8日は琵琶湖大花火大会があるとのことだった。
コロナで4年ぶりの開催らしかった。
昨年引っ越してきた僕には初めての花火大会ということになる。
とんでもなく混雑するらしく外出は控えた方がいいとアドバイスを受けていた。
駅の案内放送もだいぶ前から同じような内容を伝えていた。
僕は自宅から鑑賞することにした。
1時間あまりの開催時間、1万発の花火が夏の夜空を彩る。
想像しただけでワクワクした。
7時半を少し過ぎた頃から聞こえ始めた。
やはり結構な距離があるのだろう。
近くの音ではなかった。
それでも大きな音、小さな音、変化する音、聞こえた。
僕はその音に聞き入った。
子供の頃に連れて行ってもらった故郷の港の花火大会を思い出した。
数発の花火があがり静けさが訪れた。
もう終わりかと思った頃にまた次の花火が上がった。
そんな感じを繰り返したのを憶えている。
その頃の地方の花火大会はそれで精一杯だったのだろう。
音が鳴りやまないなんてなかった。
それでも夜空に咲いた大輪の美しさを憶えている。
息を飲んで見入った感じだった。
そしてその思い出には父ちゃんと母ちゃんと妹と僕がいる。
切り取った写真のように残っている。
間違いなく小さな幸せがそこにあった。
あっという間に時が流れたような気になる。
子供の頃にゆっくり流れていた時間は少しずつ速くなっていった。
人生の夏ももうとっくに過ぎたのだろう。
咲いた瞬間に消え始める花火のはかなさをより美しいと感じるようになった。
そんなことを思いながらいろいろな花火を思い出した。
いつか琵琶湖の近くまで行って鑑賞してみたいと思った。
(2023年8月9日)
琵琶湖大花火大会
ひまわり咲いた
小指の爪くらいの大きさだった種を20粒ほど一晩コップの水に浸しておいた。
それを翌日にあちこちに蒔いた。
玄関の階段を上った郵便受けの横、階段の反対側、家の裏の小さなスペースなどだ。
塀の周囲にも蒔いたし遊び心で家庭菜園の端っこにも2粒だけ蒔いておいた。
一週間くらいで発芽してくれただろうか、毎日のように指先で確かめた。
小さな葉っぱ、細い茎、大きくなれよと話しかけながら幾度もそっと触った。
それが僕にとっての見るということだ。
ジョーロでの水やりは数日おきにやったし、時々肥料も与えた。
少しずつ大きくなっていった。
梅雨の頃にはまさにどんどん大きくなっていった。
僕の膝丈、腰、胸、身長、育ってくれた。
やがて手を伸ばして確認するようになり、たちたちしても届かなくなった。
不思議なもので、僕は届かなくなった先端の方をいつも眺めた。
どうやら最近咲いてくれたらしい。
ひまわりにはいろいろな思い出が重なる。
どれもが幸せな思い出だ。
思い出がひまわりを好きにさせたのかもしれない。
あとどれくらい夏を迎えられるか分からないが、毎年咲かせたいと思っている。
遊び心の家庭菜園のひまわりが一番大きくなったらしい。
ミニトマトやキュウリやナス、そして緑のカーテンのようなゴーヤ。
そこに大きなひまわりが笑っている。
夏がよく似合う。
(2023年8月4日)
うなぎ
東京の友人がうなぎを食べに連れていってくれた。
高田馬場にあるうなぎの専門店だ。
ちなみに僕は大のうなぎ好きだ。
あのタレの香りをかぎながらうなぎを食べると間違いなく幸せを感じてしまう。
視覚はないのだから味覚と嗅覚だけで食べる。
最高級の幸福を感じられるのだから、僕にとったら不思議な料理なのだろう。
彼と会うのは3年ぶりだった。
コロナ禍だったので、会うことそのものを自粛していた。
十数年前、仕事で彼の奥様と出会ったのがきっかけだったが、
いつの間にか彼と会うことが楽しみになった。
とにかく博識だ。
やさしさもさりげない。
話をしていても肩が凝らない。
いい距離感なのだろう。
心から喜べる再会をできるのはこれもまた幸せというものだろう。
うなぎが好物と言っても、そんなにショッチュウ食べられるわけではない。
土用にウナギ屋さんというのも初めての経験だった。
