会に参加するということは、
出来ないことを受け入れて穏かに生きていくということなのかもしれない。
悲しんだり俯いたりしても生活は成り立たないのは事実なのだ。
毎週木曜日は午前中に専門学校、午後は大学での講義があるので移動は大変だ。
バスで桂駅まで行きそこからは電車を乗り継ぐ一日となる。
阪急で桂から烏丸、地下鉄に乗り換えて竹田、また近鉄に乗り換えて向島まで行く。
向島から専門学校までは学校関係者が車で送迎してくださる。
午前中の講義が終わると移動開始だ。
向島から近鉄で丹波橋まで行き京阪に乗り換えて深草。
深草から大学はこれも職員の方が送迎してくださる。
講義が終わると帰路につく。
京阪で深草から丹波橋、近鉄で竹田、地下鉄に乗り換えて四条、
最後は阪急で桂という具合だ。
この帰路は遠回りなのだが僕が単独で白杖で移動するには一番安全なルートなのだ。
一日に9回の電車利用が基本ということになる。
そのすべてで座れることはほとんどない。
地下鉄京都駅は乗降客が多いので、
僕の立っているドアに一番近い席の乗客が音を立てて立たれた時だけ
たまに座れることがあるくらいだ。
それも2割くらいかな。
「座席が空いていますけど座りますか?」
地下鉄に乗り込んだ僕に声がかかった。
「座ります。」
僕は即答で誘導をお願いした。
僕と彼女は並んで座った。
今年度、4月から学校が始まってもう2か月くらいになるのだが、
出勤時に初めて座れたということになる。
うれしさが込み上げてきた。
イスのクッションがとても気持ちよく感じた。
「宝くじに当たったほどではないですが、座れたのはとてもラッキーです。」
僕は宝くじに当たったこともないのにそう表現した。
うれしすぎて言葉が見つからなかったのだろう。
それから少し世間話をして、彼女が降りる駅に着いた。
「ありがとうございました。いい一日を!」
僕が言おうとこっそり心の中に準備していた言葉、
タッチの差で彼女に言われてしまった。
僕は笑いながら彼女の後姿に頭を下げた。
人間って素敵だよなぁ。
僕は幸せを膝に乗せて柔らかなイスのクッションに深く座り直した。
(2017年5月20日)

尾道

晴れ渡った空を眺めながら坂道を上った。
ゆっくりとゆっくりと上った。
澄んだ朝の風が僕を追い越していった。
いつもの京都とは違う速さで時間は流れていた。
そこにはそこの時間があって、
そこにはそこの空気があるなと思った。
全盲の先輩に研修会への参加を頼まれたのはもうだいぶ前だった。
彼女は同じ鹿児島県の出身だった。
幼児期にはしかで失明した彼女を父は外に出そうとはしなかったらしい。
学校に行ったのは成人してからだった。
結婚もして、それからの人生を尾道で過ごすようになった。
楽しい日々だったらしい。
ただ長くは続かなかった。
突然の病魔が彼女のご主人を奪った。
それからの日々を大きな家で一人で過ごしておられる。
きっと寂しさも大きいのだろうが前向きに生きておられる。
80歳を過ぎた彼女へのプレゼントのつもりで僕は尾道へ出かけた。
研修会は仕事ではなかったが、いつも以上に気持ちのスイッチが入っていた。
彼女のためでもなく講座のためでもなく、
いつのまにか僕は自分自身のために頑張っていた。
無意識に自然とそうなっていた。
そこにはそこの空気があって、
そこにはそこの幸せがある。
人間同士の営みの中にきっとある。
僕もその空気の一部になりたいと思ったのだろう。
またいつか、今度はゆっくりと尾道を訪ねてみたい。
坂道をゆっくりともうちょっと長く歩いてみたい。
(2017年5月16日)

