夜7時の小学校の教室、
先生方とPTAの人達が集まられた。
約2時間、僕の話に耳を傾けてくださり、
質問も投げかけてくださった。
見えない世界を伝えようとする僕の思いと、
見えない世界を知ろうとする人達のやさしさが、
教室の中で交錯し、
空気は穏やかに変化していった。
ここの校長先生と出会ったのはもう10年前くらいになるだろうか。
それから幾度か、子供たちに、先生方に、PTAの人達に、
伝える機会をつくってくださった。
見えなくなって、たくさんの先生方と知り合った。
子供達への深い愛情、教育者としての信念、そして未来への希望、
いつも素敵だと思う。
僕が子供の時も、
先生方はこんな風に僕を育んでくださったのだと思うと、
やっぱりうれしくなる。
そして、僕達も共に生きていく社会について一緒に考えてくださることに、
心からありがたいことだと感じている。
「今年で定年です。またいつか、どこかで会いましょう。」
握手してくださった校長先生の手がとてもあたたかかった。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
共に生きていける社会に向かって、
見えない世界を正しく伝えたい。
見えなくなってから始めた未来への種蒔き、
たくさんの人達の応援の力で随分と頑張ることができた。
未来はまだまだ向こうだけど、
いや、まだまだ向こうだから、
まだまだ頑張らなくちゃと思う。
学校を出て、駅で電車を待つ間、
ふっと空を眺めた。
「見えるようになったら、今何を見たいですか?」
やさしさに満ちた質問に、
僕は、今、空を見たいと思うと答えた。
駅の上には、真っ青な空が見えた。
雲ひとつない青い空だ。
見える人には、夜空が映り星も輝くのだろうが、
僕には想像する空しかない。
でも、本当に美しい澄んだ青い空だった。
見とれてしまうくらいの、青い空だった。
(2014年7月2日)
夜空
気分もスイスイ
朝のラッシュアワーの時間帯、
点字ブロックの上を歩いていた僕の白杖が、
通行人の足にからまった。
「すみません。大丈夫ですか?」
こういう時には、まずこちらから謝罪をすることにしている。
何も返事はなかった。
大事にはなっていない雰囲気を確認して、
僕は気を取り直して、目的地へ急いだ。
午前中は、京都府警の関係機関に足を運んだ。
横断歩道のこっちからあっちまでまっすぐに歩けるように、
エスコートゾーンの設置をお願いするためだ。
京都市の担当の方も同行してくださった。
誰にとっても暮らしやすい街になるように、
専門家のアドバイスはとても有難い。
午後は、引っ越し間近のさわさわで過ごし、
夕方には新しいさわさわの現地調査に参加した。
用事をすませて、烏丸丸太町まで友人に車で送ってもらい、
地下鉄の駅へ向かおうとして少し迷子になった。
誘導鈴に向かったのだが、
微妙に違ったらしい。
エスカレーターはここですよと紳士の声、
僕はここぞとばかりに肘を借りて、
地下鉄丸太町駅までスイスイ、
同じ方向だったので、電車にも一緒にスイスイ、
紳士は僕の予定駅よりひとつ手前で降りていかれた。
人間っていいよなぁっと幸せな気分で四条駅に着いた。
電車を降りようとしたら、
人の壁で動けない。
慌てても危ないし、あきらめかけた時に、
僕の目になるような「開けてください」の女性の声。
一緒に降りた彼女に、僕はまた図々しく肘を借りる。
そして、改札口までスイスイ。
改札口でお礼を言って、そこからまた一人で歩きながら、
やっぱり人間っていいよなぁって、つくづく思いました。
朝の出来事で少しへこんだ気持ち、
やさしい人達のおかげで、
すっかり幸せ気分になりました。
見えなくても参加できる人間の社会、
本当に素敵です。
(2014年6月29日)
紫陽花
僕達はそれぞれに、ボランティアさんに手引きしてもらいながら歩いていた。
紫陽花が咲いていると、一人のボランティアさんが教えてくれた。
僕達は立ち止まり、紫陽花をそっと触った。
ほんのりと青い色と聞いて、
僕はそれを想像した。
子供の頃からの全盲の友人は、
もちろん、紫陽花の画像の記憶はない。
ほんのりとした青い色を思い浮かべることはできない。
僕は見えている頃、見えないということは悲しくて不幸なことだと思っていた。
「長靴をはいてみたくなるね。」
紫陽花を触りながら、彼は笑った。
思い出の中に、雨があるのだろう。
見たことがあるとかないとか、
聞いたことがあるとかないとか、
行ったことがあるとかないとか、
実はそれはささいなことなのだ。
それを心に留められるのか、
その心を持てるのか、
その方がずっと大切なことなのだ。
「でんでん虫、触ったことある?」
唐突に尋ねた僕に、
「あるある、気持ち悪いよね。
エスカルゴはあの仲間だと聞いてから、僕は食べられないんだ。」
彼がまた笑った。
僕は、僕と同じなのに驚いて、
僕も同じだよと言いかけた言葉を飲み込んで、
「あんなうまいもん食べないの?
