午前中は小学校4年生への子供達の福祉授業、
午後はPTAの人権講演を終えてタクシーに飛び乗り、
大学の定期試験監督にギリギリ間に合うというハードスケジュールの一日だった。
最近体力的な衰えを実感しているのだが、
17時半の試験終了の合図を確認した時は、
疲労感でいっぱいでボォーっとしていた。
「学生さん達が本を持って並んでいますよ。」
もう一人の試験監督の先生が教えてくださった。
30回の授業を受け最終日に試験を受けた学生達と教室で会うのは今日が最後の日だっ
た。
「サインをしてください。」
僕の著書を手にした学生達が並んだ。
僕は有名人でも芸能人でもない。
僕のサインに価値があるとは思えない。
でも、きっと記念にはなる。
見えない人間にサインを求めるなんて、
最初に授業を受けた時には彼女達自身も想像できなかっただろう。
40歳まで見えていた僕は、
一応名前くらいは書けるし、授業中も何度も板書はしていた。
授業が進み理解が深まるにつれて、
学生達は何ができて何が困り、
それにはどう対処すればいいのかを学んでいった。
キラキラと輝いている学生達ひとりひとりに、
僕は心をこめてサインをした。
感謝の気持ちでいっぱいになりながら、
先ほどまでの疲労感は消えていた。
今日一日のすべての場所で確認できたこと、
正しく知る機会がとても大切だということ。
まだまだ年齢を感じるようではいけないなと反省しました。
まだまだ頑張ります!
(2015年1月30日)
サイン
やき餅
京都市北区の8つの小学校の役員の皆様が集まってくださった。
少しの緊張感の中でスタートした勉強会は、
僕の話が進むにつれて和やかな空気に変化していった。
その空気の変化は、10歳の子供達の変化と同じものだった。
僕は参加してくださった一人一人に向かい合い、心のおもむくままに語りかけた。
目が見えなくなるということはどういうことなのか、
何が困るのかどう接して欲しいのか、
そして、人間の社会の豊かさも付け加えた。
正しく理解するということ、やはり原点なのだろう。
最後の質問は、どうやってサポートしたらいいかという具体的なものだった。
それは、サポートをしたいという気持ちの裏返しなのだ。
「松永さんが風になって今日皆様に伝えられたことを、まず皆様のお子様に伝えてく
ださい。そして周囲の人につたえてください。
それが、風になってくださいということです。」
校長先生の閉会の挨拶は、
見える人も見えない人も見えにくい人も、
共に生きていく社会を見つめたものだった。
学校を出てボランティアさんの車の中で
手土産にいただいた神馬堂のやき餅を食べた。
校長室での会話を思い出した。
この地域の自然や歴史の話、
そしてそこで子供達の教育に関わる喜びが感じられる話だった。
「とっても空気がきれいな場所ですよ。」
さりげない言葉はやさしさに包まれていた。
素朴なやき餅の風味が口の中に広がった。
(2015年1月24日)
熊本
火曜日は大阪、水曜日は東京、
そして木曜日大学の授業を終えてから夜行バスで熊本に向かった。
京都から熊本まで12時間かかった。
熊本の朝の空気を吸った時、
身体はとても疲労を感じていたのに気持ちは晴れやかなのを自覚した。
熊本県点字図書館での講演は、点訳や音訳に関わってくださっている人達が対象だっ
た。
そして僕を招いてくださるきっかけは僕の著書を読んでくださった仲間の声だった。
まさに光栄そのものだ。
集まってくださった人達へ感謝を込めて話をしながら、
僕自身の幸せを確認するひとときにもなっていた。
助け合える人間の社会で、まさに助けられて生きている僕がいる。
小学校の修学旅行で見た熊本城を断片的に憶えている。
反り返った城壁に驚いたものだ。
もう見ることはできない。
それはそのまま悲しみになっても不思議ではないのに、
講演会場にはそれを感じさせない幸福感があった。
集まった人達のやさしさが会場に溢れていた。
人間のやさしさって本当にすごい力を持っているのだ。
見えない人にしあわせさえも見せてくれるのだ。
(2015年1月17日)
やさしい言葉
17時10分、JR高田馬場駅、
山手線の電車を待っている時間は数十秒だったと思う。
「これから京都のお家へ帰られるのですか?」
僕のサポートをしてくださった駅員さんが尋ねられた。
チケットが東京から京都までとなっていたのでそう思われたのだろう。
「そうです。」と答えた僕に、
「京都の人は柔らかな言葉でいいですね。」と感想を述べられた。
