リュックサックのヒモ

いつものようにリュックサックを背負って出かけた。
土曜日だったけど仕事でハードな日だった。
新大阪にある視能訓練士養成の専門学校で1、2時限目、そして京都に移動して大学
で4時限目というスケジュールだった。
7時前には家を出て、帰りは19時の予定だった。
前日までの雨もあがっていたし、爽やかな風も吹いていた。
なんとか無事に仕事を終えた。
帰路の電車は学生が京都駅まで送ってくれたので座ることもできた。
充実した一日となったが疲労感もあった。
携帯電話の歩数計は9千歩を超えていた。
睡魔と戦おうとした時だった。
ボックス席の僕の前の席にご夫婦が座られた。
僕よりは少し上の世代のようだった。
息子の話などをしておられるのが時々聞こえてきた。
と言っても、奥様の話にご主人が相槌を打つという感じだった。
何とはなしにその会話を聞きながら時間を過ごした。
やがて僕の降りる駅を案内する放送が流れた。
僕は右手で白杖を持って膝に置いていたリュックサックを背負おうとした。
その時、その静かだったご主人の手が自然に伸びてきた。
リュックサックのヒモを肩にかけるサポートをしてくださった。
そして、そのヒモの先が外れかかっているのを発見されたようだった。
実は僕は今日幾度か背中の違和感を感じていた。
リュックサックのチャックが空いているのではと確認もした。
でもチャックは閉まっていたので気のせいかと思っていた。
違和感の原因はこれだったのかと思った。
「直しましょうか?」
と言いながらご主人の手が動き始めた。
電車が減速を始めた。
「もうすぐ駅に着くから降りはるよ。」
奥様が心配そうにご主人に話された。
「大丈夫だよ。ほら、これで安心。」
電車がホームに滑り込むと同時にご主人の手が離れた。
まさに計ったような手際良さだった。
「ありがとうございました。」
僕はお二人に笑顔で挨拶をして電車を降りた。
慌てていたのでありがとうカードを渡すこともできなかった。
ホームに降りて、動き始めた電車に僕はまたそっと会釈をした。
社会はだいぶ変化してきた。
街中に防犯カメラが設置されてきた。
他人は怖い存在だとメディアが警告する。
そして人々はお守りのようにスマホを握りしめる。
景色を見ることなくその画面に視線を落とす。
今日のご夫婦の口からは景色の話が流れていた。
山科駅の近くのマンションの高さまで話しておられた。
勿論、スマホを見ておられる雰囲気はなかった。
そしてその中で、ご主人は僕の様子も見ておられたのだろう。
白杖とリュックサックを抱えて座っている僕を気に留めてくださったのだろう。
4人がけのボックスシートの中には人間という生き物のやさしさがあった。
ホームの点字ブロックを歩きながら気づいた。
疲労感が幸福感になっていた。
あのボックスの空気で熟成されたのだ。
僕はリュックサックの背中を再度確認してそれから空を見上げた。
幸せだなって思った。
(2023年5月21日)

母の日

母の日の朝の電話はいつものように短いものだった。
聴力が落ちてきている母への長電話は負担になると思っている。
だから、いつも短いありきたりの言葉を継げる。
「今日も頑張ろうね。」
それに天気の様子を付け加えるくらいだ。
母の日はそれにありがとうをそっと添えた。
「身体さえ元気でいたらいいからね。」
僕の言葉ではない。
96歳の母から僕に返ってきた言葉だ。
66歳の息子はいつまでたっても情けない。
その言葉がありがたくてありがたくて目頭が熱くなる。
元気でいよう。
元気で頑張ろう。
しっかりと生きていこう。
子供の頃のアルバムにあった微笑んでいる母の顔が浮かぶ。
うん、元気で頑張るよ。
(2023年5月16日)

