3割

この国の一部の人達はもうゴールデンウィークに突入しているのだけれど、
学校はカレンダー通りだ。
僕は午前中は福祉専門学校、午後は龍谷大学での講義だった。
朝8時過ぎに家を出て18時半に帰宅、
バス、阪急、地下鉄、近鉄、京阪、
10あまりの公共交通機関を乗り継いだことになる。
今日の講義では、
ペアになった学生達の片方がアイマスクを装着してサポートの方法を実習した。
学校の建物内での実習だったけれど何人もの学生が恐怖を感じていたようだった。
僕も見えなくなって訓練を受けていた頃、
確かにどこかで恐怖心との闘いをしていた。
あれから18年くらい経過したけれど、
今でも恐怖心が0になったことはない。
いつでも心の中にある恐怖心と仲良くお付き合いしながらの外出だ。
それでも外出するのは社会に参加したいという本能みたいなものなのだろう。
だからこそ、いろいろな場面でのサポートの声はただ助かるというだけでなく、
心までがほっこりする。
今日も京阪丹波橋駅で迷いかけてる僕に女性が声をかけてくださった。
以前その地域の小学校での講演を子供達と一緒に聞いていてくださった保護者の方だ
った。
反対側のホームの電車に乗るとおっしゃっていたので、
僕のサポートをしたためにきっと一本遅れてしまっただろう。
それでも彼女はしっかりと手伝ってくださって、そして笑顔だった。
阪急河原町の駅では二人の女性が声をかけてくださった。
学生時代に僕の講義を受講していた人達で、
二人とも今は福祉の現場で働いているとのことだった。
笑顔で握手をして別れた。
最後に桂駅に到着してバスターミナルへ移動していたら、
女子高校生が声をかけてくれた。
小学校での福祉授業で僕の話を聞いてくれたのだそうだ。
妹も話を聞いたとのことだった。
中学生の頃も駅で僕を見かけてサポートしてくれたらしい。
「今度サポートしてもらう時はきっと大学生になっているね。」
妹と二人分のありがとうカードを手渡した僕に彼女は素敵に微笑んだ。
もちろんその時間、僕の心の中の恐怖心は眠っていた。
どんなに設備が整い、機械の音声ガイダンスが流れる中でも、
恐怖心が眠ることはあり得ない。
未来はやっぱり人間同士が支え合う社会の向こうにあるのだろう。
それにしても10回の移動場面で3割のサポート、
野球だったらなかなかの数字なんだけどなぁ。
(2015年5月1日)

邑久光明園

30歳代の後半だっただろうか、
寝る前にニュースステーションという報道番組を見るのが日課だった。
そのニュースの中でハンセン病という病気を知り、
長年国が隔離政策を実施していたことも知った。
そして患者さん達の辿った過酷な運命に衝撃を覚えた。
その場所を訪ねてみたい、
患者さんに直接話を聞いてみたいと思いながら、
時間は流れて、いつのまにか思いも風化していった。
まさか実際にそこに行ける日があるとは、
そこで生きてきた人と話せる日があるとは思わなかった。
邑久光明園でボランティア活動を続けている友人達に誘われたのは
僕にとってはまさに感謝の一言だった。
JRで相生まで行き、そこから先は友人達の仲間の人が車を出してくださった。
乗り心地のいい車で潮風に乗ってのドライブだった。
途中のドライブインでは海の香に包まれながら、
大好きなタコメシをほおばった。
僕自身の一日が穏やかな平和な春の中に存在していた。
人間回復の橋と名付けられた橋を渡って邑久光明園に着いた。
小さな島にある小さな橋を渡り切ったところで、
僕の心はなぜか重たくなっていた。
見てはいけないものを見るような、
聞いてはいけないことを聞くような、
そんな感じがあったのかもしれない。
患者さんは被害者で不幸な人というイメージが出来上がっていた。
邑久光明園では少年時代から60年余りそこで暮らしてこられた男性と、
2時間ほどのんびりとお茶を飲みながら過ごした。
いろんな話をした。
いろんな話を聞いた。
「貴方をここに強制的に連れてきた日本という国をどうおもいますか?」
僕は意を決して尋ねてみた。
彼は静かに笑っていた。
帰る間際、丘の上にある小さな建物に案内してくださった。
その島から逃げようとした人が収容された独房だった。
僕はその独房に入り、白杖を使って大きさなどを確認した。
僕の脳は何も反応しなくなっていた。
独房から出たら、
春風が僕の頬を撫でて通り過ぎた。
ツツジの花が咲いていた。
ウグイスの鳴き声も聞こえた。
やっぱりそこにも穏やかな平和な春があった。
車に乗り込み、島を離れようとした僕に、
「松永さーん!」
彼が大きな声で手を振ってくださった。
僕も手を振った。
「ありがとうございます。」
思いっきり手を振った。
僕達はどちらも笑顔だった。
どんな時でも人は幸せに向かって生きていくのだ。
生き抜いていくのだ。
久しぶりに出会った人生の先輩、
ありがとうございました。
僕も幸せに向かって頑張ります。
(2015年4月27日)