真実

引っ越ししてきて2年半あまりの時間が流れた。
前の団地は目が見える頃から暮らしていたので、
街全体がイメージできた。
一本違う筋も理解できていたし、
近道も知っていた。
今度の団地は見えなくなってからの学習だから大変だ。
根気のない僕はすぐにいろいろなことをあきらめ、
結局バス停と団地の経路しか判っていない。
それで困ることもないからいいのだと納得している。
日常生活に必要な最低限のルートだけを身に着けたということになる。
エレベーターを降りたら右斜め前のコンクリートの壁を確認し、
そのまま右方向へ進む。
壁が終わったら直角に左へ向きを変える。
道の両側は芝生なのでこの道は白杖の感覚で判りやすい。
道なりに進んでまた壁に突き当たる。
そこで左に曲がって歩くと一般道にたどり着く。
そこから左に方向転換して自転車の音に気をつけながら進む。
点字ブロックが横断歩道の合図だ。
車のエンジン音を手がかりに青を判断する。
直進と右折の二度の信号を渡ったら左に向かってまた歩き出す。
バス停の点字ブロックを目指して歩く。
団地からたった500歩くらいの道のりだけど、
見えない僕にとっては緊張の時間だ。
バス停にはいろいろなバスがくるので、
そこからはバスが停車した際の案内放送をしっかりと聞き分けるという作業になる。
全盲の僕が単独で歩くというのはそういうことの積み重ねなのだ。
ところが2年半の時間は少しずつ僕を街の日常の風景に溶かしていったのだろう。
「ここですよ。」
バス停を教えてくれる声が聞こえるようになった。
「おはようございます。」
挨拶をしてくれる人が増えてきた。
バスのエンジン音が近づいたタイミングで、
「8号のバスですよ。」
耳元でつぶやいてくれる人も出てきた。
僕は住民の人の顔を一人も知らない。
二日続けて出会っても判らない。
メディアは社会の危険性を連日報道している。
それは事実だろうし否定もしない。
でも、街にはあちこちに人間のやさしさが生まれている。
これもまた真実のひとつなのだ。
偶然でもないし思い過ごしでもない。
自信を持ってそう言える。
何故なら今朝も昨日もそうだったから。
(2017年5月12日)

緑のそよ風

僕は僕なりのゴールデンウィークが終わった。
豪華さも華やかさもなかったけれど、
のんびりとした時の流れはうれしかった。
またいつもの朝が始まった。
いつものようにモーニングコーヒーを飲んでから出かけた。
福祉専門学校での講義がスタートだった。
気持ちを引き締めてと思いながら歩き始めたら風に気づいた。
緑のそよ風だ。
温度と湿度と風力との微妙なバランスなのだろうがそれを皮膚が感じたのだろう。
つい立ち止まって深呼吸した。
無意識にそうしていた。
これもまた僕の肺が欲しがったのだろう。
そして「旨い!」と思った。
風は緑が一番美味しいなと妙に納得しながらまた白杖を動かし始めた。
(2017年5月8日)

先輩の笑顔

療養中の先輩のお宅を訪ねた。
歓迎してくださった。
食事からコーヒーまで心の籠ったおもてなしだった。
のんびりと過ごした。
長時間は迷惑になるかもしれないと危惧していたが、
気がついたら結局滞在時間は4時間を超えてしまっていた。
病気を知ってから毎日のように先輩を思い出す日常があった。
無意識に思い出してしまうことで先輩の存在の意味を再認識していた。
一緒に歓談できるということがそれだけで僕にはうれしいことだった。
コーヒータイムにシルクロードの音楽が流れた。
喜多郎の音楽だった。
若い頃ビデオで何回も見た映像が蘇った。
ナレーションの石坂浩二さんの声までがついこの前のもののように蘇った。
見えなくなって20年は過ぎたのだからそれ以上前の記憶だ。
新鮮さは不思議な感覚だった。
ふと、僕は先輩の顔を見たことがないことに気づいた。
それなのにそこに先輩の笑顔があった。
確かな笑顔だった。
見たことがあるとかないとか、そんなに重要ではないのだろう。
好きなものはいつの間にか時間を越えて記憶に留まっていくのかもしれない。
そしてそれは間違いなく人生の豊かさにつながっていくのだ。
先輩が一日も早く回復してくださるように心から願った。
(2017年5月4日)

従兄

10歳くらいの年齢差はあるだろう。
僕が中学生の頃、彼は既に故郷の阿久根を離れていた。
集団就職で都会に出ていったのだと思う。
だから少年時代に一緒に遊んだような記憶はない。
名前は知っていたけど接点はなかった。
それぞれにそれぞれの人生を歩んでいたのだろう。
僕が失明していろいろな活動をするようになって、
彼はエールを送ってくれるようになった。
ブログを読んでくれスケジュールの確認をしてくれているらしい。
親族でも関わりはそれぞれ違う。
血縁とかDNAとかは関係ないのかもしれない。
人と人との関係、不思議なものだ。
僕が赤ちゃんの頃にきっと彼と出会っているだろう。
抱っこしてもらったかもしれない。
でも勿論何の記憶もない。
顔を見たこともない。
そう考えると見たことがあるとかはそんなに意味があることではないのかもしれない。
「牛歩のごとく 無理をせず」
いいタイミングでのアドバイスが心に沁みた。
このブログも500を超えたらしい。
いつの間にかほんの少し、進んでいけたらいいな。
(2017年5月1日)

