迷子

バスを降りて点字ブロックを確認する。
点字ブロックの突当りにあるコンクリートの壁を白杖で触りながら右へ動くと、
団地に入る道がある。
その道に入って10歩くらい進んだ地点で直角に曲がると、
道の反対側の壁をキャッチできる。
今度はその壁に沿って白杖を動かせば、
自然に右に曲がって僕の住む団地の建物に向かうことになる。
途中の小さな上りのスロープがほぼ中間地点、しかもその部分は金属で判りやすい。
その少し先は自転車置き場なので上手にクリアしなければいけない。
それからしばらく歩くと路面の材質が少し変化している場所がある。
そこで右に曲がればエレベーターがある。
左の壁を手で探れば、ボタンがある。
引っ越しして二か月、やっと自信を持って帰宅できるようになった。
出かける時はその反対に動けばいい。
今朝もいつものように出かけた。
いつもと違ったのは到着したエレベーターに先客がおられたこと。
気づくのが遅れて足を踏んでしまった。
すみませんと謝り、その方も返事をしてくださった。
ただそれだけだったのに、
どこかで僕の頭の中の地図が混乱したらしい。
途中で方向が判らなくなってしまった。
団地を出るまでのたった50メートルもない道での出来事だ。
しばらくあっちをウロウロ、こっちをウロウロ、
最終的には聞こえてくる車の音の向きを利用して脱出できた。
でも10分くらいはウロウロしたことになる。
またこの道を歩く自信を取り戻すのにしばらく時間がかかるのだろう。
見えない人は大変だなって他人事みたいに思ってしまう。
裏を返せば、こういうことで一喜一憂しなくなったということだ。
いつのまにか、見えない自分を受け入れているのだな。
そしてたまたま迷子になった日が寒くもなく雨も降っていなかったのは救いだった。
そういうことにしておこう。
後二か月もすれば、きっと鼻歌交じりで帰宅できるようになっているはずだから。
(2015年2月24日)

連鎖

電車のドアが開いた音を確認したら白杖で車体を触る。
そのまま白杖を動かして杖先が入り込んだところが乗車口のはずだ。
絶対と言えないのは電車の連結部の可能性もあるということで、
入口の床があるかは必ず確認する。
そこまで確認できたら、今度はホームと電車の隙間を杖先で調べて乗り込む。
たった数十秒の停車時間内に、
乗り降りする他の乗客の迷惑にならないように、
この作業を完結するのは結構高等技術だと思っている。
乗車したら、すぐに入口の手すりを探す。
本当は空いてる席を探したいのだが、触覚で探せるのは手すりくらいだ。
手すりを握った瞬間、安堵して溜息が漏れる。
今日もここまでの作業が無事終わりほっとしたところで、
「座りますか?」
高校生か大学生くらいの青年の声がした。
なぜだか判らないけれど、
バスに比べると電車の中で席を教えてもらうのはとても確立は低い。
「ありがとうございます。助かります。」
僕は喜びを全面にだしてお礼を言って座った。
久しぶりに座れた座席の座り心地をのんびりと楽しんだ。
電車が桂駅に着いた。
僕はこれまた慎重に電車から降りて歩き始めようとした。
「一緒に行きましょうか?」
またまた若い男性の声、
「さっき席を教えてくれた人ですか?」
彼は別人だった。
きっと同じ車両に乗り合わせて一部始終を見ていたのだろう。
「カッコ良かったですね。」
彼はさっきの青年をそう言い表した。
その結果として僕に声をかけることができたのかもしれない。
とても素敵なやさしさの連鎖だった。
僕にとったら、二人ともカッコいい青年だった。
僕は彼の手引きで改札口まで行き感謝を伝えた。
「僕は40歳まで見えていたのですが、
こうしてお手伝いすることができませんでした。
あなた方は素敵ですね。」
言葉がこぼれた。
「お気をつけて。」
背中から追いかけてきた彼の言葉は、彼が笑顔なのも伝えていた。
駅を出たら時雨模様だったが、僕の心はずっとポカポカしていた。
ふと出会ったやさしさの連鎖の結果だった。
(2015年2月19日)

