街角を曲がって少し歩いたところで、
白杖を持つ手の感覚で点字ブロックに気づいた。
念のために足の裏にも集中したら、
やはり点字ブロックだった。
横断歩道があるのかなと、しばらく立ち止まって車のエンジン音を確認していた。
右側から近づいてきた車のエンジン音が止まった。
「今青ですよ。変わったばかりだから大丈夫ですよ。」
運転手さんが教えてくださった。
わざわざ助手席の窓を開けて、
僕に声が届くようにしてくださっているのも判った。
「ありがとうございます。助かります。」
僕は安心して横断歩道を渡り始めた。
声をかけてくださるということは、
見守ってくださっているということだ。
それはそのまま見えない僕が前に進む力になる。
音響信号の何十倍もの安心感があるから、
人間の声の力ってやっぱり凄いものだ。
横断歩道を渡り終えてしばらくして、先ほどの車が動き始める音が聞こえた。
僕はそちらを向いて頭を下げた。
僕も目は見えないけれど声は出る。
誰かのためになる声でありたい。
(2015念3月20日)

沈丁花

4時45分にセットした目覚まし時計は忠実にその時刻を知らせる。
もう少し眠らせてあげようかなどの配慮はない。
起きるという行動へのストライキでもしようかという思いが一瞬脳裏をかすめるが、
行動に移すだけの勇気もない。
ダラダラと起きだしてトイレと洗面をすませ、
コーヒーとシリアルの朝食をすませる。
6時にタクシーに電話して桂駅へ向かう。
7時過ぎの京都駅、結構な人が朝を始めている。
忙しい人も多いんだなと不思議な感じ。
企業戦士でもない僕は早朝に動かなければいけない会議が続くと閉口してしまう。
それでも行くのだから、どこかで大切な仕事と割り切っているのだろう。
午前中の総会と午後の研修会、高田馬場の日盲連を出たのは17時を過ぎていた。
玄関を出て数歩歩いたところで、
沈丁花の香の塊に出くわした。
ほとんど風もない夕方の状態、
きっと神様が置いてくださったのだろう。
粋なプレゼントだな。
香りの中で脳がぼんやりとした。
なんとなく笑顔になった。
(2015年3月16日)

20万回

来年度の準備などでバタバタする日が続いていて、
このブログへのアクセス数にも気づいていなかった。
当たり前と言えば当たり前なんだけど、
自分のホームページを自分で見ることはあまりない。
まして一度書いて発表したブログの文章などは自分ではほとんど読まない。
気恥ずかしさでいっぱいになるからだ。
一人でも多くの人にメッセージが届くようにとの願いだけで、
ただ書き続けているという感じだ。
今朝そのアクセス数が20万回を超えたと、
知り合いの人がメールで教えてくださった。
教えてくださったメールもうれしかったし、
その数もただただうれしく感じた。
2012年7月14日に最初のブログを書いた。
2年8か月で20万回のアクセス数になったということになる。
僕にとっては凄い数字だと思う。
子供の頃の宿題の絵日記、
夏休みが始まって数日でとん挫するのが常だった。
夏休みが終わる日に残りを必死になって書いていた記憶がある。
天気を書く欄にはウソばかり書いていたものだ。
日記だったらこんなに続けることは僕にはできなかっただろう。
読んでくださる人がおられるから続けてこられたのだ。
いろんな場所でいろんな機会にホームページを紹介している。
でも実際に覗いてくださるのは一部の人だ。
一度覗いて終わりという人もおられる。
それでも覗いてくださっただけでも有難い。
週に一度くらいとか一か月に一度くらいとか、
毎日という人はおられないだろう。
とにかくこの数は一定の発信力になっているということだ。
このホームページを覗いてくださった人、
ブログを読んでくださった人、
ありがとうございます!
本当にありがとうございます!
共感は未来を創造していく力となります。
そう信じて、これからも書き続けていきます。
(2015年3月13日)

