ランドセル

信号のある横断歩道で僕は立っていた。
青信号を確認するために車のエンジン音に耳を澄ませていた。
隣に小さな足音が近づいてきたのにも直前まで気づかなかった。
「おじちゃん、一緒に渡りましょう。」
小学校低学年くらいかと思われる男の子は、
か細い声でそう言うと、
僕の手首をちっちゃな手でギュッと握った。
意を決しての行動なのだろう。
男の子の心臓の鼓動が伝わってくるようだった。
いつもなら肘を持たせてくださいと頼むのだけれど、
僕はそのままの状態でゆっくりと笑顔で話しかけた。
「うれしいなぁ。これでおじちゃんも安心して横断歩道を渡れるなぁ。
青になったら教えてね。」
僕の手首を握っていた力がほんの少し緩んだような気がした。
「青になりました。」
さきほどよりもちょっと元気の出た声が僕に伝えた。
そして男の子は僕の手首を引っ張りながら歩き始めた。
横断歩道を渡り切ったところで、
「ありがとう。助かったよ。
こんなお手伝いをどこで勉強したの?」
僕は尋ねてみた。
「ママがね、白い棒を持った人はおメメが見えないから助けなさいって言ったから、
僕は助けました。」
男の子は早口だったけれどはっきりと答えた。
「君もおりこうさんだけど、ママも偉いママだね。
おじちゃんがママにもありがとうって言っていたって伝えてね。」
男の子は今度は「うん。」とだけ元気よく言うと、
振り返って走り始めた。
ランドセルがカタカタと音をたてながら走っていった。
「走ったら危ないよ。」
僕の声で音は止まった。
僕は手を振った。
もう一度笑顔を意識しながら手を振った。
「さようなら。」
男の子の大きな声が聞こえた。
僕はもっと大きく手を振った。
ランドセルの音はまた走り始めた。
もう僕は止めることをあきらめた。
あのままお家に駆けこむのだろう。
大昔、そんな日が僕にもあったような気がする。
(2015年10月26日)

忘れ物

朝、バス停にたどり着いてから忘れ物を思い出した。
今日は小学校の福祉授業の予定だったので、
子供達に見せてあげようと思って昨夜のうちに準備しておいた点字のトランプを、
机の上に置いてきてしまったのだ。
ほんの数分だったけど、一応取りに帰るかは悩んだ。
面倒くさいという気持ちも少しはあったし、
取りに帰るということで行程が変わってくるのだ。
予定ではのんびりとバスで四条烏丸まで行くつもりだった。
最近時々このルートを使う。
1時間近くかかるので、
座席に座ってノートパソコンをリュックから取り出して仕事ができるのだ。
結構気に入っている。
取りに帰れば、もうバスでは間に合わなくなる。
ラッシュの電車は想像しただけで憂鬱だ。
でも、僕が子供達に出会うのはワンチャンスだ。
どう正しく伝えるかはとても大切になってくる。
点字のトランプは見せてあげた方がいいに決まっている。
結局そう自分に言い聞かせて取りに帰った。
そして、電車に乗る羽目になった。
案の定朝の駅は込んでいて、
電車の中でも僕は入口の手すりを持って立っていた。
電車が烏丸駅に着いて、降りた乗客は一斉にエスカレーターへ向かった。
僕も点字ブロックを白杖で確かめながらエスカレーターへ向かった。
毎回緊張する場所だ。
「改札へ向かうのですか?」
高校生くらいの女の子の声がした。
僕は彼女に肘を借りてエスカレーターに乗った。
リュックサックを背負っていたからきっと学生さんだろう。
僕は安心して改札口までたどり着くことができた。
たった数分間のサポート、
それで僕は気持ちさえもすがすがしくなっていた。
忘れ物をしなかったら出会えなかったすがすがしさだ。
そう思ったら何か得をしたような気分になった。
(2015年10月23日)

