台風が去った後、庭を見て回った。
僕が見るというのは触るということだ。
あちこちを触り回った。
朝顔の鉢植えはいつもの場所にはなかった。
玄関の2つも裏庭の1つもそうだった。
僕はその辺りを歩幅を小さくしてゆっくり歩いた。
間もなく足が鉢に当たった。
風で飛ばされてひっくり返っていたのだ。
僕はその鉢をそっと抱えて元の場所に戻した。
それから葉っぱや茎、弦などを恐る恐る触った。
幸いひっくり返っただけで大きなダメージはなさそうだった。
ちょっとだけ安堵した。
それからあちこちのひまわりを見て回った。
愕然とした。
何本ものひまわりが倒れかかっていたし、実際倒れてしまっているのもあった。
そして、数本のひまわりは途中から折れてしまっていた。
自転車のハンドルの太さくらいはある丈夫な茎がぽっきりと折れてしまっていた。
僕はしばらく立ちすくんだ。
それから麻ひもとハサミと支柱を準備した。
倒れかかっているものは新しく支柱を立てたり麻ヒモで近くの鉄柱に結んだりした。
折れてしまっているものはどうしようもなかった。
ごめんねと呟くしかなかった。
悔しかったし悲しかった。
僕はまだ咲いてくれている花の部分を切り取って花瓶にさした。
そしてそれを玄関の脇に飾った。
誰かがくるわけではない。
庭に集う虫や鳥達が見てくれると思ったのだ。
それにしても凄まじい風だったんだなと改めて思った。
確かにうなり声をあげていたことも思い出した。
あちこちの被害が大きくありませんようにと心から願った。
そして、ありがとうとひまわりに伝えた。
僕にとってはひまわり台風として記憶に残るのだろう。
(2023年8月17日)
ひまわり台風
日傘
同行援護の研修がスタートした。
同行援護というのは視覚障害者の移動や代筆代読などを保障する制度だ。
その研修の講師をされる人たちの研修で、今回は主に西日本から参加されている。
8月12日から15日、まさにお盆期間を利用しての研修となった。
初日、会場の京都の最高気温は38度との予想だった。
僕が暮らしている滋賀県大津市も同じ38度、知っただけで眩暈がした。
それでも主催者側なので頑張らなくちゃいけない。
僕は昔から帽子は苦手だった。
幾度かかぶった経験はあるが髪の毛がぺちゃんこになるのが嫌なのだ。
最近、お日様の下を少し歩いただけで危険を感じるようになった。
そんな暑さなのだ。
僕の年齢による体力低下もあるのかもしれない。
とにかく対策をと思って日傘のデビューとなった。
日焼けは気にしないのでUVカットはそんなに拘らなかった。
それでもほとんどカットするらしい。
何より遮熱という性能に魅かれた。
これが凄いのだ。
まさに日陰を歩いている感じなのだ。
見える人は信号待ちのちょっとした時など、よく日陰を探して行動される。
見えない僕は日陰を探すことはできない。
見える人が日陰を探せることをうらやましく感じていた。
日傘があるということは日陰を連れて歩くということなのだ。
もっと早く使えば良かったと後悔した。
右手に白杖を使い、左手でグリーンの日傘をさして歩いています。
絵面的にも気に入っています。
でも、台風が近づいているとのこと、一応晴雨兼用だけど風には弱そうな感じ。
ちょっとだけ不安かな。
(2023年8月13日)
琵琶湖大花火大会
8日は琵琶湖大花火大会があるとのことだった。
コロナで4年ぶりの開催らしかった。
昨年引っ越してきた僕には初めての花火大会ということになる。
とんでもなく混雑するらしく外出は控えた方がいいとアドバイスを受けていた。
駅の案内放送もだいぶ前から同じような内容を伝えていた。
僕は自宅から鑑賞することにした。
1時間あまりの開催時間、1万発の花火が夏の夜空を彩る。