さくらのCDを聴きながら

17歳の時に出会ったのだから、
もう40年以上の時間が流れたことになる。
遠く離れた場所でそれぞれの人生を歩いているのだから、
お互いの暮らしなどあまり深くは知らない。
いつも声を聞けば、あの若い頃の彼のひきしまった笑顔を思い出す。
見えなくなって僕が得をしているのか、彼が得をしているのか不思議な感じた。
その彼から先日も2枚のCDが届いた。
「さくら」と「卒業」というタイトルのCD、
彼がパソコンで編集したものだ。
ぶっきらぼうにただそれだけが届いた。
懐かしいメロディ、どこか耳に残っている最近の曲、
部屋の中に充満して、
最後には僕の心の隙間にもぐりこむ。
部屋の中を幻のさくらの花弁が舞う。
そんな時間がとても貴重だということが、
最近やっと少しわかるようになってきた。
今年もきっと、どこかに花見に出かけよう。
見えるとか見えないとか、たいしたことじゃない。
そこに存在し、そこで呼吸できること。
それはしあわせなことなのだ。
(2015年3月9日)

就活の大学生

電車に乗り込もうとしていた僕に気づいた駅員さんが、
僕の手を引いて空いてる席に案内してくださった。
手を引かれると身体は本能的に構えてしまうので、
あまりいいサポートの方法ではないのだけれど、
わずかの距離、しかも座席までの誘導なので僕はそのまま従った。
そして座席に座って感謝も伝えた。
誘導の技術はもうひとつでも、やっぱり座れると有難い。
目的の駅も確認してくださったので、
竹田で地下鉄に乗り換えの予定だけれど慣れているので大丈夫であることも伝えた。
駅員さんは納得して降りていかれた。
いくつかの駅を過ぎて次が竹田駅とのアナウンスが流れた。
リュックサックを背負いなおして準備を始めた僕に、
隣の席に座っておられた若い女性が声をかけてくださった。
「私も竹田で地下鉄に乗り換えるので、よろしかったらご一緒しましょうか?」
駅員さんと僕の会話で僕の乗り換えも知っておられたのだ。
僕はもちろん感謝してサポートをお願いした。
そして安心して歩けるように、今度は彼女の肘を持たせてもらった。
地下鉄でも隣同士に座った。
彼女は解禁になったばかりの就職活動に行く途中のようだった。
大学を卒業してこれからどう生きていくのか、
まさに人生を見つめているところだった
彼女は学生時代にドイツに留学した経験も持っていた。
ミュンヘンの近くだったらしい。
僕も若い頃、バックパッキングでヨーロッパを歩いたことがある。
ミュンヘンの時計台を見にも行ったはずなのに、
画像の記憶は完全になくなっていた。
そのくせ駅前の食堂で食べたソーセージやジャガイモは、
味も映像も記憶にあるから情けない。
そんなことを思いながら、若い人の息吹みたいなものを感じていた。
改札口までサポートしてくださった彼女に、
「素敵な人生を!」
僕はちょっと大げさだけど自然に言葉が出てしまった。
「ありがとうございます。」
彼女も笑った。
春が似合うなって思った。
(2015年3月5日)

阿久根の落陽

生まれ育った阿久根市出身の友人達と、
のんびりとした休日を過ごした。
僕がちょっとだけ年上だけど、皆ほとんど同じ世代だ。
優子ちゃん、幸子ちゃんと自然に呼びかけながら、
鴨川のほとりを歩いた。
それぞれが阿久根を離れて30年以上の時間が流れているのに、
故郷への思いは変わらない。
子供の頃歩いた道も出かけた場所も、
何もかもが一緒だ。
食べていたものまでもがほとんど同じなのには驚いた。
昭和40年代、まだ日本中が貧しかった頃、
子供達は子供達なりの夢を抱いて生きていたのだろう。
そして幸福という訳のわからないものを手に入れたくて、
大人になっても頑張ってきた。
「子供の頃普通に見ていた阿久根の海に落ちる夕日、最高だったね。」
ふと誰かがつぶやいた言葉に皆がうなづいた。
当たり前にあることの中に本当の幸せは隠れているのかもしれない。
阿久根の落陽、見えなくなった今でもはっきり憶えています。
そして思い出すと、とっても幸せな気分になります。
(2015年3月2日)