見ただけで、ヨダレが落ちそうになるんだけどね。
最高においしいのに、残念やなぁ。」
とニヤリと笑った。
(2014年6月26日)
京都府視覚障碍者協会総会
京都府下全域から、それぞれの地域で暮らす視覚障碍者が集まった。
年に一度の京都府視覚障碍者協会の総会、
梅雨空の雨の下、会場の京都市内にあるコンベンションホールは300人の熱気に包
まれた。
北は舞鶴市や京丹後市から、
南は奈良県と接する木津川市から、
遠方の人は5時過ぎには家を出たと言っておられた。
そこまでして、人は何故集うのだろうか。
障碍者の中で、こういう運動に参加しているのは2割にも満たないくらいの数だ。
よくメリットはと尋ねられるが、特別なものはない。
再会の握手をし、肩をたたき合い、同じ未来を見つめる。
ただそれだけかもしれない。
お金も名誉も要りませんという人もおられるが、
凡人の僕は、名誉には興味はないけれども、
やっぱりお金は欲しいと思っている。
協会の活動に参加すれば、
まして役員などを引き受ければ、持ち出しは結構なものだ。
それでも引き受けるのは、何故だろう。
なんとなくなのだけれど、あえて言い表せば、ミッションというやつだろうか。
「一人ぼっちの視覚障碍者をなくそう!」
僕達の協会のキャッチフレーズだ。
たったこの一行のメッセージがすべてを語っている。
光を失った時、それを簡単に受け止める程、人は強くはない。
その状態で生きていく時、まだまだ社会は成熟しているとは言えない。
それでも、人は生きていくことを選択する。
いや、生きていかないことを選択するほどのものは、
基本的には存在していないのだろう。
階段の上から、
「頑張れよ。」と先輩達の力強い声が聞こえる。
「ゆっくりでいいんだぞ。」とやさしい声が聞こえる。
後ろを振り返ると、
立ち尽くして呆然としている後輩達が見える。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ。」
僕はささやく。
それはひょっとしたら、過去の僕なのかもしれない。
もう一度振り返って、再度上を見上げても、
頂上は見えない。
見えないから上るんだ。
来年の再会までに、もう3段くらいは上っていたいな。
(2014年6月22日)
岡南公民館
老若男女、いや平日の午前中だったので若は少な目だったが、
気は若いという人はたくさんおられた。
ほとんどが元気な中高年だったが、
白杖の人、盲導犬の使用者、医療関係者、他の障害を持った人なども若干おられた。
岡山駅から車で30分、岡南公民館には100名を超える地域の方々が集まられた、
笑いながら、時には胸がキュンとしながら、僕達はひとつになった。
数年前、僕の著書「風になってください」を読まれた方々が、
3人で京都での僕の講演を聞きにこられた。
いつか岡山でもとおっしゃってくださったが、
こんなに早く実現するとは思わなかった。
講演会などが実現するには、いくつものハードルがあることを知っている。
ハードルが高くて実現しなかったこともいくつかある。
思いが実現するために、きっと何人もの、縁の下の力持ちが登場したに違いない。
そしてそれが繋がって、実現したのだ。
「そよ風の会」と名乗った彼女達は、
本当にさわやかなそよ風を吹かせてくださった。
その風に乗って、僕は未来への種を蒔いた。
会場には、彼女達が咲かせた季節外れのコスモスが揺れていた。
目の前はどんな感じかと聞かれることがあるが、