何気ない一日

2週間前の朝、出勤途中に人とぶつかって白杖が折れた。
リュックサックに予備の白杖は持っていたが長距離移動には厳しいものだった。
その日は学校にある白杖を借りて帰宅した。
社会福祉の専門学校なので白杖が備品としてあったのだ。
借りた白杖は僕の日常の折り畳み式よりも10センチほど短かかった。
折り畳み式ではない直杖というタイプのものだった。
丈夫なのだが使い慣れないものなので歩きにくかった。
それを返却しなければいけないので、今朝はいつもより少し早い時間に家を出た。
ルートも乗り換え回数の少ない京都駅経由を選んだ。
ただ、この選択は間違っていたのかもしれない。
朝の京都駅はやはり凄い混雑で通勤客だけではなく旅行客なども混在していた。
小さな集団があちこちにできていてその中を移動しなければいけなかった。
聞こえてくる言葉も多国籍だったし旅行ケースを引っ張る音もたくさんあった。
駅の放送も日本語だけでなくいくつかの言語で流れていて国際都市らしいと思った。
僕は点字ブロックの上をカメのようにゆっくり歩いた。
改札口の前でたどたどしい日本語の外国人がサポートしてくださった。
ただ有人改札という言葉を伝えることに苦労した。
もっとちゃんと英語を勉強しておけば良かったとこんな時に真面目に反省する。
JRから地下鉄、そして竹田での近鉄への乗り換えはスムーズだった。
学校の最寄りの向島駅には職員が車で迎えにきてくださるので問題はない。
学校に到着したらまた別の職員が講師室までサポートしてくださった。
短い時間のやりとりの中で僕のブログの読者だとしってうれしくなった。
しばらくしたら昨年教えた学生が質問があると会いにきてくれた。
これも短い時間のやりとりだったがうれしくなった。
授業の始まる5分前には日直の学生が講師室まで呼びに来てくれた。
彼女は中国籍の留学生で、日本にくる前はウクライナの大学でロシア語を学んでいた
という経歴だった。
戦争が終わって欲しいという会話をしながら二人で教室に向かった。
90分の授業が終わって帰ろうとしたら4人の学生が僕の著書を持って近寄ってきた。
僕はそれぞれの学生と少しの会話をしながら心を込めてサインをした。
学校が終わるとまた向島駅まで送ってもらって、そこから四条駅まで移動した。
縁があって知り合った介護福祉士の人と懇談する約束があったのだ。
カフェでランチをしながら1時間ほど懇談した。
それぞれの立場で社会の役に立ちたいという確認ができた。
四条駅までのんびり歩いて送ってもらった。
午後の大学のために、そこから地下鉄で竹田駅まで移動しなければいけなかった。
階段を降りる途中でご婦人がサポートの声をかけてくださった。
慣れている場所だったが、せっかくの声だったのでサポートを受けることにした。
電車を待っている間も到着した電車に座ってからも、彼女は弟さんの話をされた。
49歳でくも膜下出血で倒れられた弟さんを10年以上看病されていたらしい。
その頃の思い出をたどるように話された。
そして僕にエールを送って京都駅で降りていかれた。
竹田駅に到着して大学行きのバス乗り場まで動いた。
バスが到着する度に、待っていた人が僕にバスの系統番号や行先を教えて乗車してい
かれた。
僕はその度に自分が乗る予定のバスではないことと感謝をお伝えした。
大学ではいつものようにこれもまた職員が送迎をしてくださる。
バス停で待っていてくださった職員と連休の思い出話をしながら大学に向かった。
受講してくれている学生は今日も全員出席だった。
有難いことだと思う。
無事に講義を終えて帰路についた。
大学に直結の京阪電車を利用すれば早く帰れるのだがその込み様は半端じゃない。
今年度当初もトライしてみたがあまりにも大変なのであきらめた。
バスで竹田駅、そこから烏丸御池駅で地下鉄東西線、そして山科からJRという遠回り
のルートを選んでいる。
竹田駅でバスを降りようとしたら知り合いの男性が声をかけてくださった。
彼は僕とほとんど同世代で大学の近くで働いておられる。
帰路のルートも途中まで同じだ。
僕に気がついたら声をかけて一緒に帰ってくださるのだ。
こういう感じの人といろいろな駅でいろいろな時間帯で出会う。
有難いことだと思う。
電車の中では世間話をしながら過ごした。
烏丸御池駅で先に降りる僕は彼の方に顔を向けてしっかりとお礼を伝えた。
「お気をつけて。」
毎回背中で聞こえるその言葉が心地いい。
点字ブロックを歩き始めたらすぐにサポートの声がした。
階段までお願いしたが彼女は迷ってしまわれたようだった。
僕は頭の中の地図でサポートして解決できた。
助け合えばなんとかなる。
山科駅での乗り換えは距離があるが点字ブロックが完備されているので問題はない。
点字ブロックの上で立ち話をしていた外国人の集団に出会った。
「sorry」とお互いに言いながらうまくクリアできた。
それからこの日最後の電車のJRを利用して地元の比叡山坂本駅に着いた。
点字ブロックをゆっくりと改札に向かった。
しばらく歩いた所で男性のサポートの声がした。
僕は肘を持たせてもらって改札に向かった。
彼は目の病気があって昨年も手術をしたと教えてくださった。
改札口の立ち話で彼が僕と同じ病気だと分かった。
年齢を尋ねたら59歳とのことだった。
「その年齢まで見えていて良かったですね。僕は40歳まででした。」
僕の喜びが彼にしっかりと伝わったようだった。
「またお見掛けしたら声をかけますね。」
「ありがとうございます。お願いします。」
僕は笑顔で答えた。
今日乗った電車9本、ただし座れたのは2本、乗車したバス2本、利用した駅7駅、
会話をした人は学生を含めて30人くらい、外出時間約12時間、歩いた歩数8737歩。
元気に生きているということですね。
(2023年5月12日)

