桂駅の階段を降りながら、
電車がホームに入ってくる音が聞こえた。
見える頃は階段を駆け降りたが、今は無理だ。
半分あきらめながら、それでも急ぎ足で降りていった。
僕がホームに着くのを待っていたかのように、
駅員さんが声をかけてくださった。
そして、無事、その電車に乗せてくださった。
僕はギリギリで乗ったので、込んだ電車の入り口に立っていた。
たった2メートルほどの幅の入り口、
自分がそこの左側に立っているのか、右側なのか、
それさえも判らなかった。
判れば、ドアに触れた手を動かして、
手すりを探せるのだ。
どうしようと迷っていると、
後ろから伸びてきた手が、
そっと僕の右手を掴んだ。
そして、右側の手すりに誘導して、
僕の手をやさしく包んだ。
僕はありがとうございますとつぶやいた。
どこの誰か、男性か女性か、年齢はいくつぐらいか、
まったく何も判らない。
判ったのは、優しい人間の手ということだけだ。
僕は手すりを握って、安心して電車に揺られた。
幸せの中の数分間だった。
烏丸で地下鉄に乗り換えようとしたら、
階段のところで、また、違う女性が声をかけてくださった。
同じ国際会館方面行きの電車だったので、
僕達は一緒に乗車した。
僕が見えている頃、白杖の人に声をかけたことはなかった。
勇気がなかった。
そして今、こうして声をかけてもらって、
本当に助かっている。
声からして若い女性に、
「貴女達は、勇気がありますね。」と
僕が言うと、
「勇気は要りますよ。」
彼女は笑った。
電車が北大路駅に着いた。
「行ってらっしゃい。」
彼女の声に見送られて、僕はホームを歩き始めた。
今日は、10歳の子供達への講演だった。
「社会ってね。やさしい人がいっぱいいるんだよ。
人間って、助け合えるんだよ。」
僕は子供達に、今朝出会った人達のことも話した。
学校を出る時、
校舎の3階から、子供達が手を振った。
僕も振り返って、手を振った。
失明する直前、僕は自分の手を見つめたことがあった。
眼の前の手を見つめて、
それが見えなくなる恐怖におののいた。
あれから16年、本当に手は見えなくなった。
でも、手を振ることは今もできるし、
人間の手は、誰かを包めることも知った。
(2014年2月5日)

フォークとナイフ

ホテルでの講演会、
参加者の皆さんと食事を一緒にいただいてからというスケジュールだった。
ウエイターさんが、器にスープを入れにこられた。
一瞬、お箸をもらっておこうかなと思ったけど、
何とかなるだろうと判断した。
この判断が間違っていた。
久しぶりのフォークとナイフ、
そして、僕より年上のいわゆる名士の方々の中での盲人一人、
それなりの緊張感も手伝って、
こぼさないようにとの気持ちだけで格闘が始まった。
スープは、味わいながらおいしく頂いた。
余裕があったのは、ここまでだった。
ステーキを切るのも、それを口に運ぶのも大変だった。
サラダは別の小皿だったので、
小皿を口に近づけて、フォークでかきこんだ。
温野菜には、春を感じさせる竹の子などが並んでいたようだったが、
それをフォークにさすことだけでも四苦八苦した。
極めつけは、伊勢えびを半分にカットしたものだった。
フォークで、どこをどうさしても、
殻がついてきて、なかなか身に辿り着けなかった。
僕はギブアップして、
「手を使います。」と宣言して、
片手で殻をつかんでトライしたが、
やはり難しかった。
結局、あきらめた。
最後に、隣の紳士が、
ポテトサラダをスプーンに入れてくださった。
これはおいしく頂けた。
一瞬、ほっとした瞬間だった。
デザートとコーヒーは問題なかった。
コーヒーをすすりながら、
外国の盲人はどうやって食事しているのだろうかと思った。
お箸は、結構小回りが効く。
手への触覚も伝わりやすい。
日常は、お箸ではほとんど不自由なく食事している。
やはり、慣れた道具が一番かな。
皆様、今度、目を閉じてフォークとナイフを使ってみてください。
本当に難しいですよ。
ちなみに、こんなにこだわっているのは、
視覚障害がどうのこうのということではありません。
あの久しぶりの伊勢えびを食べ損なった後悔が、
講演が終了してホテルを出てからも、
ずっと追いかけてきたのです。
それにしても、やっぱり悔しいなぁ!
(2014年2月4日)

