運のいい日

バスは駅のロータリーのいつもの場所とは違う一で止まったらしかった。
実はこれは僕にとっては大問題だ。
自分の居場所をイメージできないということは頭の中の地図が使えなくなるのだ。
迷子になってしまう原因となる。
「車が多くて、バスがいつもよりだいぶ後ろに停車しました。」
歩き始めた僕に乗客の女性が教えてくださった。
何も分かっていなかった僕はとても助かった。
その流れで僕は彼女の肘を借りて歩いた。
地元の比叡山坂本駅の乗車位置は電車の前方にあり、目的地の山科駅の階段は電車の
後方にある。
どちらかの駅でホームを移動しなければいけない。
地元の比叡山坂本駅のホームは古くて路面にガタガタがあり途中に柱もあり歩きにく
い。
山科駅は乗降客の数が多くてこれはこれで大変だ。
一長一短なのだが、慣れということで山科駅でのホーム移動を選択している。
電車は4両編成から12両編成まである。
1両の長さは20メートルだから12両の新快速電車の場合は200メートル程度を移動す
るのだ。
やはり怖い。
駅のアナウンスが電車が12両で到着することを告げた。
僕はできるだけ後方の車両に乗りたいと彼女にお願いした。
彼女は快く引き受けてくださった。
一緒に電車に乗った。
朝のラッシュで込んでいる状況だったので少しの会話しかできなかった。
それでも僕の状況を理解してくださったようだった。
電車が山科駅のホームに入った時におっしゃった。
「階段は降りて右です。」
「ナイス情報!ありがとうございます。」
僕は感謝を伝えて電車を降りた。
確かに少し右に動いたら階段があった。
それから地下鉄と京阪を乗り継いで枚方市に向かった。
午前の枚方市の高校、午後の京都市内の大学、いつもの仕事を終えて逆コースで山科
駅まで辿り着いた。
「松永さんじゃないですか。」
たまに比叡山坂本駅からの電車で一緒になる男性とばったり会った。
彼は買い物で山科駅で途中下車されたとのことだった。
その帰路に僕を見かけられたのだ。
勿論、僕はそれから彼の肘を持たせてもらった。
彼のサポートで山科駅のホームを移動した。
彼は熟知されていて、電車の降車口は比叡山坂本駅の階段に一番近い場所だった。
改札を出た後もそのままバス停まで送ってくださった。
結局、僕は往復ともホーム移動を手伝ってもらった一日となった。
ホームは一番緊張して恐怖感のある場所だ。
それが往復ともサポートしてもらえたのだ。
こういう日を運のいい日というのだろう。
運のいい日が一日でも多くありますように。
(2023年11月10日)

カジカガエル

日曜日は京都府南部にある城陽市での同行援護研修に参加した。
9時スタートだったので7時過ぎには家を出た。
研修は終日だった。
受講生の皆さんが真剣に取り組んでくださっているのが伝わってきて、僕も気合を入
れて対応した。
帰路京都駅で友人と軽く食事をして帰ったら最終バスにギリギリセーフだった。
タイガースの優勝だけを確認してベッドに吸い込まれた。
翌日の月曜日、鳥取県の倉吉市での研修にお招き頂いた。
これは始発のバスでも間に合わないので6時前のタクシーを確保して動いた。
4時には起床だった。
連日の早朝出発は少しきつかった。
京都で特急電車に乗り継いで4時間、結構遠かった。
鳥取県は東西に長いということで、その中部に位置する倉吉市が会場に選ばれたらし
い。
研修の前のランチタイム、駅の近くのレストランで関係者と過ごした。
接客も良かったし、お世辞抜きで美味しかった。
食いしん坊の僕はすっかり上機嫌になった。
単純で分かりやすい性格だ。
研修会場には鳥取県の視覚障害者の方も来られていた。
研修が始まるまでの時間を僕は皆さんと懇談しながら過ごした。
紡いでくださる言葉にはぬくもりがあった。
そこにはお互いを励まし合う力があった。
初めて出会ったはずなのに、昔からの友達みたいに話してくださった。
うれしかった。
「先輩達が頑張ってこられたからここまでこれた。」
そうおっしゃった視覚障害者の方は僕より先輩だった。
片意地を貼らない言葉をかっこいいと感じた。
僕が17歳の頃、視覚障害者の外出をサポートする制度が日本でスタートした。
それまでは、家族と歩くか友人と歩くか、そして命がけで歩くかのどれかだった。
そこを生き抜いてこられた先輩の言葉には重みが感じられた。
僕は同行援護という視覚障害者の外出を保障する制度の連絡会の責任者をしている。
僕の能力では少し荷が重い役職だ。
ただ、こうして日本の各地のいろいろな人に出会える役得には感謝している。
仲間の皆さんの声を伺いながら、少しでも前に進めたいと強く思う。
会場には目が見える関係者が多くこられていた。
僕達と同じ未来を見つめて一緒に歩いてくださる人達だ。
寄り添ってくださっている人達だ。
そういう人達がおられて歴史が動いてきたことを僕は知っている。
集ってくださった人達に心から感謝した。
帰宅して、先輩が教えてくださった「カジカガエル」の鳴き声をインターネットで聴
いた。
確かに美しかった。
豊かな一日となった。
(2023年11月7日)

