ゴディバのホワイトチョコレート

滋賀県湖南市の中学校を訪れた。
僕はいつものように生徒達と向かい合った。
白杖の人を見かけたことがあるか生徒達に質問してみると、
見かけたことのある生徒はとても少なかった。
京都市内の中学校の生徒達に質問すれば、
ほとんどの生徒が見かけたことがあると答える。
あちこちの実情を知るようになって京都市が特別な感じということが判ってきた。
地方では白杖はまだまだ珍しいのだ。
地方で障害を持つ人が少ないわけではない。
どれだけ社会参加ができているかということになるのだろう。
出会う機会が少ないと当然人間同士として触れ合う機会は少なくなる。
触れ合う機会が少ないと学ぶ機会も少なくなる。
学ぶ機会がないとなかなかサポートの声はかけられない。
そうすれば障害を持った人達は出にくくなる。
悪循環ということだろう。
ただ、生徒達の柔らかな感性はどこで暮らしていても変わらない。
それは講演会場の空気が教えてくれる。
だからこそこうして生徒達に出会うということはとても意味がある。
「この街の未来を創るのは君達だよ。」
僕はメッセージを投げかけて講演をしめくくった。
帰りの電車の中で頂いたゴディバのチョコレートをゆっくりと噛みしめた。
ホワイトチョコレートの芳醇な味わいが口の中で溶けていった。
ふと学校から眺めた鈴鹿山脈の雪を思い出した。
3年前に出会った先生が、
次の一歩のために今回また僕を招いてくださった。
雪が溶けたら春が生まれる。
人間同士のぬくもりはきっと時代の冬も溶かしていくのだろう。
いつかこの街も白杖の人が当たり前に見られるようになるのだ。
春、待ち遠しいな。
(2016年2月16日)

神様

土曜日の午前中は金融機関での講義だった。
視覚障害者数は全国で31万人くらい、
つまり国民の0,3%にもみたない数だ。
行員さん達が日常業務で出会う客のほんの一部にしか過ぎないだろう。
それでも200名余りの参加者でとても熱心に受講してくださった。
僕がこの信用金庫の研修に関わらせていただくのはもう4回目になる。
企業コンプライアンスの高さも当然なのだが、
応対してくださる幹部職員の方々の人間的なあたたかさが
ひょっとしたら同じ未来を見つめているのかもしれないと感じている。
有難いことだ。
午後は朗読会の会場を尋ねた。
いくつかの文学作品が朗読されるのだが、
その中に僕のエッセイも入っていた。
京都市内に限らず、時々このような機会がある。
他に朗読される作品はいわゆる名作が多いので恥しい気持ちもあるのだけれど、
書いた立場からすればとても有難く光栄なことだと思っている。
言葉はそれぞれの人間の声に出会うことで新しい命が生まれる。
自分の作品なのに、朗読の声が心に沁みてくるから不思議なものだ。
下を向きながらこっそり拝聴して会場を後にした。
夜は山科区の自治会での講演だった。
どしゃぶりの雨だったので心配したが、
たくさんの住民の方が参加してくださった。
介護がテーマだったのだけれど、
障害も介護も病気やケガや老いの先にあり、
助け合う社会が必要ということでは共通点がある。
そんな話をして会場の皆さんと一緒に勉強した。
サポーターと一緒に移動したのだけれど、
さすがに一日に三ケ所での活動は疲れた。
駅で電車を待つ間もクタクタで立ったままでも眠れそうな感じだった。
電車が到着した。
サポーターは電車が結構込んでいるので立ったままになりそうだと僕に告げた。
僕はそのつもりで乗車した。
そしてつり革を握った。
その瞬間、「どうぞ座ってください。」
若い女性の笑顔の声だった。
「やっぱり神様っているんだなぁ。」
僕はそう心の中でつぶやいてシートに腰を下ろした。
こんな時だけそう思うからよくバチも当たるのですけれどね。
(2016年2月15日)