合唱

桂駅の階段を降りかけたところで、
ご婦人が声をかけてくださった。
行き先は、お互いに河原町までだった。
僕は、彼女のサポートを受け、
電車に乗った。
彼女は空いてる席を見つけて、座らせてくださった。
座るっていいなぁ。
一人の時は、空いてる席を見つけるのは無理だから、
ほとんど立っている。
今日は、のんびりと、くつろぎながら時間が流れた。
電車が河原町駅へ着いて、ホームを階段まで歩きながら、
彼女がささやいた。
「中学校の教師をしていたんです。
勇気を出して声をかけるようにと生徒に言っていたので、
今日は勇気を出しました。」
正直で暖かな言葉だった。
「僕が見えている頃、勇気がなくて、声をかけられませんでした。
こうして見えなくなって、サポートがどんなに有難いか痛感しています。
ありがとうございます。」
僕は感謝を伝え、階段で別れた。
それから、小学校の福祉授業へ向かった。
今日の福祉授業は3時間という長丁場だった。
最後の時間には、保護者の参観もあった。
感想を求められた子供が、
「困っている人を見かけたら、必ず声をかけてお手伝いします。」と宣言した。
それから、心のこもった子供達の合唱の歌声が、
会場を包んだ。
歌声が握手して、肩をたたきあった。
大人も子供もひとつになった。
未来への種蒔き、僕は確信をもって、感謝をこめて学校を後にした。
(2014年1月30日)

カツどん屋さん

ふと立ち寄ったカツ丼屋さん。
空いてる座席に案内してもらって、
しばらくすると、店員さんがオーダーを尋ねにこられた。
「ランチって、どんなのがありますか?」
僕の問いに、彼女はメニューを読んでくれた。
そして、Aランチがトンカツとエビフライのセットで、
手ごろな値段であることも教えてくれた。
僕はAランチを頼んだ。
しばらくして、お盆に載ったランチが運ばれてきた。
彼女は、ご飯茶碗、豚汁のお椀を僕に触らせて、
それから、空っぽのソースのお皿にソースを入れてくれた。
ゴマが好きかと尋ねられたので、好物だと言うと、これも入れてくれた。
それから、ご飯に、セルフサービスのお漬物も乗せてくれた。
「何か困ったら、すぐに声をかけてくださいね。
どうぞ、ごゆっくり。」
心のこもった言葉だった。
僕は、言葉通り、のんびりと味わいながらお昼を頂いた。
最近、いろいろなお店で、
マニュアルで憶えさせられたらしい言葉を、
矢継ぎ早につきつけられて、慌てることがある。
どんなにいい言葉でも、心がかようのとそうでないのは、
まったく違うものなのだ。
「お茶、足しておきますね。」
食事の途中に、彼女はお茶を注ぎにきた。
でも、お茶だけが目的ではなかった。
もし僕が困っていたら、
伝える機会をプレゼントしようとしてくれているのは、
彼女の言葉、声の流れ、動きで伝わってきた。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
僕は、心からありがたいと感じた。
清算をすませて店を出る時、
今度は男性の店員さんが、
近くの横断歩道まで送ってくださった。
「時々、盲目の方がいらっしゃるんですよ。」
彼は笑顔だった。
言葉と笑顔の行間には、
「また、いつでもいらしてくださいね。」があった。
マニュアルにない言葉が、
本当のことを伝えるのだ。
また、寄りますね。
ご馳走様でした。
(2014年1月25日)

