昭和56年、母が鹿児島から京都へ出てきたのは54歳の時だった。
大きな病気をしてそれまでの生活が継続できなくなった中で、
とりあえず息子の近くに行こうということだった。
24歳だった息子は大きな決心の意味は深くは判らないまま、
成りゆきに任せた感じで父と母を迎えた。
両親を少しでも楽にさせてあげたいと通り一遍の思いはあったのだけれど、
ただ流れるように日々の暮らしをつむいでいった。
ほとんど何もできないまま時間は過ぎていった。
それどころか息子は40歳で失明して、
多くの心配や迷惑をかけることになってしまった。
勿論申し訳ないという気持ちはあったのだけれど、
それを表現することも差し控えた。
父と母との京都での暮らし、淡々と流れていった。
33年目の冬、父は旅立った。
残された母のために一番いいのは何なのか、
答えを探すのはそんなに難しいことではなかった。
鹿児島で暮らす妹の家に引っ越すという提案に、
母は素直にうなずいた。
出発の朝、妹に連れられて母はタクシーに乗り込んだ。
88歳の母のために車いすも準備された。
タクシーの中の母に向かって僕は手を振った。
母も僕に向かって手を振った。
タクシードライバーは気を効かせてドアをスライドしてくださった。
「かあちゃん、がんばってね。」
親離れの出来ていない息子はろくな言葉も探せなかった。
ただいつまでも手を振った。
走り去ったタクシーの音を耳で追いながら、
何の脈絡もなく、
今日が七夕なのを思い出した。
何故だか七夕は雨が似合う。
母の新しい出発は、
58歳になっている僕にとってもまた次の旅立ちとなることを実感した。
(2015年7月7日)
七夕
タコ
僕は元々タコが好きだ。
おいしいタコに出会うとちょっと幸せな気分になる。
先日、新鮮でおいしいタコが出た料理屋さんで半夏生の話題となった。
その料理屋のおかみさんから、
半夏生のいわれが説明してあるメールが今日届いた。
田植えの稲がタコの足のようにしっかりと根付きますように、
お米がタコの吸盤のようにたくさん付きますようにとの願いがこめられているとのこ
とだ。
農耕民族のこの国の先人達が
日々の暮らしの祈りから始めたことなのだろう。
若い頃あまり興味がなかったような文化を素敵だと思えるようになった。
それを知ることに喜びを感じるようにもなった。
知るということが単純に知識という意味でなく、
おいしいタコが噛めば噛むほど味わい深くなる感覚に似ている。
メールを幾度か読み返して言葉を噛みしめながら、
見たことのないおかみさんの笑顔が見えそうな気にもなった。
(2015年7月5日)
仙台
1978年、21歳の夏だった。
ラジオから流れた青葉城恋歌を聞いて仙台へ行ってみたくなった。
京都駅から鈍行列車に乗り込んだ。
大学生だった僕はお金はなかったが時間だけはあった。
途中の駅で仮眠をとりながらの一人旅だった。
どれくらいの時間がかかったかも憶えていない。
車窓からの風景を見たり、
地元の乗客の方言を聞いて楽しんだりして時を過ごしたと思う。
パソコンも携帯電話もない時代だったのだから、
退屈になったら文庫本を読んだりしていたのだろう。
仙台駅へ着いた時ホームには青葉城恋歌のメロディが流れていた。
それだけで幸せだった。
満ち足りた心のまま青葉城址を尋ね広瀬川を眺めた。
それから足を伸ばして松島や瑞巌寺を散策した。
宿泊施設に泊まるような余裕はなかったので、
夜はパンをかじりながら駅の待合室などで過ごした。
生きる意味なんてまだまだ考えてもいなかったはずなのに
幸せの探し方は判っていたのかもしれない。
37年ぶりの仙台、記憶にある風景を確かめることはできなくなってしまっていた。
幸せの探し方があの頃よりも特別に上手になったわけでもない。
でも、生きている意味はきっとたくさん学んできたのだろう。
松島の浜辺に建つ震災の記念碑を触りながら、
そこに佇んでいられる自分に幸せを感じた。
あの風景を眺めてから37年という時間、
生きてこられたことにただただ深く感謝した。
(2015年7月1日)
福島にて
視覚障害リハビリテーション研究発表大会が福島市で開催された。
昨年は京都市で開催されたので僕も主催者側として関わった大会だ。
1年以上前からの検討会議、準備、当日と目まぐるしい日々だったことが懐かしく思
い出された。
僕自身はたいしたことはできなかったのだけれど、
大会が日本中の視覚障害の人の幸せにつながるようにと願いながら取り組んだ。
あれから1年の歳月が流れた。
大学などの研究者、ドクターや視能訓練士などの医療関係者、相談員や歩行訓練士な
どの専門家、
それぞれの研究発表に耳を傾けながら、