視覚障害者協会の地域団体の総会に出席した。
本部の役職をしている僕は来賓ということでお招きを受けることが多い。
挨拶をするのが役目みたいなものだ。
総会の後は懇親会だった。
カラオケも始まった。
歌うということが好きな視覚障害者は多い。
点字の歌詞カードを持参している人もいるし何曲かは記憶しているという人もいる。
弱視の人の中にはテレビ画面に顔がひっつくくらいに近寄って見ている人もいる。
耳元でガイドさんに歌詞を先読みしてもらいながら歌う人もいる。
それぞれの方法で楽しみながら歌っている。
進行役の人から僕にもお誘いがあったが辞退した。
聴く方が好きと伝えた。
いつもそう言ってお断りしている。
人前での歌はちょっと苦手なのだ。
宴会もお開きが近づいた頃、進行役の人が突然僕にマイクを手渡した。
「乾杯」のメロディが流れ始めた。
同時にボランティアさんが僕の耳元で歌詞の先読みを始めた。
照れながら僕は仕方なく歌った。
15年程前の記憶が蘇った。
協会の理事に就任した頃だった。
初めての新年会に出席した。
宴会で先輩に指名されて「乾杯」をアカペラで歌った。
先輩達があたたかな拍手をくださった。
白杖初心者の僕に励ましをくださった。
今思えば、古い建物の一室で食事なども決して豪華なものではなかった。
ただそこには絆があって未来が感じられた。
人前で歌ったのはそれが最初で最後だった。
先輩の一人が笑顔でおっしゃった。
「あの時のことを憶えていたのよ。よく頑張って偉くなったわね。」
僕は偉くはなっていないのだけれど、
先輩に言葉を頂けたことがうれしかった。
「ありがとうございます。」
心を込めて頭を下げた。
受け継いだバトン、僕もいつか次の世代にしっかりと渡していかなければと思った。
(2017年4月27日)

蜃気楼

琵琶湖ホテルに到着するとフロントで会議の部屋と開始時刻を確認した。
会議が始まるまでには1時間くらいあった。
僕はボランティアの学生に遊歩道の散歩を頼んだ。
彼女は笑顔で引き受けてくれた。
学校に関わっていると学生がいろいろな機会にいろいろな場所で協力をしてくれる。
僕の活動を支援してくれる。
今回の会議も慣れない場所で困っていたのだが彼女がガイドを引き受けてくれた。
有難いことだと思う。
図々しい僕は学生だと少々の無茶も言える。
今日も朝のラジオで「行楽日和」という天気予報を聞いた時から、
タイミングが合ったらホテルの前の遊歩道を歩きたいと思っていた。
ホテルの前の遊歩道はこれまでにも幾度か歩いた経験があったのだ。
琵琶湖の風に吹かれながらのんびりと歩いた。
春の日差しの中をゆっくりと歩いた。
階段に腰を下ろして琵琶湖のささやきにも耳を傾けた。
穏かな波だった。
目の前には琵琶湖があるのだが僕の脳裏には菜の花畑があった。
一面の菜の花畑だ。
学生がホテルの前に菜の花が咲いているのを教えてくれたからだろう。
だから僕の頭の中で琵琶湖が菜の花畑に変わったのだ。
僕だけちょっと得をした蜃気楼かもしれない。
見えるとか見えないとかどうでもい時もある。
つきつめれば幸せには無関係だ。
人生そのものが蜃気楼みたいなものなのかもしれないな。
こっそり微笑んで会議に向かった。
(2017年4月23日)

見たくないもの

歯医者さんでの治療を終えて歩きながら、
ふと子供の頃の通院を思い出した。
注射が苦手だった。
注射器も注射針も見たくなかった。
その瞬間目を閉じて顔をそむけていた。
歯を食いしばって身体ごと思い切りそむけていた。
懐かしい思い出だ。
目が見えなくなって目を閉じることも顔をそむける必要もなくなった。
見たくないものを見なくてよくなったということだろう。
そんなことを思いながら歩いていたらガイドさんが街路樹の様子を伝えてくれた。
生まれた黄緑色がどんどん濃くなってきているらしい。
見たくないものは見なくていいけれど見たいものも見えない。
そんなことを思っている間に僕の目の前に絵の具のチューブから色が溢れ始めた。
空も地面も黄緑色一色に染まっていった。
笑顔になった。
人間の感性って素晴らしい。
もうすぐすれば風が薫るのだろう。
今度は嗅覚が風を感じてくれるのだ。
そうやって僕も春色になりたい。
(2017年4月19日)