150万アクセスになった日

見えていた頃、児童養護施設の指導員をしていた。
大学3回生の頃からアルバイトとして関わり、失明直前の39歳までそこで働いた。
いろいろな理由で両親と一緒に暮らせない子供達がそこにいた。
社会のいろいろな歪がそこにあった。
子供達は一生懸命に生きていた。
18年間の半分以上、僕は施設に泊まり込んで子供達と一緒に暮らした。
頑張ったのは間違いないが、無力だった。
夜間は僕を含めてたった3名の大人で60名の子供達を守らなければいけなかった。
物理的にも厳しい環境だったのだと思う。
今日、亡くなられた先輩職員の墓参に出かけた。
施設を辞めた時に9歳、10歳だった二人の女の子も一緒だった。
当然のことなのだが、二人は40歳近くになっていた。
不思議に感じた。
僕のことを少し憶えていてくれた。
「まっつん、今夜も部屋にきてね。絵本も読んでね。」
「5分だけでいいから一緒に寝よう。」
「寝る前に歌を歌って。」
当時、子供達は僕をまっつんと呼んでいた。
小学校低学年の子供達は寝る前に絵本の読み聞かせ、子守歌、添い寝、いろいろなお
願いを僕にした。
僕は雑用の合間を縫っていくつもの部屋を順番に訪ねた。
夜が連れてくる寂しさや悲しさを少しでも和らげてやりたかった。
そんなことしか僕にはできなかった。
「あのお饅頭がひとつ足りない話が好きだった。」
思い出話の中で彼女がふとつぶやいた。
僕も一瞬でその絵本を思い出した。
きっと彼女にせがまれて何十回も読んだのだろう。
懐かしさが込み上げた。
もう一人の女の子はギターで口ずさんだ歌のことを憶えていてくれた。
下手なギターの子守歌だった。
さすがに照れくさかった。
見えなくなって一番辛かったのは何かと尋ねられることがある。
間違いなく、その仕事を離れることだった。
子供達と別れた日のことは今でも忘れられない。
何もしてあげられなかったことを悔やみながら施設を去った。
今日、大人になった彼女たちは当たり前のように、何のぎこちなさもなく僕をサポー
トしてくれた。
彼女たちが子供の頃、確かに僕はほとんど何もしてあげられなかった。
でも、彼女達は彼女達のそれぞれの力で強くやさしく生きてきたのだ。
それがひしひしと伝わってきた。
うれしかった。
僕の思い出の中の二人の少女がその頃のままに笑った。
帰宅してホームページを確認したら、150万アクセスに到達したことを知った。
僕は僕なりに歩いてきたのかもしれない。
僕は僕なりに生きてきたのかもしれない。
ふとそう思った。
そして僕も少しだけ笑った。
何十年という時間を振り返る記念日となった。
(2023年11月4日)