至極の時間の結末

基本的に自由業の僕には、決まった休日はない。
スケジュールが空いた時が休日だ。
非常勤講師の仕事、講演、障害者団体の行事などで、
どんどんスケジュールは埋まる。
失明して、それまでの仕事をやめて、
何もなかった頃のことを思えば、
参加できる社会があるということはとても幸せなことなんだとつくづく思う。
ただ、年々忙しくなって、
最近は月に2回くらいの休みになっている。
今度は、年齢的な体力低下が壁になってきている。
難しいものだ。
今日は18時からの会議があるだけなので、
ゆっくり寝て、お昼過ぎまでのんびりと時間を過ごした。
ただボォーっとして過ごす。
至極のひとときだ。
家の中は、白杖は使わない。
もう30年も住んでいる団地なので、
構造も身体が記憶している。
手や身体の一部を、
わざといろいろな場所にぶつけて、
位置を確認しながら動いている。
ほとんど何も問題はない。
あえて問題をあげれば、床に寝そべっている愛犬をけとばすことくらいだ。
三姉妹だったけど、一昨年に一匹天国へ行ってしまって、
今は2匹だ。
でもこれも、足が当たった時点で判るので、
瞬間に力を抜く。
当たり方が悪くて、キャインと泣いたりするのは、年に一度あるかないかだろう。
僕は彼女達に十分気を使って生活しているのだが、
彼女達は自由気ままだ。
年に数回、決まったトイレ以外でウンチやオシッコをする。
理由は見当たらないので、機嫌のせいだろう。
今日は、機嫌が悪かったらしい。
久しぶりのゆっくりした時間、
おいしいコーヒーでもいれて飲もうと動いたら、
ウンチを思いっきり踏んでしまった。
拭いたり洗ったり、30分は費やしただろう。
掃除が終わった時には、
もうコーヒーを入れる気力がなかった。
くじけてコタツに寝転んだら、
2匹も僕の横に寝転んだ。
「あんた達のせい!」
抗議をしたけれど、受け入れられそうもない。
盲人が、踏む前にウンチを知る方法を真面目に考えた。
鼻を鍛えるしかないかなぁ。
至極の時間ももうすぐ終わり、そろそろ会議に行ってきまーす。
(2014年1月22日)

新年会

年が明けて、やっと日常が落ち着き始めたこのタイミング、
今年に入って三度目の日曜日、
いくつかの新年会が開催され、参加した。
一つ目は、僕が暮らす京都市西京区の視覚障害者協会の新年会、
午前中、身体と心の健康を願ってのヨガの勉強をし、
お坊さんの説法を聞いた。
それから、ちょっと豪華なお弁当を頂いて、
皆で今年の抱負などを発表した。
最後のゲーム大会では、視覚障害者、家族、ボランティア、皆が笑顔になって楽
しんだ。窓の外では、僕達をお祝いするように、小雪が舞っていた。
終了後、僕はすぐに移動を開始して、
夕方からの、北区の視覚障害者協会の新年会に出席した。
これは、役員として挨拶をするためで、
いわゆる来賓というやつだ。
挨拶だけして帰ることもできるのだが、
時間が許す限り参加することにしている。
僕よりずっと早く見えなくなった先輩達に、
いろいろ教えてもらういいチャンスだ。
そして、仲間達と、未来を語り合う。
勿論、飲みすぎて、ろれつが回らなくなって語れない状態の人もいるが、
それも新年らしい愛嬌だ。
胃袋も心も満足して帰宅したのは、21時過ぎだった。
しばらくして、携帯電話が鳴った。
受話口から、ハッピィバースディの合唱が流れてきた。
鹿児島県薩摩川内市の風の会の新年会だ。
「風になってください」の出版直後、
故郷の高校時代の同級生達が、
僕を支援する風の会を立ち上げた。
毎年、秋になると、故郷での講演会を企画してくれる。
そして、滞在時の世話もしてくれる。
講演を聞いてくれた人の数が、8年で1万人を超えた。
その風の会の新年会、
皆が1月生まれの僕に、
ハッピィーバースディの歌と笑い声を届けてくれたのだ。
高校時代に出会った仲間達は、高校生みたいな素敵なことをやってのける。
歌声を聞きながら、幸せだなって思った。
そして、電話を切った時、
ふと北区の新年会で出会った先輩を思い出した。
生まれつき見えない先輩だ。
見えなくなった頃、
僕は、僕自身を不幸だと思いそうになった。
そんな僕を、彼は笑い飛ばした。
笑うことで、きっと何かを伝えたかったのだろう。
今日、彼と久しぶりに話をした。
帰りがけに、彼が僕に握手をもとめた。
「松永さん、頑張ってくださいね。」
なぜか、彼は強い力で僕の手を握り、
離そうとしなかった。
しばらくの間、僕はそのままでいた。
「また、お会いしましょう。きっと。」
それだけを言い終わると、なぜか、目頭が熱くなった。
人は、誰かの力になりたいと、自然に思うものなのだ。
見えても見えなくても、皆同じだ。
今日出会ったすべての人達、ありがとうございます。
僕に幸せの意味を教えてくださって、ありがとうございます。
(2014年1月20日)

