長い休みの後はいつも少し緊張する。
ちゃんとバスに乗れるか、電車に乗れるか、ホームは大丈夫か、道を歩けるか、階段
はどうか、エスカレーターもいけるか、放送をちゃんと聞けるか・・・。
いろいろな小さな不安が緊張につながるのだろう。
今年になって二度目の外出は幸いにのんびりとお昼前からだった。
電車の乗り換えの時にご婦人が声をかけてくださった。
会話をしながらホームを歩いた。
到着した電車に乗り込む時から彼女が降りる予定の次の駅まで会話は続いた。
5分間くらいだっただろうか。
彼女は自分が血液のガンであること、今受けてる治療を乗り切れば後2年くらいは生
きれるということ、くじけそうになったこともあるけど今は頑張ろうと思っているこ
となどを話された。
前を向いて生きていこうということで僕達の意見が合った。
あっという間の時が過ぎた。
そして僕達はお互いの手をトントンとして別れた。
社会に参加するということはまさにこういうことなんだなと思った。
大学での今年度最後になる授業が今日の仕事だった。
一年に30回という講義で僕は学生達に思いを伝えた。
時間と回数が理解と親しみを深くしていった。
たった一年、それでも別れを辛く感じた。
学生達もその気持ちを口にこぼしてくれた。
少しの疲れと淋しさを感じながら学校を出た。
乗換駅で電車を降りた時だった。
「お手伝いしましょうか?」
さりげない男性の声だった。
行く方向も同じと分かったので僕はサポートをお願いした。
電車待ちの時間も長かったのでいろいろな会話をした。
降車を考えてどこに乗車するのがいいかなども尋ねてくださった。
会話はいろいろと続いた。
そして、僕が以前は京都市内の洛西ニュータウンに住んでいたと話した時だった。
「ひょっとして松永さん?」
元消防署員の方だった。
名乗られた苗字も記憶にあった。
人権講演で二度ほどお会いした方だった。
10年の時間が流れての再会だった。
定年退職後の今も働いているということ、白髪が増えたということなどを話された。
僕達は笑いながら流れた時間を懐かしんだ。
「松永さんの話を伺ってから、駅などで困っていそうな白杖の方を見かけたら声をか
けるようにしてきました。」
確かに今日も僕にそうしてくださった。
僕の中で喜びが爆発した。
ささやかな活動が実を結んでいるのだ。
出会い、別れ、そして再会。
社会に参加するということはこうして人間同士がつながることなのだろう。
午前中に出会ったご婦人、また二年後にどこかでばったり再会できればと願った。
そして、今年一年、僕自身が元気でいい仕事ができればと心から思った。
(2023年1月13日)
出会い、別れ、そして再会
エッヘン
比叡山坂本駅で電車を降りたらバスに乗車するために点字ブロックに沿って歩く。
白杖は前方に突き出して左右に振って歩く。
改札を出て右に曲がり階段を二つ降りて次の角をまた右に曲がる。
そこからは点字ブロックの左端をを確認しながら歩く。
枝分かれしている点字ブロックの二つ目がバスの乗車位置につながる。
先に待っている他の人にぶつからないように先頭に向かって少しずつそっと歩く。
この時の白杖は前に突き出さないで身体の前で斜めに持っている。
防御の姿勢だ。
白杖が前の人に当たったらすぐに謝る。
この状態で当たるとしても少し触れる程度ということになるから問題はない。
それから次のバスの時刻を調べる。
バス停にある時刻表は見えないのでスマホを使う。
スマホにはこのバス停の時刻表を入れてあるので音声で読むことができる。
アイフォンのボイスオーバーという機能だ。
バスが到着したら乗り込んですぐに左手の優先座席を確認して座る。
始発だからほとんど空いている。
最寄バス停で下車したらそこからはナビを使って自宅まで帰る。
ナビの音声を聞くためにソニーのリンクパズというイヤホンをしている。
このイヤホンの中心は外部音も聞こえるように穴が空いているのだ。
直角三角形の直角ではない二つの角がバス停と自宅という感じだ。
見える人は距離的にも近くて行きやすいその2点を結ぶ道を選ぶ。
ところがそこは僕には行き難い。
団地内なのだが他の車道との交差点もあるし歩道もない。
僕はわざと直角部分で曲がるコースを選ぶ。
直角の場所はナビの音声が曲がり角と確実に教えてくれる。
ちなみにマイクロソフト社のサウンドスケープという視覚障害者用のナビだ。
無料のアプリだがその精度の高さには驚く。