もし見えたら

顔を持ち上げて空を見上げた。
目を見開いた。
それからじっと見つめた。
先日届いた中学生からの質問を思い浮かべた。
故郷の鹿児島県で僕の講演を聞いてくれた中学生からのものだった。
失礼になってしまうかもしれませんがという前置きで始まった質問だった。
「また、もし、目が見えたら何を見たいですか?」
質問を思い浮かべた僕は少し笑顔になった。
空を見つめながら笑顔になった。
「もしまた見えたら、電車の中から見ていた海を見たいです。
電車通学をした高校時代によく見ていたからです。
そして、その海の上にある空を見たいです。」
僕はありのままを伝えた。
そして続けた。
「何を見たいかと尋ねてくれる時、その人の心の中には見せてあげたいという気持ち
があるのだそうです。
ありがとう。」
一度顔を下に向けて、再度また空を見上げた。
記憶の扉がそっと開いていった。
高校の帰り道、途中の駅で電車を降りた。
いやその当時は汽車だったかもしれない。
駅からすぐの砂浜を歩いた。
目的もなくただのんびりと歩いた。
しゃがみ込んで桜貝を探した。
いくつか見つけた。
名前のままに淡いさくら色だった。
そして目前に海と空があった。
美しかった。
もう見ることはないのだなとぼんやりと思った。
まあ、仕方ないなとほのぼのと思った。
そしてまた笑顔になった。
(2023年10月29日)

歩くって難しい

電車は4両編成、6両編成、8両編成の3種類が運行しているのだと思う。
そしてそれぞれの車両に複数のドアがある。
何両目のどのドアから乗車したかまでは把握できていない。
だから、電車を降りてから階段までの距離は歩いてみないと分からないのだ。
階段がどこにあるかは小鳥の鳴き声の放送が目印だ。
小さな音量なので近づかないと聞こえない。
最初は予想の方向に歩く。
予想が当たっていればそのうち小鳥の鳴き声が聞こえ始める。
しばらく歩いても聞こえない時は逆方向に歩いてしまったということになる。
だいたい方向は当たるのだがパーフェクトではない。
たまに反対に歩いてしまっている。
そこは納得しながら、慎重にそして勇気を持続させて歩くのだ。
点字ブロックからホームの端まではわずかな距離しかない。
小さな古い駅なのでホーム自体にでこぼこがある。
所々に柱が立っている場所もある。
不用意にぶつかればバランスを崩す危険がある。
ホームの移動は本当に怖い。
今日は久しぶりに失敗した。
しかも小鳥の鳴き声の方向をなかなか確認できなかった。
幾度も立ちすくんで途方に暮れた。
襲ってくる恐怖心をなだめる。
そしてまた少し歩く。
僕の動きを変だと感じた女性が声をかけてくださった。
「違う方向に歩いて行かれたので。」
彼女はそうおっしゃった。
「階段の場所が分からなくなってしまいました。
案内してください。」
僕はお願いした。
彼女は引き受けてくださった。
階段はすぐ近くにあった。
5メートルくらいだっただろうか。
いつもは聞こえる小鳥の鳴き声をどうしてキャッチできなかったのか分からない。
一瞬キャッチしたのだったが頭の中の地図で整理できなかった。
風向き、疲労、いろいろな要因だろう。
彼女に心からの感謝を伝えてから階段を降り始めた。
見えないで歩くってやっぱり難しい。
もう20年もやっているのにやっぱり難しい。
それでも明日も僕は歩く。
歩きたいと思うから歩く。
気づいて助けてくださった人、本当にありがとうございました。
(2023年10月26日)