テレビ

ゴールデンウィークが終わって平常が戻ってきた。
僕のゴールデンウィークは親戚の接待と畑仕事で終わった。
親戚と一緒に「名探偵コナン」の映画を見に京都市内まで出かけたのが唯一の外出だ
った。
コナンの映画はいつも通りにアイフォンの副音声アプリを使っての鑑賞だった。
副音声はセリフとセリフの間に説明が流れる。
コナンの映画はそのセリフとセリフの間にいろいろな効果音が大音量で流れていた。
結果、副音声が聞き取りにくくて分かりにくかった。
戦争映画などもこんな感じになる。
セリフとセリフの間が無音のタイプの映画が僕には鑑賞しやすいのかもしれない。
映画が好きなせいかよくテレビ番組を紹介される。
最近視覚障害者の刑事が活躍するドラマが始まったらしい。
見える人からも見えない人からもその情報を頂いた。
情報には僕はいつも感謝を伝えている。
でも実際には僕はテレビは観ない。
そもそも僕の部屋にはテレビはない。
高校時代にほとんどテレビを見ない生活をしていて、それが日常となってしまった。
見えないことが理由ではなくてそもそもテレビは見ないのだ。
だからドラマの話題にはついていけないしタレントさんの名前などもまったくと言っ
ていいほど知らない。
コマーシャルで流れる新商品にも縁がない。
それでもこうして生きてこれたからまあいいやと思っている。
ラジオはいつも横にある。
ニュースを聞いたりスポーツの実況中継を楽しんだりしている。
その中で知りたい情報があればインターネットで検索したりしている。
音楽はアップルミュージックを利用していてシリやグーグルアシスタントにお願いし
て聞いている。
若い頃に親しんだ楽曲がほとんどだ。
テレビ、ラジオ、インターネット、映画、自分に合った暮らしということだろう。
その時間配分も無理がなくて気にいっているのかもしれない。
(2023年5月10日)

朝顔

朝顔の種を蒔くことにした。
鉢に土を入れて支柱を立てた。
それから一晩水につけておいた種を指先で優しく掴んだ。
土に小指の先くらいの穴を開けてそこに種を入れた。
そっと土を被せた。
そしてジョウーロでたっぷりの水をかけた。
一仕事終わって庭石に腰を降ろした。
少年時代の記憶が蘇った。
生まれ育った家は古い木造の家だった。
瓦屋根で壁は漆喰だったし縁側や土間もあった。
雨漏りのするような場所もあった。
でも、僕の家だけが貧祖だったわけではないと思う。
近所にはトタン屋根の家も多くあったし、そういう時代だったのだろう。
その自宅の前には竹で作った垣根があった。
父が作ってくれたのだった。
そこに朝顔の種を蒔くのが春先の僕の役目だった。
だから自然にしっかりと観察することになっていった。
双葉の形、そこから本場や弦が伸びる様子、葉の斑の部分、そして花の形、白や赤や
青野花の色、まるで植物図鑑の写真のように浮かんでくる。
夏の朝にその花を数えきれないくらい見ていたはずだ。
昼過ぎにはしぼんでしまう姿も不思議そうに見ていたのだと思う。
秋には薄い茶褐色に枯れた種袋から黒い種を取り出して翌年まで保存していたことも
記憶している。
あの頃、いつか朝顔を見れなくなるなんて僕にも親にも想像のかけらさえなかった。
親が朝顔の管理を僕の仕事としたのは結果的に大きなプレゼントとなった。
偶然のプレゼントだ。
少年時代以来の朝顔、楽しみだ。
(2023年5月7日)

