ホームページからの講演依頼が時々ある。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会が目標だ。
そこに向かうためには視覚障害についての正しい理解が大切だ。
書くことも話すことも伝えるための大切な手段だ。
とは言え、一番伝わるのは講演だと経験から感じている。
だから講演依頼が届いた時は素直にうれしい。
対象が小学生でも中学生でも高校生でも大学生でも大人でも意味は同じだ。
当事者としての僕の大切な活動だ。
僕の生活の一部、ライフワークかもしれない。
ただ、講演は依頼があって初めて実現するものだ。
こちらからお願いできることではない。
実際、僕の来年度4月以降の予定は現時点では何もない。
毎年それを繰り返している。
見えなくなった頃、一年のほとんどがお休み状態だった。
40歳台だった僕はいつも悲しさや悔しさを抱えていた。
それが原動力となったのだろう。
少しずつ予定が埋まるようになっていった。
先日のホームページからの依頼、一日に3つ届いた。
一日に3つは初めての経験で驚いた。
それで12月の人権月間の予定はすべて埋まった。
声をかけて頂けること、とても有難いことだと思う。
たくさんの人達が支援してくださっているのだ。
感謝してしっかりと取り組みたい。
(2025年9月14日)
講演依頼
99歳
大正15年9月9日に生まれた母が99歳を迎えた。
自分の母ではあるが、よくもまあそれだけ生きてこられたものだと感心する。
母の人生に思いを巡らせると、人間の一生の長さやそこに横たわる時代を考える。
時代は個人の力ではどうしようもない。
93歳で亡くなった父の人生を振り返ってもそう思う。
父と母の人生、そこには戦争の影がある。
ふと、僕の人生も振り返ってみる。
昭和、平成、令和と生きてきたのだ。
戦争のない時代に生きてこられたのは何よりも幸せなことなのだろう。
昭和を考えると、豊かな時代だったと思ってしまう。
僕にとって一番長かったからだろうか?
少年時代を過ごしたからだろうか?
目が見えていたからだろうか?
いや、それだけではない。
最近、AIが僕の生活を助けてくれるようになってきている。
少年時代に夢中になっていた「鉄腕アトム」の世界がどんどん現実になってきた。
もうそこを超えたのかもしれない。
でも、素直に喜べない自分がいる。
豊かさって何だろう。
先日も電車に乗った際、サポートしてくれた学生に尋ねてみた。
「込んでるの?」
「ほぼ座席は埋まっています。数人立っておられます。」
「それにしても静かだね。」
「皆さんスマホを見ておられますから。」
「皆さんって、皆さん?」
「はい、ほぼ全員です。」
しばらくして、僕はまた学生に尋ねた。
「今日の空はどんな空?」
「夕日が雲に当たって、ピンクやオレンジやパープルやブルーやいろんな色に染まっていますよ。とても綺麗です。」
僕は視線を反対側の窓の少し上に動かした。
スマホなんか縁のない母ちゃんは今も夕日を眺めながら生きている。
いい人生だと思う。
僕もそんな人生を送りたい。
(2025年9月10日)
12歳
京都市内にある小学校の福祉授業に出かけた。
京都五山の送り火のひとつ、妙法の山すそにある小学校だ。
ここの校長先生は担任をしておられた頃に出会っている。
僕のことを憶えていてくださっているのだ。
そして僕が子供達に出会う機会を作ってくださる。
そういう校長先生とか教頭先生とかが結構おられる。
それだけ長い時間活動を続けてきたということだろう。
とにかく有難いことだ。
今日は6年生が対象だった。
40名くらいの子供達、一生懸命に話を聞いてくれた。
僕の問いかけにも素直に答えてくれたし、質問もしてくれた。
学び合うというのは不思議な力を持っている。
教室の空気がどんどんやさしくなるのだ。
あっという間の2時限の授業だった。
教室を出て帰ろうとした時だった。
一人の男の子が追いかけてきた。
「僕、誰かを助けられるような人になります。」
少年の声は少し涙ぐんでいた。
真剣さが伝わってきた。
もう一人の女の子は握手しながらつぶやいた。
「お話を聞けて良かったです。」
6年生くらいになると心はだいぶ大人に近づいているのだろう。
メッセージをうれしく感じた。
学校の最寄り駅から地下鉄に乗車して帰路に着いた。
途中で乗り換えてJR山科駅までの30分、ずっと立ったままだった。
この時間帯だったらどこかの席がきっと空いているだろう。
手すりを持って立ったまま、やはりちょっと悲しかった。
山科駅から湖西線の電車に乗り換えた。
地下鉄と同じようにいつものように、僕は入り口の手すりを持ったまま立っていた。