読書

年齢のせいで朝早くに目が覚めるようになってしまった。
まだ朝日も出ないうちから起きてしまうのだ。
脳はもっと眠りたいと思っているようなのだが仕方がない。
そのせいなのだろう。
昼食後には身体が昼寝を要求しているのが分かるし、夜9時には睡魔に襲われる。
悔しいと思う日々だ。
かかりつけのドクターに相談したら、寝る時刻をもう少し後ろにずらすようにとのア
ドバイスだった。
とにかく、目が覚めてから動き出すまでの時間を持て余している。
同世代の視覚障害の仲間に尋ねてみたら読書の時間にしているという人が結構いた。
見えなくなってから、僕は読書をしなくなった。
見えていた頃、むさぼるように文庫本を読んだ時期があった。
まさに読み漁った。
紙とインクの匂い、ページをめくる指先の感触、懐かしい。
視覚障害者の仲間には趣味が読書という人は結構多い。
点字で読む人が2割、録音図書が8割くらいかな。
僕が読書をしなくなったのは何故だろう。
目で活字を追うあの感覚がないせいかもしれない。
結局コーヒーを飲みながらぼぉっとしている。
最初の頃は時間の浪費みたいでもったいないと感じていた。
最近は贅沢のひとつだと思えるようになってきた。
時間の旅もいいものだということにしておこう。
現役を引退したら読書をするのかもしれないとなんとなく思うこともある。
読書そのものより、読書をするおじいさんの姿に憧れがあるのかもしれない。
(2023年10月22日)

キンモクセイ

お招きくださった中学校の最寄り駅はJR京都線の桂川駅だった。
朝の山科駅での乗り換えはそれなりのエネルギーがいる。
僕は朝7時台に1本だけある快速を選んだ。
乗り換えなしで行けるのだ。
ただ、大阪まで直通で行けるから通勤客なども多い。
ラッシュの中で電車に乗り込むのはそれなりのハードルがある。
彼女が最初に声をかけてくださったのはいつだっただろう。
もう忘れてしまった。
ほぼ毎日その電車で通勤している彼女は僕を見かけたら声をかけてくださるようにな
った。
この電車だったら彼女にサポートを受けられると僕も思うようになった。
6時台の電車の時はまた別の男性が決まってサポートをしてくださる。
彼とはアドレス交換をしているので僕は前日までに依頼をすることもある。
「明日、京都駅7時過ぎの新幹線に乗車するので乗り換え口までお願いします。」
という感じだ。
タイミングさえ許せば引き受けてくださる。
いろいろな人達のやさしさに支えられながら僕は生きているのだと思う。
今日の中学校は2時限目と3時限目に講演、その後はクラス毎にサポート体験という
内容だった。
この中学校は別日に点字体験も予定されているので、まさに視覚障害理解のフルコー
スということになる。
それがもう20年近く、ほぼ毎年実施されている。
僕達当事者にとってはとても有難いことだ。
実際、僕自身もこの中学校出身の人達に幾度かサポートを受けた経験がある。
6時限目までの活動を終えて、ボランティアさんに桂川駅まで車で送ってもらった。
京都駅で電車を乗り換え、地元でバスに乗り換え、いつもの帰路だ。
空席を見つけられない僕は約1時間、立ったまま過ごすことになる。
電車の乗降、乗り換え、改札口の通過、バス停への移動、どの部分も息を抜くことは
できない。
一瞬の判断ミスがどういうことになるかは自覚しているつもりだ。
電車内で手すりを持っている間だけは揺れる身体をかばいながら気持ちは休養させる
のが技術のひとつだと思っている。
電車に乗り込む瞬間に男性が声をかけてくださった。
そしてすぐに座席も教えてくださった。
僕達はそれとなく話始めた。
行先を確認しながら、同じ町内の人だと分かった。
あまりの偶然に驚いた。
彼は京都駅での乗り換えは勿論、地元駅でのバス停までのサポートまで申し出てくだ
さった。
僕は喜んでそのサポートの申し出をお受けした。
彼と歓談しながらの帰路となった。
バス停に到着した後も彼はバス待ちの時間を近くのベンチで付き合ってくださった。
いつもの僕にはそこにあることさえも気づかないベンチだ。
ベンチの木のぬくもりまでがうれしかった。
彼と別れて僕は一人でバスに乗車した。
最寄バス停でバスを降りて歩き始めた。
しばらく歩いて足が止まった。
キンモクセイ!
僕は白杖を自分の前に立ててグリップにあごを乗せた。
香りを楽しみながらゆっくりと呼吸をした。
今日出会った人達のやさしさをふと思い出した。
さりげなく、つつましやかに、そして存在感のあるやさしさ。
キンモクセイの香りがよく似合うと思った。
(2023年10月17日)