30万アクセス

1997年、病気が進行してほとんど見えなくなった僕は、
京都ライトハウスで様々なリハビリテーションを受けた。
内容は白杖での単独歩行、点字、日常生活の工夫などだった。
まだパソコンの訓練はなかった。
一般社会でもウインドウズ95、98などから広がっていったのだから、
それは仕方がないことだった。
結局、僕はそれ以後自力でパソコンの基礎だけを学んだ。
だいたい勉強は苦手意識があるので、
たいした学びにはならず、メールだけができるようになった。
視覚障害の友人の中にはワードもエクセルもできる人は多くいるし、
音楽をダウンロードしたりインターネットショッピングを楽しんだりしている人もい
る。
後輩の中にはスマホのいろんなアプリを使って生活をエンジョイしている人も増えて
いる。
そう考えると、僕はちょっと時代遅れの視覚障害者になってきているのかもしれない。
それでもメールというツールを手に入れたことで、
僕の見えない人生は大きく変わった。
見える人とも見えない人ともこのメールで文字のやりとりができるし、
メモ帳を使って記録もできるようになった。
そして、「書く」という仕事にもつながっていったのだ。
このホームページも目が見えなくて機械音痴という僕をサポートしてくれる管理者が
いてくださって成立している。
管理者は、僕が指定されたアドレスにメールすれば、
ここにアップされるようにホームページを作ってくださったのだ。
僕ができるのはそれだけだから誤字脱字の連絡があっても自分では修正できない。
スケジュールのアップなどもすべて管理者がしてくださっている。
ちょっと情けない実情だ。
ただ、発信していく媒体としては少しずつ成長しているのはうれしいことだ。
小学生から90歳を超えた人まで、
京都だけでなく日本のあちこちで、
いや日本だけでなくいくつかの国でもアクセスしてくださっている。
始めた頃は、ただ「見えない世界を伝えたい」という思い、願いだった。
一人でも二人でも読んでくださったらなというのが正直な気持ちだった。
ここまで読んでもらえるとは予想できなかった。
うれしい誤算だ。
そして、見える人だけでなく、見えにくい人や見えない人も覗いてくださっている。
「共感したり、教えられたり、励まされたりしています。
これからも、永く続けてください。楽しみにしています。」
30万アクセスのお祝いに届いた仲間のメールにはそう書かれていた。
光栄だと思った。
続けていきたいと強く思った。
僕の言葉が誰かの力になれるのなら、それは僕にとっても幸せなことだ。
ひょっとしたら、読んでもらうことで僕自身が励まされているのかもしれない。
(2016年2月10日)

あたたかな視線

バス停の近くにさしかかった時、
ズボンの右ポケットから小さな音で機械音声が聞こえてきた。
携帯電話だ。
僕の携帯は発信者が登録してある人の場合は氏名を機械音声で教えてくれ、
それ以外の場合は一般的な呼び出し音が鳴るようにセットしてある。
歩行中や公共交通機関などでは基本的には出ないことにしているのだが、
今朝は協会の会長からだったので急用だろうと思っって出た。
僕は携帯電話で会話をしながらゆっくりとバス停の方向に歩き出した。
いつもの距離感でバス停のだいぶ近くまで来ているのは判っていた。
突然誰かが僕の手をそっと握って、
バス停の点字ブロックへ誘導してくださった。
電話を切った僕はすぐに手の主へ感謝を伝えた。
「いつもはしっかりと歩いておられる姿を見ているのですけど、今日は危なっかしい感じだったので・・・。」
ご婦人は微笑みながらおっしゃった。
画像のない僕達はつい声をかけてくださる人だけを認識しがちだが、
きっとあちこちで、見ていてくださっている人がいらっしゃるのだろう。
いや数としてはそちらの方が多いのだろう。
街角や駅などで僕を見かけたけど大丈夫そうだったから、
あるいはサポーターと一緒だったから声をかけなかったという話はよく聞く。
白杖を持ち始めた頃はその姿を見られたくないような気持ちもあったけれど、
それは思い違いだった。
視線の多くはあたたかなやさしいものなのだ。
見守られているということなのだ。
凶悪事件が発生し悲しいニュースが報道されるたびに、
メディアは社会に警笛を鳴らす。
それを否定するつもりはないけれど、
社会のあちこちに日頃は気づかないようなやさしさがあるのも確かな事実だ。
だからこそ、見えない僕が街を歩けるのだ。
(2016年2月5日)

