あちこちからクリスマスソングが聞こえてくる。
それにしても東京は人が多い。
人の足音、話し声、雑踏の上にクリスマスソングが降り注ぐ。
若い頃のような弾む気持ちは起こらない。
それでもなんとなく笑顔になる。
きっと、今生きていること、存在していることがうれしいのだろう。
感謝の気持ちが後押ししているのかもしれない。
今年もあとわずか、僕なりに頑張れたかな。
と思いつつ、ふと暗い気持ちが頭を過る。
ウクライナの空にクリスマスソングはあるのだろうか?
ガザの子供達はどうしているのだろう?
戦火の中で視覚障害者の人はどうしておられるのだろうか?
僕は今平和の国で生きている。
この平和がずっと続いて欲しい。
そして世界中が平和になって欲しい。
それはどんなことよりも、大切なことなのかもしれない。
僕にできること、もう一度考えてみよう。
無力さを感じて逃げていてはいけない。
この地球で生きているのだから。
(2025年12月20日)
クリスマスソング
未来への種蒔
今年最後の講演の依頼があった中学校は僕が住んでいる大津市からは行き難い場所に
あった。
京都市内ではあったが、近くには鉄道駅はなかった。
しかも1,2時限目の設定だった。
これは依頼があった時点でほとんどスケジュールが埋まっていたため、ここにしか入
らなかったのだ。
ちなみに、この日の午後は離れた場所での専門学校での授業が入っていた。
中学校に一番近い駅までタクシーで送迎との学校側の提案もあったが、それは恐縮し
てお断りした。
僕は地元のボランティアの人にお願いをした。
彼は数年前に会社を定年退職されていて、こういう時に相談にのってくださる。
いつでもどうぞとおっしゃってくださるが、それに甘えてはいけない。
僕は公共交通機関を乗り継いで単独で動くのを基本としている。
社会の風景の中に白杖がある。
それも大切な僕の活動だと思っている。
今回は場所的にも時間的にも難しいと判断してお願いをした。
彼は快く引き受けてくださった。
僕達は地元の駅で6時45分に待ち合わせた。
僕の始発のバスが駅に到着する時間だ。
まだ動き始めたばかりの朝の中を僕達は電車やバスを乗り継いで動いた。
予定の8時に学校に到着した。
ロスタイムなく動けたことで、ボランティアさんもうれしそうだった。
250名ほどの中学一年生が体育館に集まった。
僕はいつものように真っすぐに前を向いて、そして心を込めて語りかけた。
いつでも、どの会場でも、僕の目の前に画像はない。
ただグレー一色の世界が広がっている。
わずかな光さえ感じることはできない。
どれだけの数の人がいても、それはほとんど関係ない。
僕は毎年多くの講演をしているので、とても慣れているのは間違いないだろう。
話すのも上手だと言われることも多い。
でも本当は違う。
たった一度の、しかも限られた時間での出会い、そこでどれだけ伝えられるか、いつ
も真剣勝負だ。
どこかで必死になっている自分がいる。
心を込めて話さないと伝わらない。
僕が毎日一人で動きながら、電車やバスで空席を教えてもらえるのは20回に1回くら
いという現実がある。
19回は、座りたいなと思いながら立っている。
見えないから空席を見つけられないということを意外と社会は気づいてくれない。
この状況を返るには、社会の障害への正しい理解が不可欠だ。
「かわいそう」を超えていかなければいけない。
話を聞いてもらうこと、正しく知ってもらうこと、そして伝えること、それは未来へ
の種蒔なのだ。
今年お招き頂いた学校、小学校12校、中学校16校、高校5校、専門学校5校、大学5
校だった。
お招きくださった関係者の皆様に心から感謝申し上げます。
僕達の現実と向かい合えば、まだまだ続けなければいけない。
ライフワークなのかもしれない。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会、きっと未来は
そうなっていく。
そう信じて、種蒔を続けるのだ。
小さな僕にできる小さなこと、それでいい。