故郷での活動

新大阪駅構内のカフェでコーヒーを飲むのが、西に向かう時の最近の僕のルーティー
ンとなっている。
目当ては玉子サンドだ。
焼きたての玉子焼きと脇役の少量のケチャップがしっかりと主張している。
朝のホットコーヒーによく合う。
胃袋にも心にもやさしくしてあげてからスタートするのだ。
8日に玉子サンドを食べて出発、14日の夜帰宅した。
結構な長旅だった。
薩摩川内市に到着した夜はいつもの料理屋さんで大好物の焼きおにぎりとお漬物を頂
いた。
偏屈のしげきがやっている料理屋さんだ。
塩分の取り過ぎには気をつけるようにしているが、この時には制限はしない。
キュウリも大根もニンジンもバリバリと食べた。
日本で一番おいしいお漬物だと思っている。
久しぶりの再会、僕達はほんのわずかの時間映画の話をした。
しげきが大学の映画学科にいた時、卒業制作の映画に僕もちょい役で出演した。
僕の人生で最初で最後の俳優となった。
しげき監督は幾度も僕にやり直しを命じた。
僕にはセンスがなかったのだろう。
でも、映画の魅力を僕に教えてくれたのはしげきだ。
見えなくなった今も僕の趣味は映画鑑賞となっている。
翌日から活動を開始した。
まず、薩摩川内市の小学校5年生対象に講演をした。
事前学習などの成果なのだろうが、とても高いレベルでのひとときとなった。
いつものことだが、子供達と語らう未来はキラキラしている。
午後はいちき串木野市で開催された更生保護の団体にお招きを頂いた。
昨年人権関係の講演で話を聞いてくださった方が企画してくださったのだ。
「風になりたいって思ったんです。」
彼女の飾らない短い言葉が心に染みた。
お土産に頂いた菓子折りわ懐かしい郷土菓子の豪華な詰め合わせだった。
食いしん坊の僕の喜びは間違いなく倍増した。
予感通りにいいスタートを切れたと感じた。
今回の鹿児島県での活動、7会場での講演となった。
生まれ故郷の阿久根市も久しぶりに訪ねた。
小中学校の同級生達が宴を催してくれた。
卒業アルバムで確認できない僕は名前は記憶していてももう顔は思い出せない。
でもそんなことはどうでもいいことだ。
たくさんの人達のやさしさの中で生きてこれたことを実感した。
わざわざ集ってくれた同級生達に心から感謝した。
講演は午後だったので、よしのりは昼食のことを心配してくれた。
「俺の家でにぎめしを食っていけばよかが。」
宴の席でおにぎりは豪華なお寿司に化けていた。
よしのりの変わらないやさしさをしみじみと感じた。
阿久根市で開催された人権擁護委員の研修会では著書の中から「阿久根にて」を朗読
してもらった。
よしのりが温泉に連れていってくれた時の思い出話だ。
会場の皆さんも同年の幼馴染が醸し出すやさしさを共有してくださったようだった。
薩摩川内市では信子先生ともまた再会できた。
2004年の著書のデビュー以来、ずっと応援してくださっている。
幼児教育一筋で生きてこられた彼女の読み聞かせにはいつも引き込まれる。
花に囲まれた大きな屋敷、静かな空気の中で絵本を読んでくださる。
ゆっくりと流れる時間、豊かな時間だ。
それを聞きたいがために僕は毎年先生を訪ねるのかもしれない。
ただ、先生はいつも僕には過分のおもてなしをしようとしてくださる。
「僕は先生の読み聞かせを聞きたいがために訪れています。
だから、構わないでくださいね。」
いつもそう伝えている。
今回は読み聞かせの後、地元のホテルのレストランで夕食をご馳走してくださった。
フルコースだった。
味も接客も雰囲気もすべてが高いレベルだった。
「先生、来年もここにしましょう。」
舌の根も乾かない内での僕の言葉に先生は笑っておられた。
今回も高校時代の仲間達がすべての場面でサポートしてくれた。
