大分旅行記 その2

大分市で開催された日本盲人会連合全国大会に参加した。
北は北海道から南は沖縄県まで、
まさに全国から1,000人を超える仲間が集合した。
会議では、活発な議論が繰り広げられた。
それぞれの地域の実情に応じた課題を、
それぞれの地域の代表が思いをこめて語った。
ひとつひとつの言葉には重たさがあり、
ひとりひとりが人間として輝いて生きていきたいという願いが溢れていた。
まだ福祉という言葉さえなかった時代、
先達達は点字ブロックのないホームから列車に乗り、
音響信号もない道をわたり、
こうして集ってきたのだろう。
障碍者の中で、障碍者運動に参加するのはごく一部の人達だ。
時間もお金もかかってしまう。
でも、日本中の仲間のことを考えると、
まだ悲しみや苦しみと向かい合っている仲間のことを思うと、
じっとしているわけにはいかない。
小さな力を結集して、未来に向かうのだ。
僕達が向かう未来、
僕達のための未来ではありません。
僕達も参加できる、みんなの未来です。
(2014年6月4日)

大分旅行記 その1

5月29日19時、神戸港から乗船したサンフラワー号は、
瀬戸内海をゆっくりと西へ向かった。
夕方まで大学の授業があった僕が、
30日の10時から大分市で始まる会議に出席するには、
この方法しかなかった。
天候が荒れないことを祈りながら、当日を迎えた。
穏やかないい天気だった。
日頃の行いのたまものだなと、
密かに微笑みながら船旅を楽しんだ。
甲板で潮風に吹かれながら、
失明が刻々と迫っていた頃を思い出した。
その頃、この船で旅をした。
深夜の瀬戸大橋のイルミネーションが、
もうほとんど見えなくなっていた僕の目に、
微かに映っていたのを記憶している。
あの時、もう見えなくなるという現実にうちのめされそうになりながら、
その灯りを悲しく受け止めた。
15年の歳月が流れた。
イルミネーションの微かな灯りの思いでさえが、
今は僕の中でやさしく横たわっている。
あの頃、俯き加減だったかもしれない僕が、
今はもう何も画像はなくなったのに、
すがすがしい気持ちで風に吹かれていた。
海を見つめ、空を眺め、潮の香りをかぎながら、
生きていること、生かされていることに自然に感謝していた。
この15年は、障害を乗り越えて、
そんな勇ましいものではなかった。
悲しんだり、苦しんだり、怒ったり、その連続だったのかもしれない。
光に未練はないかと尋ねられれば、
間違いなくあると答えるだろう。
見えるようになりたいかと問われれば、
勿論とうなづくだろう。
ただ、15年前には決して堂々と言えなかった言葉、
今は、笑顔で、心を込めて言えます。
「僕は、幸せです。」
あらためて、出会ったすべての人達に感謝申し上げます。
(2014年6月3日)

月曜日の朝

日曜日が休日だったのは久しぶりだった。
ダラダラとゴロゴロと、時間の無駄遣いをした。
本来、いい加減さが好きなのだろう。
ただぼぉーっと、
何の価値もないような時間の中の吐息に、
しみじみと幸せを感じてしまった一日だった。
そのせいか、月曜日の朝の目覚めは重たかった。
布団から起き上がるのにも、少しの勇気、
「よいしょっと。」の掛け声が要った。
それでもなんとか、一講目からの授業に間に合うように準備をすませて、
次の休日はいつかなとスケジュールを調べて愕然とした。
6月14日、20日後だった。
この20日間のうち、大分に3泊、東京に1泊も入っていた。
自分で納得して確認しながら決めた予定のはずなのに、
ちょっと悲しくなった。
その気持ちを引きずったまま出かけた。
靴までが重たく感じた。
バス停に着いたのと同時くらいに、
バスのエンジン音が聞こえた。
乗り込もうとした僕に、
「大丈夫ですか?」のサポートの声がした。
彼女は、途中で下車しなければならない僕を、
バスの出口近くの空席まで案内してくれた。
ありがとうカードを差し出した僕に、
「読みましたよ。」と付け加えた。
それは、きっとこのホームページを意味していたと思う。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、僕は一瞬で笑顔になった。
さっきまでの重たさは消えて、
何か力が湧いてくるような感じになった。
本当に単純な性格なのだ。
見も知らぬ彼女のやさしさで、
20日間のスタートが、とても爽やかな気分で迎えられた。
よし、頑張るぞ。
(2014年5月27日)

