空が大泣きしている朝、先輩の訃報が届いた。
僕は先輩とは直接話をしたことはなかったが、
語り継がれたエピソードは幾度か耳にしていた。
先輩は百歳を超えて人生を終えられた。
先天盲の先輩は見えない世界を百年生きてこられたのだ。
点字ブロックも音響信号もパソコンも携帯電話もなかった時代、
様々な災害だけではなく戦争という歴史も刻んだ時代、
先輩は何を見つめて、どこを目指して歩いていかれたのだろう。
断片的に想像するだけでも気が遠くなる。
その先輩たちの思いが今につながっていることは間違いない。
見えなくなった時、僕は何を考えていたのだろうと思うことがある。
思い出そうとしても思い出せない。
見えなくて生きていくという事実と向かい合いながら、
自分自身の価値が壊れてしまいそうな恐怖に襲われた。
挫折感だったのかもしれない。
幸せの意味を探し続けたような気がする。
憶えていないということは探せなかったということなのだろう。
探せなくても生きていけるのだ。
大義名分は見つからなくても生きてこられたのだ。
目先のささやかな灯を求めて日々を重ねていく。
日めくりをめくるように、僕も百歳まで生きていきたいな。
(2020年7月15日)