迷子

バスを降りて点字ブロックを確認する。
点字ブロックの突当りにあるコンクリートの壁を白杖で触りながら右へ動くと、
団地に入る道がある。
その道に入って10歩くらい進んだ地点で直角に曲がると、
道の反対側の壁をキャッチできる。
今度はその壁に沿って白杖を動かせば、
自然に右に曲がって僕の住む団地の建物に向かうことになる。
途中の小さな上りのスロープがほぼ中間地点、しかもその部分は金属で判りやすい。
その少し先は自転車置き場なので上手にクリアしなければいけない。
それからしばらく歩くと路面の材質が少し変化している場所がある。
そこで右に曲がればエレベーターがある。
左の壁を手で探れば、ボタンがある。
引っ越しして二か月、やっと自信を持って帰宅できるようになった。
出かける時はその反対に動けばいい。
今朝もいつものように出かけた。
いつもと違ったのは到着したエレベーターに先客がおられたこと。
気づくのが遅れて足を踏んでしまった。
すみませんと謝り、その方も返事をしてくださった。
ただそれだけだったのに、
どこかで僕の頭の中の地図が混乱したらしい。
途中で方向が判らなくなってしまった。
団地を出るまでのたった50メートルもない道での出来事だ。
しばらくあっちをウロウロ、こっちをウロウロ、
最終的には聞こえてくる車の音の向きを利用して脱出できた。
でも10分くらいはウロウロしたことになる。
またこの道を歩く自信を取り戻すのにしばらく時間がかかるのだろう。
見えない人は大変だなって他人事みたいに思ってしまう。
裏を返せば、こういうことで一喜一憂しなくなったということだ。
いつのまにか、見えない自分を受け入れているのだな。
そしてたまたま迷子になった日が寒くもなく雨も降っていなかったのは救いだった。
そういうことにしておこう。
後二か月もすれば、きっと鼻歌交じりで帰宅できるようになっているはずだから。
(2015年2月24日)

連鎖

電車のドアが開いた音を確認したら白杖で車体を触る。
そのまま白杖を動かして杖先が入り込んだところが乗車口のはずだ。
絶対と言えないのは電車の連結部の可能性もあるということで、
入口の床があるかは必ず確認する。
そこまで確認できたら、今度はホームと電車の隙間を杖先で調べて乗り込む。
たった数十秒の停車時間内に、
乗り降りする他の乗客の迷惑にならないように、
この作業を完結するのは結構高等技術だと思っている。
乗車したら、すぐに入口の手すりを探す。
本当は空いてる席を探したいのだが、触覚で探せるのは手すりくらいだ。
手すりを握った瞬間、安堵して溜息が漏れる。
今日もここまでの作業が無事終わりほっとしたところで、
「座りますか?」
高校生か大学生くらいの青年の声がした。
なぜだか判らないけれど、
バスに比べると電車の中で席を教えてもらうのはとても確立は低い。
「ありがとうございます。助かります。」
僕は喜びを全面にだしてお礼を言って座った。
久しぶりに座れた座席の座り心地をのんびりと楽しんだ。
電車が桂駅に着いた。
僕はこれまた慎重に電車から降りて歩き始めようとした。
「一緒に行きましょうか?」
またまた若い男性の声、
「さっき席を教えてくれた人ですか?」
彼は別人だった。
きっと同じ車両に乗り合わせて一部始終を見ていたのだろう。
「カッコ良かったですね。」
彼はさっきの青年をそう言い表した。
その結果として僕に声をかけることができたのかもしれない。
とても素敵なやさしさの連鎖だった。
僕にとったら、二人ともカッコいい青年だった。
僕は彼の手引きで改札口まで行き感謝を伝えた。
「僕は40歳まで見えていたのですが、
こうしてお手伝いすることができませんでした。
あなた方は素敵ですね。」
言葉がこぼれた。
「お気をつけて。」
背中から追いかけてきた彼の言葉は、彼が笑顔なのも伝えていた。
駅を出たら時雨模様だったが、僕の心はずっとポカポカしていた。
ふと出会ったやさしさの連鎖の結果だった。
(2015年2月19日)

僕は僕のスピードで

後で理解できたのだけれど、
バスはいつもの停車位置よりも数メートルだけ手前で停車したのだった。
バスを降りたらすぐあるはずの点字ブロックを見つけられなくて、
僕は白杖でその辺りを探し始めた。
それでも解決できなかったので、人の足音に集中した。
ほんの少し、足音が壁に響くような音が聞こえた。
地下からの音に違いない。
僕はそちらに向かって歩き始めた。
「階段ですよ。」
中年の男性の声がした。
僕が階段に向かい始めたので落ちるかもしれないと思われたのだろう。
僕は感謝の言葉と一緒に、階段を下りて地下鉄の駅まで行きたいことを告げた。
彼と方向は同じだった。
僕は彼の肘を持たせてもらって歩き出した。
「僕は65歳なんだけど、17歳の時の交通事故の後遺症で、
左手の握力は0なんですよ。」
彼はまるで世間話でもするように話した。
「ごはんんはどうやって食べるのですか?」
僕は自然に、
まるで講演会場の小学生が見えない僕に尋ねるような質問をしていた。
「最初はスプーンを使っていましたが、いつの間にか手に挟んでお箸で食べるように
なりました。友人は器用だなと笑ってますが。」
僕もうなづきながら笑った。
「人間って、それなりに工夫して生きていきますよね。」
僕達はそれぞれの人生のスピードと同じくらいの速さでのんびりと歩いた。
地下鉄に向かうところで彼と別れた。
握力0の手で生き抜いてきた彼を、
僕はなんとなくカッコいいと感じた。
不謹慎なのかもしれないけれど、
何故かそう感じた。
そして僕もあんな風にさりげなく、誰かの力になれる生き方をしたいなと思った。
(2015年2月18日)

