新年

親というのは最後まで何かを教えてくれるものなのだろう。
57年も生きてきているのに、
自分の命に限りがあることをあまり意識していなかった。
呼吸が止まった父と向かい合った時、
初めてそれをしっかりと実感した。
時間に限りがあるからこそ大切にしなければいけないのだ。
18年ぶりとかの大雪が
新しい年の始まりの街並みを白色に染めた。
その白色に触ったら何か気持ちが落ち着いた。
18年前は、僕はきっと目で白色を見た。
ほとんど最後の映像だったはずなのに
いつどこで見たのか憶えていない。
見たかどうかではなくて、
見てどう感じたかが大切だということなのだろう。
そして、目で見ることも指先で見ることも、
もっと大げさに言えば心で見ることも、
結局は同じことなのだと18年という歳月が教えてくれた。
僕は僕であり続けるのだろう。
今年、また気持ちを新たにして、
しっかりと未来を見つめて生きていきたい。
(2015年1月2日)

引っ越し

父が亡くなり、残された母の近くで暮らしたいと考えた。
この近くというのは、僕がすぐにかけつけることができるくらいの近さだ。
元々同じ洛西ニュータウン内の団地で暮らしていたのだが、
僕が単独で行くには、親の団地は少し難しい場所にあった。
そこで、僕も母も引っ越しすることを決めた。
探せばあるもので、
洛西ニュータウン内の団地の同じフロアに、
2軒の空き家があった。
しかもエレベーター付だったのですぐに契約した。
両方の引っ越しが終わり10日が過ぎた。
以前の団地は見えている頃から住んでいて、風景という記憶があった。
家の中も、見えている頃の記憶が基本にあった。
今度の場所は近くを通ったことはあるのだが、風景の記憶はない。
建物の作り、部屋の配置、すべてが初めての場所だ。
慣れるということがこんなに難しいとは、予想以上だった。
目が覚めて、洗面はどちらの方角なのか考える。
洗面所にたどり着いて、水道の蛇口を探す。
歯ブラシの位置、タオルの場所、すべてが触覚での記憶だ。
記憶を重ねながら頭の中に地図を作っていく。
ひとつ間違うと、その地図が混乱する。
消しゴムで消してまたやり直す。
それを繰り返しながら、自信が芽生えてくるのだろう。
我ながら途方もない作業だ。
そしてその場所から外出するということ、至難の業だ。
白杖一本を頼りに歩く。
砂漠の中を方位磁石だけで歩くってこんな感じだろうか。
連日の特訓でなんとかバス停まで行けるようになった。
社会に参加したいという執念以外の何物でもない。
白杖の先にはきっと、僕の未来がある。
きっとある。
そう信じているから、努力嫌いの僕がチャレンジしていけるのだろう。
来年の年の瀬、鼻歌でも歌いながら歩いていますように!
(2014年12月28日)

クリスマスの青い空

地下鉄の駅の改札口をでて、点字ブロック沿いに歩いた。
地上に向かう階段の上り口に着くと一旦静止し、それから上り始めた。
階段の上り下りでは白杖を身体の前でななめにして使用する。
前から来る人とぶつからないように防御の姿勢となるのだ。
それから、白杖でひとつひとつの段を確認しながら登っていく。
最後の段を確認することでカラ踏みを防げる。
失明後の歩行訓練で専門家に教えてもらった技術だ。
不安もなく見えている時と同じくらいのスピードで上れるようになるのだから、
技術って素晴らしい。
だから僕は、見えなくなって間もない仲間には歩行訓練を受けることを勧めている。
せめて生活圏だけでも単独で動けるようになれば、
生活の質は随分向上するような気がする。
踊場を過ぎた時、
後ろから若いカップルが僕を追い越していった。
「空、きれいやね。」
女の子がつぶやくのが聞こえた。
階段の上の出入り口に空が見えたのだろう。
「そうやなぁ。」
男の子のどっちでもいいような返事が、
なぜか微笑ましく感じた。
クリスマスのせいかなと自分に言い訳をしながら、
残りの階段をきれいな青い空に向かって歩いた。
(2014年12月24日)