またひとつ進んだことを感じた。
そしてしみじみと有難いと思った。
こういう人達のお蔭で
僕が今参加できる社会があるのだ。
僕は見えない人間という立場で、
僕にできることを少しだけれど頑張っていきたい。
(2015年6月30日)
歩数
木曜日・7,874
金曜日・2,155
土曜日・5,633
日曜日・193
月曜日・6,823
火曜日・10,087
水曜日・7,259
僕がこの一週間に歩いた歩数だ。
金曜日は午後からボランティアさんの車で動いたから少ないし、
日曜日は久しぶりの休日で家から一歩も出なかったからこんな数字となった。
携帯電話に歩数計がセットされていて、
いつの頃からか日々の歩数を気にするようになった。
一日に5千歩から7千歩くらいの日が多い。
週に1日くらい1万歩を超える日もある。
健脚とまではいかないが元気に暮らしているということにはなるのだろう。
目が少しずつ見えなくなっていった頃、
まだ白杖も持たずにいた頃、
ほんの数メートル歩くのにエネルギーを要した。
ほとんど見えなくなっている目で必死に見ようとしていた。
恐怖心もあった。
そして失敗して他の通行人にぶつかったり、
地面に置いてあるものにつまずいて転んだりした。
歩くという行動は悲しみや口惜しさの中にあった。
あれから18年、そんな感情は消えた。
きっと白杖を持った僕は右往左往しながら時にはヨタヨタと歩いているのだろう。
不格好なのかもしれない。
18年の間に僕はその僕を受け入れられるようになった。
このカッコつけの僕が不格好な自分をとても好きになった。
自分の足で一人で歩く自由がとてもうれしかったのだろう。
風を感じながら、
季節のささやきに耳を澄ませながら、
やさしい人との出会いに感謝しながら、
これからも一歩一歩歩いていきたい。
ずっとずっと歩いていきたい。
(2015年6月25日)
趣味
時間の計算をしながら、
ちょっとでも余裕がありそうな時はついラジオの野球中継を聞いてしまう。
見えなくなってもう18年も経つのだから、
それぞれのチームの選手がどんな顔しているのかどういう体格なのか、
ピッチャーがどんな投球フォームなのかなどは何も判らない。
でも試合を楽しむのにほとんど影響はない。
いつの間にか試合に入り込んでいる。
見えている頃と同じように楽しんでいる。
ラジオの野球中継には画像はないのだから、
目が見えていなくても見えていても同じ条件ということなのだろう。
野球のルールさえ知っていれば楽しめる。
その点、フィギアスケートとかテニスとかは試合結果に興味はあるのだけれど、
ライヴで放送を聞こうとはしない。
イメージできるかできないかということになるのかな。
野球の試合はプロ野球だけではなくて高校野球も聞いてしまうから好きなのだろう。
視覚障害者の友人達の中には1年に何冊もの本を読んでいる人も多くいる。
音楽や実際にスポーツで汗を流すのが趣味という人もいるし、
複数の趣味を持っている人もいる。
僕は野球を聞く以外は時間があれば寝てしまう。
先日、昨年読んだ本で一番良かったのはと聞かれて答えられなかった。
悩んで答えられなかったのではなくて、
1冊も読んでいなかったから答えられなかったのだ。
カッコ悪いからちょっと読もうかと一瞬思ったけれど、
やっぱり野球か睡眠に向かっている現実がある。
睡眠の中ではいろいろな事にチャレンジしていることもあるのですけれどね、
ほんのたまにですけれど。
(2015年6月21日)
雨粒
空から雨粒がこぼれてきた。
結構大きな雨粒だ。
雨粒を触って確かめられるわけでもなく
顔に当たった時の感覚だけのイメージだ。
そんな微妙なことまでイメージしてしまうのだから人間の感覚って楽しい。
イメージの信憑性を確かめたくてわざと上を向いて息を止めてみる。
顔に当たる雨粒に感覚を集中させる。
やっぱりほんの少し大きいような気がする。
雨粒が目に入らないようにそっと少しだけ目を開ける。
灰色の雲なのだろうか。
青空はすぐに脳裏に浮かぶのに雨空はなかなか浮かんでこない。
不思議だなって思いながらまた目を閉じる。
やっぱりちょっと大きめの雨粒が空からこぼれ落ちてくる。
雨が空から降れば思い出は地面に沁みこむ。
懐かしいメロディを突然思い出しながらちょっと幸せな気分になる。
(2015年6月18日)
ヨガ教室
「はい、ゆっくり息をはいてぇ~」
先生の声に合わせて僕達は呼吸をする。
元々そうなのか、ヨガによるものなのかは判らないけれど、
とっても美しい声だ。
声自体がすうっと入ってくる感じだ。
先生は素人の僕達にも判りやすいように
