紫陽花

堀川のバス停へ向かって歩いていた。
たまにしか歩かない道なのでいろいろな音を聞き分けながら慎重にゆっくりと歩いて
いた。
「どこまで行かれますか?」
小さな路地を確認して止まったタイミングに合わせるように
若い女性の声がした。
「交差点の近くのバス停までです。貴女はどこまでですか?」
僕は聞き返した。
「多分、同じバス停だと思います。」
結局、僕は彼女の肘を借りて歩き始めた。
100メートルほどの距離、
さっきまでの単独歩行の緊張感はお休みさせて、
のんびりとのんびりと歩いた。
どこの誰かも判らないまさに赤の他人だ。
勿論顔も判らない。
僕に判るのは優しい人間というただそれだけだ。
「紫陽花がとっても綺麗ですよ。青空みたいな色・・・。」
突然の彼女の言葉で僕は一気にうれしくなった。
僕は立ち止まって頼んでみた。
「紫陽花、近くにあるのなら触らせてください。」
紫陽花は近くどころかすぐ脇にあった。
僕の手を彼女がそっと持ち、
僕の指先がそっと花弁に触れた。
記憶の中の紫陽花が瑞々しい色で蘇った。
もう20年近くも見ていないのにはっきりと蘇った。
「本当に綺麗ですね。」
つぶやいた僕に
「少しは見えるのですか?」
彼女は問いかけた。
「いや全然見えないのですけれど、20年くらい前までは見えていたので思い出したの
ですよ。うれしいですね。ありがとう。」
僕達は笑った。
そして僕は空を眺めた。
確かに頭上には梅雨の晴れ間の紫陽花色の青空があった。
(2015年6月10日)

お腹いたの朝

目が見えなくても風邪もひくし体調が思わしくないこともある。
そんな日は外出するのがおっくうになる。
今朝はお腹が痛くてトイレにこもり予定のバスに乗り遅れた。
仕事に遅れるわけにはいかないのでタクシーを選択した。
最寄り駅までだったら1,300円程度かかる。
でももし移動中に駅でまたお腹が痛くなったらどうしようと不安になる。
見えないとトイレを探すだけでも一仕事になることもあるのだ。
ギリギリまで迷った後タクシーの運転手さんに行先の駅名を告げた。
最寄り駅ではなくて到着地の駅名だ。
いつもはバスと電車を四度乗り換えて1時間近くかかる場所だ。
車だったら電車より近道ということは知っていたけれども
どれくらいの時間と料金がかかるかは判らない。
腹痛に襲われた時の不安をとるか料金の不安をとるか
どちらにしても不安の中の朝となった。
乗車するなりおおよその所要時間を尋ねたら
時間は1時間くらいで料金は5千円までとのことだった。
尋ねていないのに料金まで教えてくださったのは僕の顔が不安そうにしていたという
ことなのだろう。
ちょっとほっとしながら僕はタクシーの中の時間をのんびりと過ごした。
幸いお腹の具合もいい感じだった。
結局料金は4,200円ほどだった。
想定内だったけれど何かとてももったいない気分だった。
朝からちょっと重たい気持ちを引きずりながら歩いていたら
「松永先生おはようございます。」
明るい可愛い女子学生の声が聞こえてきた。
爽やかな笑顔だった。
元気出せよとささやかれているような感じだった。
なんとなく背筋を伸ばしたら吹き抜ける風も感じた。
気分しだいで随分変わるものだな。
僕は元気を出して、お腹をよしよししながら教室に向かった。
(2015年6月4日)

岐阜大会

68回目を数える視覚障害者の全国大会、
今年は岐阜での開催だった。
会場には日本の北から南から見えない人、見えにくい人が集まった。
白杖を持った人、盲導犬を連れた人、サポーターと一緒の人、
飛行機で電車で観光バスで集まった。
決議文の採択での1300人の拍手の音は会場にこだました。
こだましながらそれぞれの頭上に降り注いだ。
こうやって先人達が時代を切り開いてきたのだなと感じて、
感謝で胸が熱くなった。
来年の青森での再会を誓って解散した。
先輩と二人で岐阜駅の改札口を入ったら、
ボランティアさんが声をかけてサポートしてくださった。
僕達のために待機していてくださったのだ。
ボランティアとか福祉とかいう単語がない頃から、
応援してくださる人達がおられたに違いない。
人間のやさしさも絶え間なく続いてきたということなのだろう。
今回の岐阜のボランティアさん、これまでのボランティアさん、そして来年の青森で
待っていてくださるボランティアさん、
本当にありがとうございます。
(2015年5月31日)