曲がった後の細い路地の端は溝になっている。
僕はその道はわざと白杖を溝の角に当てて歩く。
溝に落ちないためだ。
人と自転車しか通れない道なので危険はない。
白杖の使い方をその場その場で変化させて歩いて自宅に帰り着く。
帰り着く瞬間、僕の頭の中には「達人」という言葉が浮かぶ。
白杖の達人だ。
エッヘンと満足気に玄関の階段を上る。
帰路は引っ越し当初からの練習でカバーできたが往路はどうしようもなかった。
道を挟んだバス停に行くには遠回りして点字ブロックもない信号を渡らなければいけ
ないからだった。
ある時、運転手さんが教えてくださった。
いつも降りる場所で乗ってもいいとのことだった。
バスは循環バスなので団地内を一周してまた駅に戻るのだ。
乗車時間が少し長くなるだけで運賃も変わらない。
循環バスという放送をずっと聞きながらその意味に気づいていなかったのだ。
エッヘンの僕がそれを知った時にショボンとなった。
でも、うれしいショボンとなった。
往路も復路も単独移動が可能になったのだ。
白杖や点字ブロックを使いこなし、スマホのアプリなども利用し、そしてたくさんの
周囲の人達に助けてもらいながらまた今年も歩く。
目隠し状態で日々歩く。
見えない人間がこうして歩くなんて見える頃は想像できなかった。
人間の持つ力って素晴らしい。
あっ、やっぱりエッヘンかな。
(2023年1月11日)
蝋梅
賀状やメールでたくさんの新年のご挨拶を頂いた。
昨年幾度も出会った人もいれば、この時期だけにお互いの健在を確認する人もいる。
それはそれぞれでいいと思う。
繋がっているということがうれしいことだ。
ある教え子から届いたメール、一年に一度のメールだ。
福祉施設で働いている彼女にはのんびりとしたお正月は縁がないのかもしれない。
彼女のような人達のお陰で施設で暮らす人達の生活、命が守られているのだ。
あらためて、そういう職業に携わる人達の働きに感謝したい。
メールの最後に彼女の家の庭先の蝋梅が膨らみ始めたと書いてあった。
透き通るような花弁でほんのりと香るらしい。
僕は蝋梅を見た記憶がない。
僕の鼻は鈍感なのか梅の香りにもあまり反応しない。
残念なことだ。
でもそのメールを読み終えて、やさしい香りが脳に広がるから不思議だ。
それを僕に届けようと思ってくれた彼女の気持ちもうれしい。
「では、仕事に行ってきまーす。」
結びの言葉には彼女の笑顔があった。
一年、元気で頑張ってくれますようにと心から願った。
(2023年1月7日)
新年のご挨拶
新年明けましておめでとうございます。
昨年の春、長年暮らしていた京都市から大津市に引っ越しました。
比叡山の山麓、琵琶湖の風を感じられる場所です。
65歳を過ぎての新しい土地での生活、どうなるのだろうかと不安はありました。
でも、これまで通りとはいかないまでもなんとか活動を続けることができました。
僕の活動を理解して応援してくださった皆様のお陰だと思います。
一年間、本当にありがとうございました。
そして、2012年7月14日にスタートしたこのブログが昨年で10年を超えまし
た。
我ながらよく書き続けたと思います。
子供の頃から宿題の夏休みの日記はいつも一週間で止まっていました。
継続や努力が苦手の僕にしたら人生で一番続けられたことになるかもしれません。
そして、見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会を感じ
られる日まで書き続けられたらと思っています。
僕にできるささやかな運動です。
いつの間にかアクセス数は135万に達しました。
覗いてくださったお一人お一人に、そして今これを読んでくださっている貴方に心か
ら感謝申し上げます。
また今年も宜しくお願い致します。
2022年 活動報告
小学校 11校
川岡、大宅、梅小路、祥栄、下鳥羽、桂東、隈之城(薩摩川内市)、平佐西(薩摩川内
市)、御所東、葛野、嵯峨野
中学校 14校
洛星、大原野、洛西、れいめい(薩摩川内市)、南宇治(宇治市)、西小倉(宇治市)、槙
島(宇治市)、涼風、洛北、神川、嵯峨、向島東、深草、洛南
高校 6校
枚方なぎさ(大阪府)、春日丘(大阪府)、京都海洋、長尾谷、嵯峨野、桃山
専門学校・大学 7校
京都福祉専門学校、京都YMCA国際福祉専門学校、大阪医療福祉専門学校(大阪府)、京
都文化医療専門学校