「車掌ですけど、お座りになられますか?」
若い車掌さんの声だった。
これまで別の私鉄などで幾度かの経験はあったが、JRのこの路線では初めてのことだった。
「座りたいです。うれしいです。」
僕は車掌さんにサポートしてもらって座った。
幸せだなと心から思った。
電車に揺られながら、さっきの少年を思い出した。
きっとこの車掌さんみたいな人になってくれるだろう。
そんなことを考えていたら、幸福感が2倍になったような気がした。
12歳と過ごした時間、いい時間だった。
(2025年9月4日)
一匹の虫
夜の中で一匹だけ鳴いている虫に気付いた。
一生懸命に鳴いている。
まだ夜明けまでにはだいぶ時間がある。
時間を間違えたのだろうか。
だとしたらおっちょこちょい。
光が分からない視覚障害のある虫なのだろうか。
だとしたら僕と同じ。
いろいろと思いを巡らす。
もし視覚障害だとしたら、当然白杖はないだろうし大変だな。
エサを探すのも一苦労だろう。
虫の世界に社会福祉なんて存在しない。
虫同士の支え合い、これも考えにくいな。
生きていくの大変だろうな。
頑張れよ。
つい応援したくなる。
僕は人間でよかったな。
ふとなんとなく思ってしまう。
もうすぐ新しい今日が始まる。
いいことありますように。
(2025年8月29日)
ふれあい
最近の外出、社会からのサポートの声は確かに少なかった。
夏休みということで人の流れに変化があるのかもしれない。
あまりの暑さに皆自分のことで精一杯ということも考えられる。
サポートの声が少ない日はやはりちょっと悲しい。
点字ブロックを伝って歩きながら、電車の入り口で手すりを握りながら、自分の目線が下を向いていることに気づく。
そして自分に言い聞かせる。
この状況を少しでもよくするために活動がある。
未来に向かって歩くんだ。
いい歳をしてと自嘲する気持ちもないわけではないが、素直でいたい。
電車は10分遅れで地元の駅に到着した。
電車から降りて階段を知らせる小鳥の音を探そうと思った時だった。
「どうぞ持ってください。」
男性は同じ電車から降りられたようだった。
僕は彼の肘を持たせてもらって改札へ急いだ。
急いでいる時のホームでのサポートの声、本当に有難い。
バスの発車時刻は記憶していないが、1時間に2本ということだけは分かっている。
僕は改札口で彼にお礼を伝えてバス停へ急いだ。
バス停の近くまで辿り着いたらバスのエンジン音が聞こえた。
「よしっ、間に合うぞ。」
僕は心の中でつぶやきながら少しスピードを上げて音に向かった。
バスの車体を白杖で確認し始めた時だった。
「このバスは違います。電車が遅れたから日吉台行きのバスはもう発車してしまいました。」
どうやら僕の経路を知っておられるようだった。
「次のバスの時刻を教えてください。」
僕は彼女にお願いした。
「次は18時07分です。
今37分ですから、丁度30分後です。」
僕はくじける気持ちを押さえながら彼女にお礼を伝えた。
バス停には太陽がまだ熱すぎる夏の光を注いでいた。
流れる汗を感じながら深呼吸をした。
簡単にタクシーを選ぶほどの経済力もないし、そんな状況でもない。
待っていればいいだけだ。
ただ30分はやっぱりきつい。
数分経った時だった。
「近くのベンチがひとつ空いたので案内しましょう。」
先ほどの女性だった。
ベンチがあるのは知ってはいたが、どこが空いているかは分からない僕には使えないものだった。
僕は遠慮なく、いや心から感謝して椅子に座らせてもらった。
電車の中もずっと立っていた。
後30分、立ち続けるのはしんどいのは間違いなかった。
椅子に座ると、僕はすぐにハンカチを出して汗を拭いた。
リュックからお茶を出してゴクゴク飲んだ。
それからスマホを操作してニュースを聞いたりした。
同じ30分でも、立ち続けるのとは体力的にも気分的にもまったく違っていた。
20分ほど経過した時だった。
「バスがきたら声をかけますからね。」
先ほどの女性の声だった。
声の場所の高さから、彼女が立って話されているのが分かった。
彼女はきっと同じバス、僕をベンチに座らせた後は自分はずっと立ったまま過ごされたのだろう。
彼女のさりげないやさしさが身体中を駆け巡っていくのを感じた。
笑顔になった。
うれし過ぎて、涙がこぼれそうになった。
どこの誰かも分からない彼女に、僕は心から感謝した。
つい先日、視覚障害者仲間で話をしたことを思い出した。
最近のAIの目まぐるしい進歩についてだった。
アイフォンがあればもう誰の助けも借りずに歩けるようになるかもしれない。
いやもうすぐそうなるだろう。
それをうれしいと感じているのも事実だ。
