生姜湯

音が消えてしまったような静けさにもしやと思った。
ダウンコートを羽織って圧手の靴下を履いた。
それから、まだ暗いはずの戸外に出てみた。
玄関から数歩動いただけで靴の裏が確認した。
僕はしゃがみ込んでそっと地面に手を触れた。
雪。
立ち上がって少し歩いた。
この冬初めての雪景色がそこにあった。
それから空を見上げた。
いつもワクワクドキドキする高揚感はなかった。
雪が北陸も覆ってしまっているだろうと考えてしまった。
つい奥歯に力が入った。
部屋にもどってお湯を沸かした。
コーヒーカップを温めてから生姜湯の粉を入れた。
沸きたてのお湯を注いだ。
フーフーしながら生姜湯をすすった。
胃袋が温まり、身体が温まり、心が温まるのを感じた。
生きているって凄いことなんだ。
生きていくって凄いことなんだ。
僕の心臓は半世紀以上動き続けている。
僕の脳は半世紀以上考えてきた。
僕の心は半世紀という時間の中で数えきれないくらい折れてしまった。
そしていつもそこから歩き始めている。
それも含めて幸せなことなのだ。
訳もなくそう思った。
(2024年1月9日)

花言葉

67歳になった。
日本では65歳からが高齢者ということになっている。
だから60歳台になったくらいからその言葉を意識し始めたような気がする。
ところが最近少し意識が変わってきた。
ラジオなどでいろいろな人の話を伺いながら、年齢はひとつの指標に過ぎないと思え
るようになってきた。
実際に出会う人達もそれを実感させる人は多くおられる。
80歳を超えながら矍鑠とされておられる人と出会うのも特別に珍しいことではなく
なった。
ひょっとしたら、60歳台なんてまだまだ若輩者なのかもしれない。
いや、僕自身は確かにそうだ。
社会に対して現役でいたいと考えているが、自分の無力や弱さなどをすぐに思ってし
まう。
社会の未熟さを感じるような感覚を持っていたがこれも少し違和感を感じ始めた。
未熟さは僕自身の中にあるのだ。
年齢を重ねれば丸くなると聞いていたが、自分の生意気さを修正していくということ
なのかもしれない。
もうしばらくは現役でいたいと思う。
誕生日の花が梅だと初めて知った。
花言葉は「澄んだ心」らしい。
それを知って恥ずかしいと思ってしまった。
見える頃に言われてうれしかった言葉がある。
「きれいな澄んだ目をしてるね。」
幾度かその言葉を頂いた。
他に褒めるところがなかったからかもしれない。
でも、うれしい思い出だ。
今の僕、まだまだ現役、修行中だ。
澄んだ目で生きていけるようになりたいと思う。
(2024年1月6日)

年始

穏やかな新年を迎えた元旦の夕方、突然部屋が揺れた。
結構長い時間揺れていた。
コタツに入っていた僕はコタツの端を掴んだまま呆然としていた。
揺れが収まってからラジオのスイッチを入れた。
「津波がきます。逃げてください。」
アナウンサーの緊張した声が流れていた。
各地の震度や状況が伝えられた。
大変なことが起こってしまったのが分かった。
気持ちが一気に沈むのを感じた。
被害が少ないようにとただ願った。
2日は羽田空港での飛行機事故が報じられた。
3日は小倉の大きな火災がニュースになった。
災害の恐ろしさをつきつけられた年始となってしまった。
世界ではまだ戦争が続いている。
それぞれの場所で視覚障害者はどうしたのだろう。
もし僕がそこにいたらどうなっただろう。
想像しただけで辛くなる。
平穏な日常を愛おしく感じた。
無事に一日を過ごせることを感謝した。
三が日を過ぎて日常が始まる。
まずは輪島の被災者の人達に募金をしよう。
何もできない僕、できることを探してみよう。
残り362日、そうやって生きていこう。
(2024年1月4日)