(2025年12月16日)
幸せな一日
今出川にある同志社女子大学の正門を入ったところに栄光館がある。
外観はレンガ造りの古い建築物で国の登録有形文化財に指定されているらしい。
そこのファウラーチャペルでは毎日礼拝が行われている。
その礼拝で僕は毎年奨励の機会を頂いている。
基本的には牧師がやっておられるのだが、時々いろいろな世界のいろいろな立場の人に機会をくださるのだ。
奨励というのはキリスト教では「短めの説教」という意味もあるらしい。
実際に僕が話をする時間は8分間だ。
雑念を捨てて心を落ち着かせる。
静かに湧き出てくる言葉を紡ぐ。
それしか方法はない。
この場所の厳粛で暖かな空気はそれを可能にしてくれるから不思議だ。
前奏のパイプオルガンの重厚な音色が少しずつ会場を飲み込んでいく。
音色は僕の心の中までも清らかにしてくれるのを感じる。
昔、来日されたヘレンケラー女史がこの場所で講演されたという歴史を噛みしめる。
自然に背筋が伸びるのを自覚する。
今回の讃美歌はきよしこの夜だった。
ふと笑顔になった。
僕はグレー一色の目の前をしっかりと見つめて話をした。
何を話したのか、恥ずかしながら記憶はない。
ただ、視線の向こう側の未来に向かって話したのは間違いない。
奨励を終えて会場を出た。
そのタイミングで学生さんが声をかけてくれた。
小学校の時に僕の話を聞いてくれたらしい。
10年ぶりの再会は笑顔の握手になった。
学生さんはまゆきという名前だった。
漢字を尋ねたら「舞雪」だった。
ちっちゃなクリスマスプレゼントをもらったような気分になった。
宗教部事務室に戻るとコーヒーを入れてくださった。
ここのコーヒーはいつも美味しい。
いいコーヒー豆をチョイスしておられるのだろう。
次の予定は13時からの中学校での人権講演だった。
1時間半の間での移動と昼食、タイトだ。
スムーズにいかなかったら昼食抜きということになるが、どこかでそれを覚悟していた。
僕は少し勇気を出してお願いしてみた。
「帰路、駅の近くの飲食店まで案内して頂けませんか?」
彼女は快く引き受けてくださった。
残りのコーヒーを飲みながらあれこれお店を吟味している途中だった。
彼女が突然、大学の食堂でのランチを提案してくださった。
思いもかけぬ展開だった。
初めて出会った全盲の僕をサポートしての食事、それを申し出るには大きな勇気が必要だったはずだ。
揚げたての梅しそいわしフライ、ポテトサラダ、ほうれんそうのお浸し、御飯とお味噌汁、最高のランチとなった。
値段は590円、美味しさも相まって、けちん坊の僕は満面の笑顔となった。
彼女は人事異動で今年度から担当となった方だった。
僕の図々しさもあったのかもしれないが、真心で接してくださった。
僕は感謝を伝えて駅に向かった。
中学校の人権研修、いつものようにいい時間だった。
これからの時代を創っていくであろう生徒達と一緒に未来を考えた。
帰路、地下鉄を乗り継いで山科駅に着いた時だった。
ラッシュの時間だった。
「込んでいるから一緒に行きましょう。」
若い女性が声をかけてくれた。
堂々としていながらとても爽やかだった。
彼女はバイトの時間にギリギリと言いながら、JR山科駅の改札口まで送ってくれた。
その間の数分間、僕達はいくつかの会話をした。
目が見えないのにどうして前向きで生きていけるのかと尋ねられた。
彼女の質問はどれもストレートで、そこにはぬくもりがあった。
僕は改札口で彼女にありがとうカードを渡して別れた。
「うれしいー。スマホに入れておくね。」
彼女の笑顔を背中で感じながら僕は駅のホームに向かった。
駅のホームには今年一番冷たいと感じる風が吹いていた。
点字ブロックを白杖で確かめながら、僕は一歩ずつ進んだ。
すぐ横に線路があると思うといつも怖くなる。
こうしてこの怖さの中で歩けるのはどうしてだろう。
ふと自分に尋ねた。
そして、今日出会ったやさしい人達に心からの感謝を感じた。
僕はありがとうってつぶやきながら、また歩いた。
