コンチキチン

コンチキチンを聴きながら、
四条通りの雑踏を歩く。
薙刀鉾のあたりは、もう立ち止まることも方向を変えることもできない。
右手で白杖、左手で目が見える友人の肘を持ちながら、
人の流れの中の、一人の人になる。
騒音に近いような音、うだるような暑さ、
決して快適な空間ではないのに、
そこに存在できていることに笑みがこぼれる。
この社会の中に、普通に存在していたい。
見えなくなった時の孤独感は、
その存在に不安を投げかけた。
だからこうして、人波の中にいられることがうれしいのだろう。
烏丸駅から電車に乗ったら、
何人もの浴衣姿があった。
「濃紺の浴衣にピンクの帯、草履の鼻緒もピンク、中学生くらいかな。」
うれしそうに解説してくれる友人の声を聞きながら、
頭の中でコンチキチンが流れ続ける。
見えないとか、見たいとか、そんなレベルではない。
ただ、ここに存在していられることが、ただそれだけで、とっても幸せ。
(2014年7月16日)

刺身

今年度から月2回のピアカウンセラーの仕事を引き受けた。
ピアというのは「仲間」という意味があるらしい。
まる一日を月に2回も取られるということでだいぶ迷ったのだが、
四か月目を迎えた今、この仕事に出会ったことに心から感謝している。
障害を持って生きている仲間の話を聞くことが、
実は、僕がどう生きていかなければならないかの道標になってきているのだ。
今日話を聞かせてくださった73歳の全盲の女性は、
九州の離れ小島で生まれ育ち、幼い頃にはしかで失明したのだそうだ。
何かを見たという記憶はない。
子供の頃、島には車もなく安全だったので、
近所を自由に歩き回っていた。
白杖などはなかった。
時々、牛に蹴飛ばされたそうだ。
学校にはいかなかった。
いや、いけなかった。
「学校というところにいってみたかったなぁ。」
彼女は淡々と言葉をつむいだ。
ばあちゃんが少しの算数と、包丁の使い方を教えてくれた。
そして、切り干し大根を作る手伝いなどをした。
島だから、毎日魚を食べて暮らしていた。
玄米ごはんと野菜と、父ちゃんがとってくる魚、
本当に毎日食べていた。
だから、刺身が大好きになったのだそうだ。
50歳の頃、両親と死別し、
仕方なく島を離れて、この施設にきた。
もう帰る場所はないのだから、
ここに居られなくなったら老人ホームに入ると決めている。
「ひとりぼっちだからね。」
彼女はさみしそうにつぶやいた。
ただ、そんな気配はその時だけだった。
施設での作業が上手になってきていること、
編み物もできるようになったこと、
痛かったひざが治って、また散歩ができるようになったこと、
それぞれの言葉には笑顔が添えられていた。
日常をしっかりと受け止めて生きていく姿があった。
「今、何か望むことはありますか?」
僕の質問に、
「島で育ったから、やっぱり刺身を食べたいなぁ。」
あまりにもささやかな願いを口にして、
彼女は恥ずかしそうに笑った。
僕はこぼれ落ちそうになるものを、じっと我慢した。
ふたりぼっちの部屋の中、
向かい合って座っている全盲同士の間の時が止まった。
しばしの沈黙が流れた。
集団生活の施設の給食では、
刺身が出ることはほとんどない。
全盲の彼女が外食に行くこともない。
いや、一か月2万円あまりの工賃の彼女のお財布には、
そんな余裕もない。
運命とか、時代とか、能力とか、
分析をする言葉はいくらでもあるだろう。
でも、それは何の力にもならない。
そして話を聞いた僕にも、彼女の人生に寄り添うことはできない。
ただ、僕にもできること、
沈黙の後にささやかな提案をしてみた。
「74歳のお誕生日、僕と刺身を食べに行きませんか?」
彼女は肯定も否定もしなかった。
そして、うれしそうに笑った。
もしかしたら、ひとりぼっちの彼女のともだちになれるかもしれない。
(2014年7月10日)