いつも変化のない灰色です。
ただ、灰色の向こう側に、キラキラとした未来を感じることもあります。
それはきっと、人間同士の絆が作り出してくれるものなのでしょう。
人間であることに、この社会に、心から感謝します。
岡山の皆様、本当にありがとうございました。
(2014年6月18日)
栄光館
82年前の6月14日、新島八重さんがこの世を去った。
彼女の葬儀が行われたのが、同志社の栄光館なのだそうだ。
昨日、その場所で、同志社女子中学校の生徒達に話をした。
栄光館は歴史を刻みながら、堂々とそして静かにたたずんでいた。
800人の生徒達と先生方、
食い入るように僕を見つめ、しっかりと話を聞いてくださった。
八重さんの兄、覚馬氏も中途失明の全盲だったらしい。
教育も福祉も充実していなかった時代に、
盲人達はどうやって生きていったのだろう。
いただいた大きな花束を抱きかかえて歩きながら、
この時代に生きていることに自然に感謝した。
そして、平和に心から感謝した。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加する社会、
まだまだ道半ばだ。
先輩達からのバトンをしっかりと受け継ぎ、
少しくらいは前に進んで、
そして、次の世代に渡せたらと願う。
話を聞いてくれた中から、
また、新しい時代の八重さんが出るだろう。
きっと、未来に向かって手をつないでくれるに違いない。
(2014年6月14日)
相合傘
買い物をすませて店を出たら、
雨がポツポツ落ちてきた。
降水確率50%の今朝の天気予報の数字を思い浮かべながら、
僕は空を眺めた。
傘を持ってこなかったことを後悔しながら、
うらめしそうに、空を眺めた。
その時、おじいさんが話しかけてくださった。
「傘はないのかい?」
僕は照れ笑いをしながら、
「はい。」とだけ答えた。
おじいさんは、僕を傘に入れると、
「こんな雨の日、あんたと歩くには、わしは丁度いいスピードだ。
肘を持ったらいいよ。」
そう言いながら、僕の横に寄り添ってくださった。
僕はおじいさんの肘を持って歩き始めた。
本当にゆっくりゆっくり歩いた。
傘に当たる雨の音を聴きながら、
のんびりのんびり歩いた。
道の方角以外は、何も会話はなかった。
でもなんとなく、相合傘がうれしかった。
団地の入口についた時、
「急いでも、何もいいことはない。」
おじいさんが笑った。
「人生ですか?」
出かかった言葉を飲み込んで、
僕はまた、「はい。」とだけ答えた。
そして、ありがとうございましたと深々と頭を下げた。
(2014年6月12日)
リレー
高校での授業が終わったのは、予定の12時10分だった。
待機してもらっていたガイドヘルパーさんと急ぎ足で学校を出た。
最寄りのバス停から四条までたった一駅だけバスに乗車し、
四条からは地下鉄に乗り換え、京都駅へ。
八条口改札に着くと駅員さんに、
「僕は全盲です。単独で東京の高田馬場まで行くのでサポートをお願いします。
特急券は自由席です。少しでも早い列車に乗りたいです。」
と申し出た。
日本盲人福祉センターでの会議が16時にスタートするのだ。
駅員さんは慣れた感じで、乗車の手配をし始めた。
乗換駅、到着駅、乗車予定ののぞみなどに連絡をすませ、
それから僕のところに来られた。
そこでガイドヘルパーさんとは別れた。
僕と駅員さんは呼吸を合わせ、
とても初対面とは思えないスピードで歩き、
新幹線ホームを端から端まで歩いて、のぞみの自由席の停車位置に着いた。