さくら号の中で

京都を出たのは月曜日だった。
翌日の火曜日から薩摩川内市での活動がスタートし、
土曜日までの5日間で9つの会場を回った。
小学校、中学校、看護専門学校、そして昨日の社会福祉協議会での講演、
小学生からおじいちゃん、おばあちゃんまでいろいろな世代の人達に話を聞いてもら
うことができた。
見えない世界を知ってもらうことができた。
きっとまた少し、
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加できる社会につながったと思う。
僕はこの活動を未来への種蒔きだと信じている。
この文章を僕は鹿児島から岡山に向かう新幹線の中で書いている。
今日は岡山での講演なのだ。
指定席は窓際の座席を確保したので、
隣の方の迷惑にもならずにのんびりできる。
時々、車窓から空を眺める。
秋の澄んだ空が広がっている。
新幹線がトンネルの中を通行中でも僕には青い空が見えている。
これってちょっと得なのかな。
隣の人に手伝ってもらって買ったホットコーヒーをすすりながら、
僕にとったら結構ゴージャスなひとときだ。
岡山にはそよ風の会の人達が待っていてくださって、
僕を講演会場までサポートしてくださる。
たくさんの人達に助けられながら、
僕は生きているのだ。
たくさんの人達に助けられるということは、
たくさんの「ありがとう」を言えるということ、
心が豊かになるのは当たり前なのだ。
見えた方がいいか、見えなくてもいいか、
勿論見えた方がいい。
でも、あきらめるということも人間の持つ力だ。
見えることはあきらめて、
幸せはあきらめないで、
生きていきたい。
もうすぐ、岡山到着、そろそろスタンバイです。
(2015年10月18日)

落陽

打ち寄せる波のBGMを聞きながら、
東シナ海の潮風の中に僕達は佇んだ。
ガールフレンド達が解説してくれる落陽をイメージしながら、
ただのんびりと魂を自由に開放した。
落陽は最初は白っぽかったが、だんだんオレンジ色に変化し、
やがてその色を濃くしながら水平線に消えていった。
流れた時間が長いのか短いのか感じることはできなかった。
つるべ落としがスローモーションの中で進行した。
その間僕達は波打ち際を歩いたり、桜貝を探したりした。
僕の手のひらに乗せられた桜貝の桜色が見事に脳裏に蘇った。
僕達は一緒にそれを喜んだ。
高校を卒業して40年、それぞれの人生を歩いてきた。
目が見えるとか見えないとか、それはほんのささいなことにすぎなかった。
こうして積み重ねてきた日々が、
ただお互いの生を慈しんだ。
自分に対しても相手に対してもやさしい気持ちになっていた。
それぞれの生命に意味があるとすれば、
僕は何のために生まれてきたのだろうか、
まだ何も判ってはいない。
最後まで判らないのかもしれない。
でもきっと、明日からも歩いていくのだろうな。
「また会おうね。」
握手したガールフレンドの手をとても愛おしく感じた。
(2015年10月17日)

故郷 風の会

2004年、僕は「風になってください」を出版することができた。
僕のメールを読んで本を書くことを勧めてくださる人達がいて、
そして実際に様々な協力をしてくださった。
いろいろな人達の応援で出版ということが実現したのだ。
そしてもっとラッキーだったのは、その本を多くの人達が支持してくださった。
もう10年を超えた本が今でも少しずつ社会に出回っている。
そのお蔭で2冊目、3冊目の執筆のチャンスにも恵まれたし、
講演などの機会も増えた。
社会にメッセージを発信する手段として、
僕の大きな力となってくれている。
関わってくださった皆様に心から感謝したい。
そしてその流れのなかで、
故郷の高校時代の同窓生達が毎年素敵なプレゼントをしてくれる。
同窓生達は「風の会」というグループを作って皆で手分けして
子供達に伝える機会を作ってくれるのだ。
毎年10月の第二週、僕は薩摩川内市でその活動に参加している。
同窓生達は交代で一週間僕のすべてをサポートしてくれる。
日常まだまだ障害者の人達と関わる機会が少ない子供達にとっては、
きっと貴重な経験となっているだろう。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加できる社会をイメージしながら、
僕もいつも全力で取り組んでいる。
今日も小学校で子供達と素敵な時間を共有し、
今日の係の同窓生の車でホテルまで送ってもらった。
道中道端のコスモス畑に気づいた彼女は突然車を停めた。
僕をサポートして畑に入ると、
僕の手をとってピンク色のコスモスの花を触らせてくれた。
一面に薄いピンク、濃いピンク、コスモスが咲き乱れていた。
コスモス畑の向こう側では金色の田んぼが広がっていた。
金色?と聞き返す僕に、
彼女は自信をみなぎらせながら金色と復唱した。
豊かな秋の風景が豊かな時間の中にあった。
こうして故郷の子供達に出会うようになって11回目の秋となった。
出会った子供達の数はもう1万人を超えているらしい。
秋の風を感じながら、この活動を支え続けてくれている同窓生達に心から感謝した。
(2015年10月14日)