いつものように桂駅の改札口をカードで入り、
梅田方面行きのホームに向かった。
長岡京市で開催される朗読ボランティア養成講座での講演に向かうためだ。
電車に乗り込むと、
いつものように乗降口近くの手すりを握った。
空いている座席を見つけられない僕にとっては、
それがいつもの行動だ。
立っているのは不安定で危険なので、
とにかく手すりやつり革を握るようにしている。
手すりを握ってすぐに、端っこに座っておられた乗客が声をかけてくださった。
「座りませんか?」
やさしい声だった。
最初から座ることをあきらめている僕にとっては、
それは思いもかけないプレゼントみたいなものだ。
うれしさのあまり、違う方向を向いて座ろうとしてしまったが、
それくらいは盲人の愛嬌というやつだ。
方向を修正して、隣同士に座った彼女と会話を少し。
同じ駅で降りることが判った。
僕はすかさず、駅の近くのマクドナルドまでの案内もお願いした。
彼女は快く引き受けてくださった。
自転車が止まっていて歩きにくいからと、
マクドナルドの中まで案内してくださった。
「貴女に出会わなかったら、僕は駅の入口で立ったままで時間調整したでしょう。
本当にありがとうございました。」
僕は感謝を伝えて彼女と別れ、
ゆっくりとコーヒータイムを楽しんだ。
それから、迎えの人と講演会場に向かった。
会場は朗読の研修の最中だった。
そこには、先生と受講生の真剣な姿があった。
朗読の練習の声を聞きながら、
こういう人達のお蔭で僕達の読書環境などが保障されてりうんだなと思うと、
自然に感謝の気持ちが湧き出てきた。
講演ではもちろん、僕は心をこめて話をした。
帰り際に、受講生が声をかけてくださった。
「良かったです。」
短い言葉だったが、その声や音の響きで、気持ちが伝わってきた。
うれしさをポケットに入れての帰り道、
いつもの桂駅で迷子になった。
よく利用している河原町方面からの到着ではなくて、
梅田方面からの到着だったので、
頭の中の地図をさかさまにする作業がうまくいかなかったのだ。
「松永さん、一緒に行きましょうか。」
大学生くらいの女性の声だった。
「名前を呼ぶということは、どこかの小学校で出会ったのですか?」
「その通りです。」
彼女は笑った。
改札口を出て、点字ブロックまでサポートしてもらった。
「また、声をかけますね。」
「ありがとう。」
僕は感謝を伝えて彼女と別れた。
やさしい人間の声、僕の人生を幸せにしてくれている。
男性、女性、大人、子供無関係に、
人間のやさしい声は誰かをつつむ力があるのだ。
(2014年7月8日)

引っ越し応援基金へご協力ください

「ブライトミッション引越しにご支援ください」

2年前、僕たちは集いました。
見える人、見えない人、見えにくい人、それぞれが存在し、
それぞれが何かを発信できる場所を求めたのです。
NPO法人ブライトミッションを設立し、
町家カフェさわさわをオープンしました。
また、ごま事業にも取り組み、音楽活動や
点字グッズの製作活動にもチャレンジしてきました。
皆様のエールをいただきながら、さわさわは成長し、
就労継続支援の事業としての認可も得ることができました。
そしてこの度、次のステップへ移行するために、
新天地への移転にとりかかりました。
ただこの移転には、移転先の改築費など、
多額の資金を必要としています。
金融機関からの融資の準備も進めていますが、
潤沢というわけにはいきません。
ブライトミッションの掲げる理想に向かって、さわさわの未来のために、
視覚に障害をもつ仲間のために、後輩たちのために、皆様の力をお貸しください。
ブライトミッション引越し応援基金として、
一口1,000円、1,000口を目標としています。
よろしくお願い申し上げます。
NPO法人ブライトミッション理事長 松永 信也

【引越し応援基金 お振込み先】
ゆうちょ銀行・振替口座
00960−6−328398
名義人 トクヒ)ブライト ミッション

【町家カフェさわさわ新住所】
〒604-0934 京都市中京区麩屋(ふや)町通二条下る尾張町212番地
TEL/FAX 075-744-1417 ※電話番号は同じです

詳細は、
NPO法人ブライト・ミッション」のホームページまたは
リンク先の「町家カフェ・さわさわ」のホームページでご確認ください。

(2014年7月3日)