僕は僕のスピードで

後で理解できたのだけれど、
バスはいつもの停車位置よりも数メートルだけ手前で停車したのだった。
バスを降りたらすぐあるはずの点字ブロックを見つけられなくて、
僕は白杖でその辺りを探し始めた。
それでも解決できなかったので、人の足音に集中した。
ほんの少し、足音が壁に響くような音が聞こえた。
地下からの音に違いない。
僕はそちらに向かって歩き始めた。
「階段ですよ。」
中年の男性の声がした。
僕が階段に向かい始めたので落ちるかもしれないと思われたのだろう。
僕は感謝の言葉と一緒に、階段を下りて地下鉄の駅まで行きたいことを告げた。
彼と方向は同じだった。
僕は彼の肘を持たせてもらって歩き出した。
「僕は65歳なんだけど、17歳の時の交通事故の後遺症で、
左手の握力は0なんですよ。」
彼はまるで世間話でもするように話した。
「ごはんんはどうやって食べるのですか?」
僕は自然に、
まるで講演会場の小学生が見えない僕に尋ねるような質問をしていた。
「最初はスプーンを使っていましたが、いつの間にか手に挟んでお箸で食べるように
なりました。友人は器用だなと笑ってますが。」
僕もうなづきながら笑った。
「人間って、それなりに工夫して生きていきますよね。」
僕達はそれぞれの人生のスピードと同じくらいの速さでのんびりと歩いた。
地下鉄に向かうところで彼と別れた。
握力0の手で生き抜いてきた彼を、
僕はなんとなくカッコいいと感じた。
不謹慎なのかもしれないけれど、
何故かそう感じた。
そして僕もあんな風にさりげなく、誰かの力になれる生き方をしたいなと思った。
(2015年2月18日)

カレー屋さん

見えなくなった最初の頃はいろいろな行動に勇気とかエネルギーが要った。
例えば道に迷った時、
聞こえてくる足音に向かって声を出すのもそれなりの気合を入れていたものだ。
見えない相手に話しかけるのは不安も大きかったのだろう。
慣れるということは凄いことでいつのまにか自然にできるようになってきた。
どうしてだろう。
今日のお昼も新しくインドカレー屋さんがオープンしたと知って、
食べてみたいなと思ってその辺りまで行った。
バス停の近くと聞いていたのでその辺りまでは問題なく行けたのだ。
僕の予想通り、道には微かにカレーの香がしていた。
ただ僕の鼻の力では、それだけでお店の場所を特定し入口まで行くのは無理だった。
どうしようかと立ち止まって鼻をピクピクさせていたら、
通りかかった外国人が声をかけてくださった。
彼はとっても下手な日本語で、何を言っておられるかは判らなかったけど、
僕を手伝おうとしてくださっているのは間違いなかった。
僕は外国語はまったくできない。
「カレー屋さん、カレー屋さん!」
僕の日本語を聞いた彼は、
OKと言いながらカレー屋さんの入口まで案内してくださった。
いつものように、
「サンキュー、ありがとう、おおきに!」
僕は伝えたいすべてを並べて頭を下げて、それから店に入った。
ほっとしながらお店に入り
「空いてる席を教えてください。」と尋ねると、
「ここはインド料理です。」とのたどたどしい日本語が返ってきた。
咄嗟にインド人が経営しているとの情報を思い出しながら再度挑戦。
それでもまた同じ返事、
僕は今度は手で自分の目を指さし白杖を持ち上げながら、
「目が見えません。」
店員さんはやっと理解できたらしく、
僕の手を引いて椅子の背もたれを触らせてくださった。
普通ならその流れで店員さんにメニューを尋ねるのだが、
彼と僕の語学力では厳しいと判断した。
僕は他の客席に向かって、
「目が見える人、メニューを教えてください!」
すぐに男性の声がした。
僕に伝わるようにゆっくりはっきり教えてくださった。
「ビジネスランチがスープ、サラダ、カレーにナンと飲み物がついて820円、
カレーは五種類から選べて、辛さも5段階・・・」
僕は普通の辛さのキーマカレーを頼み、飲み物はホットチャイにした。
テーブルの上の箱を手探りで見つけてスプーンやフォークも探し当てた。
コップの水は手の甲を使って確認するので倒したりこぼしたりすることはない。
小学校で子供と給食を頂くと、必ず誰かが、
「ほんまは見えてるんじゃないですか?」というくらい普通に食べている。
どうしても掴めなかったりしたら素手で掴む。
おいしく食べられればいいと思っているから他人の目も気にしない。
カレーの味はまあまあだったけど、チャイはとってもおいしかった。
胃袋も心も満足して立ち上がると、
さきほどの店員さんが今度は理解して動いてくださる。
レジの方に僕の身体を誘導し、おつりは僕の手のひらにしっかりと握らせてくださっ
た。
僕はメニューを教えてくださった男性にありがとうカードを渡して店を出た。
どうしてこういう日常が自然になってきたのか、
それは人間の社会にはやさしい人がたくさんいるということを学習できたからだ。
経験が自信に変化していったのだろう。
こんな風に感じながら生きていけるようになったのは、
これまで出会ったたくさんの人達のお蔭だ。
そしてまた今日も経験がひとつ増えた。
幸せがひとつ増えた。
(2015年2月13日)