それからほどなく、乗車予定ののぞみがホームに入ってきた。
「急ぎ足でごめんなさいね。この列車にお乗せしたいと思ったものですから。」
駅員さんが笑った。
「ありがとうございます。急いでいるので助かります。」
「停車時間は90秒あるので、社内まで案内します。」
のぞみのドアが開くと、駅員さんは躊躇せず僕と乗り込み、
入口に近い座席に僕を座らすと、
「お気をつけて。車掌にも品川にも連絡してあります。」
それだけ言うと、すぐに降りていかれた。
まさに、プロの仕事だった。
のぞみが品川駅に着くと、品川駅の駅員さんが待っておられて、
山手線の電車への乗り換えをサポートしてくださった。
そして、山手線が高田馬場駅に着くと、やっぱり連絡を受けた駅員さんが待っていて
改札口まで誘導してくださった。
改札口でボランティアさんと合流して、雨の中を急ぎ足で歩いた。
日本盲人福祉センターの玄関に着いたのが、16時01分、我ながら見事な移動だった。
いや、見事にリレーしてくださった。
皆様に心からお礼申し上げます。
そうそう、のぞみの社内の隣の座席の男性、
僕が得意なはずのコンビニおにぎりで手間取ってしまった時、
これも手伝ってくださって、大変うれしかったです。
ありがとうございました。
(2014年6月8日)
大分旅行記 その3
大分市での日盲連全国大会終了後、
せっかくここまで来たのだからと、
京都の仲間と湯布院温泉で一泊した。
僕達のグループには全盲の男性の奥様もいたし、女性のボランティアさんもいた。
ただ、男性の晴眼者はいなかった。
こういう時には電車ごっこ作戦だ。
中年の裸のオッサン達が少年の笑顔でならぶ。
先頭は弱視のよしのり君、
その後ろには全盲が3人続く。
あきら君、よしき君、そしてのぶや君。
左手に手ぬぐいを握りしめて、
右手で前の人の背中や肩に手をおくのだ。
そして出発進行、決して静かな列車ではない。
ワイワイガヤガヤ言いながら進んでいく。
一般のお客様から見れば、唖然とする光景だろうな。
本人達は何も気にしていない。
安全な室内の温泉では飽き足らず、
列車はとうとう、戸外の自然石でできている露天風呂まで進んだ。
足の裏で石を感じ、
身体でお湯を感じ、
顔で風を感じる。
「いい湯だなぁ。」
誰となくつぶやく。
温泉は、見えても見えなくても、やっぱりいいものです。
(2014年6月5日)
大分旅行記 その2
大分市で開催された日本盲人会連合全国大会に参加した。
北は北海道から南は沖縄県まで、
まさに全国から1,000人を超える仲間が集合した。
会議では、活発な議論が繰り広げられた。
それぞれの地域の実情に応じた課題を、
それぞれの地域の代表が思いをこめて語った。
ひとつひとつの言葉には重たさがあり、
ひとりひとりが人間として輝いて生きていきたいという願いが溢れていた。
まだ福祉という言葉さえなかった時代、
先達達は点字ブロックのないホームから列車に乗り、
音響信号もない道をわたり、
こうして集ってきたのだろう。
障碍者の中で、障碍者運動に参加するのはごく一部の人達だ。
時間もお金もかかってしまう。
でも、日本中の仲間のことを考えると、
まだ悲しみや苦しみと向かい合っている仲間のことを思うと、
じっとしているわけにはいかない。
小さな力を結集して、未来に向かうのだ。
僕達が向かう未来、
僕達のための未来ではありません。
僕達も参加できる、みんなの未来です。
(2014年6月4日)