でも、今日のような喜びはAIでは生まれない。
人間同士のふれあいの中で生まれるもの、それは人を幸せにする力もあるのだ。
悲しい日があっても、辛い日があっても、そのやさしさに出会える人生の方が素敵だと思う。
少なくとも、僕はそっちを希望する。
(2025年8月25日)
初盆
義父の初盆だったので妻の実家のある鳥取県に帰省した。
親族が集った。
30年くらい前の思い出が蘇った。
義父がお孫さんを連れて、当時僕が暮らしていた団地を訪ねてくれたことがあった。
僕からすれば甥っ子ということになる。
やんちゃな男の子を義父がうれしそうに目を細めて見ておられたのを憶えている。
昼間から花火をしたいと言ってきかなかった。
家の中も走り回っていた。
料理屋さんでもはしゃぎまわっていた。
やんちゃな男の子はそのまま大人になったのだろう。
今は建築関係の職人をしながらしっかりと生きている。
子煩悩なお父さんだ。
趣味は魚釣りらしい。
休みには海にも河にも出かけるらしい。
今回、僕に食べさせるとヤマメとニジマスを準備してくれた。
前日に釣ってきたとのことだった。
竹串にさした魚を炭火で焼いてくれた。
ニジマスは食べたことがあったがヤマメを食べたのは初めての経験だった。
絶品だった。
本物の贅沢だった。
僕には特別な宗教心はない。
でも、こういう冠婚葬祭の時に血縁が深まっていくのは間違いない。
見えない僕を親族達は暖かく迎えてくれた。
義弟はいつものように僕に敬意を払いながら対応してくれているのが分かった。
れなちゃんは子供の頃から変わらないやさしさを持ち続けていた。
旦那さんのまさる君ももうすっかり僕に慣れてくれた。
生後間もないわお君を抱かせてくれた時は感激した。
スクスクと育ってくれるようにと心から願った。
ゆうと君のお嫁さんもちょっと慣れてきたようだ。
1歳のみちちゃんもきっと見えない僕を自然に理解していくのだろう。
天国から覗いておられる義父の笑顔を感じた。
一周忌、また集いたいと自然に思った。
(2025年8月20日)
不思議なバイク
偶然の再会は近所のスーパーマーケットだった。
僕に気づいた二人が声をかけてくれた。
男性と女性、二人共福祉の専門学校で僕の講義を受講したらしかった。
もう10年くらい前のことだ。
経過した年数に関係なく、僕は学生達をほとんど記憶できていない。
画像のない状態での限られた時間、しかも多くの学校での多くの学生達、記憶することをあきらめている。
でも僕の方は憶えていてもらえるのはやはりうれしいことだ。
お互いの簡単な近況報告をして、いつかお茶でもしようと別れた。
こういうのはだいたいがリップサービスで実現はしない。
お互いに忙しくしているとタイミングが合わない。
実際に二人との調整も二度くらい流れた。
結局、スーパーマーケットでの再会から半年くらい経って会うことになった。
駅前で待ち合せて2時間弱のランチタイムとなった。
二人は児童福祉の道に進んでいたが、充実した日々を送っていることが分かった。
夢を語る目はキラキラしていたと思う。
昔は僕が教えることがあったのかもしれないが、こうして社会で活躍している現役と話すと、こちらが教えてもらうことが多い。
豊かな時間だった。
食事は彼がご馳走してくれた。
それも遠慮なく受けることができる雰囲気だった。
お店を出てバス停まで送ってもらおうとした時だった。
「先生、バイクで二人乗り、どうですか?彼が送りますよ。」
彼女が笑顔で勧めた。
エンジンは航空機メーカーが作っているという大きな車体の不思議なバイクだった。
後部は二輪となっているということで安定していた。
ヘルメットがなくても公道を走れるとのことだった。
彼女は僕のリュックサックと折りたたんだ白杖を預かって収納してくれた。
彼女とはそこでお別れ、彼が運転するバイクが走り始めた。
低いエンジン音が気持ちを高めた。
身体が風を切った。
もうほとんど忘れていた久しぶりの感覚だった。
家の前に到着した。
バイクを降りた僕に彼はリュックサックと白杖を順番に渡してくれた。
ひとつひとつの行動にさりげない配慮があった。
「ありがとう。このバイクが一番うれしかった。」
僕は笑いながらつぶやいた。
僕達は固い握手をして別れた。
先ほどのお店で彼が語った言葉が蘇った。
すべての子供達が笑顔になれる社会がいいですよね。」
活躍を願った。
(2025年8月16日)
想像力
盲学校は各都道府県に基本的に一つしかない。
それは見える頃から知っていた。
中学校の時に新聞記事で知ったのだったと思う。
知るということと理解するということは違う。
知るということは文字や映像や誰かの話、いろいろな媒体で見たり聞いたりしてそれ