魔法の言葉

8時10分、京都駅の地下鉄中央改札口で待ち合わせだった。
通勤通学の時間帯とぶつかってしまい、
電車も途中の乗換駅も混雑していた。
僕はホーム一杯に膨らんだ人波の中、
点字ブロックを白杖で確かめながら恐る恐る歩き始めた。
「肘を持ってください。」
突然僕と同世代くらいの男性の声がした。
「ありがとうございます。助かります。」
僕は瞬時に彼の肘を持たせてもらい、
ホームからエスカレーター、そして改札口へと安全にそして安心して移動した。
改札口で彼と別れて、そこから地下鉄を乗り継いで京都駅へ向かった。
サポートがあると時間もだいぶ節約できる。
彼のお蔭で予定の時間よりも早く到着できた。
友達を待つ間、のんびりと穏やかな気持ちだった。
助けられるということは、
ただ助かるということだけではなくて、
心までがあたたかくなる。
そして、ありがとうございますという言葉が自然に出てくる。
ありがとうございますを口にするたびに、
僕自身もやさしくなれるような気がしている。
「ありがとうございます。」
魔法の言葉かもしれない。
(2015年4月23日)

予感

今日は宇治市視覚障害者協会の総会だった。
僕は京都府全体の視覚障害者協会の役員をしているので、
毎年府下の視覚障害者協会のいくつかの総会で挨拶をしたりするのだ。
一応来賓という扱いになるので慣れないネクタイ姿で出かける。
今朝もバタバタして準備をした。
ハンカチや携帯電話や財布などの確認をした時、
小銭入れが膨らんで重くなっているのに気付いた。
いつもは気にも留めないことなのに変なことに気づくなと思ったが、
時間もなかったのでそのままポケットに押し込んだ。
雨も降っていたし早めに出かけようという気持ちがあった。
久しぶりの宇治市では仲間達と交流し楽しい時間を過ごした。
総会の後は宇治川の近くで春の風に吹かれた。
平等院鳳凰堂の参道では宇治茶を煎じる香りに包まれて歩いた。
忙しい合間だったけどのんびりとしたひとときだった。
満足して帰路に着き、桂駅に着いたのは17時だった。
改札口を出てしばらく歩いたところで
「あしなが募金が立っています。」
同行していたサポーターが教えてくれた。
その瞬間今朝の小銭入れの状態の記憶が蘇って愕然とした。
僕は見えている頃児童福祉に携わっていた。
失明して退職したけれども
ささやかでもいいから子供達を応援したいという気持ちはあった。
でも失明後しばらくは無職だったし、
社会復帰したその後の人生でも自由業を選択してしまったので
高所得者にはならなかった。
自ら選んだ人生で納得はしているのだけれど
貧しさとはすっかり友達になってしまった。
それに元々意思も弱いタイプだし持久力もない。
それで悩んだり悔いたりしないために二つのことを決めた。
貧困で教育を受けられないフィリピンの小学生を毎年一人だけ学校に行かせること、
あしなが育英会の募金に遭遇したら小銭入れの中身をすべて寄付すること、
この二つを一生続けること。
これならなんとか僕にもできそうだし続けられる。
小銭入れにコインがなかったら千円札1枚というところまで決めていた。
それなのに、朝の小銭入れの状態を思い出して一瞬たじろいだ。
このたじろぎがいかにも小市民の僕らしい。
気合を入れて小銭入れのチャックを開けて、
すべてのコインをサポーターの手のひらに乗せた。
サポーターはわざわざ数えて4千円近くあると教えてくれた。
募金箱を持っていた青年に
「やられたなぁ。どうして今日立ってたの!」
僕は訳の判らない独り言をつぶやきながら
コインを募金箱に入れた。
うなだれそうになっている僕の後ろ姿に向かって
「ありがとうございます。」
青年のはっきりとした大きな声が追いかけてきた。
心のこもった声だった。
単純な僕はその声だけで元気を取り戻した。
それにしても不思議な予感ってあるんだな。
もしこの予感が宝くじ売り場の前で発揮できたら、
今度は札束を寄付します。
きっとします。
いやたぶんします。
おそらく、ひょっとしたらします。
いやいや、するかもしれません。
不安になってきたので、当たってから決めます。
(2015年4月19日)