ハグハグ

夕方の地下鉄京都駅、
雑踏の中で、僕は電車を待っていた。
「もしもし、松永さん!」
僕の腕にそっと触れながら、
まるで幼馴染みたいな感じで、一人の女性が笑った。
誰かなといぶかしそうに尋ねる僕に、
彼女は氏名と一緒に、
通っている高校の名称と、
そこの2年生、17歳であることを告げた。
小学校4年生の時に、福祉授業で僕の話を聞いたのだそうだ。
その時に、
いつか街で偶然出会って、
手引きをしようと決めていたとのことだった。
偶然が目標だったとのことだった。
今まで何度か見かけたけど、
ホームの反対側だったり、ガイドと歩いていたりで、
タイミングが合わなかったらしい。
7年越しの願いがかなったと、彼女は悪戯っぽく笑った。
そして勿論、今までも、他の視覚障害者数人に声をかけて、
手引きをしたと報告してくれた。
僕は素直に喜んだ。
一緒の方向だとのことだったので、
僕は彼女の手引きで電車に乗り、座席に座り、
楽しく世間話をしながら、四条駅に着いた。
そして、改札口に近づこうとした時、
彼女が白状した。
「松永さん、ごめんなさい。
本当はね、私の行き先は竹田で、逆方向なんです。
でもせっかくのチャンスだから、ここまできました。
ウソをついてごめんなさい。
ここから引き返します。
改札口の手前の点字ブロックの上です。
ここからは、慣れておられるから大丈夫ですよね。」
言い終わると、唖然としている僕に、
ハグハグと言いながら、彼女は突然抱きついた。
僕は一瞬、何が起こったかさえ判らなかった。
ハグハグが終わると、彼女は僕から離れて歩いていった。
そして数メートル先から、
呆然としている僕に向かって、
「松永さん、また会いましょうね!」
とこれまた結構大きめの声で叫んだ。
僕は、戸惑いながら言葉を捜したが、
何も見つからず、
結局、ありがとうと手を振った。
それから、一人で歩き出したのだが、
なんとも言えない恥ずかしさみたいなものが湧き出てきた。
悪いことをしたわけではないけれども、
誰かに見られていたんじゃないかとドキドキしていた。
改札口の駅員さんへのありがとうございますの声も、
いつもより小さかったし、
しばらくは、何となく下を向いて歩いた。
目が見えないオッサンに、
17歳の娘がハグハグする、
しかも駅の雑踏の中で平然と。
いいか悪いかは別にして、
彼女の心の中には、
差別はない。
きっと時代は、少しずつ、前に向かっているのだろう。
それにしても、思い出しても恥ずかしさが出るのは、
僕って、意外と小心者なんだな。
(2014年1月16日)