日常

冬休みが始まって学生達が姿を消したからだろう。
珍しくボックスシートに空いている席があった。
彼女は僕をそこに案内してくれて自分も僕の前に座った。
朝7時半の電車に乗車する時はだいたい彼女のサポートを受けている。
この一年で20回近くあったと思う。
彼女は途中の山科駅で電車を降りる。
僕はそのまま大阪方面へ向かう。
いつもは通勤客や学生で満員の電車だから立ったままで会話も少ない。
今日はのんびり話が出来た。
のんびりと言っても13分間の乗車時間だ。
その半分近くはトンネルの騒音で会話はできない。
僕が最近観た映画「翔んで埼玉 〜琵琶湖より愛をこめて」が話題だった。
僕がスマホの副音声アプリを使って映画を楽しんでいることを彼女は知っている。
映画には滋賀県在住の僕達が一緒に笑えるツボがあった。
何の違和感もなく会話は成立していた。
山科駅に電車が到着した。
「良いお年をお迎えください。」
僕達は準備していたかのように同じ挨拶を交わして別れた。
彼女と知り合ってまだ一年くらいだろう。
見えない僕が彼女の肘を持たせてもらって電車に乗るということから始まった。
背もたれを触ることで座席を確認できることを理解してもらった。
画面の文字を読んでくれるパソコンでメールはできることも伝えた。
映画の話題では盛り上がった。
光を感じなくなって26回目の新年をもうすぐ迎える。
見える人生と見えない人生、見える方がいいに決まっている。
でも、見えない僕にも幸せがある。
ささやかだけど間違いなくある。
そしてそのほとんどは、日常の見える人との交差の中で生まれている。
平凡な日常の中に本当の豊かさがあるのかもしれない。
この一年、出会った場所に、出会った時間に、出会った音に、出会った香りに、そし
て出会った人に出会った日常に、ありがとうって伝えたい。
(2023年12月29日)

僕の大切な仕事

気温0度の早朝、両ポケットにカイロを入れて滋賀県大津市の家を出発した。
今年最後の中学校での講演は鹿児島県薩摩川内市だった。
新大阪まで在来線、そこから九州新幹線、6時間の旅だ。
そう考えると鹿児島県も近くなった。
僕が学生の頃、京都から故郷の鹿児島県に帰省するのには新幹線だけでも8時間はか
かっていたし、寝台列車では12時間以上かかっていた。
遥か昔の話だ。
川内駅には高校時代の同級生が待機していてくれた。
学校まで30分くらい、その車中で昼食だ。
膝の上に乗せられたお盆にはおにぎり、玉子焼き、鳥のカラアゲなどが並んだ。
おにぎりとお茶は暖かかった。
彼女が僕の到着に合わせて作ってくれたのが分かった。
やさしい気遣いがうれしかった。
生徒数が全校で80名程度の小さな中学校が会場だった。
薩摩川内市長が見学してくださったのには驚きながらもうれしく思った。
鹿児島県も厳しい寒さだったが、生徒達は一生懸命に話を聞いてくれた。
いろいろ質問もしてくれたし、生徒代表の挨拶も気持ちの伝わるものだった。
ひとつだけ驚いたのは、実際に白杖を見たことがある生徒が一人もいなかったという
ことだ。
今月、京都市内の中学校に複数お招き頂いたが、どこの中学校でもほぼ全員が白杖を
目にしていた。
風景の中に存在しているかどうかはとても大きな意味を持つと思う。
そういう意味でもお招きくださったことに感謝した。
一番得をするのは生徒達だろう。
障害の正しい理解につながっていくのは間違いない。
今年お招きくださった小学校10校、中学校14校、高校6校、それに専門学校や大
学、様々な社会人の団体、たくさん話を聞いて頂いた。
そして来年の予定も少しずつ入ってきている。
障害を正しく知ってもらうこと、それが共生社会のスタートだと思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔になれる社会、少しずつでもそこに
向かいたい。
未来への種蒔き、見えない僕の大切な仕事だ。
お招きくださった皆様に心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
(2023年12月23日)

チャペル

毎年この季節になると同志社女子大学にあるチャペルでの講話の依頼がくる。
礼拝の中でのわずか8分間の講話だ。
今出川キャンパスと田辺キャンパスの二か所だ。
僕はどちらもそこに行くことそのものがうれしい。
今出川キャンパスは栄光館という歴史のある建物の中にチャペルがある。
新島襄の奥様の新島八重の葬儀が執り行われた場所だ。
ヘレンケラーさんが京都に来られた時に講話をされた場所でもある。
そんな歴史のあるチャペルでの礼拝に参加できるだけでうれしいのだ。
いつも身が引き締まる感じになる。
田辺キャンパスは新島記念講堂が会場だ。
このチャペルは屋根に十字架がある近代的な建物だ。
入り口には大きなもみの木のクリスマスツリーがある。
ポインセチアの鉢植えがそれを囲んでいる。
僕も準備されてあったオーナメントを飾る。
千人収容のホールにはフランス製のパイプオルガンがある。
ステージの向かい側の高い場所にあるらしい。
生演奏の音はそのままホール全体に降りてくる。
前奏、讃美歌、後奏、粉雪のように音が降りしきる。
荘厳な空気に包まれる。
僕はクリスチャンではないのだけれど音色が身体に溶けていく。
魂が洗浄されていく感覚になる。
礼拝を終えて外に出た。
ふと空を見上げた。
冬枯れの透き通るような蒼い空を感じた。
この空がこの星を囲んでいると思った。
心が痛んだ。
今この瞬間も戦争が続いている。
何もできない自分の無力さも理解できている。
でも、やっぱり、自分達だけが平和であることをうれしいとは思えない。
祈る。
それは僕にもできる。
だから、空を見上げて祈った。
(2023年12月20日)