緑が生い茂る季節

バスを降りて、いつもの家路をたどる。
歩道の側壁を白杖でたどりながら歩く。
ちょうどいい感じの風に吹かれながら歩く。
生い茂り始めた木の葉や草が、
僕の顔や身体をおかまいなしに触る。
突然頭を撫でられたかと思えば、不意にとおせんぼされたりもする。
顔を触られるくらいならまだしも、鼻の中までくすぐったりする。
結構ないたずらっ子だ。
この季節、いたずらっ子達の遊びは日に日に変化していく。
目が見えていれば、
目前の木の枝や葉っぱなど、無意識に避けて歩くだろう。
無意識に避ける時、植物たちの日毎の成長までには気づけない。
「見えなくて、得することもあるよね。」
僕はそっと、爽やかな風にささやく。
きっと、緑が一番美しい季節なのだろう。
そう思った途端、自然に足が止まって、
夜中の西山を眺めた。
頭の中一杯に緑色が広がった。
いつでも見れること、これも得している部分かな。
風に笑いかけながら、
また白杖で歩き始める。
(2014年5月25日)

お通夜

僕は彼女の顔を見たことはない。
知り合ったのは、僕が失明してからだ。
でも不思議なことに、僧侶の読経の間、
祭壇に飾られた遺影が、
なんとなく微笑んでいるのを想像していた。
自宅に帰り着いてから、「声の京都」というテープ雑誌を取り出して聞いた。
朗読ボランティアをしてくださっていた彼女の透き通ったやさしい声が流れた。
「風になってください」が出版されたのは2004年、
その翌年から、彼女の病気との闘いが始まった。
視覚障碍者の人達のために、
数えきれないくらいの入退院を繰り返しながら、
結局、彼女は最後までその活動をやめることはなかった。
僕は何よりも、生きていく力の強さを彼女から学んでいたような気がする。
テープを聞き終わって、
僕は手を合わせた。
「本当に、ありがとうございました。」
お通夜の棺に向かい合った時と同じように、
口から声がこぼれた。
何も画像のない僕の目前で、
また、彼女の遺影が微笑んだ。
(2014年5月22日)

情熱

小学校の校長先生達のOB会にお招きいただいた。
今年退職された先生もおられたし、
もう20年近くが経過したという先生もおられた。
夕食前の小一時間、お腹もすきはじめた時間帯の講演だったが、
研ぎ澄まされた空気が会場を包んだ。
特に、目が見えない僕と子供達とのやりとりの部分などでは、
先生方のまっすぐな視線が僕に浴びせられた。
それは、真剣さを意味するものだった。
やりとげた充実感、成し遂げられなかった口惜しさ、
それぞれの思いを胸に、それぞれの足跡を振り返りながら、
未来を見つめてくださったのだろう。
講演の後のあたたかな拍手、激励の言葉、
握りしめた手のぬくもりがそれを物語っていた。
それぞれの生きる道程で引退とか退職はあっても、
人間の情熱に終わりはないことを教えられた気がした。
そして、その情熱を心からうれしく感じた。
(2014年5月17日)

松葉杖の友人

肢体障碍者の知り合いから、
久しぶりのメールが届いた。
年齢のせいで筋肉が衰え、
松葉杖が大変になってきているとのことだった。
僕が彼と知り合ったのは、
地域の障碍者の集いだっただろうか、
子供の頃からの肢体障害だった彼は、
まだ福祉という単語さえなかった少年時代、
父親が作ってくれた杖を使って歩いていたと教えてくれた。
その言葉には、父親への深い愛情と感謝が溢れていた。
差別や偏見に満ちた社会を生き抜いてきたはずなのに、
彼の言葉も、語り口も柔らかく、
怒りのようなものは何も感じられなかった。
淡々と、彼は生きていた。
見えなくなったばかりで、まだつい俯き加減の僕に、
彼は、人間の尊厳みたいなものを伝えてくれた。
淡々と生きる姿が美しいと思った。
届いた短いメールの最後には、
「お元気でご生活ください。」
と記されていた。
彼らしい美しい言葉だった。
淡々と、僕も生きていきたい。
(2014年5月12日)