(2025年12月13日)
チョコレート
ただ漠然とチョコレートが欲しくなった。
特別な意味はない。
ただ妙に食べたくなったのだ。
こういう時、見えないということは結構大変だ。
お店に行くことも、商品を選ぶことも、そこには目が必要だ。
僕は授業の後、学生にサポートをお願いしてみた。
ネパールからの留学生の彼女は快く引き受けてくれた。
ちなみに、今年度の介護福祉士養成の専門学校にはベトナム2名、ネパール9名、フィリピン2名、ミャンマー5名、中国3名の留学生達が在籍している。
日本語力は決して高いとは言えないが、学ぶ姿勢には真剣さがある。
そしてとてもやさしい。
学生達の生活はアルバイトと勉強に追われて、遊ぶ時間などはほとんどない。
ある意味、とても過酷だ。
それでもその笑顔には悲惨さは感じられない。
生きていく強さを感じるのだ。
僕は彼女と京都駅にあるデパートの地下に向かった。
彼女は初めての場所だった。
彼女の日本語力は普通だが英語はペラペラだ。
日本語と英語を使い分けながらの道中は楽しかった。
お店に着いたら、僕が店員さんとコミュニケーションをとった。
「いろいろな種類のチョコレートが入ったクリスマスバージョンのが欲しいんですけど。」
目的の買い物を済ませて、僕達は京都駅に向かった。
「先生、素敵なお店を教えてくれてありがとう。
いつか国に帰る時に家族に買っていくよ。」
それから彼女は自分に言い聞かすように続けた。
「仕事も憶えなくちゃいけないし、学校の勉強もしなくちゃいけない。自分の時間なんてほとんどない。でも、家族のためだと思うと頑張れるの。」
借金を背負って日本で学んでいる彼女たちは、専門学校を卒業してから日本の介護施
設で5年間働くということになっている。
豊かさって何だろう。
留学生達との交わりの中で時々考える。
決して日本を否定しているのではない。
とにかく彼女が最後まで頑張って、たくさんのチョコレートを持って家族のいる場所に帰れますようにと心から願った。
(2025年12月9日)
視覚障害者ガイドヘルパーの日
「視覚障害者ガイドヘルパーの日」の式典が京都で開催された。
12月3日が記念日の認定を受けたのは一昨年だった。
一昨年と昨年の12月3日は東京での式典だった。
僕達視覚障害者が外出するために、同行援護という制度を使う方法がある。
ガイドヘルパーさんという有資格者の人達のサポートを受けて外出するのだ。
この制度のお陰で、日本中の視覚障害者の外出が保障されるということになる。
僕達にとってはとても大切な制度だ。
ただ、この制度もガイドヘルパーさんの存在もあまり知られていない。
知られていないということは担い手も不足しているという現状がある。
そこで記念日を制定して社会啓発につなげていこうという発想になったのだ。
ちなみに、12月3日はこの制度が制定された日だ。
会場は京都駅前のホテルだった。
オンラインで全国の関係機関が繋がった。
厚生労働省、京都府、京都市などの列席も頂いた。
全国から推薦されたガイドヘルパーさん、事業所、講師の先生などが表彰された。
京都での同行援護の現状や課題なども発表された。
練り上げられた宣言文には希望が輝いていた。
発表者は未来を見つめて、爽やかに語ってくださった。
京都は僕が長く暮らしていた街だ。
京都時代の視覚障害者の仲間が何人も声をかけてくださった。
しみじみと幸せを感じた。
懐かしいと思える関係、いいものだ。
そして現在暮らしている大津市の視覚障害者協会の会長も参加されていた。
新しいつながりが確実に始まっていることを感じた。
僕にできる仕事をまだまだ頑張ろうと思った。
表彰された皆様、心からお祝い申し上げます。
(2025年12月4日)
A型インフルエンザ
いつも不特定多数の中で仕事をしている。
行先もほぼ毎日違う。
利用する交通機関も込み具合も様々だ。
リスクは感じていたのでワクチンも接種していた。
それでもだめだった。
発熱外来を受診した。
鼻の穴に綿棒みたいな検査キットを突っ込んだドクターは15分もしないうちにおっし