1割バッター

最初に彼と出会ったのは10数年前だったと思う。
彼は勤務先の団体で人権研修の係をされていて僕をお招きくださった。
それ以後出会うことはなかったが、今年偶然再会した。
僕が滋賀県大津市に引っ越してまた縁がつながったのかもしれない。
今日、今年2回目の再会となった。
山科駅で僕を見かけて声をかけてくださったのだ。
「松永さん、一緒に帰りましょう。」
彼は元の職場と氏名をおっしゃった。
彼らしい思いやりのある挨拶だった。
僕は彼の肘を持たせてもらってラッシュの人込みを帰路に着いた。
彼は定年を迎え、別の会社で働いておられる。
僕の最寄り駅よりひとつ先の駅から通勤しておられる。
新しい会社では営業の部署に配属されたらしい。
穏やかで気の優しそうな彼には営業の仕事は厳しいだろうと僕も思う。
話を聞いてもらって契約までつながるのは10人に一人もないと話してくださった。
その会社では月の始めには前月の成績発表があるらしい。
最下位は免れたいのだけれどと彼は笑った。
「今日も90歳のお一人暮らしのおじいさんの話の聞き役で一日がほぼ終わってしまっ
てね。こんなことじゃなかなか成績は上がりませんよね。」
彼は自嘲気味に話された。
「でも、とってもいいおじいさんでね。」
彼はやさしい言葉でそう付け加えられた。
「ちなみに、松永さんがサポートを受けられるのは何回に一回くらいですか?」
僕は10回に1回くらいかなと答えた。
「1割りかぁ。私と同じくらいかぁ。
やっぱり3割バッターを目指しましょうよ。」
電車がホームに入ってきた。
僕は彼の肘を持たせてもらって満員の電車に乗り込んだ。
案内放送が僕の声をかき消した。
「1割の人生もいいですよ。」
(2023年12月17日)

サバ煮定食

毎月2回、京都市内にある就労継続B型事業所を訪ねている。
ここは視覚障害者の人が働いている施設だ。
視覚障害者の人の悩みを聞いたり相談にのったりするのが僕の役目だ。
ピアカウンセリングというものだ。
どれだけ役に立っているかは自信はないがもう10年以上続けている。
9時から16時なので昼食は施設の食堂で頂く。
食堂は暖房は入っているが少し寒い。
座る場所は指定されている。
年に数回席替えもある。
後方の入り口から入ると壁際にアルコール噴霧器がある。
消毒を済ますと足裏の浮き出た線を確認しながら進む。
食道内は一方通行と決まっている。
僕は白杖を持っているが寮生は施設内では使っていない。
皆がそれぞれの感覚で動いている。
全員が白杖を使うと危険なのだろう。
「通ります。通ります。」
全盲の人は声を出しながら歩く。
席に座るとトレーに料理が準備してある。
50人以上の食事を数人のスタッフで準備するのだからいろいろと限界がある。
糖尿食などの対応もあるので大変だ。
食器はプラスチック製だ。
ごはんとお味噌汁、メインのおかず、小鉢、デザートという感じだ。
アツアツというのは難しいしお代わりもない。
お茶はテーブルのポットからそれぞれ自分で準備する。
今日のメイン料理はサバの煮物だった。
ほうれん草のソテーも付いていた。
小鉢は根菜の炒め物、デザートは甘いお豆さんが数個だった。
食べるということは人間の幸せのひとつかもしれない。
あちこちで歓談の声が聞こえる。
笑い声も聞こえる。
ここには贅沢というものはないのかもしれない。
僕はこの空間が好きだ。
生きている自分の命、そして仲間の命、愛おしいと感じることができる。
何故だかは分からない。
「松永さん、今年も後少しだね。」
僕に気づいた全盲の女性が声をかけてくれた。
「そうだね。元気で新年を迎えようね。」
僕はそう返してごちそうさまをした。
立ち上がって歩き始めた僕に彼女が続けた。
「今日廊下でごほごほしてたやろ。無理したらあかんよ。」
僕が廊下を歩きながら少し咳き込んだのをどこかで聞いていたのだろう。
ゴホゴホだけで彼女は僕を認識していたのだ。
やさしいいたわりの言葉だった。
僕は振り返ってありがとうを伝えた。
昼食は550円だ。
勿論僕も支払っている。
彼女がこの施設で9時から16時まで働いて得る一日の収入、昼食代とほぼ同額だ。
日本の就労継続B型事業所の平均工賃は一か月1万3千円だ。
そこには最低賃金の制度もない。
だから給料とは言わない。
僕はいくら偉い学者さんや政治家の説明を聞いても納得ができない。
食堂を出ながら身が引き締まる気がした。
僕には何も変えられない。
自分の無力もちゃんと分かっている。
でも、少々無理をしても頑張らなくちゃいけないと思う。
ささやかでも僕にできることを頑張らなくちゃいけない。
それは僕自身のために。
(2023年12月14日)