少年

この冬一番強い寒気が訪れた朝、
僕は1時限目から小学校での福祉授業だった。
体育館の中ではコートをすり抜けた冷たさが身体にしみ込んできた。
手も足もかじかんだ。
僕も大変だったけど子供達も大変だっただろう。
それでも子供達は集中して話を聞き、真剣に手引き体験をしてくれた。
子供達と一緒に給食をいただき学校を出ようとした時、
一人の少年が駆け寄ってきた。
「サイコロを作ったのでお土産に持って帰ってください。」
僕の手のひらに一辺が2糎くらいの紙でできた立方体が乗せられた。
どうやって作ったのかという僕の質問に、
少年は折り紙を4等分にしていくつかの色を併せて作ったと説明してくれた。
そして、ありがとうございましたと深々と頭を下げて去っていった。
学校を出てからサポーターにポケットの中のサイコロを出して見てもらった。
薄緑色、緑色、黄色、白色が幾何学模様のように見える色合いだった。
大人が素敵だと感じるくらいの作品だった。
僕はその色合いをイメージしながら、生まれ始めている春を感じた。
まさか、少年がそこまでイメージしたとも思えない。
でも確かに、サイコロと少年と春が僕の中でひとつになった。
(2015年2月11日)

春姫

今年も春姫というブランド名のキンカンが届いた。
鹿児島県在住の小学校時代の友人が届けてくれるのだ。
南薩摩地方で生産されているキンカンの中で、
一定の糖度、サイズ、色をクリアしたものだけが「春姫」と名乗れるらしい。
水洗いした春姫をそのまま口に放り込む。
あのキンカン特有の微かな苦さや酸っぱさも残しながら、
口中に広がる甘さを持ち合わせている。
一度食してからすっかりファンになり、
毎年待ち焦がれるプレゼントのひとつになってしまった。
本当においしいと感じたのには、自分でも驚いた理由がある。
最初の時に、届いた春姫を口に入れかじった瞬間、
瑞々しい光沢のあるオレンジ色を思い浮かべたのだ。
キラキラと光っていた。
まさに春が始まるような色だった。
見える人に確認したら、僕の想像と合致していた。
味覚がそのまま色覚につながることってあるんだなと、
自分でも感心した経験だった。
コタツで雪のニュースを聞きながら、
口と脳で今年の春の始まりを感じている。
そしてうれしくなっている。
小学校時代の友達が大人になって再会しこれを届けてくれているということも、
うれしさを増幅させているのは間違いない。
小学校を卒業して46回目の春、
元気で迎えられるということ、
それだけでも幸せなことだ。
(2015年2月6日)

書きたいと思った日

「ここに来ればいつかお会いできると思っていました。うれしいです。」
さわさわに立ち寄った僕を見つけて、
彼は言葉を選びながら気持ちを伝えてくれた。
僕が失明した18年前、大学生だった彼は山登りの途中に崖から落ちた。
そして頭部を激打して身体障害者になった。
車いす生活でもう歩けないかもしれないと医師に宣告されながら、
ただ歩きたいという思いだけでリハビリを続けた。
歩くことはできるようになったけれども、右手の自由は取り戻せなかった。
ペンを握るのもお箸を持つのも左手に代えた。
失明後の僕が仕事をしたくて歩き回り、
結果的にそれがリハビリになったと著書に書いていた部分を彼は取り上げて、
とっても共感を覚えたと言った。
他にも共感を覚えた部分をいくつも取り上げた。
本を書いた僕よりも彼はしっかりと本の内容を記憶していた。
本だけではなく、
以前僕が書いていた新聞のコラムなども憶えていてくれた。
ずっと前から、僕の言葉が彼の傍にあったことが伺えた。
僕はただただ光栄だと思った。
別れ際に握手した彼の手はザラザラだった。
彼がやっと見つけた段ボールや廃棄油の処分の仕事は
仕事の内容も条件もとても厳しいものだった。
それでも彼の口から不満はでなかった。
交わした会話のどこにも、
自分の人生への否定的な言葉はなかった。
笑顔さえあった。
社会に参加できる幸せだけが伝わってきた。
18年という時間、僕達はそれぞれの障害と向き合い、
人間の価値とか幸せの意味を考えなければならなかったのだろう。
そして同じ答えにたどり着いたのだ。
新しい友達との出会いに感謝した。
そして、もっともっと書かなければと強く思った。
友達のために書かなければと思った。
(2015年2月3日)