講演の企画と交渉、書類等の準備、ホテルから会場までの送迎、会場での著書の販売
などすべてにおいてだ。
滞在中の選択から最後の宅急便の手配までやってくれる。
しんやさんは高校時代と変わらない語り口と笑い声だ。
笑い声が同じだから彼女の顔はいつも浮かぶ。
やさしい語り口と笑顔が様々な交渉の力となっているのは想像できる。
ひょっとしたら一番忙しい人なのかもしれないがそれさえも笑顔に包んでしまう。
僕はただ伝えるという活動に専念できる環境だ。
料理上手のしんこちゃんはいつも栄養満点のランチを準備してくれる。
「ウンチがちゃんと出るようにね。」
僕の体調管理のためにたくさんのメニューを考えてくれる。
今回はお替り欲しさにホテルでの夜食まで準備してもらった。
故郷の海でのひととき、これも定例行事だ。
いや一番の楽しみかもしれない。
波の音を聞きながらのコーヒータイム、自分のルーツと出会う気がする。
今回は潮風に吹かれながらラジオ体操に挑戦した。
所々忘れていた。
見様見真似ができない僕は止まってしまう。
ピーちゃんが背後から僕の手をとって教えてくれた。
幸せだなって思った。
最終日は民生委員さん、地域のサロンの皆さんに話を聞いてもらった。
司会者のよしゆきが僕を「親友」と紹介してくれた。
高校時代からずっと迷惑をかけてきた。
途切れることなく50年間が過ぎた。
僕みたいな奴をそう紹介してくれたのが本当にうれしかった。
会場を出る時に話を聞いてくださった人が声をかけてくださった。
「心に染みました。頑張ってくださいね。」
その言葉が心に染みた。
急いで駅に向かった。
数名の同級生達が駅まで送ってくれた。
病院関係の理事をしている中川君も久しぶりに会いにきてくれた。
コロナで大変だったのだと思う。
この20年近い活動の半分は彼が中心となって引っ張ってくれた。
再会がうれしかった。
そう言えば、田中君も二度も会場に足を運んでくれた。
薩摩川内市の市長をしている彼はまさに分刻みのスケジュールなのは知っている。
プライベートの時間まで使って応援にきてくれる。
「良二じゃっど。」
高校時代の空手部の彼の笑顔が浮かぶ。
多忙な業務の中での変わらない応援を有難いことだと思う。
友人達に見送られて新幹線に乗り込んだ。
よしゆきが持たせてくれたしんこだんごの包みを開けた。
たまたま隣の席が空いていたので香ばしいお醤油の香りがしても大丈夫との判断だ。
故郷の味を何本も味わった。
まさに堪能した。
僕は幸せ者だと味覚が脳にささやいた。
胃袋も心も満足してリクライニングを倒した。
新大阪までの車内、しばらく眠った。
今回の活動でまた500人くらいの人に話を聞いてもらえた。
未来に向かって500粒の種を蒔いたことになる。
一日休んでまた明日から地元での活動が再開する。
明日は京都市内の中学校だ。
ホームページのスケジュールを確認しながら自分でも驚く。
少し年をとったが、体力も気力もまだまだある。
残された時間ももうちょっとはあるような気がする。
鹿児島県滞在中にも京都の同志社女子大学から講話の依頼があった。
ヘレンケラーさんが講話をされた礼拝堂での講話、光栄なことだ。
勿論、僕の活動は彼女の足元にも及ばない。
ただ、同じ未来を見つめているのは間違いない。
先達達がバトンを受け継いできてくださった。
命がけで引き継いでくださったのだと思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も皆が笑顔で参加できる社会、その日までバト
ンは受け継がれていく。
だから僕も、また明日から頑張る。
そして来年も故郷で活動できればと心から願う。
皆元気でいて欲しいと思う。
(2023年10月15日)