夜空

夜7時の小学校の教室、
先生方とPTAの人達が集まられた。
約2時間、僕の話に耳を傾けてくださり、
質問も投げかけてくださった。
見えない世界を伝えようとする僕の思いと、
見えない世界を知ろうとする人達のやさしさが、
教室の中で交錯し、
空気は穏やかに変化していった。
ここの校長先生と出会ったのはもう10年前くらいになるだろうか。
それから幾度か、子供たちに、先生方に、PTAの人達に、
伝える機会をつくってくださった。
見えなくなって、たくさんの先生方と知り合った。
子供達への深い愛情、教育者としての信念、そして未来への希望、
いつも素敵だと思う。
僕が子供の時も、
先生方はこんな風に僕を育んでくださったのだと思うと、
やっぱりうれしくなる。
そして、僕達も共に生きていく社会について一緒に考えてくださることに、
心からありがたいことだと感じている。
「今年で定年です。またいつか、どこかで会いましょう。」
握手してくださった校長先生の手がとてもあたたかかった。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
共に生きていける社会に向かって、
見えない世界を正しく伝えたい。
見えなくなってから始めた未来への種蒔き、
たくさんの人達の応援の力で随分と頑張ることができた。
未来はまだまだ向こうだけど、
いや、まだまだ向こうだから、
まだまだ頑張らなくちゃと思う。
学校を出て、駅で電車を待つ間、
ふっと空を眺めた。
「見えるようになったら、今何を見たいですか?」
やさしさに満ちた質問に、
僕は、今、空を見たいと思うと答えた。
駅の上には、真っ青な空が見えた。
雲ひとつない青い空だ。
見える人には、夜空が映り星も輝くのだろうが、
僕には想像する空しかない。
でも、本当に美しい澄んだ青い空だった。
見とれてしまうくらいの、青い空だった。
(2014年7月2日)

気分もスイスイ

朝のラッシュアワーの時間帯、
点字ブロックの上を歩いていた僕の白杖が、
通行人の足にからまった。
「すみません。大丈夫ですか?」
こういう時には、まずこちらから謝罪をすることにしている。
何も返事はなかった。
大事にはなっていない雰囲気を確認して、
僕は気を取り直して、目的地へ急いだ。
午前中は、京都府警の関係機関に足を運んだ。
横断歩道のこっちからあっちまでまっすぐに歩けるように、
エスコートゾーンの設置をお願いするためだ。
京都市の担当の方も同行してくださった。
誰にとっても暮らしやすい街になるように、
専門家のアドバイスはとても有難い。
午後は、引っ越し間近のさわさわで過ごし、
夕方には新しいさわさわの現地調査に参加した。
用事をすませて、烏丸丸太町まで友人に車で送ってもらい、
地下鉄の駅へ向かおうとして少し迷子になった。
誘導鈴に向かったのだが、
微妙に違ったらしい。
エスカレーターはここですよと紳士の声、
僕はここぞとばかりに肘を借りて、
地下鉄丸太町駅までスイスイ、
同じ方向だったので、電車にも一緒にスイスイ、
紳士は僕の予定駅よりひとつ手前で降りていかれた。
人間っていいよなぁっと幸せな気分で四条駅に着いた。
電車を降りようとしたら、
人の壁で動けない。
慌てても危ないし、あきらめかけた時に、
僕の目になるような「開けてください」の女性の声。
一緒に降りた彼女に、僕はまた図々しく肘を借りる。
そして、改札口までスイスイ。
改札口でお礼を言って、そこからまた一人で歩きながら、
やっぱり人間っていいよなぁって、つくづく思いました。
朝の出来事で少しへこんだ気持ち、
やさしい人達のおかげで、
すっかり幸せ気分になりました。
見えなくても参加できる人間の社会、
本当に素敵です。
(2014年6月29日)

紫陽花

僕達はそれぞれに、ボランティアさんに手引きしてもらいながら歩いていた。
紫陽花が咲いていると、一人のボランティアさんが教えてくれた。
僕達は立ち止まり、紫陽花をそっと触った。
ほんのりと青い色と聞いて、
僕はそれを想像した。
子供の頃からの全盲の友人は、
もちろん、紫陽花の画像の記憶はない。
ほんのりとした青い色を思い浮かべることはできない。
僕は見えている頃、見えないということは悲しくて不幸なことだと思っていた。
「長靴をはいてみたくなるね。」
紫陽花を触りながら、彼は笑った。
思い出の中に、雨があるのだろう。
見たことがあるとかないとか、
聞いたことがあるとかないとか、
行ったことがあるとかないとか、
実はそれはささいなことなのだ。
それを心に留められるのか、
その心を持てるのか、
その方がずっと大切なことなのだ。
「でんでん虫、触ったことある?」
唐突に尋ねた僕に、
「あるある、気持ち悪いよね。
エスカルゴはあの仲間だと聞いてから、僕は食べられないんだ。」
彼がまた笑った。
僕は、僕と同じなのに驚いて、
僕も同じだよと言いかけた言葉を飲み込んで、
「あんなうまいもん食べないの?
見ただけで、ヨダレが落ちそうになるんだけどね。
最高においしいのに、残念やなぁ。」
とニヤリと笑った。
(2014年6月26日)