改札口でサポートのお願いをした時の言葉にそんな雰囲気があったのかもしれない。
僕は鹿児島県阿久根市の出身で故郷なまりもしっかりと持っている。
どう頑張っても京都の言葉をそれらしくあやつることは出来ない。
でももう30年以上も暮らしているせいでそれっぽくはなっているのだろう。
ちょっと照れくさかったけれど悪い気はしなかった。
電車が到着してラッシュの車内に乗り込んだ。
手すりを持たせてくださった駅員さんに、
「おおきに」とできるだけそれっぽい口調で感謝を伝えた。
そして自然に笑みがこぼれた。
ドアが閉まって電車は動き始めた。
東京駅からのぞみに乗車の予定だったので30分は立ったままだなと思った瞬間、
「よろしかったらお座りになりますか?」
美しい響きの東京弁の女性の声がした。
「おおきに。」僕はまたお礼を言った。
朝6時の出発はつらい気持ちもあるけれど、
今年最初の東京、あたたかな気持ちでのスタートとなった。
どこの言葉でもやさしさがある言葉はうれしい。
うれしい気持ちは疲れも少なくしてくれるようだ。
やさしい言葉の持ち主にたくさん会いたいな。
(2015年1月14日)
応援団
40回目を迎える視覚障害者啓発事業「あいらぶふぇあ」が、
1月9日から12日までの4日間、
大丸デパート京都店の6階イベントホールで開催された。
僕の所属している当事者の団体である京都府視覚障害者協会、
それに京都ライトハウス、関西盲導犬協会、京都視覚障害者支援センターの、
4つの団体が協力して実施しているのだ。
僕も最近は毎年会場のステージで講演をしている。
視覚障害を正しく理解してもらい共に生きる社会に向かうのが目的なので、
そのつもりで関わっているのだけれど、
講演が終わっての帰り道ちょっと不思議な気持ちになっている。
会場に来てくださった人達の中に
僕を激励にきてくださっている人達が結構おられるのだ。
学校で出会った、講演会場で出会った、
たまたま街角でお手伝いをしてもらって知り合った、
小学生から僕の親くらいの世代まで、
まさに老若男女の応援団だ。
住所も職業もまちまち、中には視覚障害当事者もおられる。
メッセージを発信するために会場で話をしているはずなのに、
終わった時には握手してくださり、
肩をたたいてくださり背中を押してくださっているのを感じる。
素直に、幸せだなと感じる。
そして、僕の日常の大きなエネルギーとなっている。
僕にでも、もう少しやれることがある。
もう少し、頑張ってもいいんだ。
そんな風に思ってしまう。
しみじみと穏やかにうれしくなる。
(2015年1月13日)
微力
視覚障害者協会の新年祝賀式、
たくさんの行政関係者などをお招きしておごそかに開催された。
京都府下から100人の視覚障害者が集まった。
2,500円のお弁当は決して安くはないけれど、
お金では買えない笑顔が咲き誇った。
僕もたくさんの人達と新年の挨拶を交わした。
今さら当然なのだけれど、
僕は挨拶を交わす相手の顔は見えない。
判るのは性別くらいで、年齢も体型も服装も何も判らない。
全盲同士だったらそれがお互いにそうなのだから不思議な世界だ。
それでも何の支障もない。
再会を喜び、お互いに感謝し、今年も頑張ろうと思う。
皆で見つめる未来は同じ方角だ。
見える人も見えない人も見えにくい人も、
それぞれが幸せを感じられる社会。
想像しただけでうれしくなる。
微力だけれどという言葉は謙遜して使われる場合が多いが、
僕達の集いではそのまま事実だ。
一人一人の力は小さいけれど、皆で合わせた力は大きくなる。
僕も微力ながら、今年も頑張ります。
(2015年1月9日)
新年
親というのは最後まで何かを教えてくれるものなのだろう。
57年も生きてきているのに、
自分の命に限りがあることをあまり意識していなかった。
呼吸が止まった父と向かい合った時、
初めてそれをしっかりと実感した。
時間に限りがあるからこそ大切にしなければいけないのだ。
18年ぶりとかの大雪が
新しい年の始まりの街並みを白色に染めた。
その白色に触ったら何か気持ちが落ち着いた。
18年前は、僕はきっと目で白色を見た。
ほとんど最後の映像だったはずなのに
いつどこで見たのか憶えていない。
見たかどうかではなくて、
見てどう感じたかが大切だということなのだろう。
そして、目で見ることも指先で見ることも、
もっと大げさに言えば心で見ることも、
結局は同じことなのだと18年という歳月が教えてくれた。
僕は僕であり続けるのだろう。