尾道

広島県尾道市にあるNPO法人の10周年記念式典にお招き頂いた。
地域で同行援護や居宅介護事業などをやっている小さな法人だ。
講演依頼があった時に僕は既に別の講演が予定に入っていた。
一度お引き受けしていた日程を変更するというのは基本的にはやってはいけないこと
だ。
それでもこの法人の記念式典には是非行きたいと言う思いがあった。
先に決まっていた団体に謝罪し別日を提案しご理解を頂いた。
法人の理事長は全盲の先輩だった。
7歳ではしかで失明し、厳しい運命に立ち向かって生きてきた人だった。
彼女のためにどうしても行きたいと思ったのだ。
会場の公民館のステージには立派なシャコバサボテンの鉢植えがあった。
沢山の花を咲かせていた。
片側にはシクラメンと葉ボタンの寄せ植えもあった。
テーブルが整然と並び、関係者の席には芳名が記されていた。
それぞれの席には式次第が印刷された小さな紙と記念のボールペンが置いてあった。
スタッフの方が前夜遅くまで準備に追われていたのを知っていた僕はその会場を見た
だけで笑顔になった。
そこには手作りのぬくもりとやさしさがあった。
定刻になって司会者のはっきりとした言葉が静かに流れ始めた。
主催者挨拶に続いて市長代理や市会議員の挨拶もあった。
それから僕の講演だった。
僕は会場のお一人お一人に語り掛けた。
障害があってもなくても変わらない人間の幸せを問いかけた。
一緒にお祝いに駆けつけてくれた友人の視覚障害の女性がよし笛も披露してくれた。
音色が会場を包んだ。
皆でそれぞれの人生を垣間見て、それぞれの人生にエールを送った。
拍手は僕にも彼女にも向けられたが、参加してくださったそれぞれの皆様の中で共鳴
していた。
会食に準備されたお弁当には地域の特産がいろいろと入っていた。
同じテーブルの地域の方にそれを教えて頂きながら食べた。
いつの間にか人間同士の絆が生まれているのを感じた。
あっという間に時が流れた。
日常は地元の車屋さんだという男性が監事をしておられた。
彼の飾らない閉会の言葉がこの式典によく似合った。
会場を出たらそこには穏やかな蒼い冬の空があった。
空もお祝いをしてくれていた。
帰りの新幹線はほとんど眠って過ごした。
東京からまだ一週間、休みなしの強行軍だったので無理もないと自分を慰めた。
でも、やはり、行けて良かったと思った。
理事長を始め、スタッフの皆様に心から感謝した。
(2023年12月10日)

12月3日 視覚障害者ガイドヘルパーの日

12月3日が「視覚障害者ガイドヘルパーの日」という記念日になった。
ガイドヘルパーというのは視覚障害者と一緒に外出して目の代わりをしてくださって
いる人達だ。
同行援護という制度の基、全国で活動してくださっている。
ガイドヘルパーによって、僕達の仲間の生活が支えられていると言っても過言ではな
い。
ただ、その数は全国的に不足しているし、仕事としての知名度も高くはない。
同行援護という制度を発展させるためにももっと社会に知ってもらわなければいけな
い。
そういう願いが記念日の制定につながった。
2023年12月3日、記念日認定証の授与式が東京の日本視覚障害者センターで挙行され
た。
全国の関係団体をオンラインでつないでの開催だった。
厚生労働省からもお祝いにきてくださった。
日本記念日協会の使者から授与される認定証を受け取るのが僕の仕事だった。
これまで活動してくださった全国のガイドヘルパーさんに感謝しながら、新しい次の
一歩を噛みしめながらしっかりと受け取った。
認定証と白杖が僕の右手にあった。
僕は満面の笑みを浮かべながら記念写真の撮影に臨んだ。
時代がひとつ進む瞬間に立ち会えたことを光栄だと感じた。
そして、カメラの向こう側にある未来をしっかりと見つめた。
(2023年12月4日)