身体と心のバランスなどをゆっくり説明しながらそして笑顔で教室を進めていく。
ライトハウスのホールに集まった50人近い視覚障害者は
いつのまにか魔法をかけられて心地よい気分になっていく。
先生にとっては生徒が目が見えるとか見えないとかはあまり関係ないのだろう。
時折語られる肩の凝らない話やたわいもない冗談は自然体そのものだ。
先生と出会ってもう何年だろうか、
どういういきさつだったのだろうか、
さわさわでのチャリティヨガ教室を毎週のように開催してくださっている。
継続ということがどれほど大変なことかは僕はよく知っている。
直接出会う機会はなかなかないのだけれど、
関係者やスタッフに尋ねると
やっぱりいつも先生は自然体なのだ。
そよ風みたいと表現していた人もいた。
活動はさわさわから発展して市内の視覚障害者団体やライトハウスまで広がってきて
いる。
ちょっと申し訳ないという気はあるのだけれど、
笑顔になれる人が増えるのだからいいのだと勝手に解釈している。
先生と出会う度に僕も自然体にあこがれる。
でも何回か教わったヨガをしっかりやり続けようとはしない。
努力とか継続とかは本当に苦手なのだろう。
苦手と思うことが身体と心がアンバランスということなのかもしれないな。
今夜はせめて腹式呼吸をちょっとやってから眠ります。
(2015年6月14日)
紫陽花
堀川のバス停へ向かって歩いていた。
たまにしか歩かない道なのでいろいろな音を聞き分けながら慎重にゆっくりと歩いて
いた。
「どこまで行かれますか?」
小さな路地を確認して止まったタイミングに合わせるように
若い女性の声がした。
「交差点の近くのバス停までです。貴女はどこまでですか?」
僕は聞き返した。
「多分、同じバス停だと思います。」
結局、僕は彼女の肘を借りて歩き始めた。
100メートルほどの距離、
さっきまでの単独歩行の緊張感はお休みさせて、
のんびりとのんびりと歩いた。
どこの誰かも判らないまさに赤の他人だ。
勿論顔も判らない。
僕に判るのは優しい人間というただそれだけだ。
「紫陽花がとっても綺麗ですよ。青空みたいな色・・・。」
突然の彼女の言葉で僕は一気にうれしくなった。
僕は立ち止まって頼んでみた。
「紫陽花、近くにあるのなら触らせてください。」
紫陽花は近くどころかすぐ脇にあった。
僕の手を彼女がそっと持ち、
僕の指先がそっと花弁に触れた。
記憶の中の紫陽花が瑞々しい色で蘇った。
もう20年近くも見ていないのにはっきりと蘇った。
「本当に綺麗ですね。」
つぶやいた僕に
「少しは見えるのですか?」
彼女は問いかけた。
「いや全然見えないのですけれど、20年くらい前までは見えていたので思い出したの
ですよ。うれしいですね。ありがとう。」
僕達は笑った。
そして僕は空を眺めた。
確かに頭上には梅雨の晴れ間の紫陽花色の青空があった。
(2015年6月10日)
お腹いたの朝
目が見えなくても風邪もひくし体調が思わしくないこともある。
そんな日は外出するのがおっくうになる。
今朝はお腹が痛くてトイレにこもり予定のバスに乗り遅れた。
仕事に遅れるわけにはいかないのでタクシーを選択した。
最寄り駅までだったら1,300円程度かかる。
でももし移動中に駅でまたお腹が痛くなったらどうしようと不安になる。
見えないとトイレを探すだけでも一仕事になることもあるのだ。
ギリギリまで迷った後タクシーの運転手さんに行先の駅名を告げた。
最寄り駅ではなくて到着地の駅名だ。
いつもはバスと電車を四度乗り換えて1時間近くかかる場所だ。
車だったら電車より近道ということは知っていたけれども
どれくらいの時間と料金がかかるかは判らない。
腹痛に襲われた時の不安をとるか料金の不安をとるか
どちらにしても不安の中の朝となった。
乗車するなりおおよその所要時間を尋ねたら
時間は1時間くらいで料金は5千円までとのことだった。
尋ねていないのに料金まで教えてくださったのは僕の顔が不安そうにしていたという
ことなのだろう。
ちょっとほっとしながら僕はタクシーの中の時間をのんびりと過ごした。
幸いお腹の具合もいい感じだった。
結局料金は4,200円ほどだった。
想定内だったけれど何かとてももったいない気分だった。
朝からちょっと重たい気持ちを引きずりながら歩いていたら
「松永先生おはようございます。」
明るい可愛い女子学生の声が聞こえてきた。
爽やかな笑顔だった。
元気出せよとささやかれているような感じだった。
なんとなく背筋を伸ばしたら吹き抜ける風も感じた。
気分しだいで随分変わるものだな。
僕は元気を出して、お腹をよしよししながら教室に向かった。
(2015年6月4日)