予感

失明して5年くらい経った頃、エッセイを出版するというチャンスに恵まれた。
振り返ればチャンスだったと思えるのだが、当時は尻込みしたのが現実だった。
僕なんかにできるはずがないと考えたし、恥ずかしいというような思いもあった。
読んでくださる人がおられるかも不安だった。
「活字の力」という編集者の言葉に説得されるような形での出版となった。
もう20年くらい前のことだ。
今でも著書はアマゾンなどで流通している。
そして僕の活動の大きな支えとなったし力となった。
もう天国にいかれたが、僕を説得してくださった編集者の方には感謝してもしきれな
い思いだ。
最初のエッセイが出版された翌年、故郷の高校時代の同窓生達が僕の活動の支援を申
し出てくれた。
毎年秋になると招いてくれる。
故郷の子供達や教育や福祉関係の団体などで講演する機会を提供してくれるのだ。
コロナで一年だけ中止となったが、それ以外はずっと続いている。
出会った子供達、話を聞いてくださった人達の数はもうとっくに1万人を超えた。
同窓生達はまさにボランティアで動いてくれている。
会場への送迎だけでなく、滞在中のすべてを引き受けてくれている。
同窓生達ももう定年退職しそれぞれの事情などもある。
僕自身の体力、気力、これもいつまでかは分からない。
いつまでも続けたいとは思っている。
条件が許すなら続けられれば有難いのは間違いないことだ。
未来への種蒔、ライフワークに終わりはない。
一人でも多くの人に出会いたいのだ。
見えない僕達と見える人達とが共に暮らす社会について伝えたいのだ。
そして今年もまた実現できることになった。
たくさんの人達の支えのお陰だ。
ご尽力くださった皆様に心から感謝したい。
4日間で7会場の予定だ。
僕は500枚のありがとうカードを準備した。
京都駅みどりの窓口に新幹線のチケットを買いにいった。
僕は希望の新幹線の時刻を告げた。
単独で行くので駅員さんのサポートを受けることになる。
だから出入口に近い座席を頼んだ。
加えて、窓際を希望した。
横の座席の人が乗ってこられたり降りられたり、あるいはトイレに動かれたりが僕に
は分かりにくいからだ。
「ラッキーです。8号車のドアからすぐの窓際の席だけが空いていました。」
三連休、しかも鹿児島県で国体が開催されるとのことでとても込んでいたのだ。
まさに最後の1席を希望通りの条件でゲットできたのだった。
駅員さんはまるで宝くじに当たったみたいな感じで教えてくださった。
僕は笑顔で感謝を伝えた。
きっといい旅になる、そんな予感がした。
(2023年10月9日)