メーデー

もう10年以上前のことだ。
その頃はいろいろなメディアに取り上げられる機会が多かった。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどいろいろな媒体だった。
僕は依頼があれば基本的には受けていた。
視覚障害を社会に正しく理解してもらうためのメッセージの発信だった。
可愛そうな障害者が頑張っているというフォーマットを感じた番組だけはいくつか丁
重にお断りした記憶がある。
そこには僕自身の姿勢があったのだろう。
メディアの力はやっぱり大きい。
先日お会いした同世代の視覚障害者の男性がもう忘れていたある番組の話をされた。
その番組の中での僕のメッセージがとても力になったとおっしゃった。
素直にうれしかった。
同じ番組へのこのような感想をこれまでいくつか頂いたことがある。
いい番組を制作してくださったのだなと改めて当時の関係者に感謝を感じた。
昨日はメーデーだった。
僕自身は見えている頃は福祉施設で働いていたし、見えなくなってからはずっと自由
業だった。
だから一般企業で働いた経験はない。
メーデーそのものとは無縁だった。
その頃、渋谷のNHKの放送センターに幾度か行った。
その日の番組がラジオだったかテレビだったかさえも忘れてしまっている。
ただ5月1日だったことだけを鮮明に憶えている。
代々木公園に凄い数の人が集い、拡声器の声がいろいろと聞こえていた。
原宿の駅からだっただろうか、その中を歩いたのだ。
ただ近くを歩いていただけの僕にもそのエネルギーが伝わってきた。
毎年メーデーのニュースに触れる度にその記憶が蘇る。
画像はなかったはずなのに、まるで見ていたかのような光景が蘇る。
天気も良かった。
薫風の中でのメーデーだった。
新緑の木々の中に笑顔の人達が集っていた。
番組は憶えていないのにその光景が蘇るのは不思議だ。
こういうことをいい思い出と表現するのだろう。
風薫る5月が始まった。
新緑を感じながらまた今年も生きていきたい。
(2023年5月2日)

折れた白杖

今年度前期の木曜日の朝は早い。
京都福祉専門学校での講義が1時限目になったからだ。
一番のラッシュアワーでの移動となった。
ルート的には京都駅で湖西線から近鉄に乗り換えることになる。
でも僕は山科駅で地下鉄に乗り換えている。
このルートは遠回りになるのだが朝の混雑が京都駅より山科駅がましだからだ。
京都駅はJRだけでも湖西線、琵琶湖線、京都線、奈良線、山陰線、それに新幹線もあ
るし、そこに地下鉄と近鉄がある。
山科駅はJRは湖西線と琵琶湖線だけだし、そこに地下鉄と京阪ということで利用客数
は京都駅よりははるかに少ない。
それでもラッシュ時間の人込みは半端じゃない。
狭い通路を人波が動く。
いつもは点字ブロックの横を歩く僕もその時はわざと点字ブロックの上を歩く。
凸凹で歩きにくいのだが少しでもリスクを低くするためだ。
白杖はいつもは真っすぐに伸ばして数歩先を確認する持ち方なのだがこの時だけは自
分の身体に引き寄せてすぐ前だけが確認できる方法にする。
他の人の足ができるだけ白杖に引っかからないようにするためだ。
そして音がするように白杖で路面を少し強めに叩いて歩く。
その状態で周囲の人の気配、人波の動きなどを察知しながら進むのだ。
目隠し状態でそこを歩いていくのだから自分でも凄いなと思っている。
白杖の達人だとどこかで自負している。
電車を降りて点字ブロック沿いにゆっくりと歩く。
ホームが一番危険なのは分かっているからだ。
僕の地元の乗車位置は電車の前方寄りだが山科駅の出口は電車の後方寄りだ。
つまりホームの端から端まで歩くことになる。
階段を知らす小鳥の鳴き声の放送を手掛かりに進む。
階段にたどり着いて少しほっとする。
もうホームから転落する心配はない。
身体の前で白杖で防御の姿勢をとりながらゆっくりと階段を降りる。
これはそんなに危険なものではない。
前から昇ってくる人は白杖が目に入るからぶつからないように動いてくださる。
階段を降り終えたらそこから改札口へ向かう通路を歩く。
この駅は古いので通路はとても狭い。
ラッシュの時間帯ではほぼ満員状態で人が動く。
そして途中に坂もある。
十数メートル直進した後、点字ブロックは直角に右に曲がる。
有人改札口へつながるようになっているのだ。
ここが最後で最大の難所だ。
直角に曲がるということは人波を横切るということになるからだ。
僕は自分の身体を盾にして白杖を守る感じで進む。
わずか2メートルくらい数歩の移動を半分は祈りながら歩くのだ。
今朝、久しぶりに失敗した。
走りこんできた中学生くらいの男の子の足が見事に当たった。
瞬間白杖は折れた。
何年ぶりかに折れた。
「大丈夫ですか?」
少年の声が引きつっているのが分かった。
「大丈夫だよ。これから気をつけてね。もう行っていいよ。」
相手が大人だったら修理費用の半分をお願いしたりするのだがその気にはなれなかっ
た。
折れた白杖をリュックサックに片づけて予備の白杖を組み立てた。
万が一の時のためにリュックサックに入れてある予備の白杖だ。
予備だから軽いものにしてあるので細くて使いやすいものではない。
そこからいつもの半分のスピードで動いた。
どちらもケガがなくて良かった。
でも悔しかった。
本当に悔しかった。
達人という言葉が心の中で少し曇った。
午前中の専門学校、午後の大学、いつものように仕事を終えて帰宅した。
そして気づいた。
ありがとうカードが1枚も減らない日だったのだ。
運の悪い日だったのかもしれない。
連休が終わったらまたいつものように出かける日が始まる。
夏休み前まではスケジュールはほとんどいっぱいだ。
白杖の達人、まだまだ修行は続く。
頑張ろうと思った。
(2023年4月29日)