想像しただけでワクワクした。
7時半を少し過ぎた頃から聞こえ始めた。
やはり結構な距離があるのだろう。
近くの音ではなかった。
それでも大きな音、小さな音、変化する音、聞こえた。
僕はその音に聞き入った。
子供の頃に連れて行ってもらった故郷の港の花火大会を思い出した。
数発の花火があがり静けさが訪れた。
もう終わりかと思った頃にまた次の花火が上がった。
そんな感じを繰り返したのを憶えている。
その頃の地方の花火大会はそれで精一杯だったのだろう。
音が鳴りやまないなんてなかった。
それでも夜空に咲いた大輪の美しさを憶えている。
息を飲んで見入った感じだった。
そしてその思い出には父ちゃんと母ちゃんと妹と僕がいる。
切り取った写真のように残っている。
間違いなく小さな幸せがそこにあった。
あっという間に時が流れたような気になる。
子供の頃にゆっくり流れていた時間は少しずつ速くなっていった。
人生の夏ももうとっくに過ぎたのだろう。
咲いた瞬間に消え始める花火のはかなさをより美しいと感じるようになった。
そんなことを思いながらいろいろな花火を思い出した。
いつか琵琶湖の近くまで行って鑑賞してみたいと思った。
(2023年8月9日)
ひまわり咲いた
小指の爪くらいの大きさだった種を20粒ほど一晩コップの水に浸しておいた。
それを翌日にあちこちに蒔いた。
玄関の階段を上った郵便受けの横、階段の反対側、家の裏の小さなスペースなどだ。
塀の周囲にも蒔いたし遊び心で家庭菜園の端っこにも2粒だけ蒔いておいた。
一週間くらいで発芽してくれただろうか、毎日のように指先で確かめた。
小さな葉っぱ、細い茎、大きくなれよと話しかけながら幾度もそっと触った。
それが僕にとっての見るということだ。
ジョーロでの水やりは数日おきにやったし、時々肥料も与えた。
少しずつ大きくなっていった。
梅雨の頃にはまさにどんどん大きくなっていった。
僕の膝丈、腰、胸、身長、育ってくれた。
やがて手を伸ばして確認するようになり、たちたちしても届かなくなった。
不思議なもので、僕は届かなくなった先端の方をいつも眺めた。
どうやら最近咲いてくれたらしい。
ひまわりにはいろいろな思い出が重なる。
どれもが幸せな思い出だ。
思い出がひまわりを好きにさせたのかもしれない。
あとどれくらい夏を迎えられるか分からないが、毎年咲かせたいと思っている。
遊び心の家庭菜園のひまわりが一番大きくなったらしい。
ミニトマトやキュウリやナス、そして緑のカーテンのようなゴーヤ。
そこに大きなひまわりが笑っている。
夏がよく似合う。
(2023年8月4日)
うなぎ
東京の友人がうなぎを食べに連れていってくれた。
高田馬場にあるうなぎの専門店だ。
ちなみに僕は大のうなぎ好きだ。
あのタレの香りをかぎながらうなぎを食べると間違いなく幸せを感じてしまう。
視覚はないのだから味覚と嗅覚だけで食べる。
最高級の幸福を感じられるのだから、僕にとったら不思議な料理なのだろう。
彼と会うのは3年ぶりだった。
コロナ禍だったので、会うことそのものを自粛していた。
十数年前、仕事で彼の奥様と出会ったのがきっかけだったが、
いつの間にか彼と会うことが楽しみになった。
とにかく博識だ。
やさしさもさりげない。
話をしていても肩が凝らない。
いい距離感なのだろう。
心から喜べる再会をできるのはこれもまた幸せというものだろう。
うなぎが好物と言っても、そんなにショッチュウ食べられるわけではない。
土用にウナギ屋さんというのも初めての経験だった。
ふとウナギ屋さんの記憶を振り返って気づいた。
行ったことのあるウナギ屋さんをいくつもはっきりと憶えているのだ。
若い頃、高校時代の友人と初めて行ったうなぎ専門店が京都駅前の江戸川だった。