ふとウナギ屋さんの記憶を振り返って気づいた。
行ったことのあるウナギ屋さんをいくつもはっきりと憶えているのだ。
若い頃、高校時代の友人と初めて行ったうなぎ専門店が京都駅前の江戸川だった。
四条河原町のかねよは専門学校の教え子が連れていってくれた。
嵐山の廣川は見えていた頃の同僚達と行った。
岩倉木野にある松乃鰻寮はミニコミ誌の編集者が連れて行ってくださった。
東京の神楽坂のたつみやでは出版社の人と打ち合わせをした。
ジョン・レノン御用達の店と知って驚いたのを憶えている。
故郷の鹿児島市では妹が、薩摩川内市では従妹が、それぞれ地域の名店に連れて行っ
てくれた。
この忘れん坊の僕がほぼ完ぺきに憶えているのだ。
滋賀県に引っ越してきて、早速えんというウナギ屋さんを見つけた。
よっぽど好きなのだろうと自分自身でも驚く。
ちなみに高田馬場のウナギ屋さんは愛河、きっとまた記憶に残るのだろう。
幸せな香りのする記憶だ。
(2023年7月31日)
セミ
日中は暑いので庭仕事は早朝にすることにした。
最近は4時には目が覚めてしまうので丁度いい。
起きてすぐにでも始めたい気はあるし始められる。
光を確認できない僕にとっては夜も昼もあまり関係はない。
でも暗闇でごそごそしていたら近所の人に怪しまれるかもしれない。
だからコーヒーを飲みながら日の出を待つことにした。
天気予報では今朝の日の出は5時だった。
僕は5時前には長袖の作業服に着替えて蚊取り線香を持って待機した。
5時のニュースを聞いてそれから庭に出た。
空気は少しひんやりとしていた。
予定の場所に発泡スチロールの板を置いて腰掛けた。
それからバケツを左に置いて草抜きを始めた。
小さなスコップで根から抜くようにしている。
それでも後から後から生えてくる。
その強さ、たくましさ、少しでいいから僕にも分けて欲しいと思う。
夢中になって草を抜く。
セミが鳴き始める。
突然の合唱のスタートだ。
指揮者がどこにいるのか知らないがとにかく見事だ。
セミも生き物だから病気やけがで目が見えなくなることもあるだろう。
ふとそんなことを考える。
白杖を持って飛ぶわけにもいかない。
考えを巡らしながらも手は止まらない。
見えなくなったセミも頑張れよ。
手を休めてセミの声のする方を眺める。
僕もセミも夏の中で生きている。
(2023年7月27日)
祇園祭
後祭りの宵山は想像したよりも少ない人手だった。
時間が早かったからかもしれない。
僕はガイドの学生とゆっくりと歩いた。
京都で45年くらい生活したが祇園祭に出かけたのは10回くらいだと思う。
そのうちの数回は見えている頃だった。
だから山鉾や提灯の風景などがうっすらと記憶にある。
笛と太鼓、それに鐘の織りなす音色はまさに夏の風物詩だ。
コンチキチン、コンチキチン。
何百年も受け継がれてきた音だ。
狭い路地を老若男女、多国籍の人達が行き交う。
それぞれが譲り合いながらすれ違う。
白杖の僕に気づいて立ち止まってくださる人も多い。
そこに存在するのは平和な世界だ。
祭りを楽しむ人達に国境はない。
この同じ地球で今も戦争が続いている。
胸が締め付けられる。
コンチキチン、コンチキチン。
天まで届け。
(2023年7月23日)
風鈴
天気予報通りの厳しい暑さだった。
お日様は容赦なく光を放ち熱を地上にばらまいておられた。
バス待ちのわずかな時間でも僕の意識はクラクラするような感じだった。
そっと風が吹いた。
風というほどでもないささやかなものだった。
その瞬間聞こえた。
チリン。
小さな小さな音だった。
また少し風が吹いた。
チリンチリン。
今度は音色は主張をしてくれた。
どこからともなく聞こえてきた風鈴の音色。
心がやさしくなるのを感じた。
いつの頃からなのだろう。
どんな人が始めたのだろう。
夏に似合うってどうやって発見したのだろう。
いろいろなことを考えながら人間の感覚の豊かさをしみじみと振り返った。