オレンジ色の山

昨日の早朝、うっすら積もった雪の道を踏みしめながら城陽市へ向かった。
来春、南部アイセンターという視覚障害者の拠点施設が城陽市にオープンする。
そこのボランティア養成講座の講師の仕事だった。
10人くらいの視覚障害者の仲間が集まった。
そして、20人足らずの中高年のボランティア希望の人達が集まってくださった。
皆熱心に学ばれていた。
今朝は昨日より30分早く、7時前には家を出た。
羽曳野市にある四天王寺大学での講義が一時限目だったからだ。
20歳前後の100名近くの学生達が受講していた。
両日とも寒い冬の早朝からの出発、
場所も対象者も数も違うのに、
帰路の時の僕の心のぬくもりは同じだった。
共通点は、過ごした時間が未来を見つめられるひとときになったということだろう。
それは視覚障害に対する正しい理解が出発点となっていた。
正しく知る機会、本当に大切だ。
これから街で困っている僕達の仲間を見つけたら手伝いたいという若者達の感想も、
ボランティアに参加しようとしてくださる中高年の人達の行動力も、
まったく同じ種類のものだ。
「教室の窓から見える山はオレンジ色です。」
学生が届けてくれたメッセージには、
その風景を僕に見せてあげたいというやさしさが込められていた。
冬の薄青色の空、オレンジ色の山、
忘れられない風景となった。
(2014年12月20日)

仲間

このホームページへのアクセス数が18万を超えた。
月に一回覗いてくださる人、週に一回覗いてくださる人、
気が向いた時に覗いてくださる人、一回きりの人、
とにかく一日平均250人くらいの人がアクセスしてくださっている。
そして時々、激励のメッセージが届いたりすることもある。
今回も自分では18万という数字には気づかなかったのだけれど、
読者の人から届いたメールで知った。
このホームページを介して、
たくさんの仲間とつながっているような気がしてうれしいと書いてあった。
そんな風に考えられるということが素晴らしいことだと思う。
僕自身も仲間の一人であり続けられるように、
これからも心をこめてメッセージを発信していきたい。
皆様、本当にありがとうございます。
(2014年12月14日)

気配

阪急大宮駅には特急は停車しない。
だから、桂駅からは普通か準急を利用している。
朝のラッシュウアワー以外の時間帯では、
ホームへの階段を降りたら進行方向右側が特急のホーム、
それ以外は左側となっていると理解している。
僕はいつものようにホームを点字ブロック沿いに左側に歩いた。
しばらくして電車到着のアナウンスが流れた。
ところが、電車は普通電車なのに右側に停車したのだ。
ダイヤ改正でもあったのかもしれない。
僕は慌てて、そして慎重にホームの反対側に移動を始めた。
その方向には点字ブロックはないのだから、
白杖、触覚、聴覚での移動だ。
しかもドアが閉まるまでのわずかな時間、
結局失敗した。
たまたま途中にあったベンチにとおせんぼされてしまったのだ。
発車してしまった電車の音を聞きながらほんのちょっと気分がへこむ。
目が見えればホームに掲示されている電光掲示板で判るだろう。
もし間違っても、気づいた時点で反対側に動けばいい。
普通に歩けば、たった十数歩、何の問題もないだろう。
次の電車までの10分程度を口惜しさの中で過ごした。
ホームに着いて20分くらいが過ぎたことになる。
気分も疲れた。
やがて、次の準急電車が左側に停車した。
僕は乗車するといつものように入口の手すりを握って立った。
その瞬間、僕が立ったすぐ横の座席に座っていた人が、
僕の肩をポンポンと二度たたいて立ち去った。
言葉は一切なかったが、
席を譲ってくださったのは明らかだった。
僕は立ち去る気配に向かって、
「ありがとうございます。助かります。」
感謝を伝えて座席に座った。
気配に性別はない。
年齢もない。
国籍もない。
政治も宗教もない。
あるのは人間のやさしさだけだ。
久しぶりに座れたなとつくづく思いながら、
気配に感謝した。
そして、幸せな気持ちになった。
(2014年12月11日)

枯葉

白杖の先に枯葉を感じた。
歩道の端に重たい塊になってあった。
昨日の雨で重たさを増しているのかもしれない。
何故か立ち止まってしまった。
何の脈絡もないのに、父と歩いた日々を思い出した。
もう一度歩きたいという衝動がおさまるまで、
ただじっと立ちすくんだ。
北風が時を運んで去っていった。
やっとフゥーっと息をはいて、
首をあげて空を眺めた。
冬枯れの空に青があった。
美しいと思った。
今年の忘年会、すべてに欠席を届けた。
今年を忘れたくないのだろう。
やがて枯葉は土に帰る。
きっと、思い出も土に帰る。
(2014年12月7日)