サイン

午前中は小学校4年生への子供達の福祉授業、
午後はPTAの人権講演を終えてタクシーに飛び乗り、
大学の定期試験監督にギリギリ間に合うというハードスケジュールの一日だった。
最近体力的な衰えを実感しているのだが、
17時半の試験終了の合図を確認した時は、
疲労感でいっぱいでボォーっとしていた。
「学生さん達が本を持って並んでいますよ。」
もう一人の試験監督の先生が教えてくださった。
30回の授業を受け最終日に試験を受けた学生達と教室で会うのは今日が最後の日だっ
た。
「サインをしてください。」
僕の著書を手にした学生達が並んだ。
僕は有名人でも芸能人でもない。
僕のサインに価値があるとは思えない。
でも、きっと記念にはなる。
見えない人間にサインを求めるなんて、
最初に授業を受けた時には彼女達自身も想像できなかっただろう。
40歳まで見えていた僕は、
一応名前くらいは書けるし、授業中も何度も板書はしていた。
授業が進み理解が深まるにつれて、
学生達は何ができて何が困り、
それにはどう対処すればいいのかを学んでいった。
キラキラと輝いている学生達ひとりひとりに、
僕は心をこめてサインをした。
感謝の気持ちでいっぱいになりながら、
先ほどまでの疲労感は消えていた。
今日一日のすべての場所で確認できたこと、
正しく知る機会がとても大切だということ。
まだまだ年齢を感じるようではいけないなと反省しました。
まだまだ頑張ります!
(2015年1月30日)

やき餅

京都市北区の8つの小学校の役員の皆様が集まってくださった。
少しの緊張感の中でスタートした勉強会は、
僕の話が進むにつれて和やかな空気に変化していった。
その空気の変化は、10歳の子供達の変化と同じものだった。
僕は参加してくださった一人一人に向かい合い、心のおもむくままに語りかけた。
目が見えなくなるということはどういうことなのか、
何が困るのかどう接して欲しいのか、
そして、人間の社会の豊かさも付け加えた。
正しく理解するということ、やはり原点なのだろう。
最後の質問は、どうやってサポートしたらいいかという具体的なものだった。
それは、サポートをしたいという気持ちの裏返しなのだ。
「松永さんが風になって今日皆様に伝えられたことを、まず皆様のお子様に伝えてく
ださい。そして周囲の人につたえてください。
それが、風になってくださいということです。」
校長先生の閉会の挨拶は、
見える人も見えない人も見えにくい人も、
共に生きていく社会を見つめたものだった。
学校を出てボランティアさんの車の中で
手土産にいただいた神馬堂のやき餅を食べた。
校長室での会話を思い出した。
この地域の自然や歴史の話、
そしてそこで子供達の教育に関わる喜びが感じられる話だった。
「とっても空気がきれいな場所ですよ。」
さりげない言葉はやさしさに包まれていた。
素朴なやき餅の風味が口の中に広がった。
(2015年1月24日)

熊本

火曜日は大阪、水曜日は東京、
そして木曜日大学の授業を終えてから夜行バスで熊本に向かった。
京都から熊本まで12時間かかった。
熊本の朝の空気を吸った時、
身体はとても疲労を感じていたのに気持ちは晴れやかなのを自覚した。
熊本県点字図書館での講演は、点訳や音訳に関わってくださっている人達が対象だっ
た。
そして僕を招いてくださるきっかけは僕の著書を読んでくださった仲間の声だった。
まさに光栄そのものだ。
集まってくださった人達へ感謝を込めて話をしながら、
僕自身の幸せを確認するひとときにもなっていた。
助け合える人間の社会で、まさに助けられて生きている僕がいる。
小学校の修学旅行で見た熊本城を断片的に憶えている。
反り返った城壁に驚いたものだ。
もう見ることはできない。
それはそのまま悲しみになっても不思議ではないのに、
講演会場にはそれを感じさせない幸福感があった。
集まった人達のやさしさが会場に溢れていた。
人間のやさしさって本当にすごい力を持っているのだ。
見えない人にしあわせさえも見せてくれるのだ。
(2015年1月17日)