さりげなく誰かにやさしさを届けられたらいいな。
帰宅したら僕も風鈴をつりさげようと思った時、バスのエンジン音がした。
(2023年7月18日)
雷雨
夢中で草抜きをしていた。
長袖シャツと長ズボン、麦わら帽子を覆うように付いている網が顔も隠していた。
庭仕事の時のユニフォームだ。
前触れもなく突然に冷たい風が吹き始めた。
雨もぽつりぽつりと落ちてきた。
空が我慢できずに泣き始めたような感じだった。
手に当たる感覚よりも麦わら帽子に当たる音の方が早かった。
雨は大粒になり、同時に雷様のうなり声が聞こえた。
凄まじいほどのうなり声だった。
きっと稲光も凄いのだろうと想像できた。
泣き始めた空は大泣きに変わった。
僕は家の中に引っ込もうと思ったが行動が伴わなかった。
なんとなくその場に座りたくなったのだ。
人間は時々思いもよらぬ行動をすることがある。
自分でも意味不明の行動だ。
脳が考えて動くのではなく脳を無視して身体が動くのだろう。
そんな瞬間は結構好きだ。
ゴロゴロ、ババーン、吠え続ける雷様、雨の音も大きかった。
僕は地球に座り込んでその雰囲気を楽しんだ。
自然の交響曲だった。
生きているんだな。
当たり前の何でもないことをただ感じた。
麦わら帽子をとって顔を空に向けた。
口を開けた。
子供の頃にやった記憶がある。
どうしてやったのかは憶えていない。
でも確かにやったことがある。
そしてその時もうれしかったのだろう。
だから記憶の中に残っているのだろう。
見えていたら稲光が怖くてとっとと家の中に引っ込んだはずだ。
そんなことも考えてそれもまたうれしかった。
(2023年7月13日)
七夕会
視覚障害者施設の七夕会に参加した。
司会も利用者の視覚障害者の人達が受け持っていた。
それぞれに緊張しながらも一生懸命やっているのが伝わってきた。
プログラムの前半はボランティアさん達の朗読だった。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の朗読が進むにつれ会場が聞き入っていくのが分かった。
ゆっくりと静かに時間が流れた。
それからティータイム。
それぞれの席にレモンケーキがひとつ、そしてビスケットの小袋がひとつ配られた。
インスタントコーヒーがプラスチックのカップに注がれた。
限られた予算、限られたスタッフ、ささやかさの中には精一杯の思いがあった。
おいしく頂いた。
その後のゲームはグループ対抗だった。
ステージのテーブルには重さが違うペットボトルが4本並べられた。
各グループ代表の選手は30秒でそれを軽い順番に並べていくのだ。
ペットボトルの中の水の量は見た目ではあまり変わらないくらいに微妙な違いだとス
タッフの人が教えてくださった。
選手は全盲の人も弱視の人もいるので公平にするために全員アイマスクだった。
結果、6チーム中1班と4班が見事パーフェクトだった。
でも賞品が1グループ分しかなかった。
今度は1班と4班の次の選手がジャンケンをした。
白熱の中で4班が勝った。
ちなみに僕も4班だったから賞品の箱ティッシュをひとつ頂いた。
それから全員が舞台に集まった。
僕は隣の席の弱視の女性にサポートしてもらって動いた。
皆で七夕を歌った。
「お星さまキラキラきんぎん砂子」
お星さまを見たことのない人も大きな声で歌った。
金色も銀色も見たことのない人もうれしそうに歌った。
僕も歌った。
年齢も様々、生まれた場所も育った場所もバラバラ、障害になった理由もいろいろだ
った。
見えない人、見えにくい人、この社会では行き辛いのが唯一の共通点だった。
そして仲間だった。
短冊には書けないけれど、それぞれの願いが天まで届きますようにと僕は願った。
(2023年7月8日)
雨音
平日の朝9時半のホームは込んではいなかった。
僕は到着した電車にゆっくりと乗車した。
そして当たり前のように入り口の手すりを握った。
動く電車の中ではどこか握っていないと不安定で怖い。
だからいつもそうするのだ。
