セミ

今日は、すれ違う人の足に白杖が幾度もぶつかった。
白杖のグリップを右手で持ち、
おへその前で左右に振る。
いつもと同じくらいの角度で持って、
いつもと同じくらいのスピードで歩いているつもりなんだけど、
たまにそんな日がある。
そんな日は自分でなんとなく判るので、
いつもより慎重に、注意力を高めて歩く。
一日の仕事を終えて無事地元に帰り着き、
スーパーマーケットで買い物をすませて、団地の中の道を帰路に着く。
やっとちょっとのんびりした気分になる。
ふと、セミの声の変化に気づいた。
音色なのか音程の高さなのかは判らないけれど、
夏の始まりに感じた勢いではなくて、
夏が終わり始めているさみしさみたいなものが感じられた。
僕はわざとゆっくり歩いた。
夏が終わりに近づいているということは、
秋の扉が少し開き始めたのだろう。
小さい秋、いっぱい見つけたいな。
セミの短い一生に思いを寄せながら、
自分の人生の秋を自覚しながら、
今日も無事に帰ってこれたことにただ感謝する。
(2014年8月20日)

教え子

専門学校や大学などの非常勤講師の仕事をしているので、
毎年多くの学生達に出会う。
専門学校は半期の講座なので90分の講義を15回、
大学は通年なので30回することになる。
教室という空間でそれだけの時間を共に過ごすのだが、
学生の氏名はほとんど記憶していない。
数が多いということもあるだろうし、
画像がないということも大きな理由になるかもしれない。
それに、記憶が極めて苦手なのは自他共に認めていることだ。
学生達の氏名は憶えられないけれど、
講義の中では実習なども取り入れて、
思いや希望を伝えられるように努力はしている。
ただこれも、学生達の表情も判断できないし、
どれだけ伝えられているのかは自信はない。
未来に向かっての種蒔きだと自覚している。
一粒でも多くの種が、それぞれに発芽してくれますようにと願っている。
今日は京都府の相談支援の研修会での講師の仕事だった。
いわゆる講演というやつだ。
500名近くの受講者に、50分で僕達の思いを伝えなければならない。
難しいのはやる前から判っているので、
気取らずに飾らずに、いつものように語り掛けた。
少しでも伝わればいい、決して投げやりではない正直な思いだ。
講演が終わった後、数人の受講者が感想を届けてくださった。
その中に、二人の教え子がいた。
6,7年前に専門学校で僕の講義を受けたという彼女達は、
それぞれに福祉の現場で活躍されている様子だった。
話しぶりにもふるまいにも大人の女性の品位も感じられた。
僕自身は年を重ねただけで、
何も成長がないような気がして少し恥ずかしく感じた。
会場を後にして歩きながら、
「教え子」という言葉を思い出した。
教え子とは、教えた子ではなくて教えてくれる子なんだと気づいた。
教え子とのうれしい再会だった。
(2014年8月14日)

台風一過の朝

セミが鳴いている。
行きかう車のエンジン音が聞こえてくる。
会話しながら出かけていく母娘の声も聞こえる。
風の音も雨の音も止んだ。
朝の空気には、いつもの日常が戻った。
ただそれだけなのに、うれしくなる。
もう1時間もすれば、白杖を持っていつものように出かける。
たった一日だけの缶詰状態だったのに、
外の空気が妙に恋しい。
毎日外に出れるって幸せなんだな。
ふと、病院のベッドで病気と闘っている友人を思い浮かべる。
一日でも早く元気で帰ってこれますように、
そう願いながら、
そっと窓越しの台風一過の空を眺める。
(2014年8月11日)