四条河原町のかねよは専門学校の教え子が連れていってくれた。
嵐山の廣川は見えていた頃の同僚達と行った。
岩倉木野にある松乃鰻寮はミニコミ誌の編集者が連れて行ってくださった。
東京の神楽坂のたつみやでは出版社の人と打ち合わせをした。
ジョン・レノン御用達の店と知って驚いたのを憶えている。
故郷の鹿児島市では妹が、薩摩川内市では従妹が、それぞれ地域の名店に連れて行っ
てくれた。
この忘れん坊の僕がほぼ完ぺきに憶えているのだ。
滋賀県に引っ越してきて、早速えんというウナギ屋さんを見つけた。
よっぽど好きなのだろうと自分自身でも驚く。
ちなみに高田馬場のウナギ屋さんは愛河、きっとまた記憶に残るのだろう。
幸せな香りのする記憶だ。
(2023年7月31日)
セミ
日中は暑いので庭仕事は早朝にすることにした。
最近は4時には目が覚めてしまうので丁度いい。
起きてすぐにでも始めたい気はあるし始められる。
光を確認できない僕にとっては夜も昼もあまり関係はない。
でも暗闇でごそごそしていたら近所の人に怪しまれるかもしれない。
だからコーヒーを飲みながら日の出を待つことにした。
天気予報では今朝の日の出は5時だった。
僕は5時前には長袖の作業服に着替えて蚊取り線香を持って待機した。
5時のニュースを聞いてそれから庭に出た。
空気は少しひんやりとしていた。
予定の場所に発泡スチロールの板を置いて腰掛けた。
それからバケツを左に置いて草抜きを始めた。
小さなスコップで根から抜くようにしている。
それでも後から後から生えてくる。
その強さ、たくましさ、少しでいいから僕にも分けて欲しいと思う。
夢中になって草を抜く。
セミが鳴き始める。
突然の合唱のスタートだ。
指揮者がどこにいるのか知らないがとにかく見事だ。
セミも生き物だから病気やけがで目が見えなくなることもあるだろう。
ふとそんなことを考える。
白杖を持って飛ぶわけにもいかない。
考えを巡らしながらも手は止まらない。
見えなくなったセミも頑張れよ。
手を休めてセミの声のする方を眺める。
僕もセミも夏の中で生きている。
(2023年7月27日)
祇園祭
後祭りの宵山は想像したよりも少ない人手だった。
時間が早かったからかもしれない。
僕はガイドの学生とゆっくりと歩いた。
京都で45年くらい生活したが祇園祭に出かけたのは10回くらいだと思う。
そのうちの数回は見えている頃だった。
だから山鉾や提灯の風景などがうっすらと記憶にある。
笛と太鼓、それに鐘の織りなす音色はまさに夏の風物詩だ。
コンチキチン、コンチキチン。
何百年も受け継がれてきた音だ。
狭い路地を老若男女、多国籍の人達が行き交う。
それぞれが譲り合いながらすれ違う。
白杖の僕に気づいて立ち止まってくださる人も多い。
そこに存在するのは平和な世界だ。
祭りを楽しむ人達に国境はない。
この同じ地球で今も戦争が続いている。
胸が締め付けられる。
コンチキチン、コンチキチン。
天まで届け。
(2023年7月23日)
風鈴
天気予報通りの厳しい暑さだった。
お日様は容赦なく光を放ち熱を地上にばらまいておられた。
バス待ちのわずかな時間でも僕の意識はクラクラするような感じだった。
そっと風が吹いた。
風というほどでもないささやかなものだった。
その瞬間聞こえた。
チリン。
小さな小さな音だった。
また少し風が吹いた。
チリンチリン。
今度は音色は主張をしてくれた。
どこからともなく聞こえてきた風鈴の音色。
心がやさしくなるのを感じた。
いつの頃からなのだろう。
どんな人が始めたのだろう。
夏に似合うってどうやって発見したのだろう。
いろいろなことを考えながら人間の感覚の豊かさをしみじみと振り返った。
