幸せな一日

今出川にある同志社女子大学の正門を入ったところに栄光館がある。
外観はレンガ造りの古い建築物で国の登録有形文化財に指定されているらしい。
そこのファウラーチャペルでは毎日礼拝が行われている。
その礼拝で僕は毎年奨励の機会を頂いている。
基本的には牧師がやっておられるのだが、時々いろいろな世界のいろいろな立場の人に機会をくださるのだ。
奨励というのはキリスト教では「短めの説教」という意味もあるらしい。
実際に僕が話をする時間は8分間だ。
雑念を捨てて心を落ち着かせる。
静かに湧き出てくる言葉を紡ぐ。
それしか方法はない。
この場所の厳粛で暖かな空気はそれを可能にしてくれるから不思議だ。
前奏のパイプオルガンの重奏な音色が少しずつ会場を飲み込んでいく。
音色は僕の心の中までも清らかにしてくれるのを感じる。
昔、来日されたヘレンケラー女史がこの場所で講演されたという歴史を噛みしめる。
自然に背筋が伸びるのを自覚する。
今回の讃美歌はきよしこの夜だった。
ふと笑顔になった。
僕はグレー一色の目の前をしっかりと見つめて話をした。
何を話したのか、恥ずかしながら記憶はない。
ただ、視線の向こう側の未来に向かって話したのは間違いない。
奨励を終えて会場を出た。
そのタイミングで学生さんが声をかけてくれた。
小学校の時に僕の話を聞いてくれたらしい。
10年ぶりの再会は笑顔の握手になった。
学生さんはまゆきという名前だった。
漢字を尋ねたら「舞雪」だった。
ちっちゃなクリスマスプレゼントをもらったような気分になった。
宗教部事務室に戻るとコーヒーを入れてくださった。
ここのコーヒーはいつも美味しい。
いいコーヒー豆をチョイスしておられるのだろう。
次の予定は13時からの中学校での人権講演だった。
1時間半の間での移動と昼食、タイトだ。
スムーズにいかなかったら昼食抜きということになるが、どこかでそれを覚悟していた。
僕は少し勇気を出してお願いしてみた。
「帰路、駅の近くの飲食店まで案内して頂けませんか?」
彼女は快く引き受けてくださった。
残りのコーヒーを飲みながらあれこれお店を吟味している途中だった。
彼女が突然、大学の食堂でのランチを提案してくださった。
思いもかけぬ展開だった。
初めて出会った全盲の僕をサポートしての食事、それを申し出るには大きな勇気が必要だったはずだ。
揚げたての梅しそいわしフライ、ポテトサラダ、ほうれんそうのお浸し、御飯とお味噌汁、最高のランチとなった。
値段は590円、美味しさも相まって、けちん坊の僕は満面の笑顔となった。
彼女は人事異動で今年度から担当となった方だった。
僕の図々しさもあったのかもしれないが、真心で接してくださった。
僕は感謝を伝えて駅に向かった。
中学校の人権研修、いつものようにいい時間だった。
これからの時代を創っていくであろう生徒達と一緒に未来を考えた。
帰路、地下鉄を乗り継いで山科駅に着いた時だった。
ラッシュの時間だった。
「込んでいるから一緒に行きましょう。」
若い女性が声をかけてくれた。
堂々としていながらとても爽やかだった。
彼女はバイトの時間にギリギリと言いながら、JR山科駅の改札口まで送ってくれた。
その間の数分間、僕達はいくつかの会話をした。
目が見えないのにどうして前向きで生きていけるのかと尋ねられた。
彼女の質問はどれもストレートで、そこにはぬくもりがあった。
僕は改札口で彼女にありがとうカードを渡して別れた。
「うれしいー。スマホに入れておくね。」
彼女の笑顔を背中で感じながら僕は駅のホームに向かった。
駅のホームには今年一番冷たいと感じる風が吹いていた。
点字ブロックを白杖で確かめながら、僕は一歩ずつ進んだ。
すぐ横に線路があると思うといつも怖くなる。
こうしてこの怖さの中で歩けるのはどうしてだろう。
ふと自分に尋ねた。
そして、今日出会ったやさしい人達に心からの感謝を感じた。
僕はありがとうってつぶやきながら、また歩いた。
(2025年12月13日)