座るのが一番安全だと分かっているけど席を見つけるということは僕にはできない。
気づいた乗客の方が声をかけてくださった時だけが座れる。
先日調査をしている人から頼まれて回数を確認した。
この数か月をさかのぼってみたが、声をかけてもらって座れたのは20回に1回くらい
だった。
ちなみにこれは社会が冷たいということではない。
全盲の僕達には席を見つけることができないというのがあまり知られていないのだ。
白杖を持った視覚障害者の中には自分で席を見つけることができる人もいる。
弱視の人達だ。
視覚障害者に全盲と弱視の2種類があるということさえあまり知られていない。
白杖を持った人の中に席を見つけることができる人とできない人がいるということが
理解されていないのだ。
だから僕は仕方ないことだと思っている。
そしてそれを社会に丁寧に説明していくのはまさに当事者の僕達の活動なのだろう。
今日の中学校での福祉授業もそこにつながっているのだ。
「補助席がありますけど座りますか?」
女性の声だった。
「どこですか?」
彼女は尋ねた僕の手を持って座席を案内してくれた。
僕はありがとうカードを渡ししっかりと感謝を伝えて、それから座った。
20回に1回が今日になったのはとてもうれしいと思った。
今日はハードスケジュールで午後は激しい雨という天気予報もあったからだ。
中学校での福祉授業とその後の大学の講師会までの時間が30分しかなかった。
中学校の校門にタクシーを待機させておいて飛び乗るという予定だった。
その一日の始まりにラッキーを感じられたのだ。
なんとかなるぞとなんとなく思った。
僕は中学生にいろんな話をした。
今朝の出来事も話した。
人間って素敵だよと伝えた。
それから予定通りにタクシーに飛び乗った。
土砂降りの中を大学に向かった。
10分の遅刻だったが一応セーフだった。
その会議も終えて帰路に着いた。
バス、地下鉄烏丸線、東西線、そしてJRと4つを乗り継いだが、やっぱりすべて立っ
たままだった。
データ通りだ。
地元の駅で電車を降りて歩き始めた。
激しく雨が降っていた。
僕は慎重に歩みを進めた。
階段を知らす小鳥の鳴き声の案内放送が雨音で聞こえなかった。
いつの間にか通り過ぎてしまったらしかった。
「階段、通り過ぎましたよ。」
僕に気づいた若い男性が追いかけてきて教えてくれた。
僕はまたありがとうカードを渡してから階段を降りた。
今日の始まりと終わり、ラッキーな一日だったなとつくずく思った。
こうして頑張れば、20回に1回がいつか10回に1回になる。
いつか5回に1回になる。
そしてきっと未来は。
そんなことを考えたら雨音までがやさしく感じた。
明日も頑張ろうと思った。
(2023年7月6日)
水無月
山科駅で地下鉄を降りた。
点字ブロックに沿って歩いていたら販売員さんの声が微かに聞こえてきた。
駅構内のスイーツショップからの声だった。
いろいろなショップが期間限定で入っている。
スイーツ系のショップがほとんどなので僕はいつもはスルーしている。
「水無月いかがですか?6月30日ですよ。」
その言葉に引き寄せられてショップに向かった。
僕は鹿児島県出身なのだが大学時代から京都で暮らし始めた。
昨年滋賀県に引っ越したがそれまでの50年近くを京都で暮らしたということになる。
京都の暮らしの中で6月30日には水無月を食べるようになった。
白いういろうの上面に甘く煮たあずきを散らし、三角形に切った和菓子だ。
抹茶入りの緑色のものもあったような気がする。
夏越しの祓いを行う6月30日に1年の残り半分の無病息災を祈って食べる習慣だ。
あずきの赤い色が厄除けになるらしい。
特別においしいとは思わないのだがそこにあるささやかな祈りをやさしいと感じる。
ういろうの白い色やあずきの赤い色を思い浮かべながら食べる。
ささやかだけど大切な自分の人生に心を寄せる。
今年も半分が過ぎた。
残りの半分、元気で過ごしたい。
(2023年7月1日)