に触れるということだ。
それはそれで意味はあると思う。
理解するには知るだけではない別のものが求められる。
別のもの、想像する力かもしれない。
失明して間もない40歳の時、地元の視覚障害者協会に入会した。
何故入会したのかは憶えていない。
その時の会長さんは盲導犬を使用している女性だった。
しばらくして役員の一人となった僕は彼女との交流も深まっていった。
彼女は先天性の全盲だった。
点字の勉強を始めたばかりの僕は彼女の点字力に驚いた。
点字を書くのも読むのも僕の数倍のスピードだった。
「やっぱり、小さい頃からやっておられるから凄いですよね。」
返ってきた言葉に僕は驚いた。
彼女が点字を学んだのは30歳近くになってからだった。
彼女は小学校へも中学校へも行ったことはないとおっしゃった。
同じ県内でも彼女の自宅がある地域と盲学校はとても離れていたらしい。
盲学校へ行くには親元を離れて寄宿舎で生活しなければいけない。
全盲の6歳の少女を親は手元から離せなかったのだ。
就学猶予とか就学免除という制度がそれを可能にした。
彼女は点字を習得してから、つまり30歳くらいになってから盲学校に入学した。
盲学校ではマッサージ関係の勉強もして国家資格も取得した。
僕が出会った時にはマッサージ師として自立した生活を送っておられた。
「子供の頃、よくラジオを聞いていたんだけど、いろんな話を聞きながら、いつか勉
強できたらいいなとずっと思ってたの。」
僕が出会った頃、彼女はNHKの放送大学の学生もしておられた。
卒業をうれしそうに話してくださったのを憶えている。
見えない見えにくい仲間や先輩との交わり、そのひとつひとつの人生、そこにある命
のきらめき。
見えていた時以上に想像する機会も時間も多くなった。
それは僕の幸せにつながっている。
彼女の告別式が昨日あった。
私用で出席できなかった僕は心の中で合掌した。
感謝を伝えた。
(2025年8月10日)
悲しい花火
自宅から最寄り駅までの距離は1キロはないと思う。
最寄り駅のホームからは琵琶湖が望める。
夏の夜、琵琶湖畔ではよく花火が打ち上がる。
その音が家にいても聞こえる。
花火そのものは見えないらしいが音はよく聞こえる。
夏の風物詩だ。
ところが、最近の僕はこの音に悲しみを感じるようになってしまった。
暗闇の中で火薬が出す音がついウクライナの戦火につながってしまうのだ。
連想してしまうのだ。
平和の象徴のような花火の音をつい悲しく感じてしまうのだ。
戦争が始まった頃、盛んに報道された。
毎回犠牲者の数が流れた。
戦争は続いているのに、報道の機会や内容は縮小されているのは間違いない。
そして何よりも怖いのは、そのニュースに僕自身が慣れてきたということだ。
心の痛みが鈍感になってきているのだ。
今日も戦火で人間の命が消えていっている。
ケガをしている人もいるのだから、障害者の数も増えているだろう。
鈍感になってきている僕自身を許してはいけない。
日本が戦争をしていた頃、見えない先輩達は辛い日々だったと聞いたことがある。
お国のために戦えない人に社会の目は冷たかったらしい。
父も祖父も戦争を経験した。
たまたま僕は平和の中で生きてこられた。
そしてこれから次の数十年、大丈夫だろうか?
小さな声、出していかなくちゃ。
花火が打ち上がる空もウクライナの空もつながっている。
平和になったウクライナの空で花火が観られるように祈る。
早く戦争が終わるように祈る。
(2025年8月5日)
セピア色
夏休みにオープンしているスケート場、そこでの生放送がラジオから流れてきた。
ふと、思い出が蘇った。
高校生の頃の思い出だ。
鹿児島市内にあったスケート場に友人達と幾度か出かけた。
今で言うはまったという感じだった。
大学時代も冬になれば京都市内のスケート場に出かけた。
あの氷の上を滑る感覚は楽しかった。
腰を少し落としてコーナーをクリアするのも楽しかった。
時を忘れて滑った。
働き出してからも、施設の子供達と数回出かけた。
確かに出かけた。
事実の筈なのに、最近少し不安になる。
あれは事実だったのだろうか?
夢の中の出来事?
関係する画像を思い出そうとしてもなかなかたどり着かない。
記憶がセピア色になってきているということなのだろう。
悲しくはない。
でも淋しさはある。
もう見ることはないということはちゃんと理解できている。
抵抗しようとも思わない。
だから、記憶はずっと残って欲しいと願う。
欲した時にすぐに脳裏に浮かんで欲しい。
贅沢なのだろうか?
ふと唇をかみしめている自分に気づく。
そんな時もある。
人間らしいってこと。
(2025年7月30日)