7年ぶりの少年

駅のホームで声をかけてくれた若者は、
出身の小学校名と自分の苗字を名乗った。
彼の手引きで歩きながら、
彼が名乗った苗字につながる名前が、
僕の深い記憶の中から蘇った。
「こうた君か?」
彼に確かめたら、記憶は正しかった。
僕の記憶の中にあった少年、
彼が10歳の時に福祉授業で数時間会っただけだったが、
その授業の後に、メールでメッセージを届けてくれたのだった。
「僕は一生、点字ブロックの上には自転車を止めません。約束します。 こうた」
短いメールだったが、
少年の純粋で強い決意は、
紛れもなく、見えない世界で生きていく僕達へのエールであり、
当時の僕をとても幸せな気分にしたのだった。
17歳になった彼は、
僕の身長を超え、声も大人になっていた。
僕達はまるで親友との再会のように、
何度も強い握手をした。
社会にメッセージを届ける活動、
きっと未来につながっていくと信じてやっている。
でも、根拠もないし、確乎たる自信もない。
しかも現実は、なかなか目に見えるような変化が起こっているとも思えない。
ひょっっとしたら、僕の希望にすぎないのかもしれない。
「今も、小学校などに言っておられるのですね。」
別れ際の彼の言葉は、
その意味を伝えて、僕の心までを手引きしてくれたように感じた。
一日に5万人以上の人が利用するこの駅で、
今度彼に会えるのはいつになるだろう。
その時も、活動を続けている僕でありたいな。
いや、少年も一生の約束をしてくれたのだから、
僕も頑張らないとな。
(2014年5月9日)

いかなごのくぎ煮

5月の風が感じられる頃になると、
視覚障害の友人から、
いかなごのくぎ煮が届く。
大阪で暮らしてきた彼女にとっては、
初夏を告げる風物詩なのだろう。
見えない僕と、ほとんど見えなくなっている彼女と、
共通点は視覚障害ということだ。
ただ不思議と、
目や病気の話はほとんどしない。
お互いに、苦しかった時も悲しかった時もあるのだが、
そこには触れない。
それぞれの人生を豊かにする話題が多くなる。
きっと、たどり着いた場所が同じということなのだろう。
彼女にとっての風物詩が、
いつのまにか、僕にとっての風物詩にもなった。
障害があるとかないとか無関係に、
いい出会いは、人生を豊かにしてくれる。
感謝しながら、
ついついご飯を御代りしてしまった。
いかなごのくぎ煮、真っ白な炊き立てご飯がよく似合う。
(2014年5月5日)

爽やかな風

久しぶりに立ち寄ったトンカツ屋さん、
入口の判らない僕は、
道行く足音に向かって声を出した。
「トンカツ屋さんの入口を教えてください。」
すぐに立ち止まってくださったご婦人は、
「ここのトンカツおいしいよね。」
そう言いながら、たった数歩、僕を手引きしてくださった。
つまり、僕はほとんど入口に近い場所から声を出していたのだ。
ご婦人は、入口がすぐそこなんておっしゃらなかった。
見えないということを、理解してくださっていたのだろう。
店員さんがサポートしてくださるのを見届けて、
ご婦人は立ち去られた。
トンカツ屋さんには、いつもの店員さんがおられた。
ランチの説明をしてくださり、
申し訳なさそうに、消費税で値上がりしたことも付け加えられた。
器にソースを入れ、ゴマを入れ、御飯にお漬物を載せてくださった。
さりげなくて確実なサポートには、
いつも上品さが漂っている。
「何かあったら、何でもおっしゃってくださいね。
どうぞ、ごゆっくり。」
僕は、本当にゆっくりのんびり、ランチを楽しんだ。
「ここのトンカツおいしいよね。」
ご婦人のやさしい言葉を思い出しながら、
胃袋だけでなく、心までが満足していた。
食事が終わると、
店員さんは、僕の向かう横断歩道まで手引きしてくださった。
横断歩道の点字ブロックに着くと、
「また、立ち寄ってくださいね。」
笑顔で会釈された。
笑顔が、5月の爽やかな風にとても似合った。
(2014年5月3日)