ナイスタイミング

早朝、7枚のありがとうカードを胸ポケットに入れて家を出た。
一日の仕事を終えて地元の駅に帰り着いたのは19時を過ぎていた。
階段に向かおうとして方向を見失った。
そのタイミングで女性の声がした。
「階段はこっちですよ。」
僕はその声に促されながら会談を降り始めた。
ナイスタイミングというやつだ。
途中で彼女にありがとうカードを渡そうとした。
指先が乾燥していてうまくカードを掴めなかった。
2枚重なっていたようで1枚バックしてもらった。
すべての人にお渡しすることは場面によって難しいことがある。
ということは今日は少なくても6名以上の方のサポートを受けたということになる。
6名の方にありがとうカードを渡すことができたのだ。
その6つの場面を全部記憶しているわけではない。
ただ、今日はどれもがナイスタイミングのサポートという印象だった。
だから予定よりもすべて少し早く動けた。
そんなことを思いながら改札を出ようとした時だった。
「サポートする?」
一瞬でいつかのアメリカ人の留学生だと分かった。
4回目の出会いだった。
ありがとうと言いながら彼の肘を持った。
改札を出て階段を降りた瞬間、出発間際のバスが見えたようだった。
「バス、急ぐ。」
僕達は二人で走った。
いや、正確に言えば、僕は彼に引きずられながら走った。
バスに乗車して優先座席に座ったタイミングでバスのドアが閉まった。
きっと僕達に気づいた運転手さんが待っていてくださったのだろう。
2メートル近いアメリカ人に白杖のちっちゃいおじさんがぶらさがりながら走ってき
たのだ。
想像しただけで楽しい絵だった。
僕が降りるバス停に到着するまでの5分間程度、僕達は車中でいろいろ話した。
どれくらい見えているかとの質問に光も感じないと答えたら驚いていた。
「君のサポートがなかったら、僕はこのバスに間に合っていないね。ナイスタイミン
グ!」
彼もうれしそうだった。
7月には帰国するらしい。
日本の印象を尋ねたら漢字が難しかったと笑った。
「合えないと思うと淋しくなるね。」
僕は伝えた。
「ありがとう。」
上手な日本語だった。
それまでにもう一回でも会えたらいいな。
またタイミングの神様が微笑んでくださるようにと思った。
それにしても6枚のありがとうカードを渡せた日となった。
幸せいっぱいの日となった。
(2023年4月25日)