龍谷大学、四天王寺大学(大阪府)、同志社女子大学
同行援護養成研修以外にも民生児童委員研修会、人権擁護委員研修会、教育局研修会
、自治会研修会などからのお招きもありました。
(2023年1月3日)
年の瀬
今年最後の朝のコーヒータイムはやはり一年を振り返る時間となった。
一番先に思ったのは新天地でのスタートだった。
これは当然だろう。
ほとんど何もかもが新しい一歩となったのだ。
生活のすべてが不安と希望の中での一年だったのは間違いない。
とりあえず一歩を踏み出せたような気はする。
次に頭に浮かんだのは親友からの電話の声だったのには自分でも驚いた。
「予定より早く退院できたよ。」
ちょっとうれしそうな電話の声だった。
報告を聞いた瞬間に僕も笑顔がこぼれた。
大きな手術だというのは知っていた。
胃の半分以上を切除するということだった。
今年の夏には大腸の一部も切除していた。
それまで故郷で元気でやっていると思っていたのでとにかく驚きの知らせだった。
まさに病魔はいつ襲ってくるかわからないということなのだろう。
還暦を超えた僕達には他人事ではない。
そしてその病魔と向かい合う時にどう生きてきたのかどう生きていくのかということ
にも向かい合うのだろう。
電話を切ってから僕は一人で拍手をした。
よっしゃと呟きながら子供みたいに手を叩いた。
心の底からただうれしかった。
大きな喜びが記憶に記されたのかもしれない。
次に思ったのは姪っ子の結婚や出産のニュースだった。
長生きの母の声も心の中で木霊した。
その次がフィリピンのジョンディーコン達のことだった。
小学生の頃から僕が支援している子供だ。
勿論、ささやかなささやかな支援なのだが、
高校生になって優秀な成績を収めているらしい。
この星のどこかで夢を追いかけている若者がいて、ほんの少しでもそこに関われるの
が幸せなのだろう。
きっとそこに希望が見えることが僕の気持ちを揺さぶってくれるのだろう。
そして振り返りながらふと思った。
悲しみや苦しみよりも喜びが記憶を支配しようとしているのだ。
生きているのだから悲しみも苦しみもあったはずだ。
ひょっとしたらそれによる辛さはとても深いものなのかもしれない。
でも時間はそれを超えていこうとする。
それが何故なのだかは僕は分からない。
でも、それでいいのだとはなんとなく思う。
それができるから人は生き続けていけるのかもしれない。
(2022年12月31日)
良いお年を!
年の瀬の駅のホームはいつもよりは空いていた。
学生達が冬休みになったからだろう。
「おはようございます、松永さん。お手伝いしましょうか?」
ホームの点字ブロックに辿り着いたタイミングでの声だった。
名前を呼ばれて不思議そうに感じている僕にそっと教えてくださった。
「この前のカード。山科までの。」
なんとなく記憶がつながった。
「また声をかけてくださったのですね。ありがとうございます。」
電車が到着した。
僕は彼女の肘を持たせてもらって乗車した。
「席がひとつ空いています。」
彼女は僕を席まで誘導すると僕の左手を持って背もたれを触らせてくださった。
僕は何の問題もなく自然に席に座った。
いつもなら立ったままでの厳しい時間が暖かな時間に変わった。
僕の横に立っている彼女にそっと尋ねた。
プロのガイドさんみたいに上手だったからだ。
「何故誘導の方法などを知っておられるのですか?」
「ブログを読んだからです。」
それから僕達は少しありがとうカードについて話した。
その後の数駅、会話は控えたが彼女のぬくもりが傍にあった。
やがて電車は彼女の降りる山科駅に近づいた。
「私、降ります。」
「ありがとうございました。良いお年を。」
僕は笑顔で答えた。
「良いお年を。」
彼女も笑顔で返してくださった。
その時、ほんの一瞬、僕達は見つめ合った。
それから目的の駅までの時間、僕は幸せに包まれた。
「見えなくなって良かったことってあるんですか?」
時々子供達から質問される。
僕はいつも答える。
「今でも見えた方がいいなと思っているんだけどね。
でも、見えなくなってからやさしい人に出会う機会は間違いなく増えたよ。
それは僕の幸せのひとつかもしれないね。」
1度きりの出会いもある。
今日みたいなこともある。
次回があるかは神様だけがご存知なのだろう。
人間の社会の豊かさ、本当に素晴らしい。
人間同士の交わす言葉、本当に美しい。
皆さん、良いお年を!