京都府視覚障碍者協会総会

京都府下全域から、それぞれの地域で暮らす視覚障碍者が集まった。
年に一度の京都府視覚障碍者協会の総会、
梅雨空の雨の下、会場の京都市内にあるコンベンションホールは300人の熱気に包
まれた。
北は舞鶴市や京丹後市から、
南は奈良県と接する木津川市から、
遠方の人は5時過ぎには家を出たと言っておられた。
そこまでして、人は何故集うのだろうか。
障碍者の中で、こういう運動に参加しているのは2割にも満たないくらいの数だ。
よくメリットはと尋ねられるが、特別なものはない。
再会の握手をし、肩をたたき合い、同じ未来を見つめる。
ただそれだけかもしれない。
お金も名誉も要りませんという人もおられるが、
凡人の僕は、名誉には興味はないけれども、
やっぱりお金は欲しいと思っている。
協会の活動に参加すれば、
まして役員などを引き受ければ、持ち出しは結構なものだ。
それでも引き受けるのは、何故だろう。
なんとなくなのだけれど、あえて言い表せば、ミッションというやつだろうか。
「一人ぼっちの視覚障碍者をなくそう!」
僕達の協会のキャッチフレーズだ。
たったこの一行のメッセージがすべてを語っている。
光を失った時、それを簡単に受け止める程、人は強くはない。
その状態で生きていく時、まだまだ社会は成熟しているとは言えない。
それでも、人は生きていくことを選択する。
いや、生きていかないことを選択するほどのものは、
基本的には存在していないのだろう。
階段の上から、
「頑張れよ。」と先輩達の力強い声が聞こえる。
「ゆっくりでいいんだぞ。」とやさしい声が聞こえる。
後ろを振り返ると、
立ち尽くして呆然としている後輩達が見える。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ。」
僕はささやく。
それはひょっとしたら、過去の僕なのかもしれない。
もう一度振り返って、再度上を見上げても、
頂上は見えない。
見えないから上るんだ。
来年の再会までに、もう3段くらいは上っていたいな。
(2014年6月22日)

岡南公民館

老若男女、いや平日の午前中だったので若は少な目だったが、
気は若いという人はたくさんおられた。
ほとんどが元気な中高年だったが、
白杖の人、盲導犬の使用者、医療関係者、他の障害を持った人なども若干おられた。
岡山駅から車で30分、岡南公民館には100名を超える地域の方々が集まられた、
笑いながら、時には胸がキュンとしながら、僕達はひとつになった。
数年前、僕の著書「風になってください」を読まれた方々が、
3人で京都での僕の講演を聞きにこられた。
いつか岡山でもとおっしゃってくださったが、
こんなに早く実現するとは思わなかった。
講演会などが実現するには、いくつものハードルがあることを知っている。
ハードルが高くて実現しなかったこともいくつかある。
思いが実現するために、きっと何人もの、縁の下の力持ちが登場したに違いない。
そしてそれが繋がって、実現したのだ。
「そよ風の会」と名乗った彼女達は、
本当にさわやかなそよ風を吹かせてくださった。
その風に乗って、僕は未来への種を蒔いた。
会場には、彼女達が咲かせた季節外れのコスモスが揺れていた。
目の前はどんな感じかと聞かれることがあるが、
いつも変化のない灰色です。
ただ、灰色の向こう側に、キラキラとした未来を感じることもあります。
それはきっと、人間同士の絆が作り出してくれるものなのでしょう。
人間であることに、この社会に、心から感謝します。
岡山の皆様、本当にありがとうございました。
(2014年6月18日)

栄光館

82年前の6月14日、新島八重さんがこの世を去った。
彼女の葬儀が行われたのが、同志社の栄光館なのだそうだ。
昨日、その場所で、同志社女子中学校の生徒達に話をした。
栄光館は歴史を刻みながら、堂々とそして静かにたたずんでいた。
800人の生徒達と先生方、
食い入るように僕を見つめ、しっかりと話を聞いてくださった。
八重さんの兄、覚馬氏も中途失明の全盲だったらしい。
教育も福祉も充実していなかった時代に、
盲人達はどうやって生きていったのだろう。
いただいた大きな花束を抱きかかえて歩きながら、
この時代に生きていることに自然に感謝した。
そして、平和に心から感謝した。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加する社会、
まだまだ道半ばだ。
先輩達からのバトンをしっかりと受け継ぎ、
少しくらいは前に進んで、
そして、次の世代に渡せたらと願う。
話を聞いてくれた中から、
また、新しい時代の八重さんが出るだろう。
きっと、未来に向かって手をつないでくれるに違いない。
(2014年6月14日)