宝箱

朝の光が判らない僕は、
音声時計のボタンを押すことによって一日の始まりを確認する。
枕元にあるはずの音声時計を、
寝ぼけまなこで手探りで探すという作業は、
面倒くさいのだけれど仕方ない。
せめて光だけでも確認できればなと、
ついないものねだりをしたくなる。
それが、今朝はその音声時計を使う前に朝を確認できた。
セミの合唱団の鳴き声だ。
なんとなくうれしくなって、
僕はわざと起きないで、
合唱団の音楽に聴き入った。
日常はうるさいと感じてしまう歌声が、
妙に愛しく感じられた。
少年時代の夏の記憶までが蘇った。
半ズボンに白いランニングシャツ、麦わら帽子にビーチサンダル。
針金の輪っかにクモの巣の糸をからめて、
虫捕り網にした。
網膜色素変性症の僕は、
木にとまって泣いているセミの姿をなかなか見つけられなかったけど、
ともだちが手伝ってくれた。
捕まえたクマゼミやアブラゼミの羽根の模様も美しかった。
もう見ることのない僕にとって、
ひとつひとつの映像の記憶が大切な宝物になっている。
宝箱のカギを、神様はいろんなところに隠しておられる。
ひとつでも多く見つけたいな。
見つけられるゆとりのある人生でありたいな。
(2014年8月5日)

ウナギ

土用の丑の日、
たまたま立ち寄った牛丼屋さんに「ウナ丼」というメニューがあったので、
牛丼よりはだいぶ高かったけれど、
奮発して頂くことにした。
迷ったのだけれど、
それでも、ウナギが二切れのを注文する勇気はなくて、
一切れので我慢した。
我ながら、可愛い小市民だ。
香ばしい香り、ふんわりとした独特の食感、
笑顔になってパクパク食べた。
味覚も胃袋も満足して、
十分幸せな時間となった。
食べ終わってお茶を飲みながら、
少年時代、親父とウナギ釣りに出かけたことを思い出した。
高松川が海につながるあたり、
夜の港に腰を下ろして、
豊かな時間だった。
あのヌルヌルを手が記憶している。
釣り上げたウナギを、親父が上手に掴むのを、
自然に尊敬した。
持ち帰ったウナギは、
まな板で頭部をクギでさされて、
親父の包丁の餌食になった。
それから七輪の火で焼かれて、そして食卓に上った。
とってもおいしかったのは憶えているのに、ウナギの顔は思い出せない。
ドジョウの顔は憶えているのに、
ウナギは思い出せない。
申し訳ないという思いは、
記憶を調整してくれるのかな。
妙な発見に納得しながら、
隣の客のウナギの香をかいで、残りのお茶をすすってごちそうさま。
暑さはまだまだ、頑張るぞ。
(2014年7月30日)

Make a difference

今年から、祇園祭が先祭りと後祭りに分かれて開催されることになった。
1100年の祇園祭の歴史からすれば、
49年前に交通事情で一緒に開催するようになったのを、
また元に戻したというささやかなことになるらしい。
今日は後祭りの山鉾巡行の日、多くの観光客が予想された。
僕はブレスレットをつけて、気合を入れて家を出た。
このブレスレットは先日会ったカナダの友人がプレゼントしてくれたもので、
真っ青な色のシリコンの生地に、
「Make a difference」
と英語の点字で書いてある。
半そでの腕に、真っ青なブレスレット、
それで白杖を振って歩くのだから、少しは目立つのかもしれない。
オッサンがつけるには気恥ずかしいものなのかもしれないが、
そこは自分で鏡を見ることができない強みとも言える。
ブレスレットの右手にしっかりと白杖を持って出かけた。
案の定、桂駅から乗車した特急電車は、
平日のお昼前、しかも夏休みというのにとても込んでいた。
僕は電車に乗車すると、
ドアの入口に立って捕まる手すりを探した。
その時、僕の手が誰かに触れた。
僕が小声で「すみません。」と言うのと、
彼女が「どうぞ。」と言ってくれるのが同時だった。
僕は安心して、手すりを持った。
僕達の間にいくつかの会話が流れた。
同じ烏丸駅で降りることが判った彼女は、改札口までのサポートを申し出てくれた。
勿論僕は喜んでお願いした。
烏丸駅の改札口に着くと、
彼女は僕の向かう四条駅の改札口までのサポートの延長を提案してくれた。
それくらい、烏丸駅は凄い数の人だった。
「子供が急に横切りました。」
僕を手引きしてゆっくり歩きながら、彼女は幾度か立ち止まった。
「人の動きが、縦横無尽な動きです。」
的を得た表現だった。
改札に着いて僕は感謝を伝えた。
「こんな日のサポートの声は、まさに天使です。ありがとうございました。」
「お気をつけて。」
天使が微笑んだ。
彼女と別れて歩きながら、僕はそっと心の中でつぶやいた。
「Make a difference」
(2014年7月25日)