男子高校生

視覚障害者のガイドヘルパー講座の最終日、
三日間の講座を終えた二人の男子高校生が感想を述べた。
「最初はあまり気が進まなかったけれど、参加して良かった。
学んだことを、友達に伝えたい。」
「こんな勉強を、中学校や高校などで皆がしたらいいのに。」
それぞれの、飾らない短い言葉が、
参加した大人達の胸に響いた。
そしてそれは、見えない僕達と、見える彼らとの共感をあらわしていた。
遥か遠くにある未来、
見える人も見えない人も見えにくい人も、
皆が笑顔で参加できる未来、
気が遠くなるほどの向こうにあるものなのかもしれない。
でも、本当に少しずつ、
きっとそこに近づいている。
握手をした時、高校生の笑顔を見ながら、
僕は確信した。
やっぱり人間って、助け合いたいと思ってしまう生き物なのだ。
(2014年1月14日)

みずいろの空

一日中雨が降っていた翌朝、
僕はタクシーに乗っていた。
もう雨は降っていなかったけれど、
どんな天候なのか判らなかった。
慌てていて、気持ちのゆとりもなかったし、
ニュースの天気予報も聞きそびれていたからだろう。
協会の新年祝賀式、10時半にはギリギリ間に合うかなというタイミングだった。
僕からは何も言わないのに、運転手さんは、
空いてそうな道を選んで行くとおっしゃった。
まるで、僕が急いでいるのをお見通しのようだった。
そして、交差点を曲がる時、
その場所と東西南北、どちらに曲がったかなどを、
これまた、そっと伝えてくださった。
きっと急いでくださっていたのだろうが、
そういうことも感じさせない運転のテクニックだった。
慌てていた僕の気持ちは、少しずつほどけていった。
ふと、右側のガラス越しのぬくもりに気づいた。
お日様だ!
「天気は回復したのですか?」
僕はそっと尋ねた。
「1時間程前に、ほとんど雲はなくなりました。
今は、一面のみずいろの空です。」
「ありがとうございます。」
教えてくださったこと、伝えてくださったこと、
説明してくださったことへのお礼の言葉だったが、
あえて理由を付け加える必要もなかった。
みずいろの空の下を、僕の乗った車が走った。
その後も、運転手さんは、ルート説明を続けられた。
タクシーが目的地に到着した時、
僕達はお互いに笑顔で、
「ありがとうございます。」を言い合った。
タクシーを降りて時間を確かめたら、
10時20分だった。
僕は数歩歩いて、そして立ち止まって、
空を眺めた。
みずいろの空を見ながら、深呼吸した。
そして、独り言をつぶやいた。
「ありがとうございます。」
(2014年1月10日)

極楽

湯煙の中を、手引きしてもらって歩く。
素っ裸の男二人、
笑いながら歩く。
見えなくなって行き難くなった場所、
いくつかあるのだろうが、
日常はあまり意識はしていない。
でも、見えなくなって行けなくなった場所はどこですかという質問があった時、
突然温泉を思い出したのは、やっぱり温泉は好きだということなのだろう。
いろんな湯船があったり、段差があったり、
その中を白杖で単独で歩くのは困難だ。
まして、素っ裸の他人がウロウロいると思うと、
白杖が当たったら申し訳ないという気持ちもある。
時々、温泉に行きたいなと思いながら、
指をくわえている現実があるのだ。
露天風呂もあったので、もちろん入った。
冷たい風が心地よい。
忘れていた極楽という単語を思い出す。
57歳になった。
本当の極楽まではもうちょっと時間があるだろう。
今年も頑張ろう。
(2014年1月7日)