ちっちゃな講座

ちっちゃなちっちゃなボランティア講座だった。
タイミングが悪かったのか広報がうまくいかなかったのか、
たった5名の参加者だった。
奥様が視覚障害になったという初老の男性、
何かできることはないかと探しておられるような地域の女性、
実際にボランティア活動をしているけれどもきちんと学びたいという女性、
教師を目指しているという2名の男子大学生、
僕を含めて初めて出会う人達が、
講座が進むにつれて少しずつ打ち解けていった。
目が見えない講師の僕と目が見える受講生、
正しい理解がその距離をどんどん縮めていった。
講座の後の反省会では20歳過ぎの大学生が、
「誰かの役に立ちたい。」という感想を皆の前で言葉にした。
そしてその言葉がまたそれぞれの受講者の心に沁みこんだ。
こうして理解は広がっていくのだ。
この若者が教師になって子供達に出会う時、
僕達のことをどのように伝えてくれるのだろうか、
想像するとわくわくする感じだ。
人間が人間に伝える力が
未来を創造する大きな力となるのは間違いない。
ちっちゃなちっちゃな講座、
充実した一日となった。
(2015年5月27日)

言葉

ホームページの中にあるお問い合わせホームからメールが届く。
たいていは授業や講演の依頼だがたまに取材の申し込みなどもあったりする。
このホームページを始めたのは「見えない世界を伝えたい」がテーマなのだから、
そのどれもがとても有難いことだ。
そして時々ブログへの感想やメッセージが届くこともある。
自分で書いたものは読まないくせに届いたメッセージは何度も読み返すのが常だ。
何度も読み返すとひとつひとつの言葉が僕の肩をたたいてくれることもあるし、
行間にかくれていたやさしさを見つけてうれしくなることもある。
氏名を確認しても出会った場所を教えてもらっても僕の記憶はほとんど反応しない。
画像のない中での出会いでは仕方ないことなのだろう。
見えなくなって間もない頃はこの記憶力を悲観し
相手に対しても申し訳ないという気持ちが大きかった。
いつの頃からかそれも見えないことの副産物と納得するようになった。
そしてひとつひとつの言葉は僕の記憶がどうのこうのというレベルのものではなく、
間違いなく今の僕へのエールなのだ。
ホームページを介して贈る言葉と送られる言葉、
その言葉には性別も年齢も国籍もない。
人間のあたたかさだけが宿っている。
人間って本当に素敵です。
(2015年5月25日)

ピンク色の空

仕事帰りの電車の中、
ボランティアさんは夕暮れの空をピンク色と表現した。
僕は空のある方を見上げた。
頭の中一杯にピンク色が広がった。
平穏でやさしい気持ちになった。
もう見ることはないということは理解している。
もう見ることのない人生を特別に悲観したりすることもないし、
かと言って、障害を乗り越えたなんて自覚もない。
ただ仕方ない、どうしようもないとだけ思っている。
その気持ちとなんとか付き合えるようになったのだろう。
そして日常の何でもない場面で、
ふと前後の脈絡もなく思い出す色や風景。
それは願いの裏返しなのだろうか。
子供の頃、手に入れられないものを思う時、
そこには寂しさや口惜しさがあったのに、
今はそれはない。
それどころか、
思い出した瞬間さえ愛おしいと感じる。
見ることはなくても、
いつまでも思い出せる自分でありたい。
そんな人生でありたい。
(2015年5月21日)

尾道

朝食はのぞみのワゴンサービスのコーヒーとワッフルですませた。
福山でこだまに乗り継いで8時過ぎには尾道に着いた。
視覚障害者のサポートをするガイドヘルパーの研修にお招きいただいたのだ。
一泊二日でとの要望だったが
どうしても時間が取れずに日帰りにしてもらったので
自宅を6時前に出発して22時半に帰宅という強行軍になってしまった。
時々こういうことがあっても対応していっているので、
体力はあるということなのだろう。
僕達のことを伝える時、
僕達だけが適任とは思っていないけれど、
僕達が関わらないところで僕達のことについて取り組まれていくのはあまりいいこと
ではないと感じている。
だからこういう実際に福祉に関わる人達の研修会にも意欲的に関わっている。
そしていつもだいたい充実感みたいなものを感じている。
一期一会、今回もたくさんの人と出会った。
言葉をやりとりするだけでなく、
笑顔も交換し握手もした。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
それぞれが同じ未来を見つめる時間となった。
「今度はゆっくり旅行で来てくださいね。」
駅まで送ってくださったスタッフの言葉はやさしさに溢れていた。
またいつかきっと訪れてみたいな。
海を渡ってきた爽やかな風を感じながら心からそう思った。
(2015年5月19日)