節分

朝、いつものように家を出た。
団地のエレベーターに乗り1階まで移動した。
それから自転車置き場の壁を探して、それを手がかりに歩道へ出た。
バス停を目指して歩き始めた。
すべてがいつものように動いていたのに、
歩き始めたら僕の心だけがどんどん変化していった。
僕はバスに乗るのをやめてわざと歩くことにした。
いつもなら時間の節約に、そして安全のためにという理由でバスを選択するのだが、
今朝の僕はそれを放棄した。
どうしても歩き続けたくなっていた。
ただ安全は大切なのでわざと一度立ち止まって背筋を伸ばした。
そして耳に気合を入れて、意識をしっかりと前に向けた。
歩くスピードは緩やかにした。
準備万端となって再度歩き出した。
まだちょっと冷たい空気の中でやさしい光が僕を包んだ。
ぬくもりのある光だった。
見えなくてもその光は感じられた。
冬は風の当たらないような陽だまりにそっとあったのだが、
今朝はそれが空から降り注いでいた。
団地を出てほんの少し歩いたところで僕はそれに気づいた。
気づいたらもっとその中にいたいと思った。
だから歩くことにした。
歩き続けても僕はやっぱり予想通り、光の中にいた。
春がきたんだ!
僕はうれしくなった。
(2016年2月3日)

仲間の講演

視覚障害者対象の研修会で視覚障害者の女性の講演を聞いた。
研修会場で話すのも聞くのも視覚障害者ということになる。
視覚障害者というのは目が見えない人と思われがちだが、決してそういう状態の人ばかりではない。
全く見えないという人もいれば、ちょっとしか見えないという人もいる。
ちょっとしか見えない人を「弱視」とか「ロービジョン」とか呼ぶのだが、
それは視力や視野の状態でそれぞれの見えにくさが発生するのだ。
進行性の目の病気だった僕は弱視の頃もあり、現在は全盲ということになる。
視覚障害の原因はすべて病気かケガなのだが時期はいろいろだ。
お母さんのお腹の中で病気になったから生まれつきという人もいれば、
高齢になってからという人もいる。
100人の視覚障害者がいてもそれぞれが微妙に違い、
100通りの見え方、見えにくさ、不便さが存在する。
そして100の人生があるのだ。
保育士の仕事をしているロービジョンの彼女は飾らない言葉で淡々と話をした。
見えにくい状態での社会との関わりについて話をした。
特に仕事に関してはきっと自分にもできることはまだまだあるというプライドと、
それがなかなか社会に伝わらなかった口惜しさも語った。
勿論、その中で見つけた喜びも紹介した。
そして進行する病気への不安も付け加えた。
言葉がゆっくりと会場にしみ込んだ。
決してハッピーな話ではなかったのに、
哀れみとか同情とかの感情は微塵も起こらなかった。
僕の心は何かあたたかくなっていた。
すがすがしささえ感じた。
それはきっと、彼女の生きている姿勢がそう感じさせたのだろう。
障害者同士だからということで、
お互いの悲しみや苦しみなどを理解しきることなんてできない。
でも、未来に向かって生きる人間の姿に共感はできるのだ。
僕自身の生き方も考えるいい時間になった。
(2016年1月31日)

凍てついた朝の声

凍てついた朝の空気の中を
僕は一歩ずつゆっくりと歩いた。
どこにどれくらいの雪が積もっているかとか、
路面のどこが凍っているかまでは白杖ではなかなか判らない。
慎重にゆっくり歩くしかない。
外出を断念するとかタクシーを利用するのも選択肢のひとつだと思っている。
幸い僕が暮らす京都では、そんな日は一年に数日しかないから助かっている。
今朝はいつもの横断歩道までいつもの倍くらいの時間をかけてたどり着いた。
足裏で点字ブロックを確認してなんとなく安心した。
車のエンジン音で信号の青を確認するのだが、
その作業をしようと思った瞬間、
「青になりましたよ。」
耳元で若い男性の声がした。
人の気配さえ気づいていなかったというのは、
転ばないように歩くことに神経を集中させていたのだろう。
「ありがとうございます。助かります。」
僕は御礼を言って横断歩道を渡った。
その後、その声の主がどちらに動いたのかも判らなかった。
横断歩道を渡り終えて、そこからバス停までをまた慎重に歩いた。
もう冷たさは感じなかった。
うれしいという思いが身体まで暖かくしてくれたような感じだった。
声の主が中学生だったのか高校生だったのかそれとも大人だったのか、
僕には判ってはいない。
判ったのは男性だということ、人間のぬくおりのある声だったということだけだ。
何も画像のない中で聞こえるやさしい人間の声、
これは僕達にしか味わえないのだろうけど、
本当に素敵ですよ。
心までがポカポカするのですから。
(2016年1月26日)