さりげなく誰かにやさしさを届けられたらいいな。
帰宅したら僕も風鈴をつりさげようと思った時、バスのエンジン音がした。
(2023年7月18日)
雷雨
夢中で草抜きをしていた。
長袖シャツと長ズボン、麦わら帽子を覆うように付いている網が顔も隠していた。
庭仕事の時のユニフォームだ。
前触れもなく突然に冷たい風が吹き始めた。
雨もぽつりぽつりと落ちてきた。
空が我慢できずに泣き始めたような感じだった。
手に当たる感覚よりも麦わら帽子に当たる音の方が早かった。
雨は大粒になり、同時に雷様のうなり声が聞こえた。
凄まじいほどのうなり声だった。
きっと稲光も凄いのだろうと想像できた。
泣き始めた空は大泣きに変わった。
僕は家の中に引っ込もうと思ったが行動が伴わなかった。
なんとなくその場に座りたくなったのだ。
人間は時々思いもよらぬ行動をすることがある。
自分でも意味不明の行動だ。
脳が考えて動くのではなく脳を無視して身体が動くのだろう。
そんな瞬間は結構好きだ。
ゴロゴロ、ババーン、吠え続ける雷様、雨の音も大きかった。
僕は地球に座り込んでその雰囲気を楽しんだ。
自然の交響曲だった。
生きているんだな。
当たり前の何でもないことをただ感じた。
麦わら帽子をとって顔を空に向けた。
口を開けた。
子供の頃にやった記憶がある。
どうしてやったのかは憶えていない。
でも確かにやったことがある。
そしてその時もうれしかったのだろう。
だから記憶の中に残っているのだろう。
見えていたら稲光が怖くてとっとと家の中に引っ込んだはずだ。
そんなことも考えてそれもまたうれしかった。
(2023年7月13日)
七夕会
視覚障害者施設の七夕会に参加した。
司会も利用者の視覚障害者の人達が受け持っていた。
それぞれに緊張しながらも一生懸命やっているのが伝わってきた。
プログラムの前半はボランティアさん達の朗読だった。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の朗読が進むにつれ会場が聞き入っていくのが分かった。
ゆっくりと静かに時間が流れた。
それからティータイム。
それぞれの席にレモンケーキがひとつ、そしてビスケットの小袋がひとつ配られた。
インスタントコーヒーがプラスチックのカップに注がれた。
限られた予算、限られたスタッフ、ささやかさの中には精一杯の思いがあった。
おいしく頂いた。
その後のゲームはグループ対抗だった。
ステージのテーブルには重さが違うペットボトルが4本並べられた。
各グループ代表の選手は30秒でそれを軽い順番に並べていくのだ。
ペットボトルの中の水の量は見た目ではあまり変わらないくらいに微妙な違いだとス
タッフの人が教えてくださった。
選手は全盲の人も弱視の人もいるので公平にするために全員アイマスクだった。
結果、6チーム中1班と4班が見事パーフェクトだった。
でも賞品が1グループ分しかなかった。
今度は1班と4班の次の選手がジャンケンをした。
白熱の中で4班が勝った。
ちなみに僕も4班だったから賞品の箱ティッシュをひとつ頂いた。
それから全員が舞台に集まった。
僕は隣の席の弱視の女性にサポートしてもらって動いた。
皆で七夕を歌った。
「お星さまキラキラきんぎん砂子」
お星さまを見たことのない人も大きな声で歌った。
金色も銀色も見たことのない人もうれしそうに歌った。
僕も歌った。
年齢も様々、生まれた場所も育った場所もバラバラ、障害になった理由もいろいろだ
った。
見えない人、見えにくい人、この社会では行き辛いのが唯一の共通点だった。
そして仲間だった。
短冊には書けないけれど、それぞれの願いが天まで届きますようにと僕は願った。
(2023年7月8日)