目薬

視覚障害リハビリテーション研究発表京都大会、
大きなイベントなので、
準備はもちろんのこと当日の運営なども大変だった。
数えきれないくらいのボランティアの方々が動いてくださった。
日常的に視覚障害のボランティア活動に関わっておられる方はもちろん、
この日だけとか、この時だけとかの方も多くおられた。
その中には、僕が関わっている福祉や医療の学校の先生方や学生達の姿も見られ、
とてもうれしく感じた。
一般のボランティアの中には、目薬で有名な製薬会社の社員の方々もおられた。
僕は最後に、その方々に御礼を伝えて頭を下げた。
会社名を聞いて目薬を思い出したら、
なぜか自然に、頭が深々と下がった。
もう僕に効く目薬はない。
どんな目薬をさしても、何かを見ることはできない。
でも、目薬の会社の方々が、汗だくになりながら、
この大会を支えてくださったのだと思うと胸が熱くなった。
そして自然に、頭が深く下がった。
医学はパーフェクトではない。
どんな医療でも治らない病気もあるし、
障害者になってしまう人もいる。
それは仕方のないことなのかもしれない。
でも、共に生きていく人間同士の絆は、
病気の人に笑顔を届けたり、
治らない人を応援したりできるのだ。
感謝を伝えて頭を下げた瞬間、
あの目薬のあとの爽快感が、
静かに僕の心に広がった。
関わってくださったすべてのボランティアの方々に、
心から感謝申し上げます。
(2014年7月23日)

祭りのあと

視覚障害リハビリテーション研究発表京都大会の大会長を引き受けたのは、
2012年の暮れだった。
2013年の1月からは、毎月実行委員会が開催された。
京都ライトハウス、京都府視覚障碍者協会、関西盲導犬協会、
京都視覚障碍者支援センター、
様々な団体からの委員の参加なので、
会議のスタート時間は18時からで、帰宅は22時を過ぎることもあった。
それぞれの専門家が、それぞれの希望を胸に秘めて参加していた。
時には熱い議論もあった。
僕には、実際には理解しきれない高度な議論もあったし、
登場する専門家の氏名でさえ、ほとんどが知らない名前だった。
とにかく、少しずつ準備を進めながら、大会の開催に向かった。
そして、当日が訪れた。
18日のライトハウスでのプレセッションから、
19日、20日の同志社大学寒梅館での大会、
眼科医、看護師、大学の研究者、歩行訓練士、相談支援の関係者、教育関係者、
たくさんの参加者の皆様が日本中から集まられた。
僕は、日本中の仲間が笑顔になれる社会、
これから視覚障害になる後輩達が夢を語れる未来、
ただそれだけをイメージしながら開会の挨拶をした。
そして、三日間、参加者の皆様に感謝を伝え続けた。
盛会な大会となった。
参加者の皆様が、また新しい決意をお土産に会場を去り、
機材の撤収などが終わった寒梅館は祭りのあとの静けさに包まれた。
静けさの中を歩きながら、
挨拶を交わした関係者、握手をした視覚障害の仲間、数えきれない人達を
僕は思い出していた。
僕は誰一人、顔を思い出すことはできない。
でも、同じ未来を見つめて歩くことだけは確認できた三日間だった。
僕は参加してくださった皆様にはもちろんのことだが、
一緒にこの大会に臨んだ実行委員の仲間に心から感謝して、
首からぶらさげていた大会長の名札をはずした。
(2014年7月21日)