耳の力

朝、団地からバス停までの歩道、
あちこちで虫の鳴き声が聞こえた。
空からは小鳥のさえずりも聞こえた。
昨夜久しぶりにほんの少し降った雨が、
自然界の生き物たちにはプレゼントになったのだろう。
その鳴き声から喜びが伝わってくるようだった。
白杖の僕もなんとなくうれしい気分で横断歩道にさしかかった。
この横断歩道には信号がある。
僕は赤信号で停車したエンジン音が青信号で動き出すのを手がかりで渡る。
いや耳がかりかな。
東西の交通量はそれなりにあるのだけれど南北は少ない。
今朝は南北の音がまったくなかった。
休日の早朝のせいだったのかもしれない。
たまに通過したり停まったりする東西の音だけでは、
青信号のスタートまでは把握できない。
尋ねられる通行人もいない場合、
最終手段は信号無視だ。
一切のエンジン音が近くにないことだけを確認して渡る。
最近はエンジン音の小さな車も多いから慎重に判断しなければならない。
耳の聞く力を全力にしてトライする。
今朝も成功した。
いや失敗は許されない。
横断歩道を渡ってまた歩き出したら、
さきほどの虫や小鳥のさえずりが再び聞こえてきた。
人間の耳って凄いな。
実際にはずっと続いていたはずなのに、
僕の耳はそれを受け付けないでエンジン音だけを聞いていた。
当たり前なのかもしれないけれど、
耳の力に感動しながらの朝となった。
(2015年10月12日)

四条大宮

四条大宮は道幅が細いのだが自転車の通行量は多い。
ちなみに、僕が自転車とぶつかって初めて白状を折ったのもここだった。
所謂難関地帯なのだ。
僕はバスを降りて慎重に歩き始めた。
しばらく東の方向に歩くと白状の音が微かにこだまする地点がある。
そこで北に向くと細い路地を通ってバス停に向かうことができる。
ちょっと近道だし自転車も通らない。
ただ通り抜けた先がお店のすぐ横になる。
そこから進路を変更してバス停の点字ブロックまでたどり着くには
もう一仕事ということになる。
進路変更の場所は数十センチの範囲だから、
そこを探すには集中力を高めないといけない。
行き過ぎれば車道に飛び出るということになってしまう。
とても危険な場所なのだ。
今日もお店の横で方向を変える場所を探そうとしたら、
「お手伝いしましょうか?」
女性の声がした。
こういう場所での声は天使の声だ。
僕はすかさずバス停までのサポートをお願いした。
彼女も途中まで一緒のバスだった。
僕は安心して移動しバスに乗車した。
そして空いてる席に座らせてもらった。
本当にうれしくて、僕はいつものように「ありがとうカード」を渡した。
僕が見えていた頃、
白杖の人に声をかけるなんてできなかった。
声をかけていいのか、
声をかけること自体が失礼ではないのか、
何と声をかければいいのか、
あれこれ考えて、結局何もできなかった。
それは視覚障害者だけではなく、他の障害者の人にも同様だった。
差別とかの気持ちはなかったはずなのだが、
無意識に区別していたのは事実だろう。
僕が見えなくなってからのこの18年を振り返ると、
声をかけてくださる人は少しずつかもしれないけれど増えている。
視覚障害の友人達に尋ねても同じように感じているようだ。
悲しいニュースは後を絶たないけれど、
社会が豊かになってきているのも事実だ。
成熟ということなのかもしれない。
しかも声のかけ方も堂々としていてセンスがある人が増えている。
「お手伝いしましょうか?」
何度聞いても美しい響きの言葉だ。
声をかけてもらう僕も素敵にサポートを受けられるようになりたい。
(2015年10月7日)