一輪の薔薇

15歳になった少女は、
僕の講演会に足を運んでくれた。
知り合ったのは彼女が4年生の時、小学校での福祉授業だった。
それから街頭での募金活動に一緒に立ってくれたり、
何度か会っている。
春から高校生、何かボランティア活動をしたいと申し出てくれた。
高校の勉強などもあるからどれだけ具体的なことになるかは判らないが、
そんなことを考えるように成長してくれていることをうれしく感じた。
身長も高くなっていたし、声もちょっと大人びてきていた。
プレゼントに渡してくれた小箱には、
折り紙で作られた一輪の薔薇が入っていた。
彼女の手作りだった。
そっと触れたら、僕の指先が薔薇の花弁を感じた。
見えない僕が感じられるように
彼女の指先が真心を織り込んでくれたのだろう。
講演会のテーマは「幸せ」だった。
僕は幸せは他人が決めるものではなくて自分の心が決めるものだと思っている。
目が見えるとか見えないということと「人間の幸せ」とは直接の関係はない。
ただ、錯覚をしてしまいがちなのは事実だ。
それは個人の問題ではなくて、社会の成熟度に起因しているような気がする。
一輪の薔薇、とっても幸せな講演会となった。
(2016年1月19日)

あいらぶふぇあのご案内

今日1月15日(金)から18日(月)の四日間、
大丸デパート京都店6階イベントホールで、
「あいらぶふぇあ」が開催されます。
僕が所属している京都府視覚障害者協会、
京都ライトハウス、
関西盲導犬協会、
京都視覚障害者支援センターの四つの団体が協力して毎年開催しているものです。
視覚障害を社会に正しく理解してもらうための大きな取組となっています。
京都市内の小学生が描いてくれた絵がたくさん展示してあります。
アイマスクをしてコーヒーをいただくような体験コーナーもあります。
舞台ではいろいろな発表や音楽などもやっています。
入場無料です。
ちなみに、17日(日)10時半から11時半は僕のトークもあります。
まあこれはいつもと同じですから、
あまり期待はできないものです。
イベントは最終日だけが17時までで、
それ以外は18時までやっています。
近くに来られた方、
是非覗いてください。
(1月15日)

車いすの青年

毎年たくさんの子供達に出会う。
小学校では福祉授業、中学校や高校では人権学習、専門学校や大学などでは講義とか
特別講演というような具合だ。
大学生などはもう子供ではないのだが、
僕にとったら子供や孫という感覚の世代だ。
今日は今年最初の小学校での福祉授業だった。
4年生38名、年齢で言えば10歳の子供達だ。
4年生の国語の教科書に視覚障害の話が出てくるのもあるのだろうが、
小学校からの依頼は4年生が圧倒的に多い。
視覚障害ってどんなことなのか、
どうして視覚障害になるのか、
視覚障害になったらどんなことが困るのか、
そして、人間の生きる力の素晴らしさとか人間の社会のあたたかさとか、
エピソードも交えながら話をした。
時々笑い声も聞こえる中で
90分余りの時間が過ぎていった。
この子供達に直接伝えられるのは今回だけだという思いがあるので、
僕はいつもいつのまにか必死になってしまっている。
でも、当たり前だけど、子供達の表情は見えない。
どれだけ伝わっているのか、
どんな風に伝わっているのかは判らない。
答えが出るのはこの子供達が大人になった時だろう。
ひょっとしたら何十年も先かもしれないと思っているので、
結局、自分を信じて取り組むしかない。
授業を終えて学校を出て、同行してくれたボランティアさんと地下鉄に乗った。
途中で車いすの青年が乗車してきた。
たまたま降車駅が同じでエレベーターで一緒になった。
エレベーターが地上に到着する寸前、
「松永さん。」
車いすの彼は小さな声で僕の名前を呼んだ。
エレベーターを降りたところで僕は彼に話しかけた。
「どこで出会ったのですか?」
彼は自分が通っていた小学校の名前と自分の名前を告げた。
4年生の時の福祉授業で僕の話を聞いてくれたらしい。
高校3年生になっていた。
10歳の時に出会って8年の時間が流れていた。
僕は少しかがんで、手を差し出した。
彼の手が僕の手を包んだ。
笑顔が交錯した。
歩けないということ、僕には判らない。
子供の頃から障害を持って生きていくということ、僕には判らない。
ただ、8年ぶりに街角で偶然に再会して、
名前を呼んでもらえること、
僕はただうれしく、幸せなことだと思った。
そして今年も、出会える一人ひとりに、
心をこめて語りかけていこうと思った。
自分を信じて語りかけていこうと思った。
(2016年1月14日)