長い、ながーい一日

1時限目から5時限目までを京都市内の小学校で過ごした。
4年生の子供達だ。
講演、質問タイム、視覚障害者のサポート方法の実演、点字体験学習、フルコースだ
った。
給食も子供達と一緒に頂いた。
子供達はどんどん理解してくれた。
出会った最初の固まっていた表情は時間と共に笑顔に変化していった。
いろいろな形でサポートを申し出てくれて、そして実際にやってくれた。
「松永サん、サインしてください。」
こっそりとささやくおしゃまな女の子もいたりしてこの年頃らしいと笑顔になった。
「君にしたら皆にしなくちゃいけなくなるから我慢してね。ごめんね。」
女の子は納得してくれた。
そんなやりとりも含めて、いろいろなことが豊かな時間となった。
関わってくださった先生方に感謝を伝えて、それからいつもの大学に向かった。
ボランティアさんが小学校から大学まで車で送ってくださった。
公共交通機関では間に合わないスケジュールだったので助かった。
大学では学生達に二人一組になってもらい、視覚障害者に言葉だけで説明するという
体験をしてもらった。
僕が折り紙を折り進めていくのを見える学生がアイマスクの学生に説明するのだ。
そして最後に僕と同じ作品が折れていたらいいということになる。
学生達は一生懸命に取り組んでくれるのだが、その言葉、ボキャブラリー、声の大き
さ、僕には可笑しくてたまらない。
「むずい。」
「そうそういい感じ。」
「ななめってる。」
「ちょう、いけてる。」
僕には宇宙人的に感じる言葉も飛び交う。
笑い転げながらの授業となった。
「来週は僕は鹿児島に行くから休講だからね。間違ってこないようにね。」
学生達に連絡事項をしっかりと伝えて一日の仕事を終えた。
充実感と結構な疲労を感じながら帰路に着いた。
難関のひとつの烏丸御池駅で電車を乗り換えようとした時だった。
ラッシュの人込みの中からサポートの声がした。
僕はすかさず声の主の男性の肘を持った。
数歩進んだだけで彼の歩行が困難なのに気づいた。
片手には杖もついておられるのも分かった。
僕は彼の肘を持つ手の力を極限まで緩めて彼の歩調に合わせて歩いた。
僕が単独で歩くスピードの半分くらいだったかもしれない。
エレベーターに乗るなり彼は僕に話された。
「20年前に交通事故で片足を切断したんだ。義足だよ。」
それを伝えたいとの思いがあったようだった。
「大変な経験をされたのですね。でも、死ななくて良かったですよね。」
エレベーターが停止して僕達は再び歩き始めた。
そこから先は手が逆転した。
僕が彼の肘を持たせてもらうのではなく、彼が僕の肘を自然に掴まれた。
僕は少しずつ歩いた。
僕の有人にも義足の人が数人いらっしゃるが、ここまで不安定な人は珍しかった。
ちょっとのことで転んでしまうような感じだった。
僕はそういうことがおきないようにと慎重にゆっくりと歩いた。
彼の歩調に合わせながら彼の指示通りに歩みを進めた。
駅がいつもと違う雰囲気だなと一瞬思ったがかき消した。
いや検証する余裕がなかった。
やがて別のホームに到着した。
ギリギリのタイミングで電車に乗車した。
彼は僕だけを座席に座らせようとしてくださった。
僕は一瞬たじろいだが、彼の言うがままにした。
そうすべきだと思った。
その後流れた電車の案内放送を聞いて愕然とした。
彼は何か勘違いされたのだろう。
「間違ってしまった。違う電車だ。」
彼の戸惑いが伝わってきた。
僕はもっと先の駅で乗り換えるから大丈夫と告げた。
彼を安心させたいと思った。
彼は先に降りていかれた。
「ありがとうございました。」
僕は感謝を伝えた。
僕がもっと神経を集中させたら彼を失敗させずにすんだかもしれない。
申し訳なく感じた。
一瞬後悔が浮かんだが、体力も気力も限界だったのは間違いなかった。
なんとか京都駅まで辿り着いて乗り換え用としたが大変だった。
彼の目の誘導で歩いた僕は自分が電車のどのあたりに乗車したのかも理解できていな
かった。
いつもは頭の中にある地図をイメージして動く。
メンタルマップというやつだ。
まさに迷子状態になった。
地下鉄の改札を出たところで固まってしまった。
どちらに動けばいいのかさっぱり分からない。
僕に気づいてくださった女性がサポートしてくださった。
とんでもない場所にいたらしかった。
JRに乗り換えて青息吐息で地元の駅に着いた。
いつもの倍くらいの時間を要した。
急いで歩けばバスにギリギリ間に合うのは分かっていたが身体が動かなかった。
僕はあきらめながら改札を出てバス停に向かった。
しばらく歩いたところで声がした。
「バスの発車時刻です。持ってください。」
運転手さんだった。
僕は彼の肘を持って急いだ。
よく利用する僕をいつの間にか憶えてくださっていたのだ。
「いつもの席が空いています。」
運転手さんは僕を乗降口まで案内して運転席にもどられた。
「皆さん、お待たせして申し訳ありませんでした。」
運転手さんはそう告げてからバスを発車された。
たまたま同乗していた近所の方が僕の隣にこられた。
「発車時刻になって、突然運転手さんが運転席から飛び出していかれたので何があっ
たのだろうと思いました。
松永さんに気づいたから走って迎えにいかれたのですね。
素敵な運転手さんですね。」
彼女がそっと教えてくださった。
今朝小学校の子供達に話した言葉が僕の中で木霊した。
「助け合えるって人間だけだよ。素敵だね。」
長い、ながーい素敵な一日となった。
(2023年10月6日)