日本語が好きです

ニュースで報じているように外国からの観光客が増加しているようだ。
毎日たくさんの外国人と遭遇する。
時々周囲がすべて外国語になってしまうこともよくあるようになった。
今日も地下鉄の階段を降りはじめた僕の後ろに、
にぎやかな中国のおばちゃん達が近づいてきた。
僕は自然にスピードをあげて動こうとした。
前方の人に白杖が当たった。
いつものように「すみません」と謝る僕に、
返ってきた言葉はスペイン語らしき言葉だった。
外国人に挟まれるような感じでゆっくり歩いたが、
また白杖が前方の人に当たった。
「すみません」に返ってきた言葉はやっぱりさきほどと同じ外国語だった。
もちろん意味は判らなかった。
困ったなと固まった瞬間、
「ゆっくりと一歩だけ降りてください。」
右後方からの若い男性の声だった。
「ありがとうございます。」
僕は一歩降りた。
「また一歩だけ降りてください。」
彼は僕と前方との距離を測りながら一歩ずつ誘導してくれた。
最後の段を降り切った時、
「終りました。もう大丈夫です。」
彼はその言葉だけを残して雑踏に消えた。
後ろから追いかけてきた中国のおばちゃん達の大きな話し声と笑い声に包まれて、
僕は彼がどちらに動いたのかさえ判らなくなっていた。
僕は心の中でありがとうございますとつぶやいた。
日本語っていいなと感じてしまった。
異国から脱出したような気分になっていた。
外国語が判らないからではありません。
やっぱり日本語っていい感じです。
(2015年4月16日)

すみません

見えない僕が外を歩けるのは白杖があるからだ。
白杖を右手で持っておへその前にまっすぐに差し出す。
そして自分の幅よりも少し広めに左右に振りながら歩く。
点字ブロックがある場所では白杖と片方の足で凹凸を感じながら歩く。
白杖はしょっちゅう前方の何かに当たる。
何かが何なのかはほとんど判らない。
一瞬の触覚で判断はできない。
音にもいつも気をつけて歩く。
でもこれにも限界がある。
人の多い場所、音のうるさい場所ではどうしようもない。
結果、白杖が通行人の足に当たってしまうこともある。
申し訳ないと思う。
だから僕は、当たった瞬間謝ることにしている。
「すみません。」
毎日何十回も謝る。
時には電信柱やゴミ箱、不法駐輪の自転車にも謝っているらしい。
いやそちらの方が多い。
最初の頃は恥ずかしさ、照れくささみたいな感情があったが今は平気になった。
見えないから当たり前と開き直ってしまったのかもしれない。
そしていつの頃からか、
しっかりと「すみません。」と声を出して歩く自分が好きになった。
そして「すみません」も「ありがとう」も、
口に出すほど幸せな気分になれる言葉だということも発見した。
見えなくても豊かな人生をおくりたい。
(2015年4月11日)

ウグイス

洗濯物を干すためにベランダに出た。
目が見えないからいろいろなことを家族にしてもらっていると思われがちだが
現実にはたいていのことは自分でやっている。
目が見えていた頃よりも自分でやることが増えたかもしれない。
例えば洗濯した衣服を自分で片づければ、
どこに片づけたかを記憶できる。
次回取り出す時に自分で準備できる。
その方が合理的だから自分でやるようになった。
洗濯機には点字の操作案内が付いているので問題なく使える。
手洗いなどの特別なメニューを選択したりする時は家族に手伝ってもらうし、
洗剤を選ぶのも頼んだりする。
僕はどんな洗剤でもいいのだけれど、
家族は加齢臭対策にすぐれたものを選ぼうとするから笑ってしまう。
洗濯ものを干し終えて部屋に入ろうとしたら、
ウグイスのホーホケキョという見事なさえずりが聞こえた。
僕が洗濯物を干すのを見ていてくれたのかもしれない。
ご苦労様と言ってくれたのかな。
今僕は春の中にいるのだなとうれしくなった。
(2015年4月7日)