行進

もう10年くらい前になるだろうか、
たまたま偶然、僕は彼と出会った。
学年は僕がひとつ上なのだけれど、
僕達は同じ故郷の小学校の卒業生だった。
鹿児島県阿久根市立阿久根小学校、
当時でさえ人口3万人くらいの小さな自治体だから、
その卒業生がこの京都で出会うというのは奇跡みたいなものだろう。
それから数年に一度くらいのペースで会っている。
彼は僕を先輩と言いながら立ててくれるのだけれど、
ランチの会計は受け持ったりしてくれる。
僕はちょっと困った先輩なのかもしれない。
今日はたまたま彼が暮らす宇治市で視覚障害者のイベントがあった。
毎年京都府南部の視覚障害者が集まって、
どこかの地域で白杖で行進をするのだ。
今年はそれが宇治市だった。
彼はいろいろな活動をしていて多忙さは知っていたので、
ダメ元で一緒に行進しないかと声をかけてみた。
彼は引き受けてくれた。
僕は彼の手引きで行進に参加した。
「自転車は歩道ではスピードを落とそう!」
「ながらスマホはやめよう!」
「点字ブロックの上にものを置かないでください!」
僕達は声をひとつにしながら歩いた。
視覚障害とは何の関係もない彼も、
僕達と一緒に声を出していた。
僕はなんとなく不思議で、そして幸せだった。
僕達は子供の頃同じ景色を見て育った。
50年前、あの海に落ちる美しい夕日をそれぞれに見ていたのだろう。
僕と彼との接点はただそれだけだ。
ただそれだけで人間同士はつながることができる。
やっぱり人間って素晴らしい。
(2015年10月4日)

東新宿のホテルにて 2

研修三日目の朝を迎えた。
だいぶ疲労感も大きくなってきているのだろう。
あくびをしながらベッドから起きだしてパソコンでラジオをつける。
当たり前だけど天気予報は関東バージョンだ。
昼間は25度を超えそうとのこと、ちょっと気分も重たい。
一息ついてからシャワーを浴びる。
それからホテルに備え付けのポットでお湯を沸かす。
コーヒーはお気に入りのスティックに入ったインスタントコーヒーを持参している。
お湯を注いだ時の香りでなんとなくほっとする。
コーヒーを啜りながらメールチェックをする。
届いた中に教え子からの短いメールがあった。
「キンモクセイが咲きました。もうすぐ小道がオレンジ色のカーペットになります。
ただそれだけです。」
コーヒーと一緒に幸せな気分がのど元を通り過ぎる。
よし、今日も頑張るぞと研修会場に向かう。
受講生が朝の挨拶をしてくれる。
「昨夜、お月様を眺めました。スーパームーン!とっても美しかったです。」
彼女の笑顔で僕も笑顔になる。
見えない僕に自分が見えている感動を伝えてくださる人がいる。
それは僕の目になってくださっているということ、
しかもその目はとてもやさしい眼差しを持った目なのだ。
(2015年9月29日)

東新宿のホテルにて

目が見えなくなった時、
僕はもう何もできなくなるのではないかという不安に戦いた。
苦しさ、悲しさ、辛さ、怒り、様々な感情が渦巻いていたのかもしれない。
いら立っていたような気もする。
それを乗り越えるような強靭な精神も持ち合わせてはいなかったし、
ただ逃れられない運命みたいなものと向き合っていたような気がする。
いつなのかどれくらい時間がたった頃なのか、それさえ判ってはいないのだけれど、
気がつくとなんとなくあきらめられた自分がいた。
あきらめるというのは人間の持っている力のひとつなのかもしれない。
あきらめてから15年以上の時間が流れた。
今夜、僕はこれを東新宿のホテルの一室で書いている。
京都から一人で来て四日間の研修に参加している。
目が見えている頃と同じように、いやそれ以上に行動範囲は広くなった。
今日の研修を終えて、夕食をとりながら歩行訓練士の仲間達と未来を語り合った。
僕がこうして白杖で歩けるようになったのは歩行訓練士のお蔭だ。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で歩ける国になったらいいな。
今僕がこうしているのはたくさんの支援があったからだと実感した。
そしてあらためて感謝した。
(2015年9月28日)