コンチキチン

コンチキチンを聴きながら、
四条通りの雑踏を歩く。
薙刀鉾のあたりは、もう立ち止まることも方向を変えることもできない。
右手で白杖、左手で目が見える友人の肘を持ちながら、
人の流れの中の、一人の人になる。
騒音に近いような音、うだるような暑さ、
決して快適な空間ではないのに、
そこに存在できていることに笑みがこぼれる。
この社会の中に、普通に存在していたい。
見えなくなった時の孤独感は、
その存在に不安を投げかけた。
だからこうして、人波の中にいられることがうれしいのだろう。
烏丸駅から電車に乗ったら、
何人もの浴衣姿があった。
「濃紺の浴衣にピンクの帯、草履の鼻緒もピンク、中学生くらいかな。」
うれしそうに解説してくれる友人の声を聞きながら、
頭の中でコンチキチンが流れ続ける。
見えないとか、見たいとか、そんなレベルではない。
ただ、ここに存在していられることが、ただそれだけで、とっても幸せ。
(2014年7月16日)

刺身

今年度から月2回のピアカウンセラーの仕事を引き受けた。
ピアというのは「仲間」という意味があるらしい。
まる一日を月に2回も取られるということでだいぶ迷ったのだが、
四か月目を迎えた今、この仕事に出会ったことに心から感謝している。
障害を持って生きている仲間の話を聞くことが、
実は、僕がどう生きていかなければならないかの道標になってきているのだ。
今日話を聞かせてくださった73歳の全盲の女性は、
九州の離れ小島で生まれ育ち、幼い頃にはしかで失明したのだそうだ。
何かを見たという記憶はない。
子供の頃、島には車もなく安全だったので、
近所を自由に歩き回っていた。
白杖などはなかった。
時々、牛に蹴飛ばされたそうだ。
学校にはいかなかった。
いや、いけなかった。
「学校というところにいってみたかったなぁ。」
彼女は淡々と言葉をつむいだ。
ばあちゃんが少しの算数と、包丁の使い方を教えてくれた。
そして、切り干し大根を作る手伝いなどをした。
島だから、毎日魚を食べて暮らしていた。
玄米ごはんと野菜と、父ちゃんがとってくる魚、
本当に毎日食べていた。
だから、刺身が大好きになったのだそうだ。
50歳の頃、両親と死別し、
仕方なく島を離れて、この施設にきた。
もう帰る場所はないのだから、
ここに居られなくなったら老人ホームに入ると決めている。
「ひとりぼっちだからね。」
彼女はさみしそうにつぶやいた。
ただ、そんな気配はその時だけだった。
施設での作業が上手になってきていること、
編み物もできるようになったこと、
痛かったひざが治って、また散歩ができるようになったこと、
それぞれの言葉には笑顔が添えられていた。
日常をしっかりと受け止めて生きていく姿があった。
「今、何か望むことはありますか?」
僕の質問に、
「島で育ったから、やっぱり刺身を食べたいなぁ。」
あまりにもささやかな願いを口にして、
彼女は恥ずかしそうに笑った。
僕はこぼれ落ちそうになるものを、じっと我慢した。
ふたりぼっちの部屋の中、
向かい合って座っている全盲同士の間の時が止まった。
しばしの沈黙が流れた。
集団生活の施設の給食では、
刺身が出ることはほとんどない。
全盲の彼女が外食に行くこともない。
いや、一か月2万円あまりの工賃の彼女のお財布には、
そんな余裕もない。
運命とか、時代とか、能力とか、
分析をする言葉はいくらでもあるだろう。
でも、それは何の力にもならない。
そして話を聞いた僕にも、彼女の人生に寄り添うことはできない。
ただ、僕にもできること、
沈黙の後にささやかな提案をしてみた。
「74歳のお誕生日、僕と刺身を食べに行きませんか?」
彼女は肯定も否定もしなかった。
そして、うれしそうに笑った。
もしかしたら、ひとりぼっちの彼女のともだちになれるかもしれない。
(2014年7月10日)