スペイン料理

「松永さんですか?」
京都市内のバス停で声をかけられた。
「以前、松永さんの企画されたスペイン料理の会に行ったことがあります。」
それを聞いた瞬間、途方もない懐かしさと恥ずかしさが僕を包んだ。
目が見えていた頃、児童福祉施設で働いていた。
文字を読めなくなり外を歩くのに恐怖を感じるようになった39歳の時に退職した。
それから一年間はただ息をしているだけの抜け殻状態だった。
次の年の春、ライトハウスでの中途失明者生活訓練を受けることにした。
白杖を使っての歩行訓練、点字、音声ソフトを使ってのパソコン、頑張った。
一年間の訓練を終えて再度の社会復帰を目指したのが41歳の春だった。
でも現実は厳しかった。
ハローワークや障碍者の職業相談に出向いたが働ける場所はなかった。
無職と言わなければならない自分自身が悲しかった。
仕方なくいろいろなことを始めた。
「夢企画」という名刺も作った。
視覚障害者に便利な音声時計などの販売をやった。
世間に出始めた携帯電話の中から、視覚障害者にも使いやすいような機種を選んで紹
介するようなこともした。
取り扱い説明をカセットテープに声で入れてお客様にお渡しした。
視覚障害者の知り合いが増えていった。
その交わりから外食を楽しみたいという声を聞いた。
僕はいくつかの店と交渉して食事会を企画した。
見えなくても食べやすいメニューを選び、案内を点字でも作った。
その中にスペイン料理のお店もあった。
参加してくださった視覚障害者の人からは喜びの声をいくつか頂いた。
でも費用的には赤字だった。
音声時計を視覚障害者の方の家まで配達したことも幾度もあった。
収益は一回300円程度だった。
大変さを気遣ったお客様がお土産にアンパンをくださったこともあった。
携帯電話はどんどん新機種が発売されて追いつけなくなっていった。
数年頑張ったが、結局利益が一か月に5万円になることはなかった。
中学校での点字教室を依頼されたことをきっかけに販売の仕事はやめた。
商売の才能はまったくなかったことを実感した。
点字教室は1時間の授業で5千円も頂けた。
きっと一般社会では珍しいことではなかったかもしれないが、当時の僕には驚くべき
金額だった。
それから点字教室だけでなくいろいろな授業や講演の依頼などが少しずつ増えていっ
た。
年収100万円を目指したが達成には7年かかった。
50歳を過ぎていた。
次の目標として密かに年収300万円としたがそこにたどり着けることはなかった。
ただ、頑張ってこれたことには満足している。
僕なりに働いてこれたと思っている。
言い訳かもしれないが、お金よりも大切だと思える仕事にも力を注ぐことができた。
振り返れば、いつの間にかそちらが主になっていた。
夢を抱きながら歩き続けることができたような気がする。
そしてここまでやってこれたのは出会った人達のお陰だ。
数えきれない人達が僕の背中をそっと押してくださった。
押されながら歩く方向を見つけ、歩く速さも増していったのかもしれない。
いつの頃からか年収は考えなくなった。
それよりも僕にできる仕事をひとつひとつ大切にしたいと思えるようになった。
スペイン料理の思い出を話してくださった時に懐かしさと恥ずかしさがあった。
でもその恥ずかしさには少しの喜びも混在しているのを感じた。
不思議な感覚だった。
「当時、参加してくださって本当にありがとうございました。」
僕は改めて20年ぶりの御礼を心を込めて伝えた。
今度は自分自身でゆっくりとスペイン料理を食べに行ってみたいと思った。
(2023年4月21日)

小鳥のさえずり

7時前に家を出た。
同行援護研修の実技の日だった。
僕が力を入れている活動のひとつだ。
同行援護というのは視覚障害者の外出を保障する制度だ。
そしてそれを担う人達をガイドヘルパーと呼ぶ。
ガイドヘルパー養成の講座に当事者の思いを届けるのが僕の役目だ。
研修は座学と実技の両方があるのだが今日は実技の日だった。
9時から17時、受講生にとっても講師にとってもハードな一日だ。
地下鉄に乗り換えるために山科駅で電車を降りた。
日曜日の7時半、駅は平日と違って閑散としていた。
僕は階段の方向を確認するために耳を澄ませた。
階段では小鳥のさえずりの放送が流れている。
僕達に階段の場所を知らせるためのものだ。
ところが今朝はそれが電車を降りた正面から聞こえた。
あれっと思った瞬間にそれが本物の小鳥のさえずりだと分かった。
元気にそして一生懸命に鳴いていた。
階段にある小鳥のさえずりを探そうとする僕には本当はそれは邪魔なものだった。
でも笑顔になってしまった。
僕に向かって頑張れと言ってくれているようにも思えた。
僕はしばらく立ち止って朝の小鳥のさえずりを楽しんだ。
「ありがとう。頑張るよ。」
僕は心の中でつぶやいて歩き出した。
(2023年4月17日)