カレー屋さん

見えなくなった最初の頃はいろいろな行動に勇気とかエネルギーが要った。
例えば道に迷った時、
聞こえてくる足音に向かって声を出すのもそれなりの気合を入れていたものだ。
見えない相手に話しかけるのは不安も大きかったのだろう。
慣れるということは凄いことでいつのまにか自然にできるようになってきた。
どうしてだろう。
今日のお昼も新しくインドカレー屋さんがオープンしたと知って、
食べてみたいなと思ってその辺りまで行った。
バス停の近くと聞いていたのでその辺りまでは問題なく行けたのだ。
僕の予想通り、道には微かにカレーの香がしていた。
ただ僕の鼻の力では、それだけでお店の場所を特定し入口まで行くのは無理だった。
どうしようかと立ち止まって鼻をピクピクさせていたら、
通りかかった外国人が声をかけてくださった。
彼はとっても下手な日本語で、何を言っておられるかは判らなかったけど、
僕を手伝おうとしてくださっているのは間違いなかった。
僕は外国語はまったくできない。
「カレー屋さん、カレー屋さん!」
僕の日本語を聞いた彼は、
OKと言いながらカレー屋さんの入口まで案内してくださった。
いつものように、
「サンキュー、ありがとう、おおきに!」
僕は伝えたいすべてを並べて頭を下げて、それから店に入った。
ほっとしながらお店に入り
「空いてる席を教えてください。」と尋ねると、
「ここはインド料理です。」とのたどたどしい日本語が返ってきた。
咄嗟にインド人が経営しているとの情報を思い出しながら再度挑戦。
それでもまた同じ返事、
僕は今度は手で自分の目を指さし白杖を持ち上げながら、
「目が見えません。」
店員さんはやっと理解できたらしく、
僕の手を引いて椅子の背もたれを触らせてくださった。
普通ならその流れで店員さんにメニューを尋ねるのだが、
彼と僕の語学力では厳しいと判断した。
僕は他の客席に向かって、
「目が見える人、メニューを教えてください!」
すぐに男性の声がした。
僕に伝わるようにゆっくりはっきり教えてくださった。
「ビジネスランチがスープ、サラダ、カレーにナンと飲み物がついて820円、
カレーは五種類から選べて、辛さも5段階・・・」
僕は普通の辛さのキーマカレーを頼み、飲み物はホットチャイにした。
テーブルの上の箱を手探りで見つけてスプーンやフォークも探し当てた。
コップの水は手の甲を使って確認するので倒したりこぼしたりすることはない。
小学校で子供と給食を頂くと、必ず誰かが、
「ほんまは見えてるんじゃないですか?」というくらい普通に食べている。
どうしても掴めなかったりしたら素手で掴む。
おいしく食べられればいいと思っているから他人の目も気にしない。
カレーの味はまあまあだったけど、チャイはとってもおいしかった。
胃袋も心も満足して立ち上がると、
さきほどの店員さんが今度は理解して動いてくださる。
レジの方に僕の身体を誘導し、おつりは僕の手のひらにしっかりと握らせてくださっ
た。
僕はメニューを教えてくださった男性にありがとうカードを渡して店を出た。
どうしてこういう日常が自然になってきたのか、
それは人間の社会にはやさしい人がたくさんいるということを学習できたからだ。
経験が自信に変化していったのだろう。
こんな風に感じながら生きていけるようになったのは、
これまで出会ったたくさんの人達のお蔭だ。
そしてまた今日も経験がひとつ増えた。
幸せがひとつ増えた。
(2015年2月13日)