(2022年12月27日)
ポインセチア
新島記念講堂の入り口には大きなクリスマスツリーがあった。
館内にはパイプオルガンの音色が響いていた。
生演奏だった。
厳粛な空気と12月のやさしさが同居していた。
僕は心を落ち着けて話をした。
いや、パイプオルガンの前奏の中で心が自然に穏やかになっていった。
空から降ってくる音の中で洗浄されていくような不思議な感覚だった。
心の中で讃美歌を口ずさみ最後にアーメンと唱えた。
礼拝を終えて出口に向かう時だった。
ポインセチアの鉢植えが並んでいることを教えてもらった。
僕は足を止めてそこにしゃがみこんだ。
右手の白杖を左手に持ち替えた。
それから空いた右手でポインセチアをそっと触った。
明るい赤から黒に近い赤までいろいろな赤が脳裏に浮かんだ。
以前どこかで葉と思う部分が実際には花だと聞いたような気もする。
そのいくつかの葉を触りながら赤色のグラデーションが僕を取り囲んだ。
今ここに生きていることが幸せだと自然にそう思えた。
久しぶりの美しい赤色を見た。
立ち上がって関係者に感謝を伝えて歩き出した。
歩きながら空を眺めた。
この空がウクライナにも続いている。
そう思ったら奥歯を噛みしめてしまった。
平和への祈りが届きますようにと心から願った。
(2022年12月24日)
幸せのおにぎり
午前中は9時過ぎから自宅でzoom会議に出席していた。
会議はお昼までかかってしまった。
急いで昼食を済ませて家を出た。
午後の専門学校の授業にギリギリのタイミングだった。
お昼時間の駅のホームは空いていた。
乗り換えがスムーズに行くように考えてホームを少しずつ移動した。
サポートの声がした。
僕は喜んでお願いした。
最近、彼女は丸太町駅付近で僕を見かけたらしかった。
「サングラスが素敵だったから憶えています。」
怪訝な感じの僕にそうおっしゃった。
単純な僕はそれだけで上機嫌になった。
電車に乗ると僕達はボックス席に向かい合って座った。
友達みたいに会話が流れた。
彼女は2個あるおにぎりをひとつあげようとおっしゃった。
何かの記念のお土産らしかった。
「梅と昆布とどっちがいいですか?」
昆布と出そうになった言葉を飲み込んで僕は答えた。
「レディファーストです。貴方はどちらがいいですか?」
彼女は梅を選んだ。
僕は心の中でそっと喜んだ。
わずか10分ほどの出会い、それも初対面だ。
しかもお土産のおにぎりまで頂いた。
厚かましいのかもしれないが人生にはこういうこともある。
ちょっと早いクリスマスだなと思いながら彼女と別れた。
学校に到着して学生達に今日の出会いの話をした。
昆布のおにぎりがうれしいんじゃなかった。
人間同士の交わりの中で生まれる時間と空間、素敵だと思った。
学生達の中には留学生も多くいた。
その中に昼食をとっていない学生がいた。
僕は授業の後そっと彼に伝えた。
「幸せのおにぎり、どうぞ。」
幸せが連鎖した。
笑顔がつながった。
(2022年12月20日)
言葉を超える
改札口を入ったところで声がした。
「お手伝い、ありますか?」
せっかくの声だったので僕はサポートを受けることにした。
僕は彼に人差し指で示しながら伝えた。
「こっち側で肘を持たせてください。」
彼は僕の背中側に回ってしまった。
「こっち」も「肘」も伝わっていなかった。
幾度かのやりとりがあった。
なんとか左側に立ってもらって肘を持たせてもらった。
やりとりの中で彼が日本人ではないのかもしれないと思った。
「留学生ですか?」
僕は一緒に階段を上りながら尋ねた。
「アメリカ人です。」
それからいくつかの会話を試みたがうまくいかなかった。
彼の日本語力、僕の英語力、どちらもあまり役に立たなかったのだ。
彼は同じホームの反対側の電車に乗車するということが分かった。
僕は僕の側の点字ブロックの上に誘導してくれるように頼んだ。
「点字ブロック」、伝わらなかった。
彼の困惑が伝わってきた。
「イエローブロック!」
僕はホームの端の方を指差しながら言った。
「OK」
今度は通じた。
彼は僕を点字ブロックまで案内してくれた。
僕はいつものようにポケットからありがとうカードを取り出した。
「サンキューカード、プリーズ!」
彼はオウと言いながらうれしそうに受け取ってくれた。
バイバイ、僕達は手を振って別れた。