煮切

高田馬場での研修が終わる時間に合わせて、
友人が僕を迎えにきてくれた。
彼は東京在住で、僕が仕事で知り合った女性ライターの旦那さんだ。
特別な利害関係などは何もないのだけれど、
いつしか再会がとても楽しみな付き合いとなった。
今回も、僕が数日東京で過ごしているという情報をキャッチして、
わざわざ時間をつくって夕食に誘ってくれたのだ。
僕と父との別れ、その後のいろいろな対応、そして忙しい東京での予定、
きっと気遣ってのことだろう。
彼はタクシーを停めると、
新宿の高層ビルの上層階にある落ち着いた感じの江戸前寿司のお店に僕を案内した。
そのお店と決めていたらしい。
そして、注文を聞きにきた店員さんにそっと何か耳打ちしていた。
運ばれてきたにぎり寿司、僕の分にはお醤油の小皿はなかった。
「煮切を塗ってもらったからね。」
お寿司を小皿の中のお醤油に適量つけるのが大変と考えた彼は、
お店に煮切を頼んだのだ。
ひとつひとつの上等のネタが、僕の口の中でそれぞれの味わいを主張した。
彼は食事をすませてホテルまで僕を送ると、
僕をロビーに待たせて、コーヒーを買ってきてくれた。
ホットコーヒーを受け取って、
握手をして別れた。
最後まで、彼は僕と父との別れなどには触れなかった。
2年前、彼は母との別れを経験していた。
煮切の塗られたお寿司は、忘れられない味となるだろう。
(2014年12月1日)

カレーライス

「ただいまから、教職員共済生活協同組合、全国労働者共済連合会助成事業、同行援
護全国推進シンポジウムを開催致します。」
僕に届けられた司会原稿はこの挨拶がスタートだった。
京都から東京へ向かう新幹線の中でつぶやいた時は、
3回連続で成功していたのに、
本番では見事にかんでしまった。
記憶力の低さは自他ともに認めているとは言え、
やはりショックだった。
目が見える他のスタッフは、
丸の内のビルの22階の会場からスカイツリーがはっきり見えると喜んでいたが、
僕はそれさえも、何か損をしたような気分だった。
下手ながらになんとか大役を果たし、
東新宿のホテルにチェックインしたのは20時を過ぎていた。
明日からは三日間のガイドヘルパー指導者研修会の講師、
その翌日に都内の大学での講演をすませて帰京の予定だ。
四泊五日ということになる。
初日からへこんでいる訳にもいかない。
夕食だけかきこんで、早めにベッドにはいろうと考えて、
ホテルのレストランでカレーを注文した。
ライスとカレーが別々の容器で運ばれてきた。
僕は運んできた若い男性に、
「カレーをライスにかけてください。」とお願いした。
彼が少しずつカレーをかけている雰囲気が伝わってきた。
「僕はセンスがないので上手にはかけられませんが、おいしく食べてくださるように
心をこめました。どうぞ。」
彼はカレーの入っていた容器だけを持って、照れ笑いを残して戻っていった。
司会が上手にできなくてちょっと落ち込んでいた自分が、
なぜか阿呆らしくなった。
おいしいなと思いながら、黙々と食べた。
忘れられないカレーライスになるなと思った。
僕もセンスがないけど、
心をこめて頑張ろう。
(2014年11月29日)

秋の朝の空気

桂駅のホームで電車を待っていたら、
「松永さん、おはようございます。」
声をかけてくださる女性がいた。
市内の区役所で働いている人だった。
以前、区民対象の講演会で出会い、その時は、講演者とスタッフという関係だった。
一応の挨拶を交わすくらいがやっとだったと思う。
正しく理解してもらうということはこういうことなのだろう。
今日、僕は彼女のサポートで電車に乗り、
椅子に座り、世間話をしながら時間を過ごした。
三連休というのに仕事に向かうという同じ条件は、
なにか妙な親近感さえ覚えた。
目的の駅に着いて、そこで御礼を言って別れた。
「今日はいい一日になりそうです。」
僕は最後に付け加えた。
そしてすがすがしい気持ちで、講演予定の会場へ向かった。
秋の朝の空気をとてもおいしく感じた。
(2014年11月24日)