ゃった。
「A型インフルエンザです。」
僕の平熱は35度代だ。
39度という高熱はさすがにしんどかった。
「助けてくれぇ」
「もう許してくれぇ」
小声で独り言をつぶやきながらベッドの中にいた。
我慢ができないのと情けなさは人一倍だ。
一生治らないのだろう。
さすがにひとつだけ仕事を休んだ。
年度当初から約束していた小学校だった。
申し訳なかったが仕方なかった。
1月に代替えを提案してくださったのでそこで対応できてほっとした。
それ以外はなんとか休みなどでカバーできた。
昨日の研修は大人対象だったので事情を説明し、マスク着用で対応した。
今日の休日が終わると、明日から凄まじいスケジュールが待っている。
この異常なインフルの流行を考えると、感染してしまって良かったのかもしれない。
しっかり食べて、しっかり寝て、しばらくは外出時のマスクもする予定だ。
おまじないの栄養ドリンクも飲まなくちゃ。
そして、何故仕事をするのかをもう一度自分に言い聞かそう。
そこを押さえれば、少々のことは乗り切ることができると思う。
(2025年11月29日)
稲荷
お招き頂いた稲荷小学校は最寄り駅はJRの稲荷駅だった。
伏見稲荷の最寄り駅でもあった。
伏見稲荷の参拝者数は一年間に一千万人くらいらしい。
京都を訪れる外国人旅行者にも一番の人気だということは知っていた。
小学校に行くには、京都駅で湖西線から奈良線に乗り換えなければいけない。
これは結構距離があるし、電車も観光客で込んでいるのが予想できた。
僕は単独で行くのをあきらめて駅員さんにサポートをお願いした。
京都駅での乗り換えで、僕の判断が間違っていなかったことを痛感した。
超がつくほどの満員電車だった。
駅員さんはもう自分は乗ろうとせずに僕だけを乗せてくださった。
そしてホームから、乗り込んだ僕の手を手すりに誘導してくださった。
なんとかドアが閉まり電車は出発した。
僕はまるで木に停まったセミのようにしていた。
一つ目の駅は東福寺だった。
ほんの少しの乗客が降りていかれた。
この季節、東福寺も紅葉が美しいのだろう。
稲荷駅では駅員さんが待機していてくださった。
「この状況ですから、点字ブロックの上を少しずつ進みますね。」
駅員さんはそうおっしゃりながら動かれた。
駅は古くてホームの幅も広くはないらしかった。
まさにホームから人がこぼれそうな感じだった。
聞こえてくる声はほとんどが外国語だった。
いろいろな国の言葉が聞こえていた。
駅員さんは時々英語で周囲に注意喚起をされていた。
ここでは日本語よりも伝わるのだろう。
わずかの距離、だいぶ時間がかかって改札口に着いた。
僕は本当に大変だった駅員さんに心からの感謝を伝えた。
改札口には校長先生が待っていてくださった。
校長先生は僕に肘を貸してくださって、人波の中を止まったり曲がったりしながら上
手に歩かれた。
もう幾度もお会いしているので経験も信頼関係もあった。
「この道は通学路にはしていないんですよ。子供達には危な過ぎますからね。」
日本でありながら、外国人の方が圧倒的に多い空間で子供達は生活しているのだ。
不思議な感じがした。
4時間目に授業をし、子供達と一緒に給食を頂いた。
5時間目は保護者参観日で、たくさんの保護者も一緒に話を聞いてくださった。
6時間目は全学年の発表会があり、そこにも参加させて頂いた。
「いいとこ探し」というテーマで、クラスメイトのいいとこを探して発表するという
取り組みだった。
「友達のいいとこを探してうれしかったし、自分も探してもらってうれしかった。」
発表した子供達の笑顔が伝わってきて僕も笑顔になった。
子供達や先生方と過ごした時間、豊かな時間だった。
僕は満足して学校を出た。
込むのは辛いけど、世界の笑顔が溢れる街、それはそれでいいなと思った。
(2025年11月23日)
マオカラースーツ
秋から冬の終わりまでは外出時にスーツを着ていることが多い。
立襟のマオカラーのスーツだ。