人間同士なんとかなるもんだ。
15年ほど前、京都市の障害者の体育大会に出場した時のことを思い出した。
最後の種目は地域対抗のリレーだった。
車いすの人が第一走者、そして数人の障害者の選手がバトンをつないで僕はアンカー
だった。
僕にバトンを渡す走者はろうの人だった。
手話通訳の人を交えて打ち合わせをした。
「僕は左手でガイドさんの肘を持ったまま走るので、僕の右手の掌にバトンを渡して
ください。」
リレーはスタートした。
僕は右手の掌だけに集中してバトンを待った。
ガイドの男子大学生が僕に伝えた。
「もうすぐです。今2位です。」
次の瞬間、僕の掌はバトンをしっかりと掴んだ。
足に自信はあった。
僕は全力で走った。
1位でゴールを駆け抜けた。
たくさんの仲間や関係者と喜びを分かち合った。
「あー、うー。」
僕にバトンを渡したろうの走者が何か言いながら僕に抱き着いた。
「有償だよ。良かったね、良かったね。僕達の地域の初めての優勝だよ。」
僕はそんな言葉を連呼しながら彼とハグを続けた。
お互いの背中を叩きあった。
その経験は大きな宝物となった。
その後、盲ろう者通訳解除員研修などでろうの人達と関わる機会が度々あった。
僕はいつも笑顔で挨拶ができた。
言葉を超えて伝え合うものがあるとあのろうの人からまなんだのだと思う。
(2022年12月16日)
恐怖感
見えないで一人で外を歩いて怖くないかと尋ねられることがある。
もう光も感じなくなって20年以上の時間が過ぎたのだから慣れもある。
でも、恐怖感が消えるということはない。
同じ場所でも季節によって日によって時間によって恐怖感は違う。
僕自身の体調によってあるいは疲れ具合によっても違うのかもしれない。
風の強さ、雨の音などの影響も少しはあるだろう。
気温が高いよりも低い方が感じやすいのも事実だ。
一番恐怖感を感じるのはやはり駅のホームだ。
いつもの路上などはそれなりに普通に歩いているつもりだ。
それなのにホーム上では自分自身のバランスの不安定さを感じてしまうことがある。
先日、とても強い恐怖感を覚えた時があった。
後でデータ的に考えると自分で納得できた。
人権月間の今月、僕は中学校などからの講演依頼が多い。
先週は月曜日から木曜日まで4日間で4つの中学校と1つの専門学校と1つの大学に
出かけた。
一日に二か所という日もあったということだ。
金曜日は視覚障害者の研修が奈良県の柏原市で開催されてその挨拶に出かけた。
結構遠かった。
その帰りに京都駅から乗車した電車は何両編成でどこに乗車したかなどは分かってい
なかった。
発車ギリギリのタイミングで乗車してしまったのだ。
1本遅らすと20分くらいホームで待たなければいけないという気持ちがそうさせたの
だと思う。
地元の駅に着いて、少し動きかけて足が止まった。
階段はどちらの方向だろう。
それなりの数の人がホームにおられる雰囲気もあった。
反対側に到着する電車を待っている人達だった。
僕は数歩進んだが足が勝手に止まってしまった。
怖いという感覚だった。
改札口につながる階段はこの方向で合っているだろうか。
耳を一生懸命澄ませてみたが階段を知らせる鳥の声の案内音も聞き取れなかった。
足元には点字ブロックが確認できていたが恐怖感は僕を包んでいた。
少しずつ歩くしかないと決心した。
そしてそろりそろりと歩き始めようとした瞬間だった。
「お手伝いしましょうか?」
女性の声だった。
僕は階段の入り口を知りたいとお願いした。
確認したら改札に向かう人ではなく反対側の電車を待っている人だった。
放送はその電車の接近を知らせていた。
僕は彼女の右肘を持たせてもらって歩いた。
彼女の左手がゴロゴロを引っ張っている音がした。
狭いホームの人の中を僕達はスピードをあげながら心を合わせて歩いた。
階段の入り口に到着して御礼を言う間もなくすぐに彼女はその電車に乗り込んだ。
僕は深呼吸をして階段を降り始めた。
「ごめんなさい。ありがとう。」
急がせてしまった彼女に言葉が独り言で口に出た。
改札を出たところで交通カードを片づけるために立ち止まった。
ホームと同じような点字ブロックが足元にあった。
同じ点字ブロックなのに安心感を覚えた。
そして大きな恐怖感が幸福感に変化しているのが分かった。
(2022年12月11日)