まだおっちゃんのつもり

エレベーターは階段やエスカレーターなどのような段差はないので乗るのは簡単なの
だけれど、
ドアの開閉のタイミングや他の人との距離感には気を使う。
白杖で前方を防御しながらゆっくり動くのがコツだ。
今日も電車の乗り換えのために駅にあるエレベーターを待っていた。
僕以外にも数人の方が待っておられる雰囲気だった。
お母さんに連れられた幼い子供の笑い声も聞こえていた。
子供の笑い声は不思議なものでなんとなくその辺りの空気を柔らかくしていた。
エレベーターが到着してドアが開く音がした。
降りてこられた人達の気配がなくなったタイミングで、
「どうぞ乗ってください。」
若い女性の声がした。
「ありがとうございます。」
僕は安心して喜んで乗った。
たった数秒の個室の中でさっきの幼い子供の声がした。
「ママはおじいちゃんとおともだちなの?」
僕に声をかけてくださった若い女性が幼い子供のお母さんだったようだ。
お母さんは何も返事をしなかった。
エレベーターがホーム階に着いてドアが開いた。
一足先に降りた僕の後ろでお母さんが子供に話す声が聞こえた。
「おっちゃんはね、おメメが悪いのよ。だからどうぞって教えてあげたのよ。
白い杖はおメメが悪いってしるしなの。」
おじいちゃんはおっちゃんに訂正されていた。
ちょっと安心して歩き出した僕に、
とどめの言葉が追いかけてきた。
「ふうん、おメメが悪いおじいちゃんなのかぁ。」
幼い子供には僕が気になった部分は伝わらなかったらしい。
素敵な親子でした。
100点満点と言いたいところだけど、
90点にしておきます。
おじいちゃんにはもうちょっと時間があると確信している僕のプライドです。
でも、子供って正直って言うからなぁ。
これが続くようになったら無駄な抵抗はやめてあきらめることにします。
(2015年5月13日)

大学生

大学で僕が受け持っている講座は選択制だ。
希望する学生達だけが受講する。
一人でも多くの学生達に僕達の思いを伝えたいという気持ちはあるのだけれど
新年度が始まって受講登録が終わらないと
実際に受講する学生の数は判らない。
ドキドキしながらヒヤヒヤしながら新年度を迎える。
有難いことに今年度も学生達が集まってくれた。
どうしてこの講座を受講しようと思ったかを尋ねてみた。
18歳の若者達の気取らない飾らない素直な言葉がならんだ。
先輩に勧められた。
ゼミの先生に紹介された。
今まで見えない人と出会ったことがなかったから興味を持った。
盲導犬を見たことがあって興味があった。
障害のある人の役に立ちたいと思った。
当事者の声を聞いてみたいと考えた。
福祉の仕事につくかどうかは別にして、
サポートのできる人になりたいと思った。
以前駅で困っておられた白杖の人にサポートができなくて、
自分に悔しいと感じた。
誰かを助けられる人になりたい。
ひとりひとりの言葉が僕の胸に沁みわたった。
堂々とメッセージを発信している若者達をまぶしく感じた。
僕が18歳だった頃、
障害のある人とすれ違った時何を感じていたのだろうか。
感じないふりをしていたのだろうか。
そう思うと時代は少しずつ動いているのかもしれない。
見える人も見えない人も見えにくい人も共に笑顔で暮らせる未来に向かって
学生達と一緒に一歩でも前に進みたい。
(2015年5月9日)

子供の日

昨年末に父が他界して半年が過ぎた。
時は急ぐこともなく止まることもなく淡々と流れていく。
仏壇に手を合わせた後母と二人でお茶を飲む。
それぞれが歩いてきた人生のいくつかの岐路を懐かしそうに振り返る。
静かに振り返る。
親という立場で子供という立場で振り返る。
母は見えなくなった息子を眺めるのにも少しは慣れてくれたようだ。
記憶は突然20年ほど前を映し出す。
母は夜、布団の中で何度も泣いたらしい。
僕が失明した頃だ。
その頃の僕には父や母の思いに寄り添う余裕はなかった。
やっと言葉にできる日がきてくれたことにほんの少し安堵する。
時折流れる5月の風に乗せた言葉を父の遺影がそっと見つめる。
「かあちゃん、一日でも長く生きていてね。
ただ生きてくれているだけでいいから。」
58歳になった馬鹿息子が88歳の母に恥しげもなく懇願する。
「それはわからんなぁ。一日一日の積み重ねの先に寿命があるからなあ」
微笑んだ母が子供をさとすようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
(2015年5月5日)