今年、また気持ちを新たにして、
しっかりと未来を見つめて生きていきたい。
(2015年1月2日)
引っ越し
父が亡くなり、残された母の近くで暮らしたいと考えた。
この近くというのは、僕がすぐにかけつけることができるくらいの近さだ。
元々同じ洛西ニュータウン内の団地で暮らしていたのだが、
僕が単独で行くには、親の団地は少し難しい場所にあった。
そこで、僕も母も引っ越しすることを決めた。
探せばあるもので、
洛西ニュータウン内の団地の同じフロアに、
2軒の空き家があった。
しかもエレベーター付だったのですぐに契約した。
両方の引っ越しが終わり10日が過ぎた。
以前の団地は見えている頃から住んでいて、風景という記憶があった。
家の中も、見えている頃の記憶が基本にあった。
今度の場所は近くを通ったことはあるのだが、風景の記憶はない。
建物の作り、部屋の配置、すべてが初めての場所だ。
慣れるということがこんなに難しいとは、予想以上だった。
目が覚めて、洗面はどちらの方角なのか考える。
洗面所にたどり着いて、水道の蛇口を探す。
歯ブラシの位置、タオルの場所、すべてが触覚での記憶だ。
記憶を重ねながら頭の中に地図を作っていく。
ひとつ間違うと、その地図が混乱する。
消しゴムで消してまたやり直す。
それを繰り返しながら、自信が芽生えてくるのだろう。
我ながら途方もない作業だ。
そしてその場所から外出するということ、至難の業だ。
白杖一本を頼りに歩く。
砂漠の中を方位磁石だけで歩くってこんな感じだろうか。
連日の特訓でなんとかバス停まで行けるようになった。
社会に参加したいという執念以外の何物でもない。
白杖の先にはきっと、僕の未来がある。
きっとある。
そう信じているから、努力嫌いの僕がチャレンジしていけるのだろう。
来年の年の瀬、鼻歌でも歌いながら歩いていますように!
(2014年12月28日)
クリスマスの青い空
地下鉄の駅の改札口をでて、点字ブロック沿いに歩いた。
地上に向かう階段の上り口に着くと一旦静止し、それから上り始めた。
階段の上り下りでは白杖を身体の前でななめにして使用する。
前から来る人とぶつからないように防御の姿勢となるのだ。
それから、白杖でひとつひとつの段を確認しながら登っていく。
最後の段を確認することでカラ踏みを防げる。
失明後の歩行訓練で専門家に教えてもらった技術だ。
不安もなく見えている時と同じくらいのスピードで上れるようになるのだから、
技術って素晴らしい。
だから僕は、見えなくなって間もない仲間には歩行訓練を受けることを勧めている。
せめて生活圏だけでも単独で動けるようになれば、
生活の質は随分向上するような気がする。
踊場を過ぎた時、
後ろから若いカップルが僕を追い越していった。
「空、きれいやね。」
女の子がつぶやくのが聞こえた。
階段の上の出入り口に空が見えたのだろう。
「そうやなぁ。」
男の子のどっちでもいいような返事が、
なぜか微笑ましく感じた。
クリスマスのせいかなと自分に言い訳をしながら、
残りの階段をきれいな青い空に向かって歩いた。
(2014年12月24日)
オレンジ色の山
昨日の早朝、うっすら積もった雪の道を踏みしめながら城陽市へ向かった。
来春、南部アイセンターという視覚障害者の拠点施設が城陽市にオープンする。
そこのボランティア養成講座の講師の仕事だった。
10人くらいの視覚障害者の仲間が集まった。
そして、20人足らずの中高年のボランティア希望の人達が集まってくださった。
皆熱心に学ばれていた。
今朝は昨日より30分早く、7時前には家を出た。
羽曳野市にある四天王寺大学での講義が一時限目だったからだ。
20歳前後の100名近くの学生達が受講していた。
両日とも寒い冬の早朝からの出発、
場所も対象者も数も違うのに、
帰路の時の僕の心のぬくもりは同じだった。
共通点は、過ごした時間が未来を見つめられるひとときになったということだろう。
それは視覚障害に対する正しい理解が出発点となっていた。
正しく知る機会、本当に大切だ。
これから街で困っている僕達の仲間を見つけたら手伝いたいという若者達の感想も、
ボランティアに参加しようとしてくださる中高年の人達の行動力も、
まったく同じ種類のものだ。
「教室の窓から見える山はオレンジ色です。」
学生が届けてくれたメッセージには、
その風景を僕に見せてあげたいというやさしさが込められていた。
冬の薄青色の空、オレンジ色の山、
忘れられない風景となった。
(2014年12月20日)