新年度

二か月ほど前に買っておいた新しい靴を、
4月の始まりに合わせて履き始めた。
自由業の僕にとっては
新しい年度にどれだけの仕事があるのかないのか判らない。
一年以上前から予約が入っている仕事もあれば、
一週間ほど前になって突然入ってくる仕事もある。
収入につながる仕事もあればそうでないのもある。
収入にならないことを仕事と呼ぶのは不自然なのかもしれないが、
いろいろな活動をする中でそういうことがあるのも知ったし、
その仕事がとても大切であることも判ってきた。
お金とは比較できないことのために活動できることを誇らしく感じることさえある。
どちらにしても仕事があるということは有難いことだ。
仕事をするということは社会につながる一番手っ取り早い方法だ。
感謝しながら新年度を迎え、
4月以降のスケジュールを確認してみたら、
3月までの半分がもう既に埋まっていることに気づいた。
見えなくなって何もかもを失ったと感じた時のことを思えば、
本当に幸せなことだ。
花散らしの雨でできた桜のジュータンの上を歩きながら、
気が引き締まるような感じがした。
また新しい出会いがあり、また心を震わす学びがあるだろう。
一歩一歩踏みしめながらしっかりと歩いていきたい。
今年度も宜しくお願い致します。
(2015年4月4日)

素敵に老いる

春休みのせいなのかイベントでもあるのか、
地下鉄の北大路の駅は多くの人だった。
僕はいつもより緊張感のレベルを少しあげて、
白杖で路面を強めにたたいて音を出すようにしながらゆっくりと歩いた。
周囲の人に気づいてもらうことで、
ぶつかるリスクが少なくなるからだ。
突然ご婦人が僕の腕を持って、
「一緒に行きましょう。」と声をかけてくださった。
僕はいつものように肘を持たせてくださいと言いながら、
瞬時に彼女の肘を持った。
一緒にエスカレーターに乗り電車に乗り、座席も隣同士で座り、
その間いろいろな話をした。
会話の途中で彼女が87歳だと知った。
彼女の姿勢、歩き方、会話の内容、
どこにもその年齢は感じられなかった。
僕は聞き間違ったと思って、再度聞き返したほどた。
元気の秘訣を尋ねたら、
粗食と鍛錬とおっしゃった。
今日もこれから体操に行くところとのことだった。
老いと実年齢はやっぱり違うものなのだなと痛感した。
何よりも、
いくつになっても社会に参加し、
そして誰かの力になろうとする生き方は素敵だと思った。
僕はこのままではヨボヨボの文句言いのジジイになりそうだから、
まずは精神の鍛練が必要なのかなぁ。
それに食べることは大好きだから、
粗食には耐えられないだろうしなぁ。
別れ際に、
「気をつけてね。」と言ってくださった彼女に、
「100歳を狙ってくださいね。
そして100歳になっても手伝ってくださいね。」
と伝えた。
「もちろんよ。」
彼女は笑顔でそうおっしゃった。
それを実現させるには、僕も後13年は一人で歩くということになる。
頑張ります。
(2015年3月29日)

季節外れのクリスマスプレゼント

一週間ほど前のことらしいが、
女優の杉本彩さんが
東京のFMラジオの番組で僕の著書を紹介してくださったらしい。
先日は大阪で活躍しておられるディスクジョッキーの寺平ヒロさんが、
やはり番組の中で同じように僕の著書を紹介してくださった。
僕は直接聞いたわけではないのだけれど、
リスナーの人が教えてくださってわかったのだ。
季節外れのクリスマスプレゼントをいただいたような気分だ。
とても有難いことだと思う。
その他にもこれまでに、
いくつかのメディア、新聞、出版物などの取材を受ける機会があった。
僕はたくさんの人に著書を読んで欲しいと思ってはいるけれど、
積極的に自分を売り込むような勇気はない。
情けないけどいつも受け身だ。
それでも時々、僕の活動を知ってあるいは著書を読んで、
僕の発信を手伝ってくださる人に出会えるということは有難いことだ。
講演などの機会もほとんどがそのたぐいだ。
幸運と言っていいのかもしれない。
そして最終的につながるのは、
著名人とかメディア関係者とか出版関係者とかということではなくて、
一人の人間としての生き方、考え方ということになるのだろう。
とにかく、見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が共に支え合って生きていく社会に賛同してくださっているということになる。
そういう意味では、
このブログを読んでくださり、またお友達に紹介してくださったりということも
同じような意味になるのだ。
一人一人に心から感謝申し上げます。
ちなみに9か月後の今日が今度のクリスマスイヴです。
(2015年3月24日)