ドレッサーの中には一般のスーツは2着しかない。
他はすべてマオカラースーツということになる。
マオカラースーツはネクタイなしで着られるのが気に入っている。
スーツは上下が同じ生地で同じ色だ。
中にどんなシャツを着てもあまり違和感はない。
見えない僕にはとても有難い衣類なのだ。
マオカラースーツを知ったのはもう30年以上前、目が見えている頃だった。
その頃、紳士服のお店には結構あった。
少しずつ姿を消していった。
人気がなくなったということなのだろう。
最近は見つけるのが大変になった。
でも、今更一般のスーツを着てネクタイをしようとは思わない。
時代遅れの格好なのかもしれないが自分では気に入っている。
マオカラースーツの上着に袖を通す時の感覚も好きだ。
理由は分からない。
これから社会に参加するというようなスイッチの意味もあるのかもしれない。
僕にとってはユニフォームなのだろう。
とにかくまた今年も、マオカラースーツの季節が始まった。
生きていく淋しさと生きているぬくもりと、
マオカラースーツを着る時、そんなことまで感じてしまう瞬間もある。
不思議だ。
秋とか冬とかの季節と連動しているからかな。
僕の人生も秋から冬に差し掛かっているのかもしれない。
(2025年11月19日)
20年目のサイン
僕のホームページには「今後のスケジュール」がある。
ここには活動に関する予定を掲載することにしている。
講演依頼の際などの参考にもなっているようだ。
ある中学校での20年ぶりくらいの講演の予定、
彼女は、いや正確に言えば彼女のお母様がそれを見つけてくださったらしかった。
彼女の母校だった。
20年前に彼女はその中学校で僕の講演を聞いてくれたのだ。
僕が関係している施設に問い合わせが届いた。
本にサインをして欲しいとのことだった。
中学校の近くのカフェで再会した。
20年くらい前の僕の話を彼女は見事に憶えていてくれた。
ほんの少しかもしれないけれど、彼女の人生の応援歌になっていたことを知った。
光栄だと思った。
看護師の彼女はわざわざ休みを取って駆け付けてくれたのだった。
僕は心を込めてサインをした。
その後の二人での記念写真にも応じた。
「いい仕事をしてね。」
僕は別れ際に握手をしながら伝えた。
彼女の満面の笑みがそこにあった。
僕は著名人でも芸能人でもない。
僕のサイン、価値はない。
それでも時々求められる。
最初の頃は恥ずかしさが大きくて戸惑った。
でも、いつの間にか普通に応じられるようになった。
図太くなったのではない。
「ありがとう」を伝えるひとつの方法だと思えるようになったからだ。
そして、間違いなく記念にはなる。
有難いことだと思う。
(2025年11月16日)
柿の実
4年前に引っ越してきた家、庭に柿の木が一本ある。
その年、実がなったのか憶えていない。
憶えていないということはならなかったのかもしれない。
一昨年は少し実がなった。
食べてみて、結構甘いのに驚いた。
昨年は梅雨の後、実はほとんど落下した。
何かの虫にやられたようだった。
特別に薬剤の散布などはしなかった。
だからもう実はならないかもしれないと思っていた。
ところが違った。
今年はたくさんの実がなった。
梅雨の頃には心配したが、虫にやられることもなかった。
大きな実がたくさんなったのだ。
我が家だけではどうしようもないので近所の柿の好きな知人に取りにきてもらった。
先日訪ねてきた甥っ子もたくさん持って帰ってくれた。
それでもまだあったので収穫した。
脚立に上っての収穫は楽しかった。
大きな柿の実がとれた。
取ったばかりの柿の実を触っていたら、いつの間にか柿色を思い出していた。
思い出そうとしたわけではない。
脳の中で柿色が自然に蘇っていたのだ。
柿色が指先から脳に届いたのかもしれない。
オレンジでもピンクでもない柿色だ。
それに気づいたらうれしくなった。
失くしてもうあきらめていた大切なものが偶然見つかったという感じだった。
柿色は秋色だとしみじみと思った。
(2025年10月12日)